平安京・大極殿遺跡 (京都市中京区)
ruins of Heiankyo Daigoku-den Palace
平安京・大極殿遺跡 平安京・大極殿遺跡 
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千本丸太町交差点北西の内野児童公園内にある「大極殿遺蹟」、1895年建立、湯本文彦碑文、山田永年書。


千本丸太町交差点付近、南側から見ている。この付近に朝堂院の北回廊、その南に小安殿、大極殿などあったとみられている。


歩道に埋められた「大極殿跡」のプレート


中央の建物が大極殿、説明板より


【参照】大極殿復元図(京都市平安京創生館)、説明板より



【参照】周辺全景、説明板より


【参照】大内裏復元模型(京都市平安京創生館)



中央の赤い四角部分が朝堂院跡、説明板より


千本丸太町交差点付近北西にある「平安宮朝堂院址」の碑


二条千本付近にある「平安宮大内裏朱雀門址」の碑


二条城南西角にある「大学寮址」の碑


千本丸太町交差点東にある「平安宮主水司跡」碑


千本丸太町交差点西にある「平安宮西限 藻壁門跡」碑


【参照】平安神宮の応天門、平安時代の平安宮の応天門を5/8で再現している。


【参照】平安神宮の外拝殿(大極殿)、平安時代の平安宮大極殿の第三次を5/8で再現している。


【参照】長岡京(左下)と平安京の位置関係(京都市平安京創生館)、説明板より
 千本丸太町交差点北西にある内野児童公園内に、「大極殿遺蹟(たいごくでん いせき)」という巨大な石碑が立っている。 
 平安時代、794年の平安京建都にあたり、南北の大通りだった朱雀大路(現在の千本通)を中心として、この付近に「朝堂院」がありその正殿「大極殿」が存在していた。
◆歴史年表 平安時代、793年、大極殿の建設が始まる。
 794年、10月、平安京遷都が行われた。
 795年、大極殿は完成している。その後、周囲の建物が次々に建て増しされる。
 815年、大極殿の大掛かりな大極殿の修理が行われている。 
 876年、大極殿が焼失した。(第一次大極殿)
 879年、再建された。
 1058年、大極殿が焼失した。(第二次大極殿)
 1072年、大極殿が再建される。
 1157年、大内裏が修造される。大極殿も修理される。
 1177年、大極殿が焼失し、以後は再建されることはなかった。(第三次大極殿)
 鎌倉時代、1227年、平安宮は火災後、再建されることはなかった。その後、しばらくは荒野(内野)と化した。
 近代、1895年、平安遷都1100年を記念して「大極殿遺蹟」が建立された。
 現代、1994年、千本通の電話線布設工事に伴う立会調査で、大極殿基壇の一部、南側の階段跡が見つかり、大極殿北端の位置が確定した。
 2006年、発掘調査により、緑釉瓦が出土し、鬼瓦、鴟尾(しび)の一部は、三彩技法が用いられていることが判明する。
◆桓武天皇 奈良時代-平安時代の第50代・桓武天皇(かんむ-てんのう、737-806)。父は白壁王(のちの第49代・光仁天皇)、母の高野新笠(たかの-の-にいがさ)は、百済の武寧王を祖先とする百済王族の末裔という。名は山部(やまべ)。皇位継承者ではなかった。772年、光仁皇后井上内親王が廃后、その子・他戸親王も廃太子され、773年、立太子された。781年、即位、同母弟・早良親王を皇太子に立てた。これらには藤原百川の画策があった。784年、平城京より長岡京遷都、785年、造長岡宮使長官・藤原種継暗殺事件に伴い、早良親王を廃太子に追う。794年、平安京再遷都した。百済王氏出自を官人などに重用、坂上田村麻呂を征夷大将軍とし、蝦夷侵略の兵を送る。最澄や空海を保護する一方、既存仏教を圧迫した。山陵は当初、宇多野(右京区)とされたが、柏原山陵(伏見区)に改められた。70歳。
