北野天満宮 (京都市上京区)
Kitano-tenmangu Shrine
北野天満宮 北野天満宮
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府内で最も大きい狛犬が、同宮の表参道入口に面して建立されている。全長約5m。


獅子、安山岩




楼門楼門と北の社殿が直線上ではなく西に外して建てられているのは、地主社に配慮したためという。


楼門「文道大祖 風月本主」、菅原道真称える願文。平安時代中期の学者・大江匡衡筆。


楼門


楼門


神紋、梅鉢紋


神紋、三蓋松















三光門(中門)、入母屋造、桧皮葺、門の前後に軒唐破風がある四脚門。三光門の由来は梁間に日輪、月輪、三日月の彫刻が施されていることによる。




三光門、扁額「天満宮」は第111代・後西天皇による。


三光門、蟇股


三光門、木鼻


三光門、日輪


三光門、月輪



三光門、三日月、兎






本殿、入母屋造、桧皮葺 


本殿、妻飾り




拝殿、千鳥破風、向拝には軒唐破風、屋根は八棟造



拝殿




「北野天神縁起絵巻」の一部、案内板より



















ウメ



サクラ



イチョウ















楽の間(右)と拝殿


拝殿、蟇股


拝殿


拝殿、手狭


拝殿


楽の間


左から本殿、石の間、拝殿


本社と拝殿の相の間の「石の間(中殿)」


「石の間(中殿)」


石の間


鳳輦




裏の社


北門


東門
 京都「七野」のひとつ北野にある北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、天神信仰発祥の地とされている。京都御所の乾(西北)に位置している。平安京、平安京大極殿の北西にあり、当宮の三光門(中門)真上に北極星が輝き、天皇が星を拝する聖なる社とされた。
 かつて「天満宮」「天満大自在天神(宮)」「天満天神」「天満大神」「天満宮天神」「北野天神」「北野社」「北野神社」「北野聖廟」「火雷天神」などとも呼ばれた。「北野の天神さん」「天神さん」と親しまれている。天満とは「道真の怒りが天に満ちた」ことから生じたともいう。旧官幣社。  
 祭神は、平安時代の菅原道真(天満大自在天神)、中将殿(道真長男)、吉祥女(道真夫人)を祀る御霊社。
 全国天満宮の宗祀(総本社)。学問の神であり、江戸時代には書道、和歌、相撲、正直の神としても知られた。現在、全国に1万2000社の天神社が存在している。神仏霊場会、第95番、京都第15番。節分の無病息災、招副祈願の四方(よも)参り(吉田神社、壬生寺、伏見稲荷大社、北野天満宮)のひとつ。
 学問、誠の神、受験祈願、学業成就、合格祈願、勧学、技芸上達(書道、和歌、芸能、武道)、室町時代には禅僧に文学神として信仰された。ほかに、厄除、冤罪救済、農耕、子宝祈願などの信仰がある。
◆歴史年表 北野は、かつて秦氏の領地だったという。また、この地には古くより、農耕・祈雨の天神(雷神)が祀られていたという。(『西宮記』巻7裏書)
 平安時代、794年頃、平安京遷都により猟地になっていたという。伊予親王(第50代・桓武天皇皇子)の大井荘が営まれ、5月には馬場で、近衛官人による騎射が行われていた。天照大神を祀る桜宮もあったという。また、奈良の常住寺(野寺)が、大内裏の北西(神門)に当たるこの地に移されている。
 836年、遣唐使派遣のための天神地祇を祀る祭場になったという。
 903年、菅原道真が左遷され大宰府で亡くなる。
 904年、雷公が北野に祀られた。(『西宮記』)
 905年、藤原基経が豊作祈年の雷公祭を執り行う。
 942年、菅原道真の乳母(巫女)だった多治比文子(たじひのあやこ)(右京七条二坊十三町)に道真の霊が神がかりし、北野右近の馬場に社殿を設けるように神託したという。だが、文子に財なく、自邸内に仮の小祠を祀った。(『北野天神縁起』)
 947年、文子に再度神託があった。また、近江国比良宮の禰宜・神良種(みわのよしたね)の子・太郎丸にも道真の神がかりがある。馬場に一夜で千本の松が生えるところに社殿を建てるようにとの神託だった。このため、文子、神良種、北野朝日寺(馬庭の西北)の僧・最鎮らにより、この地に社殿(観音堂、後の北野神宮寺)が造営された。その際に、神霊が降臨した松が、境内にある「影向の松」(ようごう)という。(『北野天神縁起』)
 959年-960年、959年とも、藤原(九条)師輔(もろすけ)が私邸を壊し、私財提供して社殿が整備される。当初は北野聖廟といわれた。(『菅家御伝記』)
 973年、焼失する。
 976年、菅原氏氏人により北野寺を領知した。(「最鎮記文」群書類従)
 986年、慶慈保胤が北野社に捧げた願文に、道真を「文道の祖、詩境の主」とし、すでに学問神としての信仰が生まれていたとみられている。(『本朝文枠』)
 987年、第66代・一条天皇の勅使が北野社に遣わされ、「北野天満宮天神」の神号が認められる。勅祭の社となり、北野祭が始まる。(『外記日記』『菅家御伝記』)。摂政兼政が参詣する。
 989年、摂政兼家が参詣した。
 992年、朝廷は伊勢大神宮以下19社の一つに北野社を加える。
 1004年、曼殊院を興した菅原氏出身の是算は当宮の別当職に補せられた。その後、比叡山西塔北谷・東尾坊が引き継ぐ。藤原道長が北野祭に初めて神馬を奉り、以後、恒例になる。一条天皇が初めて行幸奉幣する。
 1110年、右大臣・藤原忠実が10烟の封戸を寄進した。
 1114年、能登守・藤原基頼は、能登国菅原保50町を寄進する。
 鎌倉時代、1204年、社頭で北野宮歌会が開かれた。後鳥羽院(第82代)、藤原定家、藤原家隆などが参加している。
 1234年、焼失した。(『吾妻鏡』、同年条)
 南北朝時代、1375年、足利義満が初めて参詣する。その後、1408年までに34回参詣している。
 1387年、室町幕府3代将軍・足利義満は北野社領に対して保護を与える。
 1391年、足利義満は、一日万句の大連歌会を催した。1391年までに塔頭・松梅院(しょうばいいん)が将軍家御師職(おししき)になる。以後、将軍の祈祷を担う。
 1398年、北野社法楽連歌が催された。(『迎陽記』)
 室町時代、1413年、北野で7日間の観世大夫の勧進猿楽が行われる。
