宴の松原跡・豊楽院 (京都市上京区)
Enno-matsubara Field (field with pine trees)
宴の松原跡・豊楽院 宴の松原跡・豊楽院 
50音索引  Home 50音索引  Home

「宴の松原」の石標



【参照】平安時代宴の松原復元図、京都アスニー


【参照】豊楽殿の復元模型、京都アスニー


【参照】豊楽殿の復元図、京都アスニー
 出水通六軒町東入に「宴の松原(えんの まつばら)」の石標が立つ。 
◆歴史年表 平安時代、宴の松原は、平安京大内裏の中央(内裏の西、豊楽院の北)にあった松林跡という。内裏建替えの代替地だったという。饗宴が催されたともいう。
 9世紀末(801-900)より、荒廃した。妖怪出没の伝承があった。
◆宴の松原 宴の松原の詳細については分かっていない。「縁(えん)の松原」とも記された。(『栄花物語』)
 平安京の大内裏中央(内裏の西、豊楽院の北)にあった松林跡という。遷宮に倣い、内裏の建替え用の代替地だったともいう。この地で、饗宴が催された地ともいう。
 「あはれにも今は限りと思ひしをまためくりあふえんの松はら」(『栄花物語』)の歌がある。
◆豊楽院 宴の松原の南にあった「豊楽院(ぶらくいん)」は、平安京大内裏の朝堂院の西(現在の聚楽廻西町・南町付近)に位置していた。平安時代、800年頃に建設されたという。「天子宴会之処」(『西宮記』)といわれ、正殿の大極殿(だいごくでん)と並ぶ最重要な建物だった。
 豊楽院は縦長の敷地であり、東西56丈(170m)、南北136丈4尺(413m)に、四周に築地を廻らした。北端中央の築地に裏門の「不老門」、北寄り中央に天皇の出御する正殿「豊楽殿」があった。背後には後殿の控所「清暑堂」、前庭の東西に諸臣が着座した「顕陽堂」・「観徳堂」、「承歓堂」・「明義堂」があった。これらの建物間は回廊で結ばれていた。南面に「儀鸞門(ぎらんもん)」、その南の東西に「延英堂」・「招俊堂」があった。南端の築地に正門の「豊楽門」が開いていた。
 殿堂で囲まれた豊楽院の庭では、国家的な饗宴が行われた。新嘗祭(にいなめさい)・大嘗祭(だいじょうさい)のほかに、正月恒例の元日の白馬(あおうま)、踏歌(とうか)、射礼(じやらい)、賭弓(のりゆみ)、相撲(すまい)などの節会の宴、渤海国使節歓迎のための宴(承歓堂に着座)などになる。9世紀(801-900)後半以降、宴は紫宸殿に移されて催される。豊楽院は、10世紀(901-1000)にすでに荒廃し、胆試しの場に代わったという。(『大鏡』)。1001年、公卿・源成信、藤原重家の両人は、豊楽院の荒廃ぶりに無常感を強め三井寺で剃髪したという。平安時代、1063年に焼失し、その後、再建されなかった。
 豊楽院の正殿「豊楽殿」は、当初「乾臨閣(けんりんかく)」と呼ばれた。後に、神泉苑の正殿に同名が付けられ豊楽殿に改名された。976年に倒壊、その後も倒壊、焼失を繰り返し、その度に再建される。1063年に焼失し、その後は再建されなかった。南面の母屋(東西9間、南北2間)には4面に廂が付いた。室内中央の土壇に高御座(たかみくら)を置いた。儀式の際には、東西に皇太子・皇后の座を設け、皇太子、親王、参議らが着座した。それ以下の者は、別殿に着座していた。
 近年の発掘調査により、豊楽殿の建物、基壇規模が確定している。奈良時代、745年に建てられた平城宮第二次大極殿と規模が一致することから、平城宮より移築されたとみられている。建物は東西38.5m、南北16.1m、基壇は東西46.3m、南北23.9mであり、柱の間隔が南北、東西方向とも4.5mになっていた。1986年、豊楽殿の基壇西北部・北廊西半分(中京区聚楽廻西町)が発掘されている。1990年、豊楽殿の遺構は、国の史跡に指定された。
◆伝承 伝承がある。平安時代、宴の松原一帯は、鬼が出没する場所として恐れられていた。松の木の下では、鬼が女性を殺めたともいう。(『大鏡』)
 第65代・花山天皇の発案により、藤原道隆(953-995)、道兼(961-995)、道長(966-1028)の3兄弟が肝試しを行ったという。道隆が内裏より豊楽院に向かうと、宴の松原辺りより得体の知れない声がした。道隆は逃げ帰っている。道兼も仁寿殿の塗籠(ぬりごめ、寝室)に向かい、途中で引き返した。大極殿に向かった道長だけは果たし、証拠に高御座の柱の一部を削って持ち帰ったという。(『大鏡』)
 平安時代、887年、丑の刻(午前時)、3人の美しい女が松原の西を歩いていると、松の木の下に男が立っていた。女の一人が男と手を取り、数刻も語らう。やがて女の話し声が聞こえなくなる。男がはたと目をやると、女の手足が地に落ちており、胴体に首はなかった。報を受けた宿直(とのい)の者たちが駆け付けると、すでに女の死体も見当たらなかった。翌日、僧たちが呼ばれ、大般若経を請じることになった。僧の宿所に充てられた朝堂院の東西の廊下で、夜半に外で騒動の声が聞こえた。僧たちが確かめるために飛び出すと、何事も見当たらなかった。(『三代実録』)
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 説明板、『古代を考える 平安の都』『平安京散策』『続・京都史跡事典』『京都歴史案内』


   関連・周辺平安京「大極殿遺蹟」       周辺      関連羅生門跡・矢取地蔵尊         関連       
平安京オーバレイマップ
map  宴の松原跡 〒602-8359 京都市上京区七番町327
50音索引  Home  top 50音索引  Home  top
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光