平安宮 内裏 昭陽舎(梨壺)跡 (京都市上京区)  
Ruins of Heiankyu-Dairi-Shoyosha(Government office)
平安宮 内裏 昭陽舎(梨壺)跡
平安宮 内裏 昭陽舎(梨壺)跡 
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「平安宮 内裏 昭陽舎跡」の石標


「源氏物語ゆかりの地」の説明板


平安宮復元図、黄土色の四角部分が内裏内郭回廊、現在地は中央やや右の赤字部分、説明板「源氏物語ゆかりの地」より

平安宮復元図、赤茶色の建物群が内裏、現在地は赤字部分、説明板「源氏物語ゆかりの地」より


左兵衛府跡から出土した和歌が墨書された土師器、「いつのまにわすられにけむ□あふみちはゆめの□かは□なりなけり」、京都市埋蔵文化財研究所
 浄福寺通出水下ル東入ルに「平安宮 内裏 昭陽舎跡(へいあんきゅう-だいり-しょうようしゃ-あと)」の石標が立つ。「平安宮 内裏 昭陽舎(梨壺)跡」の説明板が設置されている。
 平安時代、この地に昭陽舎があった。女官の詰所であり、時に撰和歌所が置かれ、東宮の御在所にもなった。
◆歴史年表 平安時代、この地に昭陽舎が建てられる。
 第62代・村上天皇中宮・藤原安子(ふじわら-の-あんし、927-964)は、梨壺女御と称された。
 951年、村上天皇の命により、昭陽舎に撰和歌所が置かれる。清原元輔、大中臣能宣ら(梨壺の五人) が『後撰和歌集』を撰した。
 969年、2月、「昭陽舎放火事」と記されている。(『日本紀略』)
 東宮敦良親王(1009-1045、第69代・後朱雀天皇)の居所に使用された。以後、東宮御所になる。
 現代、2007年、12月、全京都建設協同組合創立50周年記念として石標が立てられる。
 2008年、3月、京都市は「源氏物語ゆかりの地」の説明板を設置した。
◆藤原安子 平安時代中期の中宮・藤原安子(ふじわら-の-あんし/やすこ、927-964)。梨壺女御。藤原師輔(もろすけ)の娘、母は藤原経邦の娘・盛子。940年、東宮成明親王(第62代・村上天皇)と成婚し、女御になり従三位に叙された。946年、天皇即位により女御になる。952年、為平親王(第63代・冷泉天皇)、959年、守平親王(第64代・円融天皇)を産む。958年、立后し、皇后になる。964年、選子内親王を産み、難産のため亡くなる。その死は立太子を逸した広平親王の母・祐姫、祐姫の父・民部卿・藤原元方の「物の怪」によるとされた。38歳。
 贈皇太后、太皇太后、従二位。3男4女(ほかに内親王の承子、輔子、資子、選子)を産む。後宮に権勢あり、兄弟の伊尹(これまさ)、兼通、兼家らの立身に貢献した。『大鏡』に村上天皇が師尹(もろただ)の娘・芳子を女御にしたことについて、安子の嫉妬について記されている。
 愛宕郡東南の野で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆後朱雀天皇
 平安時代後期の第69代・後朱雀天皇(ごすざく-てんのう、1009-1045)。敦良(あつなが)、法名は精進行。第66代・一条天皇の第3皇子、母は太皇太后・彰子(上東門院、藤原道長の娘)。土御門殿で生まれた。生後1カ月余で親王宣下を受けた。1017年、三条院の皇子・敦明親王の東宮辞退後、9歳で同母兄・第68代・後一条天皇の皇太弟になる。1021年、道長の娘・嬉子(よしこ)が敦良親王に入る。1025年、嬉子は親仁親王(第70代・後冷泉天皇)を産み、直後に亡くなる。1036年、後一条天皇が没し、践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)、28歳で即位した。彰子の弟・藤原頼通が引き続き関白になる。1037年、三条天皇皇女・禎子内親王(母は道長の娘・妍子)を皇后にし、関白頼通の養女・嫄子(一条天皇皇子・敦康親王の娘)を皇后とした。1040年、荘園整理令を発議した。1045年、病により皇子・親仁親王(後冷泉天皇)に譲位した。頼通の反対を押し切り、尊仁(たかひと)親王(第71代・後三条天皇)を皇太弟に定め、院政への道を開く。1055年、天皇の御願により、円教寺内に新堂として円乗寺が創建された。
 藤原氏の全盛期で、政治の主導権は道長から子・頼通に引き継がれた。すでに摂関家の全盛期は過ぎていた。興福寺、延暦寺の僧徒が強訴し、京中では放火が頻発した。著『後朱雀天皇御記(長暦御記)』。37歳。
 火葬塚(北区)にある。陵墓は円乗寺陵(右京区)になる。
◆昭陽舎 昭陽舎(しょうようしゃ)は、内裏の後宮七殿五舎(ほかに飛香舎、凝花舎、襲芳舎、淑景舎)の一つになる。内裏の北東部、麗景殿の東、温明殿の北、淑景舎の南にあった。南庭に梨が植えられており、梨壺(なしつぼ)とも呼ばれた。女官の詰所だった。
 第62代・村上天皇中宮・藤原安子(ふじわら-の-あんし、927-964)は、梨壺女御と称された。
 951年に村上天皇の命により、梨壺の一部に撰和歌所が置かれている。
 東宮敦良親王(1009-1045、第69代・後朱雀天皇)の居所に使用された。以後、東宮御所になる。
 南北に2棟並び、周囲を築垣で囲んでいた。南の正舎(南舎)の昭陽舎は東西5間、南北2間、母屋四方に庇、北に孫庇が付いた。4面に簀子を廻らせた。
 北舎は東西5間、南北2間、また昭陽舎と同規模だったともいう。東西に庇が付き、4面に簀子を廻らせていた。
◆和歌所 和歌所(わかどころ)は、勅撰和歌集のために、宮中に臨時に設けられた役所の撰集所をいう。
 平安時代中期、905年の『古今和歌集』撰進の際には、内御書所/承香殿で行われた。
 951年の『後撰和歌集』撰進の際に、第62代・村上天皇の命により、昭陽舎(梨壺)の一部に撰和歌所が置かれた。正式のものとしては最初になる。別当(長官)・藤原伊尹(これただ)のほか、5人の寄人(よりうど)である、大中臣能宣(おおなかとみ-の-よしのぶ)、源順(みなもと-の-したごう)、清原元輔(きよはら-の-もとすけ)、紀時文(き-の-ときぶみ)、坂上望城(さかのうえ-の-もちき)が携わった。『後撰和歌集』の撰集とともに、『万葉集』の訓読(古点、訓点)を行う。寄人達は「梨壺の五人」、「五歌仙」とも呼ばれた。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 京都市の説明板「源氏物語ゆかりの地」、『源氏物語ゆかりの地』、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、ウェブサイト「コトバンク」


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