 1418年、奉幣の列に加わる。
 1422年、北野神前で田楽が行われ、増阿弥が奉仕した。(『満済准后日記』)
 1433年、前6代将軍・足利義教が3か日1万句を通夜興行する。(『満済准后日記』)
 1438年、足利義教が猿楽を興行した。(『看聞日記』)
 1441年、債権や債務の放棄を命じた徳政令を求める徳政一揆(嘉吉の徳政一揆)が起こり、北野社も占拠された。
 1442年、7社(石清水、賀茂、松尾、平野、春日、北野)に加えられる。(『康富記』)
 1444年、北野天満宮を本所としていた麹座の麹製造の独占権を巡り、室町幕府軍の攻撃を受け社殿が焼失する。(文安の麹騒動)。その後、衰退した。
 安土・桃山時代、1587年、北野大茶会が行われる。
 1591年、豊臣秀吉は境内西にお土居を築く。秀吉は社領602石を安堵した。
 1603年、出雲阿国が社頭で念仏踊、歌舞伎舞を演じる。(『阿国歌舞伎絵詞』)
 江戸時代、1607年に豊臣秀頼が片桐且元を造営奉行とし、現在の社殿(本殿、拝殿など)を造営した。
 1700年、1年をかけて修復された。(「京都御役所向大概覚書」)
 1861年、和宮が降嫁を前に参詣した。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈を経て曼殊院別当職は廃された。
 1871年、官幣中社に列し、北野神社と改名する。
 1873年、文子天満宮が遷された。
 1901年、忌明塔(五輪塔)が観音寺に移される。
 1936年、昭和北野大茶湯が催された。
 現代、1945年以降、北野天満宮と改称する。
 1966年、梅苑が開苑した。
 2016年、御手洗(みたらし)川が完成した。
◆菅原道真 平安時代前期の公卿、文章博士、歌人の菅原道真(すがわら の みちざね/みちまさ/どうしん、845-903)。菅原是善の3男。母は伴氏。幼少より漢詩、和歌に優れた。862年、文章生試験に合格、866年、円仁『顕揚大戒論』序文を書く。867年、文章徳業生、870年、方略試に合格、871年、少内記、872年、存問渤海客使に任じるが、母が亡くなり解官、877年、式内少輔、文章博士を兼ねる。第59代・宇多天皇、第60代・醍醐天皇に重用される。879年、従五位上。880年、父没し家塾「菅家廊下」を継承。883年、加賀権守兼任。884年、太政大臣職掌の有無について意見を奏上。888年、阿衡問題について藤原基経に意見書を送る。891年、式部少輔、左中弁兼ねる。892年、従四位下、『三代実録』『類聚国史』を編じる。893年、参議、式部大輔、左大弁、勘解由長菅・東宮亮を兼任。894年、遣唐大使に任命されるが、大使の中止を建議し、中止になる。侍従兼任。895年、近江守兼任、中納言、従三位、春宮権大夫兼任。897年、正三位、中宮大夫兼。899年、右大臣となる。900年、三善清行は道真に辞職勧告する。901年、従二位、左大臣・藤原時平の讒言(ざんげん、告げ口)により、大宰権帥に左遷される。903年、大宰府で没した。
 没後、923年、道真に本官右大臣を復され、左遷詔書は破棄された。993年、左大臣正一位、太政大臣を追贈される。
◆菅原道真の母 平安時代の菅原道真の母(?-872)。詳細不明。伴氏の出身。845年、道真を出産した。道真には2人の兄がいたという。道真元服の際に母が贈ったという歌「ひさかたの月の桂も祈るばかり家の風をも吹かせてしがな」がある。仏教を篤く信仰した。北野天満宮境内の判氏社は、道真の母を祀る。北野天満宮隣の東向観音寺には伴氏廟が立つ。
◆多治比文子 平安時代の巫女・多治比文子(たじひの あやこ、生没年不詳)。奇子、綾子、あや子とも書く。平安京右京七条二坊十三町に住した。942年、天神の神託により北野に社殿を建て祭祀することを託宣した。だが、財なくやむなく自邸に叢祠を祀った。947年、北野に遷し、北野天満宮創祀者のひとりとなる。
◆千利休 室町時代-安土・桃山時代の茶人・千利休(せん の りきゅう/せん りきゅう、1522/1521-1591)。堺の魚問屋田中与兵衛の子に生まれた。書院台子の茶を北向道陳に、1540年頃、10歳代で武野紹鴎に茶の湯を学ぶ。1544年、初の茶会記録が残る。1574年、織田信長の茶頭の一人となる。1582年、豊臣秀吉の茶頭となり側近政治に関与する。1586年、秀吉の関白就任御礼の禁中献茶に秀吉の後見として茶を点てた。正親町天皇より「利休」の号を賜る。1587年、北野大茶湯にも演出に関わる。1590年、秀吉の小田原攻略に従軍した。小田原より古田織部に自作の竹花入、書状を送る。1591年、大徳寺山門事件の責任をとり秀吉に切腹を命じられ、京都葭屋町聚楽の屋敷内で自刃した。
 村田珠光以来の侘び茶を大成し、茶会の形式、点前作法、茶道具、茶室露地、懐石などに創意を凝らし、茶の湯の典型を示した。墓所は大徳寺聚光院にある。
◆出雲阿国 安土・桃山時代の女性芸能者・出雲阿国(いずも の おくに、1572?- ?)。詳細不明。於国、国など。出雲国杵築中村の里・鍛冶中村三右衛門の娘ともいう。出雲大社の巫女(アルキ巫女)となり、文禄年間(1558-1570)出雲大社勧進のため神楽舞をして諸国を巡回し、美貌もあり評判になる。1582年、奈良・春日大社で上演された「ややこ(稚児)踊り」は8歳の加賀と演じた。1600年、京都で公家に招かれ菊とともに演じ、人気を博した。1603年、北野神社で男装した阿国の「歌舞伎踊」が披露された。五条河原でも披露したという。1604年、伊勢国桑名、1607年、江戸城で興行した。その後の消息は不明。歌舞伎の創始者とされている。
 1591年、出雲の阿国は北野神社境内で京都で初めて「ややこ踊り」を行ったともいう。1603年、「かぶき踊り」を踊る。以後2年間は北野社を拠点とした。その後、1612年頃にも興行したという。北野社社家・北野松梅院の者に囲われ余生を送ったともいう。
◆丿貫 安土・桃山時代の茶人・丿貫(へちかん/べちかん、生没年不詳)。詳細不明。丿恒、丿観、別貫。上京の商家・坂本屋、また美濃の生まれともいう。医師・曲直瀬道三の姪婿ともいう。茶は武野紹鴎の門で修め、山科に庵を結ぶ。千利休と親交し、侘び茶に徹し、奇行で知られた。1587年、北野大茶湯で直径一間半(2.7m)の朱塗りの大傘を立て、秀吉が賞したという。晩年は薩摩へ下ったともいう。露地で履く雪駄の意匠を生んだともいう。