◆和気清麻呂 奈良時代末期-平安時代初期の官僚・和気清麻呂(わけ-の-きよまろ、733-799)。備前国に生まれた。父は乎麻呂。女帝・称徳天皇の寵愛を受け、右兵衛少尉、764年、藤原仲麻呂の乱の功により勲6等を授けられた。766年、従五位下、近衛将監。769年、皇位に就こうと画策した道鏡による宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)で、広虫の代わりに宇佐に派遣されこれを阻止した。だが、称徳天皇により大隅国に配流された。770年、光仁天皇即位に伴い召還される。桓武天皇により、783年、摂津職の長官に任じられる。788年、中宮大夫、民部大輔も兼ね、美作・備前国国造。長岡京よりの遷都を桓武天皇に上奏した。796年頃、平安京造宮大夫に任じられた。799年、従三位民部卿兼造宮大夫。姉は広虫(法均尼)、子は広世、真綱、仲世など。67歳。
◆湯本文彦 近代の歴史学者・湯本文彦(1843-1921)。鳥取県出身。1888年から、京都府職員、歴史調査、歴史編纂事業に関わる。1888年、紀念祭では模造大極殿建設、平安京全域の実測調査を提唱し実施した。初の京都通史『平安通志』、京都の神社・仏閣・名所旧跡の解説書『京華要誌』を編纂した。京都帝室博物館学芸委員。79歳。
◆平安京・平安宮 平安京(南北5.3km、東西4.5km)には、京戸(きょうこ)が12-13万人が住んでいた。平安京は、長安の「都城制」を手本にしており、その3分の1の規模だった。南北方向、中軸線があり、左右対称になっていた。ただ、長安は縦長であり、平安京は横長の形になる。城壁は、平安京では南面にしか築かれず、長安が周囲を囲んでいたのとは異なっていた。
 南北の通りは朱雀大路と呼ばれた。道幅は84m(28丈)、左右に溝と犬行が設けられ、柳の並木が植えられていた。大路の道幅の規格は、28丈のほかに、17丈、12丈、10丈、8丈、小路の4丈があった。各町(120m四方)には、小径といわれる1丈、1.5丈の生活道路が通じていた。
 平安京内の平安宮(大内裏)は、東西384丈(11.64m)、南北460丈(13.94m) あり、周囲は築地、濠などで囲まれていた。国政、儀式、行事を行う宮殿と官舎、天皇の住まい関連の建物からなる。桓武天皇は、律令制を旨とし、政務を執る朝堂院と天皇の私邸である内裏を分離している。
 大内裏に朱雀門(現在の二条通付近)が開き、さらに応天門、朝堂院(八省院)の南回廊にあった南門の会昌門(旧二条通付近)が続く。正殿で平安宮最大の建物だった大極殿、その北に北回廊があり昭慶門が設けられていた。
 市街地は「条坊制」により碁盤の目の区画になっていた。藤原京以来、中国古代の都城の制に倣っている。東西大路により「条」、南北大路により「坊」「保」、小路により「町」に分割されていた。1保=4町、1坊=16町、1条=64町になる。 
 朱雀大路を隔てて、左京(東京、洛陽)、右京(西京、長安)があり、それぞれに京職があり、長官が任じられていた。東市、西市があった。右京は低湿地のため、後に廃れる。
 平安宮は、鎌倉時代、1227年の火災後、再建されることはなかった。1330年代、建武の頃 に、第96代・南朝初代・後醍醐天皇が再興を企てたが実現されなかった。しばらくは荒野(内野)(上京区の西郊の地) と化した。そのため、天皇は里内裏(おもに藤原摂関家)に暮らした。かつての平安宮の東になる現在の京都御所の地に皇居が移るのは、鎌倉時代、1331年、光厳天皇が御所に入居し、その後、南朝が北朝に吸収された1392年の南北朝合一以後のことになる。その後、東京遷都まで約500年間置かれた。
◆大内裏 「大内裏(だいだいり)」とは宮城(きゅうじょう)になる。規模は、東西384丈(11.64m)、南北460丈(13.94m) あった。築地を周囲に巡らし、その外側に御溝水(みかわみず)が流れていた。築地には南北面に各3、東西面には各4、計14の宮城門が開いていた。南面の正門が朱雀 (すざく) 門だった。
