平安宮 太政官跡・宮内省跡・京都所司代跡 (京都市上京区)  
Ruins of Heiankyu-dajokan,Kunaicho,Kyotoshoshidai(Government office)
平安宮 太政官跡・宮内省跡・京都所司代跡 平安宮 太政官跡・宮内省跡・京都所司代跡
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説明碑


平安宮復元図、オレンジ色の部分が現在の二条公園、左(西)に太政官、右に宮内省、右下の水色の部分が現在の二条城、説明碑より


宮内省西限築地堀跡、2002年の発掘調査、説明碑より


緑色の部分は京都所司代下屋敷、その下の赤い部分が現在の二条公園、橙色が上屋敷、その右に中屋敷、下に二条城、説明碑より


江戸時代の濠跡、1981年の発掘調査、説明碑より


江戸時代の遺跡、1996の発掘調査、説明碑より
 二条公園の南西に、「平安宮跡・宮内省跡(へいあんきゅう-あと)・京都所司代跡(きょうと-しょしだい-あと)」の説明碑が置かれている。
 公園の位置は、平安時代には政治の中心地であり、平安宮の一画だった。江戸時代には、京都所司代の下屋敷が置かれた。
◆歴史年表 平安時代、この地は政治の中心地であり、平安宮の一画だった。太政官、宮内省が置かれた。
 江戸時代、二条城の周囲に京都所司代が置かれ、この地には下屋敷があった。
 現代、1981年、二条公園での発掘調査により、江戸時代の濠跡が見つかった。
 2002年、二条公園の中での発掘調査により、平安時代前期の宮内省西側を区切る築地塀の痕跡を確認した。
◆太政官 太政官(だじょうかん)は律令官制の中心であり、神祇官(じんぎかん)と並ぶ二官の一つだった。政務を統括する最高国家機関であり、八省以下を統轄し現在の内閣に相当した。
 平安宮では内裏、中務省の南、朝堂院の東に隣接した。中央の太政官庁(太政官曹司、太政官曹司庁)には、政庁、後堂、東・西庁があり、それぞれ廊で結ばれ、南には正門が開いていた。
 組織は長官(かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)、主典(さかん)の4階級に分かれた。長官は太政大臣か左右大臣が担い、次官大納言とし、のちに内大臣が置かれた。政務を担った少納言局(しょうなごんのつぼね)は、詔勅の審査覆奏を司り、外記局を管轄した。左右弁官局(さゆうべんかんのつぼね)は詔勅の施行を司った。左弁官局は中務、式部、治部、民部の4省、右弁官局は兵部、刑部、大蔵、宮内の4省を管轄した。
 庁内北東部に、公卿の会食の場である朝所(あいたんどころ)、南西に文書を保管する文殿(ふどの)、北西に官人交替を監督する勘解由使(かげゆし)庁などがあった。
 政務は、朝堂院で議政官による聴政(ちょうせい、早朝に政治を執る)を行った。実務は執務の部屋である曹司(ぞうし)で執り行われた。朝堂院聴政は次第に儀式化し、政務の中心は太政官庁に移る。内裏での執務も常態化し、聴政の場は内裏東の外記庁(げきちょう)外記政(げきせい)で行われる。後に、太政官庁での聴政も官政として儀式化したという。
 平安時代後期、1069年に、第71代・後三条天皇の延久の荘園整理令に際し、太政官庁内の朝所(あいたんどころ)に記録荘園券契所が置かれ、寄人が任命される。1085年に後三条天皇は大極殿が焼失していたため、初めは太政官庁で即位式を行っている。1183年に第82代・後鳥羽天皇も即位式を行う。
◆宮内省 宮内省(くないしょう)は 、律令制の太政官八省の一つであり、右弁官に属した。皇室の用度、庶務、土木工匠、皇室・在京官人の食撰・医療、在京官衙(かんが、役所)の木工・土木・鍛冶などを管轄した。
 1職4寮13司を管轄した。大膳職、大炊(おおい)寮、木工(もく)寮、主殿(とのも)寮、典薬(てんやく)寮、内膳司、造酒(みき)司、園池司、主水(もいとり)司、筥陶(はこすえ)司、主油(あぶらの)司、内掃部(うちのかにもり)司、正親(おおきみ)司、官奴司、采女(うねめ)司、内染(ないせん)司、鍛冶司、土工司になる。
 職員は,卿1人、大輔1人・少輔1人、大丞1人・少丞2人、大録1人・少録2人、史生10人、省掌2人、主醤2人、主菓餠2人、膳部160人などだった。
 被官諸司は9世紀(801-900)初めに大幅整理されている。
◆京都所司代 京都所司代(きょうと-しょしだい)は、所司代とも呼ばれた。安土・桃山時代、1600年に設立される。
 前身は、室町時代の侍所所司代になる。安土・桃山時代、1573年に織田信長は、足利義昭を追放した後に村井貞勝(?-1582)を任じた。1598年に豊臣秀吉は政権掌握後に、前田玄以(1539-1602)を任じる。1600年の関ヶ原の戦い後に、徳川家康は奥平信昌(1555-1615)を任じた。
 京都所司代は、江戸幕府による西日本支配のために任命された。京都常駐の地方官だった。禁裏付役人、京都町奉行、城代、城番などを統括した。職務は、京都守護、禁中・公家に関する政務・折衝、京都奉行のほか伏見・奈良三奉行支配、西国大名の監視、五畿内・近江・丹波・播磨の8カ国天領の訴訟処理、西国諸大名の監察などを行った。
 京都所司代1人は、老中に次ぐ要職だった。3万石以上の譜代大名から任命され、役料1万石が給された。与力30騎(のち50騎)、同心100人が付属した。安土・桃山時代、1601年に板倉勝重(かつしげ、1545-1624)、江戸時代前期、1620年にその子・重宗(しげむね、1586-1657)、1654年に牧野親成(ちかしげ、1607-1677)の3代にわたる在職は65年に及ぶ。
 二条城の北側に上屋敷、中屋敷、下屋敷の3屋敷が置かれる。所司代は上屋敷に住み、役所としても使われた。現在の二条公園は下屋敷が置かれその一部に当たる。下屋敷は千本通に面し、千本屋敷と呼ばれた。下屋敷には、所司代の家臣、所司代付きの足軽の家族が暮らした。二条城よりも一回り小さい規模で、多くの武士が住した。
 江戸時代初期には、徳川家康、秀忠(ひでただ)、家光(いえみつ)の歴代将軍が上洛し、所司代と幕府の一元化が図られる。江戸時代前期、1668年に、京都支配など民政上の権限は京都町奉行に譲られる。以後、所司代は老中への出世が約束された役職と化し政治力は低下する。
 幕末には、京都守護職が上位機関として設置される。1867年に京都所司代は廃止された。
◆発掘調査  ◈ 2002年に二条公園内の発掘調査により、宮内省西側を区切る築地塀の痕跡を確認した。平安時代前期の土器、瓦が出土している。
 遺構は地中保存されている。
  ◈ 1981年の二条公園での発掘調査により、江戸時代の濠跡(幅4.5m)が見つかった。京都所司代下屋敷に関するものとみられている。
 遺構は地中保存されている。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 説明板より、ウェブサイト「コトバンク」


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map 平安宮 太政官跡・宮内省跡・京都所司代跡 〒602-8155 京都市上京区主税町910-40 二条公園
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