◆長谷川宗宅 安土・桃山時代江戸時代の画家・長谷川宗宅(はせがわ そうたく、?-1611)。詳細不明。長谷川派。1610年、法橋に叙せられる。当宮に「李白・陶淵明図屏風」がある。
◆縁起 当宮縁起によると、菅原道真の乳母(巫女)だった多治比文子(たじひ の あやこ)は、奇子、綾子、あや子とも書かれた。禰宜(巫女、童女)であり、右京七条二坊十三町(西大路七条の西付近)に住んでいた。平安時代、942年、文子に道真の霊が神がかり、北野右近馬場に社殿を設けるように神託したという。だが、文子に財なく、やむなく自邸内に仮の小祠を祀った。
 947年、文子に再度神託があった。また、同年に近江国比良宮の禰宜・神良種(みわ の よしたね)の子・太郎丸(7歳)にも道真の神(火雷の神)がかりがある。馬場に一夜で千本の松が生えるところに社殿を建てるようにとの神託だった。このため、文子、神良種、北野朝日寺(馬庭の西北)の僧・最鎮、最鎮の弟子・鎮西(ちんさい、鎮世、一本)、狩弘宗、満増、増日、星川秋長(一本、秋水)らが力を合わせ、この地に社殿(観音堂、西脇観音堂、後の北野神宮寺)を移して造営した。その際に、神霊が降臨した松が、境内にある「影向の松」(ようごう)という。(『北野天神縁起』)
 959-960年、藤原(九条)師輔(もろすけ)が私邸を壊し、私財提供して本社神殿が整備される。当初は北野聖廟といわれた。(『菅家御伝記』)
◆菅原道真の神格化 平安時代、903年に道真は亡くなる。その後、京中では約50年間にわたり、関係者の死、疫病(疱瘡)、旱、天候不順、地震、月食、大彗星などの「異変」が続いた。
 908年、道真の政敵・藤原菅根が亡くなる。909年、藤原時平の死が重なる。923年、左遷を命じた第60代・醍醐天皇の皇太子・保明(やすあきら)親王の死より、これらは道真の怨霊の仕業と恐れられだした。
 923年、「菅師霊魂宿芬のなす所也」(「日本紀略」)と記され、道真怨霊についての文献初出になる。同年に、醍醐天皇は道真に本官右大臣を復し、左遷詔書は破棄された。延喜より延長への改元も行われた。後に正一位、太政大臣が追贈された。
 だが、異変は止まなかった。925年、保明親王の第1王子・慶頼(よしより)王の死。929年、第10皇子・雅明(まさあきら)皇子の死。930年、春からの疫癘(えきれい、疫病)の流行、炎天の後、一転して雷雨となる。宮中清涼殿落雷では、藤原清貴の震死、平希世(たいら の まれよ)の死、ほかに紫宸殿などでも死傷者が出た。衝撃を受けた醍醐天皇は病臥し、常寧殿に遷り、譲位を行い、この年に亡くなる。
 当初、道真は、在来の雷神と習合した。雷神(火雷神)、祟り神として畏怖される。やがて、怨霊神の側面は次第に薄れ、天神、学問・文芸の神としても崇敬を集める。さらに、宿敵の藤原氏の擁護神にすらなった。930年、宮中清涼殿落雷の際に、居合わせた藤原時平の弟・忠平が無事だったのは、忠平の篤い仏教信仰のためとされた。その子孫からは摂政関白が輩出し、道真は摂関家擁護の神にもなった。
 平安時代末、冤罪を晴らす神としての信仰も起こる。鳥羽法皇(第74代)の女房・小大進は、待賢門院の御所で衣を盗んだと疑われる。小大進が北野に籠り神殿に和歌「思ひいづやなき名たつ身はうかりきとあらひと神になりし昔を」を貼ると、法皇の夢枕に北野神が現れ、衣も出てきた。(「古今著聞集」)。鎌倉時代、1331年、第96代・後醍醐天皇が隠岐に流された際に、寵愛を受けた民部卿三位局が北野社に参篭すると、老翁が現れ、天皇の還幸を予言した。(「太平記」)
 室町時代、足利将軍家の篤い帰依を受ける。
◆天満大自在天神 903年、菅原道真が大宰府で没後、905年にすでに大宰府に神殿が建てられ、「天満大自在天神」と称した。(「外記日記」菅家御伝記)。伝承として、道真は大宰府において自らが無実であることの祭文を作り、高山に登り、7日7夜、爪先立ちで祈念し、弥勒菩薩に先立ち仏となったという。さらに、天満大自在天神となったという。
 987年、第66代・一条天皇の勅使が北野社に遣わされ、「北野天満宮天神」の神号が認められる。(「外記日記」菅家御伝記)。
 当初、王城鎮護、豊饒と農耕の神・雷神として、さらに道真の天満大自在天神により、学問、詩文の神として信仰された。
◆丑・牛 境内には20の牛の像(臥牛)がある。これは、道真が845年、丑年の乙丑6月25日生まれであり、牛は神の使いとされている。大宰府で悲憤のうちに死去した道真の遺体は牛車で筑前国三笠郡四堂へと運ばれた。途中、牛が座り込んで動かなる。やむなく近く の寺に埋葬したとことから、境内の牛の像はすべて横たわった姿になっているという。また、道真の神号は「天満大自在天神」といい、自在天神は仏法を守る神で8臀3眼で白牛に乗るという。古くより丑の日の参拝も行われていた。
 境内に祀られている牛社(うししゃ)は、南西にある小祠であり一願成就所の信仰がある。かつて本殿の北西(乾)の方角にあり、「乾の牛さん」の名で親しまれている。覆屋内に石造臥牛像がある。学業成就、入試合格祈願の信仰を集める。
◆火之御子社 火之御子社(ひのみこしゃ)は、北野社の創建以前よりあり、雷神を祀り「北野の雷公」といわれた。平安時代には雨乞い、豊作祈願も行われた。例祭(雷除大祭)は6月1日に行われ、五穀豊穣と、雷除けのために祈願し、火打ち石により点けた火で灯籠に浄火を灯す。
◆右近馬場 平安時代、二つの馬場があった。右近衛府に属した馬場は「右近馬場(うこん の ばば)」と呼ばれ、平安京一条大宮の北(北野神社の南東)にあった。左近衛府に属した馬場は「左近馬場(さこん の ばば)」と呼ばれ、平安京一条西洞院にあった。官人は、これらの馬場で常日頃より調馬、競馬(くらべうま)、騎射(きしゃ)などの練習を行っていた。
 境内にある右近馬場は、古代より遊猟の地として知られ、万葉集にも詠まれた。平安時代、貴族の遊宴が催されている。807年、馬場が開かれ、競馬が行われる。839年、第54代・仁明天皇は天覧競馬に訪れた。877年頃、射手が競う「真手番(まてつがい)」で、右近衛権中将・在原業平は騎射の検分している。986年、馬場は東西軸より南北軸に改められる。991年、藤原道隆も競馬見物をした。これより「競馬十番見物」という、無実の者が祈り、罪を晴らすという信仰も生まれた。1104年、白河法皇(第72代)が馬場に雪見に訪れる。1196年、藤原定家が真手番を見物した。南北朝時代、馬場は廃された。その後、鎌倉時代末-室町時代、北野社頭で連歌や田楽が催される。鎌倉時代、文保年間(1317-1319)、連歌師・救済(ぐさい)が北野法楽の千句連歌を催している。室町時代、1413年、観世太夫の能が興行された。1553年、足利義輝は小泉城攻略のために陣を敷く。安土・桃山時代、1587年、豊臣秀吉は北野大茶会を催している。
