弘文院址 (京都市中京区)  
Ruins of Heiankyu-Kobunin(Government office)
弘文院址  弘文院址
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「此附近 弘文院址」の石標

 御池通千本東入ル北側に、「此附近 弘文院址(このふきん-こうぶんいん-あと)」の石標が立つ。
 平安時代、この地に弘文院があった。大学寮に通う和気氏子弟の寄宿施設だった。
◆歴史年表 平安時代、延暦年間(782-806)/延暦年間後期-大同年間前期 (800-808) 、和気広世により弘文院が設立された。
 885年/900年頃、菅原道真が宿泊し、「信レ脚涼風得自由、弘文院裏小池頭」と記した。(『菅家文草(かんけぶんそう)』)
 10世紀(901-1000)末、和気氏の衰退とともに弘文院は廃絶した。
 近代、1917年、3月、京都市教育会により石標が立てられる。
 1928年、6月 、京都史蹟会により石標は引継れた。
◆和気広世 奈良時代-平安時代前期の官僚・学者・和気広世(わけの-ひろよ、?-?)。備前(岡山県)の生まれ。清麻呂の長男。真綱、仲世の兄。文章生になる。785年、藤原種継暗殺事件に連座し、禁固になる。後に許され、8世紀(701-800)末、少判事に任じられ、式部少輔(しょう)、典薬頭(てんやくのかみ)、大学別当(大学頭)を兼任した。墾田20町を大学寮に納め、陰陽書、『新修本草』『黄帝内経太素』を講義した。延暦年間(782-806)/延暦年間後期-大同年間初期 (800-808) 、大学別当になる。父の志を継ぎ大学寮に学ぶ和気氏子弟のために、大学南辺の私宅に弘文院を創設した。勉学・寄宿のための施設だった。802年、弟・真綱と最澄を神護寺に招き法会を開く。804年、最澄の入唐の際に、仲介に当たり外護者になった。空海の外護者にもなったという。
 医官和気家の元祖。日本最初の薬物書『薬経太素(やっけいたいそ)』2巻を著したという。異説もある。
◆弘文院 奈良時代-平安時代前期、延暦年間(782-806)/延暦年間後期-大同年間初期 (800-808) /8世紀末-9世紀初め、和気広世は、大学別当になり、大学寮(現在の二条城西南隅)南辺の私邸(平安左京三条一坊)を学府・弘文院として創設した。父の志を継ぎ、大学寮に学ぶ和気氏子弟の勉学を進め寄宿させる施設だった。学生(がくしょう)は大学に通い、令制での官吏登庸試験である課試を受けた。経費には、墾田40/30町をあて、内外の儒・経書数千巻を蔵していた。
 後に、大学寮の公認寄宿施設である大学別曹になる。ほかに、大学別曹の藤原氏の勧学院、源氏など王氏の奨学院が並んで建てられていた。他所に橘氏の学館院もあった。弘文院は大学別曹としてはもっとも古い。
 885年、菅原道真(845-903)が弘文院が宿泊している。その詩が『菅家文草(かんけぶんそう)』にある。10世紀(901-1000)末に、和気氏の衰退とともに弘文院は廃絶したという。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『京都大事典』、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、ウェブサイト「コトバンク」


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