平安宮 朝堂院跡 (京都市中京区)  
Ruins of Heiankyu-Chodoin(Government office)
平安宮 朝堂院跡 平安宮 朝堂院跡
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「平安宮 朝堂院跡」の石標


平安博物館の駒札


朝堂院復元図、下に応天門・朝集堂、会昌門・朝堂、龍尾壇の上に太極殿、「平安宮-京都市建設局・京都市埋蔵文化財調査センター・京都市埋蔵文化財研究所」説明板(二条駅前)より
 丸太町通千本西入ル北側に、「平安宮 朝堂院跡(へいあんきゅう-ちょうどういん-あと)」の石標が立てられている。
 平安時代、この地には朝堂院が置かれた。国家政治の中心地であり、現在の国会議事堂に相当する施設だった。
◆歴史年表 平安時代、795年、8月、「幸朝堂院、観匠作」と記されている。(『日本紀略』)
 796年頃、朝堂院は建てられた。
 弘仁年間(810-844)頃、八省院とも呼ばれた。
 866年、応天門の変で初めて焼失している。
 1177年、焼失し、以後再建されなかった。
 現代、1971年、下水道工事に伴う立会調査が行われる。
 1975年、平安博物館が発掘調査した。
 1976年、8月、旧協和銀行千本支店により、新築記念として石標が立てられた。
 1984年、京都市埋蔵文化財研究所により千本丸太町上ル小山町で発掘調査が行われる。
 1985年、小山町で発掘調査が行われた。
 1994年、千本通での試掘・立会調査が行われている。
◆朝堂院 朝堂院は朱雀門の正面、内裏の南西に位置する。八省(はっしょう)院ともいう。平安京の朱雀大路の延長線上にあり、平安宮の中心に位置していた。現在の千本丸太町交差点北側から旧出世稲荷神社南側までの千本通付近になる。北は中和院、西は豊楽院、東は太政官、民部省などに接した。 
 794年の遷都後、795年に正殿の大極殿が完成し、796年に朝堂院全体が完成した。弘仁年間(810-844)頃に、八省院とも呼ばれた。866年の応天門の変で、創建後初めて炎上している。放火の嫌疑で伴善男(とも-の-よしお)が失脚した。その後も大極殿まで焼失する火事は3度あり、その度に再建された。平安時代後期、1177年の大火で焼失して以降、再建されなかった。
 平安宮では、それまで朝堂院の真北にあった内裏が東へ移されている。朝堂院は分離され、儀式会場的な性格も強まった。朝堂院の規模は東西60/56/64丈(180/170/192m)、南北150/134/163丈(450/406/489m)であり、瓦葺で外周は複廊で囲まれていた。朝集堂は築地で囲まれていた。
 南正面に応天門が開き、両翼の東に栖鳳(せいほう)楼、西に翔鸞(しょうらん)楼を構えた。朝堂院は、朝集堂、朝堂、大極殿院の3区域に分かれていた。応天門を潜ると左右に朝集堂があり、朝堂に入る前の待機場所として使用された。会昌(かいしょう)門を入ると朝堂があり、左右対称の十二堂が建ち並んでいた。身分・役所ごとに座る場所が決められており、儀式の際には皇族・大臣以下官人の座になった。朝堂北端には、一段高い龍尾壇(りゅうびだん)があった。その上に、東に蒼龍、西に白虎の2楼が建てられていた。中央に朝堂院正殿である太極殿、その北に小安殿があった。太極殿は、大内裏の正庁であり、即位式、大嘗会、朝賀、外国使節の謁見などの国家的儀礼、国事を行う場だった。
 現在の平安神宮(左京区)の拝殿は、大極殿を一回り縮小して復元している。
◆応天門の変 平安時代前期、866年は、霖雨(りんう、長雨)、旱魃(かんばつ)、飢饉などが続き、怪異、火災、兵乱の兆しも見られるという不穏な年だったという。