 5月4日には競馬、騎射の予行演習の「荒手番(あらてつがい)」が行われた。5月6日、引折(ひをり)では、競馬、騎射が行われ、騎射の勝負は「真手番」と呼ばれていた。左近馬場では1日早く催されていた。
◆曼殊院 曼殊院と北野社の関係は深い。曼殊院を興した菅原氏出身の是算は道真とも関り深く、1004年に別当職に補せられた。以後、歴代住持が北野社の別当も兼務した。近代の神仏分離令(1868)により、別当職曼殊院事務政所が廃止され、社僧は還俗するまで関係は続く。
 別当の職務は、近世以降に北野天満宮に奉仕した祠宮三家(松梅院、徳勝院、妙蔵院)の得度の際の戒師、神殿の奉仕をした宮仕の増位、北野神人(じにん)の叙任などに当たった。それらの社務のために北山に別院が建立された。その場所は特定されていないが、現在の金閣寺付近ともされ、足利義満の北山第(北山殿)建立(1397)に際して、別院は相国寺の南付近に移転したともいう。実務については、曼殊院から派遣された目代(もくだい)が当っていた。
 現在、曼殊院の本尊隣に安置されている平安時代後期作の十一面観音菩薩像は、かつて北野天満宮の本地仏として祀られていた。観音は道真の化身と考えられており、良尚法親王により遷されたという。ほかにも多数の天神像、「北野天神縁起絵巻」などが曼殊院に所蔵されている。
 また、曼殊院境内西の弁天島には、弁天堂と室町時代の曼殊院天満宮が建つ。道真を祀り、これらは神仏習合時代の名残りになっている。
◆北野大茶会 安土桃山時代、1587年10月1日、豊臣秀吉は境内付近一帯の松原で、北野大茶会(北野大茶湯)を催し、千利休と息子の道安も関わったとみられている。大茶会は、1587年の薩摩国・島津義久討伐の祝勝、天下統一、聚楽第落成を記念するものだった。
 公家、大名、茶人、町人、百姓、唐国の人々も茶道具を持って参会するようにとの触書高札「定御茶湯之事」7条が出された。代用の「こがし」でもよいとされた。出席しない者は今後、茶を点てることを禁じるとされた。高札は京都のみならず、奈良、堺にも立てられた。1000人が茶会に集い、800とも1500ともいう数寄屋茶屋が境内に建てられた。拝殿内に秀吉の移動式三畳台目「黄金の茶室」が披露された。左右に平三畳台目ほか、茶頭・千利休、今井宗久、津田宗及ら茶人の茶席が設けられた。秀吉の茶道具、書画も披露された。茶室での籤取りで1番籤を引くと、秀吉自らのお手前をうけることができた。だが、当初10日の予定の茶会は、九州肥後・隈部親家の一揆により一日のみで終わる。ただ、既定通りだったともいう。なお、黄金の茶室は、1592年、肥前名護屋に移された。1615年、大坂城落城により焼失という。
 近代以降も、献茶会(12月1日)が開かれている。御茶壺奉献祭(11月26日)で奉納されたお茶を神前に献茶した後、境内の明月舎や上七軒で茶席が設けられる。
 現在境内には、「北野大茶湯址」の碑、江戸時代、1829年造の「太閤井戸」、茶席「松向軒」、「三斎井戸」が残されている。
◆建築 建物は南より北へ一ノ鳥居、二ノ鳥居、三ノ鳥居、楼門、中門(三光門)、拝殿、本殿と建てられている。本殿、石の間、拝殿、楽の間は国宝に指定されている。重要文化財指定は、透垣、後門(平唐門)、中門(三光門)、東門、廻廊など。
 ◈「本殿」(国宝)は、江戸時代、1607年に建立された。豊臣秀吉が造営した建物群の一端とされている。奉行は片桐且元による。八幡造の様式による最古例とされ、仏寺の開山堂が起源ともいわれている。石の間造、相の間造、権現造とも呼ばれる。後代の日光東照大権現に起因する。
 本殿と拝殿は、両流の屋根が両下(まや)造の「石の間(中殿)」でつながり、一棟としている。本殿と拝殿の高さは同じであり、天皇と神化したとはいえ臣下の道真は同じになる。かつては一段低くなった石敷きの土間(3間1間、両下げ造)になっていた。現在は板張りになっている。さらに、拝殿の東西に「楽の間」、正面には千鳥破風、向拝がつながっている。このため、本殿、中殿、拝殿、東西2つの楽の間、向拝と、7棟により全体の社殿が構成され、八棟(やつむね)造になる。外部は素木、内部内陣は黒漆塗、高欄を朱漆塗、長押上組物、蟇股などは極彩色になっている。彫刻類の蟇股、手挟、木鼻などとともに仏教建築の影響があるといわれている。本殿内部には各所に鏡が掲げられ、最大のものは探検家・松浦武四郎奉納という。(「日本地図三大鏡」の一つ)。石の間扉上部に縦線条内に四重の菱形を切り、梅枝を彫り出している。彩色されており、表は紅梅、裏は白梅になる。
 本殿は桁行5間、梁間4間、一重、入母屋造、右側面3間庇付、檜皮葺。石の間は桁行3間、梁間1間、一重、両下造、檜皮葺。拝殿は7間3間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝七間、軒唐破風付、檜皮葺。楽の間は東西各桁行正面2間、背面3間、梁間2間、一重、一端入母屋造、他端拝殿に接続、檜皮葺。後門は1間1戸平唐門、檜皮葺。
 ◈「中門」は、三光門と呼ばれている。江戸時代、1607年に建立された。梁間に三光となる日輪、月輪、三日月が彫刻されている。江戸時代の第111代・後西天皇筆の勅額「天満宮」を掲げる。前後に千鳥破風と軒唐破風、四脚門。一重、入母屋造、檜皮葺。
 ◈「東門」は四脚門、切妻造、銅板葺。
 ◈「絵馬堂」は現存最古とされ、江戸時代、1608年に豊臣秀頼の造営による。 
◆伴氏社・鳥居 末社・伴氏社(ともうじしゃ)の祭神は菅原道真の母であり、廟になる。母が氏族の伴氏(ともうじ)だったことからこの名がある。道真は土師氏子孫になる。子どもの成長と学業成就の守護の信仰がある。例祭日は1月14日。
 かつては、石造の五輪塔も置かれていた。近代、神仏分離令(1868)後の廃仏毀釈により、東向観音寺に移された。
 石鳥居は鎌倉時代の作、国の重要美術品に指定されている。京都三珍鳥居の一つ(ほかに御所の厳島神社の唐破風鳥居、木嶋坐天照御魂社)。高さ3m。
 