 内部には天皇が住んだ内裏 (皇居) を中心とし、正殿である大極殿を含む八省院(朝堂院)、豊楽(ぶらく)院、太政・神祇の2官、八省以下の諸官省があった。
◆内裏 「内裏(だいり/おおうち)」は天皇の御所(皇居)であり、大内裏(だいだいり)内にあり、中央北端やや東寄りに位置した。東西73丈(240/220m)、南北 100丈(330/320m)あり、外郭築地、内郭回廊(屋根付きの築地塀)で結ばれた12の門があった。東部の内郭は東西57丈(173m)、南北72丈(218m)あり、内部に 17殿・5舎が左右対称に配置されていた。
 南側正面に建礼門、承明門があり、中央正殿の紫宸殿(ししんでん) 、天皇の居所の仁寿殿(じじゅうでん) を中心として、春興(しゅんこう/しゅんきょう)殿、宜陽(ぎよう)殿、綾綺 (りょうき)殿、温明(うんめい)殿、安福(あんぷく)殿、校書(きょうしょ)殿、天皇の私的な清涼(せいりょう)殿、後涼(こうりょう) 殿があった。皇后・女御などの居所である後宮として、承香(じょうきょう)殿、常寧(じょうねい)殿、貞観(じょうがん)殿、麗景(れいけい)殿、宣耀(せんよう)殿、弘徽(こき)殿、登花(とうか、登華)殿、飛香(ひぎょう、藤壺)殿、凝華(ぎょうか、凝花/梅壺)殿、襲芳(しほう/しゅうほう、雷鳴壺)殿、昭陽(梨壺) 殿、淑景(しげい、桐壺)殿 があった。建物は檜皮葺、素木(しらき)造、板敷だった。
 平安時代、794年の平安遷都で内裏は造営されている。960年に全焼、961年に再興された。その後も焼亡が続き、一条殿などの里内裏(さとだいり)が現れた。平安時代後期、天皇は里内裏に住み、儀式の際に内裏に帰っていた。鎌倉時代、1227年に内裏は焼亡し、その後は再建されなかった。南北朝以後、土御門東洞院殿が内裏になる。近世に拡大され、江戸時代後期、1788年に焼失した。その後、平安内裏が復原造営され、1854年に焼亡し再建され、1869年、東京遷都まで機能した。
◆朝堂院 「朝堂院(八省院)」の規模は、東西180m、南北450mあり、回廊で囲まれていた。天皇の即位、外国使節の謁見などの儀礼、国事など重要な朝政がここで行われた。
◆大極殿 「大極殿」は、平安宮の朝堂院の正殿になる。現在の「大極殿遺蹟」碑の位置は、この昭慶門の西側回廊の上、大内裏の最北西付近の位置にあたる。近代、1895年の平安遷都千百年紀年祭に際して、歴史学者・湯本文彦の提唱により、京都府は平安京条坊、大内裏殿舎の位置、大極殿跡(現在の碑の地点)などを確定した。その後の調査により、実際の大極殿中心点は、現在の碑の南50m地点(千本丸太町交差点北西角)に確定された。
 大極殿は、奈良時代、793年に建築が始まり、平安時代、795年に完成している。その後、周囲の建物が次々に建て増しされる。815年には、大掛かりな大極殿の修理が行われている。876年に焼失した。この第一次大極殿については、詳細は分かっていない。重層入母屋造と推定されている。
 879年に再建され、1058年に焼失した。この第二次大極殿は、寄棟造だった。
 1072年に第三次大極殿が再建される。1177年の火災で焼失、以後は再建されることはなかった。この第三次大極殿は、屋根に金色の尾が載り、単層入母屋造だった。
 大極殿の緑釉瓦は、平安時代の官営瓦窯である栗栖野瓦窯跡(くるすの-がよう)で製造された瓦が用いられている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の石碑ものがたり』『意外と知らない京都』『平安の都』『掘り出された京都』『京都・観光文化 時代MAP』、説明板、京都市平安京創生館、ウェブサイト「コトバンク」


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「大極殿遺蹟」碑  京都市中京区 聚楽廻東町,本丸太町交差点北西、内野児童公園内 
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