平安京 一条大路跡 (京都市上京区)  
Ruins of Heiankyo-ichijooji(Avenue)
平安京 一条大路跡 平安京 一条大路跡
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北から見た朱雀大路(縦)、一条大路(横)

平安時代後期の木製車輪の破片、仁和寺院家跡の井戸跡から出土、京都市埋蔵文化財研究所、説明板より


【参照】六条御息所の牛車、江戸時代の紙本金地著彩「源氏物語車争図屏風」の複製(京都市平安京創生館)、案内パネルより



【参照】現在の一条通の通り名板
 京都御所の西に通じる一条通途中に、京都市の「源氏物語ゆかりの地」の説明板「平安京 一条大路跡(へいあんきょう-いちじょうおおじ-あと)」がある。
 平安時代、この付近に平安京の東西の大路の北限だった一条大路があった。
◆歴史年表 平安時代、一条大路が整えられる。
 室町時代、文明年間(1469-1487)、荒廃した。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、再開されたという。
◆一条大路  平安時代の平安京は、東西(1508丈(4.5km)、南北1753丈(5.3km)を占めた。北端の一条大路は、「一条」、「北局大路」とも呼ばれた。平安京の条坊制であり、京城を東西に区切った大路の一つになる。一条大路は北限であり、南限の九条大路間には11本の大路が分けられた。道幅は10丈(30m)、12丈(36m)ともいわれた。大路の間に多くの小道が通っていた。
 現在の一条通に相当し、京都御所の西方、中立売通の北、今出川通の南になる。西限は現在の西大路通(北区大将軍川端町付近)になる。
 なお、平安京の南北には、中央に朱雀大路(すざくおおじ)幅28丈(84m)があり、東限は東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)、西限の西京極大路間に9本の大路に分けられていた。
 賀茂祭の祭列は一条大路を通った。大路の両側には皇族・貴族の桟敷が設けられた。物見車が立ち、地べたに人々が座り込んで見物したという。
 一条通は、室町時代、文明年間(1469-1487)に荒廃する。安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)に再開されたという。西限は変化し、近世には七本松通、近代、明治30年代(1897-1906)には紙屋川付近、1918年の衣笠村成立後は現況になった。
◆遺構 発掘調査では路面、溝跡が検出されている。
◆文学 賀茂祭の見物などで、牛車を止める場所を巡り、従者たちが争った。平安時代中期の『落窪物語』、平安時代後期の『栄華物語』、『年中行事絵巻』「賀茂祭」、鎌倉時代後期の『枕草子』にも記されている。
 平安時代中期の公卿・藤原実資(さねすけ、957-1046)の日記『小右記』には、「一条大路これ祭場なり」とある。
 平安時代中期の紫式部の『源氏物語』「葵の巻」では、一条大路を通る賀茂祭の斎王御禊列(さいおう-ごけいれつ)の場面で登場した。参加する光源治を見ようと、葵の上と六条の御息所(みやすどころ)の従者たちが立場(たてば)を巡り争った。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 京都市の「源氏物語ゆかりの地」の説明版、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 平安京 一条大路跡 〒602-8239 京都市上京区下石橋南半町53-2
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