伴氏社(ともうじしゃ)の鳥居は、伴氏鳥居、中山鳥居ともいわれる型式になる。明神鳥居に貫の出がない。花崗岩の石鳥居であり、室町時代(15世紀)の作になるという。国の重要美術品に指定されている。額束が笠木の下端まで食い込む。柱は太く、柱の土台は蓮弁座が「反花(かえりばな)座」になっている。京都三珍鳥居の一つに数えられている。ほかに御所の厳島神社の唐破風鳥居、木嶋坐天照御魂社がある。
◆北野天神縁起絵巻 鎌倉時代、1219年の伝・藤原信実筆の紙本著色「北野天神縁起絵巻(承久本、根本縁起)」(国宝)(縦51.5㎝)は全9巻(1巻は白描)ある。祭神の菅原道真とは、旧来の神とは異なり、実在の人物が次第に神格化された10世紀の新しい神の登場を意味していた。
 8巻からなり内容は1巻から6巻に①祈願文、②道真の伝記、③怨霊、④道真冥土記、⑤北野社草創、⑥霊験利生譚からなる。7巻、8巻は六道絵に代わり未完になる。ただ、9巻に北野社草創、霊験利生譚の白描下絵がまとめられている。
 絵巻の詞書に「承久元年今にいたるまで」とあり、承久本、根本縁起ともいわれる。道真の誕生から、清涼殿を襲う雷神、亡くなるまでの説話、吉野金峯山日蔵上人の六道めぐりなどが描かれている。7巻、8巻は詞書を欠く。かつて当社の神庫にあり、その後所在が不明になった。安土・桃山時代、1596年に戻されたという経緯がある。縦52㎝、横最短842㎝、最長1211㎝。現存する北野天神縁起絵巻のうちで最も古く大きい。
◆文化財 古文書など2万点以上の所蔵品がある。
 平安時代後期の「太刀 銘 國綱(たち めい くにつな、鬼切<おにきり>)」(重文)は、鬼切丸(髭切、ひげきり)とも呼ばれている。平安時代作とされ、小さな鋒(さっさき)、腰寄りで大きく反る特徴がある。茎(なかご)の銘は、当初「安綱(やすつな)」と刻銘してあった。1870年の展覧に際し、本阿弥伊勢大掾丞らが「安」の字を「國」に字画を加えて彫り直したため、「國綱」(鎌倉時代前期の粟田口刀工)になった。刀は、源満仲(912)/913-997)が長男・頼光に与え、源氏、足利氏、斯波氏、出羽最上氏と、源氏家系に代々伝えられたという。その後、1880年に当宮へ奉納された。刀は、頼光が大江山の酒呑童子退治に用いたとも、渡辺綱が一条戻橋で茨木童子の腕を切ったともいう。刀身、85.4cm。
 鎌倉時代中期、備中国青江派の刀工作「太刀 銘 恒次(つねつぐ) 附(つけたり) 糸巻太刀拵(いとまき たち こしらえ)」(重文)は、江戸時代、1702年に加賀藩主の前田綱紀より奉納された。刀身、74.4cm。
 江戸時代、1608年の長谷川等伯筆「昌俊弁慶相騎図絵馬」(重文)は、源義経討伐の内命をうけ上洛した土佐坊昌俊が、義経に下心がないとの誓文を書く。だが、見破られ、弁慶に馬に乗せられ引き立てられていく様を描いている。
 紙本墨書「日本書紀(兼永本)」28冊(重文)は、鎌倉時代の写本、校本になる。卜部兼永(うらべ かねなが)が所持し兼永本とも呼ばれている。
 そのほか、安土・桃山時代の曽我直庵筆、絹本著色装「曳馬図絵馬」は、豊臣秀頼が武運長久を願い奉納したという。白馬と黒馬が二面に描き分けられている。
 安土・桃山時代の海北友松筆の紙本墨画「雲龍図屏風」六曲一双。縦149.4cm、横337.5cm。
 室町時代の宮曼荼羅図、絹本著色「北野曼荼羅図(北野社絵図)」(縦126.4cm 横72.7cm)。
 17世紀、長谷川宗宅筆の紙本金地着色「李白・陶淵明図屏風」六曲一双。
 江戸時代、1841年の浮田一恵筆の紙本着色「豊太閤北野大茶湯図」(縦58.5、横137.4㎝)。
 安土・桃山時代の木瀬浄阿彌作「日本地図鏡」は、加藤清正(1562-1611)の奉納による。大鏡の裏面に、日本列島(北海道を除く)と諸国名が刻まれている。
 探検家・松浦武四郎(1818-1888)が奉納した大鏡の裏面には、北海道の地図が彫られている。
 近代、1880年に日参永守会奉納の「本殿大鏡」には、裏に世界地図(アメリカ大陸を除く)が彫られている。
 重要文化財として鎌倉時代の紙本著色「北野天神縁起 弘安本」3巻、土佐光信筆の紙本著色「北野天神縁起 」3巻、土佐光起筆の紙本著色「北野天神縁起」3巻、絹本著色「舞楽図」2幀(重文)。
 南北朝時代-室町時代の伝藤原信実筆「束帯天神像」。
 安土・桃山時代の「橘松竹鶴亀蒔絵文台・硯箱」は、山中山城守長俊(1547-1607)が連歌の際に使用し、のちに奉納された。安土・桃山時代の「橘松竹鶴亀蒔絵文台・硯箱」(縦58cm、横34cm)。
 安土・桃山時代、「北野大茶湯高札」(1587年)は、北野大茶会の際に参加をふれて掲げられた高札。縦84.4cm、横52.7cm。
 「木造鬼神像」13体、「太刀 銘備州長船師光 応永九年(1402)」「太刀 銘助守」「太刀 銘恒次」、堀川国広作「太刀 銘北野天満天神豊臣秀頼公御造営之寺于時慶長十二丁未十一月日信濃守国広造」。
 鎌倉時代の第91代・後宇多天皇宸翰「紫紙金泥金光明経最勝王経」。
 絵馬所に、江戸時代の英一蝶(はなぶさ いっちょう、1652-1724)筆の絵馬「五条橋弁慶の図」がある。
 中門脇に織部型石灯籠がある。竿にマリア像が刻まれ、マリア灯籠、キリシタン燈籠ともいわれている。
◆石燈籠 本殿前にある平安時代中期の武将・渡辺綱(わたなべのつな、953-1025)が寄進したという鎌倉時代後期の石燈籠(重要美術品)は、「北野型」「白太夫型」ともいわれる。
 渡辺綱にまつわる鬼女伝説がある。ある夜、源頼光の四天王のひとり渡辺綱が一条戻橋で妙齢の女に出会う。女は馬に乗せてくれと頼む。綱が屋敷に送りとどける途中で、女の正体が鬼女であることがわかる。鬼は綱の襟をつかみ中空に舞いあがり愛宕へ向かう。綱は北野社の上空で、太刀によりに鬼の腕を切り落とす。綱は社の回廊屋根を破って落ちた。
 綱は命が無事だったために、北野社の加護と感謝のためにこの灯籠を寄進したという。
 本殿前に江戸時代、1682年、第代・112代・霊元天皇の寄進による石燈籠がある。江戸時代、1823年、有栖川宮韶仁親王(ありすがわのみや つなひと しんのう)の寄進による石燈籠がある。
◆連歌所の井戸 
「連歌所の井戸」が中門の西南に残されている。
 南北朝時代、1391年、足利義満は、一日万句の大連歌会を催した。境内に連歌会所があり、連歌堂があった。1873年まで井戸の西に連歌堂が建てられていた。
 室町時代中期の連歌師・宗砌(そうぜい、?-1455)、宗祇(そうぎ、1421-1502)などが会所奉行をつとめた。室町時代-江戸時代、毎月18日に月次会の連歌会が行われている。連歌を献じ、神の御意を慰めることを法楽といった。聖廟法楽は、毎月25日に催されていた。そのほか、御忌日(2月25日)、宮渡祭日(6月9日)、例祭日(8月4日)なとが催されていた。 
◆北野三十本 北野天満宮と茶の湯との関りは深い。
 江戸時代中期の茶人・表千家6代・覚々斎(かくかくさい、1678-1730)は、利休ゆかりの山崎・妙喜庵の古松が枯れたことから、この松を材に茶道具の「金輪寺(きんりんじ)」を作らせた。茶入れの割蓋の袋の緒を長緒か短緒にするかで迷う。北野社に詣で、満願の日の夢により長緒に決めたという。
 覚々斎は、北野社参詣の途中で瀬戸黒の筒茶碗を手に入れた。釉に白い梅鉢が描かれ、反対側に鱗のような文様があった。「土師鰭(はじひれ)」の銘を付けたのは、道真の祖先が土師氏だったことに因んだ。覚々斎はこれを愛用し、遺言により棺内に納められたという。
 江戸時代の7代・如心斎(じょしんさい、1705-1751)は、北野社の社殿修復の依頼を受けて、茶杓30本を削った。銘は北野社に因んでおり、「松梅」、「飛梅」、「紅梅」、「梅衣」、「土師」、紙谷川」、「牛」などがあった。これらは「北野三十本」と称される。300疋(織物の長さの単位)を得て寄進する。また、好みの「十牛棗(じゅうぎゅうなつめ)」があった。
