平安宮 内裏 承明門跡 (京都市上京区)  
Ruins of Heiankyu-Dairi-Jomeimon(Gate)
平安宮 内裏 承明門跡 平安宮 内裏 承明門跡
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「平安宮 内裏 承明門跡」の石標


石標、説明板


平安宮復元図、説明板の位置(赤文字部分)、京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館の説明板より


平安宮復元図、赤い四角内が内裏、京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館の説明板より


【参照】承明門内側で見つかった地鎮具、輪宝と橛、「平安宮-京都市建設局・京都市埋蔵文化財調査センター・京都市埋蔵文化財研究所」説明板(二条駅前)より
 下立売通浄福寺西入ル南側に、「平安宮 内裏 承明門跡(へいあんきゅう-だいり-じょうめいもん-あと)」の京都市の「源氏物語ゆかりの地」の説明板、石標がある。 
 付近の北側一帯は、平安時代に天皇の居所である内裏があった。承明門は紫宸殿の南正面にあたる内郭門であり、平安宮中で最も重要な門の一つだった。この付近からは、門北側にあった雨落溝(あめおちみぞ)、地鎮(ちしず)め遺構が発掘されている。
◆歴史年表 平安時代、この地に、承明門が建てられていた。
 833年、「開承明門 相対開レ之 先共北面立門内檀下」と記されている。(『内裏式』「上卯日献御杖式」)
 1071年、第71代・後三条天皇の遷御時に、この地で地鎮が行われたとみられている。
 現代、1985年、京都市埋蔵文化財研究所による付近の発掘調査により、この地から門北側の石組雨落溝、地鎮め遺構が発掘された。7月、平安武久により、平安宮内裏承明門跡の石標が立てられた。
 2012年、3月、京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館により説明板が設置される。
◆後三条天皇 平安時代中期の第71代・後三条天皇(ごさんじょう-てんのう、1034-1073)。名は尊仁(たかひと)、法名は金剛行。京都の生まれ第69代・後朱雀天皇の第2皇子。母は第67代・三条天皇の皇女・禎子(よしこ)内親王 (陽明門院) であり、200年ぶりの藤原氏以外の出身だった。3歳で親王宣下を受ける。1045年、異母兄・親仁親王(第70代・後冷泉天皇)の即位に際し12歳で東宮になる。1046年、元服、大納言・藤原能信の養女・茂子(実父は中納言・藤原公成)を妃にする。1068年、後冷泉天皇の死により35歳で践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)し即位した。藤原教通(のりみち)を関白とした。1069年、記録荘園券契所(けんけいじょ)を設けた。1070年、御願により円宗寺を創建し、法華会、最勝会を勅修した。1072年、第1皇子・貞仁(さだひと)親王(第72代・白河天皇)に譲位し、第2皇子・実仁親王(白河天皇の異母弟)を東宮にした。1073年、院蔵人所(いんのくろうどところ)を置き、後の院政の布石になる。同年、亡くなり、遺骸は神楽岡で荼毘に付された。京都で没した。40歳。
 陵墓は円宗寺陵(右京区)になる。天王塚陵墓参考地(左京区平安神宮境内)が火葬塚という。
 外戚に藤原摂関家がなく、藤原氏の内紛に乗じて親政を行う。第59代・宇多天皇以来170年ぶりのことだった。反摂関家的立場にあり、それまで冷遇されていた中下級貴族の村上源氏、大江匡房(おおえ-の-ますふさ)、受領(ずりょう、任国で実務した国司)、皇族出身者を登用した。荘園整理令の発布、実施するための記録荘園券契所の設置により不正な荘園を廃しようとした。成功(じょうごう、売官) 、重任(ちょうにん)を厳禁した。収公された荘園の多くは天皇領になり、摂関家、大寺社の打撃になる。禁中の調度供御を簡約にし、標準桝として宣旨枡(せんじます、延久宣旨枡)を定め、全国的な一国平均役の徴収をした。中世の土地の基本台帳になる大田文(おおたぶみ)を作成した。学を好み、日吉社などの諸社に行幸した。
◆承明門 承明門(しょうめいもん)は、平安京内裏の内郭十二門の一つになる。外郭門の建礼門に相対し、紫宸殿の南庭を挟んで南正面にあたる内郭門になる。平安宮中の儀式などで最も重要な門の一つだった。
 東西に5間離れて長楽門、永安門の2門があり、兵衛府が警備していた。閤門(こうもん)ともされた。門中央の扉は天皇のみが通行できた。門籍が置かれ、登録者のみが門内に入ることが許されていた。門には石階があり、門の内側に溝が東西に流れ、橋が架けられていたという。
 5間3戸 、檜皮葺 、円柱。
◆発掘調査 1985年の付近の発掘調査により、奈良時代、平安時代、安土・桃山時代、江戸時代の各遺構・遺物が見つかった。
 平安時代の遺構は、敷地南寄りにあった。凝灰岩切石、河原石を並べた東西方向の新旧溝跡(幅80㎝)だった。これらは、内裏正面の建礼門内側にあった承明門北側の石組の雨落溝(あめおちみぞ)石になる。溝を境にして、北側には白砂が敷かれていた。このことから、内裏正殿の紫宸殿前庭は白砂敷だったとみられている。なお、この広庭では、平安時代後期、1159年の平治の乱で平重盛と源義兵が騎馬戦を行っている。
 雨落溝跡北側では、南北一直線上に平安時代中期-後期、9世紀(801-900)中頃-11世紀(1001-1100)末の4カ所の地鎮(ちしず)め遺構が見つかった。1基は、11世紀中頃の輪宝に橛(けつ、杭)が打ち込まれていた。据え置かれた土師器皿の数枚上に、倒れた状態の壺も見つかった。輪宝上面などには、金粉、銀切板、琥珀片、ガラス玉、ガラス片、珊瑚片など儀式の際に撒かれた宝物なども見つかっている。
 1984年に見つかった地鎮めの遺構は、平安時代後期、1071年の第71代・後三条天皇の遷御時の際のものとみられている。火災後に再建され天皇の新居入宅時に、天台密教の安鎮法(あんちんほう、家の安穏・国家鎮護を祈念する)による儀式で執り行われた。祭祀場所は門の中央、内裏の中央南北線上の位置を示している。
 「平安宮内裏承明門跡地鎮遺構出土品」(京都市有形文化財、2008年)として輪宝、橛など42点(京都市考古資料館保管)がある。雨落遺跡は地中保存されている。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館の説明板、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、『平安京散歩』、『京都市文化財ブックス28集 平安京』、ウェブサイト「京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課」、ウェブサイト「コトバンク」


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