 閏3月10日、夜、応天門より出火し、両廊も焼失した。原因は放火とされた。当初、大臣・藤原良相(ふじわら-の-よしみ)と、大納言・伴善男(とも-の-よしお)は、第52代・嵯峨天皇皇子である左大臣・源信(みなもと-の-まこと)が犯人と告げた。左近衛中将参議・藤原基経(ふじわら-の-もとつね)を経て、その養父・太政大臣・藤原良房(よしふさ)に知らせた。だが、良房は源信を弁護し罰しなかった。
 今度は、下級役人の備中権史生(びっちゅうごんのししょう)・大宅鷹取(おおやけ-の-たかとり)が訴え出て、伴善男・中庸(なかつね)父子らが真犯人であるとした。この最中に、善男の従者・生江恒山(いくえ-の-つねやま)、伴清縄(きよただ)が、鷹取の娘を殺害して捕らえられる。二人は、伴父子が源信・源融らの失脚を狙い、放火を共謀したと自白する。伴父子も自白したため、所領、財産没収され、伊豆、隠岐にそれぞれ配流された。そのほかの者も連座して配流になる。(『伴大納言絵巻』)
 事件の真相については不明とされる。良房・基経らが、当初は善男らを使って源信を抑えた。その後、台頭著しい善男も罪人に仕立て、放逐した政治的陰謀ともいう。良相、善男が源信の家を包囲したため、良房が探ったともいう。良房は源信を政界より引退させられ、源融は皇位を望むが、基経に潰され河原院に没した。以後、良房は、姪・高子を第56代・清和天皇女御として入内させ、基経を異例の中納言に抜擢した。その後、藤原氏による摂関政治が行われた。藤原氏の暗躍はなかったともいう。
◆発掘調査 ◈1971年に下水道工事に伴う立会調査が行われた。
 朝堂院跡の朝堂十二堂のうち、延禄堂(えんろくどう)の基壇東・西端延石列、修式堂(しゅうしきどう)の基壇北縁延石列(17m)が発見された。
 ◈1975年に平安博物館が発掘調査している。
 現在地は大極殿の西端、西側回廊付近に当たる。後世の破壊により遺構の発見はできなかった。太極殿に関係すると思われる大量の瓦類、緑彩の鴟尾(しび)破片が出土した。
 ◈1976年以降、1979年、1980年の京都市埋蔵文化財研究所による発掘調査が行われている。
 朝堂域で東面回廊基壇東西縁・北面回廊北側雨落溝、昌福堂北側基壇縁、承光堂(じょうこうどう)基壇北縁・東縁、明礼堂(めいれいどう)基壇西縁・東側基壇縁、暉章堂(きしょうどう)基壇東縁、延禄堂基壇東縁・西縁、修式堂基壇北縁、宣政門基壇東縁・西縁、ほか大極殿域の大極殿南側階段南縁、東軒廊基壇南北縁痕跡、北面回廊基壇南北縁などが確認された。
 これらにより、朝堂院全体の復元が可能になった。平安宮朝堂はすべて、地山削出基壇であり、基壇外装に凝灰岩切石を用い、2面庇、梁行5丈6尺(17.5㎝)であることが分かった。
 ◈1990年、朝堂院の複廊回廊の北東角が見つかっている。
 ◈1994年、宣政門の基壇東端の凝灰岩列、抜取穴、基壇西端凝灰岩抜取穴が見つかった。
 ◈2007年の発掘調査で、昌福堂北端が明らかになった。凝灰岩延石4石が出土した。
 ◈2011年の試掘調査により基壇西縁、西面階段痕跡とみられる落込みが見つかった。
 ◈2012年、修式堂南西隅の凝灰岩延石抜取痕跡が見つかる。平安時代後期に修築されていた。基壇版築は創建時のものだった。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 平安博物館の駒札、『平安宮ガイド』、『平安京を歩く』、『京都市文化財ブックス28集 平安京』、ウェブサイト「上京史蹟と文化 2008vol35-京都市埋蔵文化財研究所」、ウェブサイト「コトバンク」


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