 江戸時代-近代の11代・碌々斎(ろくろくさい、1837-1910)は、1880年、北野社の初の献茶式で、台子の青竹の柱から後に茶杓30本を削った。
 近代の12代・惺斎(せいさい、1863-1937)は、1892年、1917年、万灯会、半万灯会に茶杓30本を削り寄進する。
 近現代の13代・即中斎(そくちゅうさい、1901-1979)も2回寄進している。
◆幕末遺跡 大鳥居近くに、新門辰五郎(1800?-1875)寄進の石灯籠が立つ。四角い竿に屋根が載る。
 境内北西隅に山国隊寄進の石灯籠がある。
◆神人 北野社には、祭祀、供御に奉仕する特権を有し保護された様々な神人(じにん/じんにん)が存在した。かつて道真に同行し大宰府に向かった人々が帰京し、道真を祀る安楽寺天満宮(右京一条二坊一保八町)を建てた。また、これを含む七保という7つの御供所(一之保社、二之保社、三之保社、四之保社、五之保社、六之保社、七之保社)を右京一条から三条界隈に設けられ、神事、神供調達に奉仕したことに始まる。
 北野社領の神人としては、酒役神人があり西京の麹(こうじ)座を形成し、麹作りが行われた。南北朝時代、1379年以来、麹作りの独占権を主張した。1419年、幕府は洛中辺土における麹室独占、酒屋に対する麹専売権を認めた。だが、反発があり、1444年の騒乱となり、以後、酒屋に麹作りが認められた。
◆廃仏棄釈 近代以降、神仏分離令(1868)後の廃仏毀釈により、道真が天台座主・尊意より伝えられていた御襟懸守護の仏舎利は山国・常照皇寺に移されている。少なくとも南北朝以来、本殿背後に舎利門があり、舎利塔が置かれていた。社家(社僧・神官)の松梅院が管理し、毎月、舎利講が催されていた。
 本地仏・十一面観世音菩薩像は、勝林院へ遷された。真如堂の二末寺は廃寺になった。 
 現在の大雲院にある鐘楼は、もとは北野神社にあり、江戸時代、1607年、豊臣秀頼が寄進したものだった。近代、1872年に現在地に移転されている。
◆回峰行 延暦寺の千日回峰行の京都大廻りでは、北野天満宮は十一面観音として拝する。その後、西方尼寺に向かう。
◆狛犬 府内で最も多い12対の狛犬・獅犬がある。また、府内で最も大きい狛犬(高麗犬)が、同宮の表参道入口に面して建立されている。全長約5mで、1934年、画家・竹内栖鳳の考案による。
◆七不思議 七不思議の史跡が伝えられている。
 ①影向松(ようごうのまつ)。一ノ鳥居の右手の松は、三冬(初冬-節分)の間の初雪の時に祭神・菅原道真が降臨し、雪見の歌を詠んだとされる。道真は天台座主・尊意より仏舎利を伝播し、常に襟にかけて護持されていた。初雪の日、仏舎利は大宰府より飛来しこの松の枝に掛かったという。以来、松は影向松と呼ばれた。
 かつて、松を拝して本殿に参拝していた。初雪の時、硯、筆、墨を供え初雪祭を行う。
 ②筋違いの本殿。楼門の北に地主神社への参道が延びている。地主神社は836年に鎮座した最も古い社になる。その後、947年に北野天満宮が祀られたため、天満宮の本殿は地主神社の正面を避け、楼門より西側に外して建てられたという。
 ③星欠けの三光門。三光門(中門)には日、月、星の彫刻があり三光門と呼ばれる。だが実際には日、月、三日月しかなく、星の彫りものは存在しないともいう。
 平安京の大内裏大極殿の北に北野天満宮が祀られた。天皇は門の真上に瞬くという北極星を拝していたため、門には星が刻まれなかったともいう。
 ④大黒天の燈籠。三光門の東南、参道の西側にある燈籠は江戸時代、1855年に河原町正面にあった質屋「大黒屋」を中心とした質商組合の寄進による。燈籠の台座に大黒天の浮き彫りがある。この大黒天の口か頬に小石を載せ、もしも落ちなければ、その石を財布に入れて祈るとお金に困らないという。
 ⑤立牛。拝殿欄間正面の牛の彫刻は、境内唯一の立つ牛の像(神牛)になっている。その理由は不明。
 ⑥裏の社。本殿の裏(北)にあり、菅原道真の祖先を祀る。祖先神・天穂日命(あめのほひのみこと)、祖父・菅原清公、父・菅原是善の三柱神(御后三柱)が祀られている。近代以前まで影向松に飛来したという仏舎利を祀っており、舎利門と呼ばれていた。かつて、参拝に際しては三柱神を含めて礼拝していた。
 ⑦天狗山。境内の乾、西北角にある小山をいう。かつてこの付近に天狗が出没したともいう。古くより牛を祀る祠があり、一願成就所として知られていた。現在は境内の南西に遷され牛社として祀られている。
◆月下氷人石 茶室「松向軒」邸内に「奇縁氷人石(月下氷人石)」といわれる石造角柱(1m)がある。頭部は欠損している。右側面に「たづぬる方」、左側面に「おしゆる方」、裏面には「文政五(1822年)壬午正月米市兵半」と刻まれている。
 かつて迷子を求める人が、この石に紙を貼ることで情報交換の場になっていた。
◆冤罪を晴らす神 平安時代後期、北野社は、冤罪を晴らす神としても崇敬された。
 鳥羽法皇(第74代)の女房は、衣を盗んだ罪により北野社に閉じ込められた。女房は「思ひいづやなき名たつ身はうかりきとあら人神になりし昔を」と詠み無実を訴えた。
 法皇の夢に天神が現れ、御厩の御馬に北面の者を乗せて馳せよと告げた。その通りにすると、待賢門院の雑仕が真犯人として捕らえられたという。(「古今著門集」)
◆乳牛院 平安時代、境内の右近馬場、現在の一の鳥居の西付近に、乳牛院(にゅうぎゅういん)が置かれ、一帯の牧場は、乳牛院の原と呼ばれたという。
 乳牛院は、平安時代に設置され典薬寮(てんやくりょう)に付属した。別当が総監し、乳師長上に統轄された品部(しなべ)の乳戸が、乳牛の飼育、牛乳の採取を行った。牛乳のほか、薬としての蘇・醍醐を天皇家に供給していた。飼料は丹後、丹波より、1日3升1合が進上されていた。
◆ホタル 境内西を流れる紙屋川周辺には、2008年頃より、ゲンジボタルが飛ぶようになった。昭和の初めには生息しており、その後見られなくなっていた。6月中旬に「ほたるの夕べ」が催されている。
◆名物 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、北野天満宮の縁日に決まって現れる老人がいた。名も名乗らず境内出店の者に小さな餅を5、6個売ると去る。薄い皮に餡を包んだ餅で、次第に評判をとる。ある時、一人の者が老人に尋ねると「河内屋長五郎」と名乗った。1587年、九州平定を終えた豊臣秀吉は北野天満宮で大茶会を催した。長五郎も茶屋を出し、秀吉に餅を献上すると大層気に入られた。秀吉が「長五郎餅」と命名したという。現在も「長五郎餅本舗」(上京区一条七本松西)が店を開いている。当宮の縁日などに境内の茶店に出されている。
 「粟餅所澤屋」(上京区北野天満宮前西入)は、江戸時代創業という。粟餅は、粟を蒸してつきあげたもので、こし餡か黄粉をまぶしている。
◆文学 渡辺淳一『化粧』では、梅花祭なども描かれている。
◆映画 監督・牧野省三により境内で映画撮影が行われた。2作目の時代劇映画「菅原伝授手習鑑」、3作目「小島孝徳誉の桜」であり、牧野の千本座の役者たちが出演した。牧野は、2作目撮影時に物が消えるトリック撮影を偶然に生み出した。
 時代劇映画「千姫御殿」(監督・三隅研次、1960年、大映)の撮影が行われた。
 時代劇映画「御法度」(監督・大島渚、1999年、松竹)では、夜道を新入隊士の美男剣士・加納惣三郎(松田龍平)と井上源三郎(坂上二郎)が小川亭に向かう場面が撮られた。
◆さざれ石 境内に「さざれ石」が祀られている。石灰岩の角礫の集合体になる。
◆梅 菅原道真は梅を愛で、北野天満宮と梅の関わりは深い。神紋も梅鉢になる。道真11歳の時に「月夜に梅花を見る」、大宰府下向に際して紅梅殿で詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひやこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」がある。以来、飛梅(とびうめ)伝承、室町時代には、渡唐(ととう)天神が生まれた。
 境内には2000本、50種の梅木が植えられている。
