平安宮 内裏 弘徽殿跡 (京都市上京区)  
Ruins of Heiankyu-Dairi-Kokiden(Government office)
平安宮 内裏 弘徽殿跡 平安宮 内裏 弘徽殿跡
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「この北 平安宮 内裏 弘徽殿跡」の石標


「源氏物語ゆかりの地」の説明板


平安宮復元図、黄土色の四角部分が内裏内郭回廊、現在地は左の赤字部分、「源氏物語ゆかりの地」の説明板より


平安宮復元図、赤茶色の建物群が内裏、現在地は赤字部分、「源氏物語ゆかりの地」の説明板より


平安時代に使われた土器類、京都市埋蔵文化財研究所、「源氏物語ゆかりの地」の説明板より


『源氏物語』・「花の宴」
 土屋町通出水下ル東入ル北側に、「源氏物語ゆかりの地」の説明板、「この北 平安宮 内裏 弘徽殿跡(へいあんきゅう-だいり-こきでん-あと)」の石標が立つ。
 平安時代にこの地に弘徽殿が置かれた。後宮の中でも重要な殿舎だとされ、皇后、中宮、女御などの居所として使われていた。
◆歴史年表 平安時代、この地に弘徽殿が置かれた。
 875年、「天皇暫避仁寿殿。御弘徽殿」(『三代実録』)と記されている。
 第56代・清和天皇(在位: 858-876)、第57代・陽成天皇(在位: 876-884)の時、一時期天皇の居所になる。
 第59代・宇多天皇(在位: 887-897)の頃、清涼殿が常御所になり、弘徽殿は清涼殿に最も近い建物として後宮の中心的建物になる。
 現代、2006年、7月、全京都建設協同組合創立50周年記念として石標が立てられた。
 2008年、3月、京都市は「源氏物語ゆかりの地」の説明板を設置している。
◆弘徽殿 弘徽殿(こきでん/うきでん)は、 洪輝殿、弘輝殿、弘宜殿とも書かれ、細殿とも呼ばれた。平安京内裏十七殿の一つ、内裏の後宮(こうきゅう)七殿五舎の一つになる。後宮の南西隅、清涼殿の北にあり、麗景殿と相対しその西にあった。
 平安時代前期、875年にその存在が確認できる。(『三代実録』)。当初は北の登華殿とともに女御、更衣の共同居住区の西町に過ぎなかった。第56代・清和天皇(在位: 858-876)、第57代・陽成天皇(在位: 876-884)の時、一時期天皇の居所になる。第59代・宇多天皇(在位: 887-897)の頃、常御所は仁寿殿 (にんじゅでん) から清涼殿に代わった。常寧殿を居所としていた皇后、中宮、女御などは弘徽殿へ移る。弘徽殿は、清涼殿に最も近い建物として後宮の中心的建物になる。
 弘徽殿の母屋には、中央を馬道(めどう)が通っていた。このため、南北各3間の2つに分かれていた。弘徽殿の北の西半に収蔵施設の塗籠(ぬりごめ)があった。東は渡廊により常寧殿へ、北は切馬道により登華殿に通じていた。西庇は南北に細いため細殿(ほそどの)とも呼ばれた。
 東面、東西2間(庇・孫庇を入れると5間)、南北7間(庇を入れると9間)、4面に庇、東に孫庇付。
◆源氏物語 『源氏物語』では、弘徽殿は、西側にある飛香舎(ひぎょうしゃ)とともに重要な舞台になる。
 弘徽殿に、朱雀院の母・弘徽殿女御が住んだ。女御は光源氏の母・桐壺更衣が、帝の寵愛を受けているのを恨む。女御の執拗な嫌がらせにより死に追う。光源氏にも辛く当たった。
 後に弘徽殿女御の妹・朧月夜(おぼろづきよ)が弘徽殿に住む。第八帖「花の宴」では、光源氏が紫宸殿の観桜の宴の夜に、西庇で朧月夜と出逢っている。2人は塗籠(ぬりごめ)で結ばれた。これは源氏の須浜隠棲の原因になった。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 京都市の説明板「源氏ゆかりの地」、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、ウェブサイト「源氏香の図-ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 平安宮 内裏 弘徽殿跡 〒602-8162 京都市上京区東神明町297-1,土屋町通出水下ル東入ル北側
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