平安宮 治部省跡 (京都市中京区)  
Ruins of Heiankyu-Jibusho(Government office)
平安宮 治部省跡  平安宮 治部省跡 
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京都市考古資料館の説明板


平安宮復元図、現在地は赤い点の部分、上に御井、下に治部省、その下に刑部省、京都市考古資料館の説明板より


平安宮復元図、現在地は赤い矢印の部分、京都市考古資料館の説明板より

 朱雀小学校の南側に「平安宮 治部省跡(へいあんきゅう-じぶしょう-あと)」の説明板がある。
 平安時代、この地には国政の重要な機関だった治部省があった。現在地はその北端になる。
◆歴史年表 平安時代、この地に治部省が置かれた。
 現代、1979年、朱雀校舎増築工事に伴い、発掘調査が行われた。
 2013年、3月、京都市考古資料館により説明板が設置された。
治部省 現在地は、治部省の北端になる。治部省(じぶしょう/おさむるつかさ)は、律令制官司(りょうせいかんし)の二官八省の一つだった。
 政庁と甲倉(蔵)(こうそう)などの庁舎から構成されていた。律令制では太政官の左弁官局に属した。五位以上の官人の本姓、継嗣、婚姻などの氏族問題を取り扱った。祥瑞(しょうずい、吉祥)、喪葬、贈賻(ぞうふ、香典)、国忌(こき)、諱、外客の朝聘(ちょうへい)などを監督した。
 治部省の2寮の内の雅楽(うた)寮は、宮廷の音楽・舞踊の教習を司った。玄蕃(げんば)寮は、外国人の送迎接待・仏事・僧尼の名籍などを扱った。2司を管轄し、諸陵司は、代々の天皇・皇族の陵墓・葬祭・陵戸の管理・記録を司った。喪儀司(9世紀初頭に廃止)は、凶事の儀式・喪儀の具などを司った。
 職員は卿(かみ)1人、大輔(だいすけ)1人、少輔1人、大丞(だいじょう)1人、少丞2人、大録(だいさかん)1人、少録3人の四等官(しとうかん)、その下に史生10人、別に大解部(おおいときべ)4人、少(すない)解部6人、省掌2人、使部(つかいべ)60人、直丁(じきちょう)4人が所属した。大少の解部は1司であり、氏族内の譜第(ふだい)に関する訴訟を取り扱った。
 現在地の南には、二官八省の一つだった司法行政を司る刑部省があった。
◆御井 現在地の北、小学校校内には御井跡があった。天皇に供された水を汲む井戸であり、御井神一座が祀っていた。井戸を管理する守屋も設けられていたという。当初は方1町(120m四方)を占めた。平安時代前期、830年に南半の町が中務省厨に充てられている。(『類聚国史』) 
 井水は当地の北にあった医療・調薬などを司る典薬寮による、正月元旦の供御薬に用いられた。屠蘇を浸す水、造酒司での酒造りなどにも利用されたという。
◆発掘調査 ◈治部省跡の発掘調査は行われていない。付近の工事中の立会調査でも、現時点で平安時代の遺構・遺跡は見つかっていない。
 ◈御井跡については、1979年の校舎増築工事に伴い発掘調査が行われた。平安時代後期-鎌倉時代の遺構が見つかった。広範囲に広がる湿地状の凹み地形を埋め、上面に大量の瓦破片を敷き詰めていた。
 御井に関する明確な遺構は見つからなかった。湧水による軟弱な地盤のため、必要に応じて埋め立て整地したためと考えられる。江戸時代以降の土取り穴の底からは、現在も湧水がある。当地の地下水位が高いことを示し、平安時代にも有数の遊水地であったと考えられている。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 京都市考古資料館の説明板、ウェブサイト「コトバンク」


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map 平安宮 治部省跡 〒604-8405 京都市中京区西ノ京車坂町
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