 梅は境内で取られ漬けられ、土用干しされた「大福梅」は、縁起物として元日の初茶に入れて飲むと一年間病にかからないという。平安時代、951年、第62代・村上天皇の病が平癒したことから、以後「王服」として伝えられるようになった。
◆松 北野天満宮は松との関わりも深い。神紋は松が三つ重なる「三蓋松(さんがいまつ)」になる。現在も境内には120本ほどの松が植えられている。かつて、表参道には松林(北野の松原)が続いていた。松原の復活のために、2014年より松の植樹が始まった。
 大宰府で菅原道真が亡くなった際に、自らの魂が鎮まる地とは、一夜にして千本の松が生える場所であると告げたという。
 北野天満宮の七不思議の史跡のひとつに数えられる影向松(ようごうのまつ)は、一ノ鳥居の近くに右手に植えられている。三冬(初冬-節分)の間の初雪の時に祭神・道真が降臨し、雪見の歌を詠んだとされる。道真は天台座主・尊意より仏舎利を伝播し、常に襟にかけて護持されていた。初雪の日、仏舎利は大宰府より飛来しこの松の枝に掛かったという。以来、松は影向松と呼ばれた。
◆北野祭 北野祭とは、豊年のための雷公祭であり、平安時代、987年、8月5日に官祭になる。本殿祭と神幸祭が一体になり行われていた。第70代・後冷泉天皇の時、1046年以来、8月4日に改められる。母・藤原嬉子の命日が5日だったためという。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後、神幸祭が途絶えた。
 近代、1875年以来、私祭として再興される。ただ、神幸祭は10月の瑞饋祭に行われ、例祭では本殿祭だけが斎行されている。
◆瑞饋祭 平安時代以来の五穀豊穣に感謝する瑞饋祭(ずいきまつり)(10月1日-5日)が催されている。芋茎(ずいき)祭とも呼ばれる。葱花輦形(そうかれんがた、現在は四方千木形)の屋根を瑞饋で葺き、新撰米、麦、豆、里芋の茎、そのほかの野菜、果物、乾物、人物花鳥部分には湯葉、麩、海苔などで飾った神輿を担ぐ。
 かつて、大宰府で没した道真の自刻という木像を京都に持ち帰り、安楽寺(一之保神社)に祀った。以後、秋に五穀豊穣を祈願し、穀物や野菜を台に盛り、北野社に献上した。また、9月9日に西ノ京の神人(じにん)は、野菜、穀物、草花などの供物を北野社に献じたことを始まりとするという。
 平安時代、永延(987-989)以降は、北野祭(8月5日)に供物を奉じた。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により中絶する。安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、1607年とも、現在みられるような神輿に野菜を飾る形になった。盛時には神輿が8基が出ていた。
 現在の祭りは、1日に神輿3基が神霊を遷されて御旅所(中京区西ノ京神輿ヶ岡町)へ渡御を行う。神輿は御旅所で4日にかけて飾りつけを行い、4基の神輿が並ぶ。八乙女田舞奉納が行われる。2日、献茶祭。3日、甲御供(かぶとのごく)奉納神撰が行われる。4日、鳳輦・神輿巡行では、3基の神輿が還幸し、瑞饋神輿がこれに続く。本社では奉射祭が行われる。5日の後宴祭に乙女田舞奉納が行われる。
◆梅花祭 梅花祭(2月25日)は、道真の命日に催される。隆盛の神饌に菜の花を挿して供えた。また、菜の花が咲いていない時には、代わりに梅の木を挿したともいう。平安時代、1109年にすでに行われたという。また、祭神を宥(なだ)めるため、「なだめ」に音の通じる菜種(なたね)の花を供え、「菜種御供」と呼ばれたともいう。近代以降、梅の花を用いるようになり「梅花御供」と呼ばれる。また、近世中期に菜種御供は失われたともいう。梅花御供が本来の形ともいう。
 現在の梅花御供は、土器に玄米で高盛し、梅の小枝を挿す。台に42個、33個を載せる。さらに蒸飯を供える。
 当日本殿の梅花祭神事では、神職は冠に名残の菜の花を付けて奉仕する。皇后御代拝(宮内庁京都事務所長)が参向、礼拝する。安土・桃山時代、1587年の豊臣秀吉が催した北野大茶湯に因み、1952年より「野点大茶会」が三光門前広場で催されている。梅花ほころぶ境内で、上七軒歌舞会協賛下、芸舞妓、女将による野点の奉仕がある。
◆樹木 オガタマノキ、クスノキ、クロマツ、御土居東風にケヤキの大木がある。伴友社にタチバナ、文子天満宮にトチノキ、ムクノキ、モミ、シダレエンジュがある。
 伴友社に左近の桜、右近の橘がある。本殿には左にウメ、右にクロマツが植えられている。
 社務所前にある桜は新品種の「北野桜」であり、開花時は白色で徐々に桃色になる。樹高8m、幹回2m、樹齢120年。
◆野生生物 ナガバヒョウタンゴケ(蘚類、準絶滅危惧種)がある。 2015年現在。
◆年間行事 歳旦祭(1月1日)、筆始祭・天満書(書き初め)(1月2日-4日)、奉納狂言(1月3日)、初天神(1月25日)、節分祭・追儺式(10時に節分祭、13時より北野追儺狂言、上七軒の芸舞妓による日本舞踊、豆撒き。)(2月立春前日)、梅苑公開(2月-3月)、梅花祭(道真の祥命日に行われる。白梅、紅梅の小枝を挿し、玄米を入れた筒状の紙立(こうだて)が供えられる。厄除玄米の授与がある。1952年より始まり、上七軒の芸舞妓が茶席の奉仕をする。)(2月25日)、祈願絵馬焼納祭(4月3日)、文子天満宮祭(4月中旬)、火之御子社例祭(雷除大祭)(6月1日)、御誕辰祭・大茅の輪くぐり(6月25日)、御手洗祭・七夕祭(7月7日)、例大祭・北野祭(8月4日)、瑞饋祭(平安時代以来という五穀豊穣に感謝する。芋茎祭ともいい里芋の茎、野菜、果物、乾物などで作った神輿を担ぐ。)(10月1日-5日)、余香祭(10月29日)、もみじ苑公開(11月-12月)、御茶壺奉献祭・口切式(11月26日)、献茶祭(12月1日)、楼門前に干支大絵馬の設置(三輪晃久作、120㎏。)(12月1日-翌年の1月末)、事始め(大福梅が授与される。正月祝い膳に初茶とともに飲むと一年間、無病息災に過ごすことができる。)(12月13日)、終い天神(12月25日)、大晦日行事(大祓、除夜祭、火之御子社讃火祭、火縄授与、終夜開門)(12月31日)。
 道真の誕生日は6月25日、命日は2月25日ということで、毎月25日に天神の縁日(「天神さん」)が開かれている。この日は宝物殿が特別公開されている。
 宝物殿開館(毎月25日、1月1日)。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京の古代社寺 京都の式内社と古代寺院』『京都・山城寺院神社大事典』『古都・京都 北野天満宮』『平安の都』『平安京散策』『京都大事典』『京都歴史案内』『京都の寺社505を歩く 上』『わかりやすい天神信仰 学問の神さま』『京都古社寺辞典』『足利義満と京都』 『寺社建築の鑑賞基礎知識』『秀吉の京をゆく』『国宝への旅 1』『京都大事典』『お参りしたい神社百社』『北嶺のひと 比叡山・千回峰行者 内海俊照』『京の石造美術めぐり』『秀吉の京をゆく』『新選組と幕末の京都』『京のキリシタン史跡を巡る 風は都から』『大学的京都ガイド こだわりの歩き方』『鳥居』『京都隠れた史跡100選』『京都まちかど遺産めぐり』『京に燃えたおんな』『女たちの京都』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『京都の映画80年の歩み』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京都絵になる風景』『京都ご利益徹底ガイド』『京のしあわせめぐり55』『京都歩きの愉しみ』『あなたの知らない京都の歴史』『京都の自然ふしぎ見聞録』『京都 神社と寺院の森』『茶のある暮し 四季の茶の湯 春』『週刊 日本の美をめぐる 18 利休・織部と茶のしつらえ』『週刊 京都を歩く 31 北野』『週刊 神社紀行 4 北野天満宮』『週刊 古社名刹巡拝の旅 40 梅桜の宮』


   文子天満宮旧跡・旧社地(北野天満宮御旅所)        一ノ保社(旧安楽寺天満宮)     威徳水・四ノ保社跡       五ノ保社跡(満願寺)       阿弥陀寺跡・六ノ保社跡      成願寺・長宝寺       東向観音寺(観音寺)           上七軒      浄土院(湯沢山茶くれん寺)      紙屋川・西堀川・御土居      文子天満宮       平野神社      紙屋川       勝林院      真如堂       一条戻橋       曼殊院       大雲院      常照皇寺          

絵馬堂、いまは休憩所としても使われている。

絵馬堂、大萬燈祭で奉納された絵馬が数多く掲げられている。これは江戸時代の算学、和算絵馬の一つ。 

絵馬堂、江戸時代の英一蝶(はなぶさ いっちょう、1652-1724)筆の絵馬「五条橋弁慶の図」



宝物殿



神楽殿 

文道会館

文道会館

社務所 

社務所 

明月舎

紅梅殿

御手洗(みたらし)川

御手洗川

庭園
神牛像

神牛像、撫で牛、牛を撫で体の悪いところを触るとよくなるという。


黒い石灰岩、土台は斑れい岩

黒石灰岩

砂岩

花崗岩

石灰岩


砂岩

砂岩

境内最古とされるのは牛社のものという。

中粒砂岩親子牛像は珍しいという。
史跡

道真の霊が降臨したという「影向(ようごうの松」、菅原道真が初雪の日に影向して歌を詠んだともいい、初雪の日に祭事を行う。

右近馬場は平安時代初期、807年に開かれたという。道真が好んだことから右近衛大将の由来により「右近衛府の馬場」「右近馬場」といわれた。かつては桜狩が行われる桜の名所としても知られていたという。謡曲「右近」がある。

右近馬場にある太閤井戸、北野大茶会ではこの井水が使われたという。

右近馬場にある北野大茶会湯之址の石碑、1979年に京都市茶業組合が建立した。

茶室「松向軒(しょうこうけん)」

松向軒には細川三斎が水を汲んだという井戸がある。

平安時代中期の武将・渡辺綱(わたなべのつな、953-1025)が寄進したという鎌倉時代後期の石灯篭(重要美術品)

江戸時代、1682年、第代・112代・霊元天皇の寄進による石燈籠

江戸時代、1823年、有栖川宮韶仁親王(ありすがわのみや つなひと しんのう)の寄進による石燈籠


織部石灯籠(切支丹灯籠) 戦国時代の茶人・古田織部(1544-1615)創案の灯籠。下部は十字架の形に似せてあり、最下部にマリア像が刻まれていることから、切支丹灯籠ともいわれている。一般的な織部灯籠と比較しキリシタンとの関係がより深いとみられている。江戸時代、1645年の銘があり、一時流出し、1881年に戻された。

三光門そばに立つ日月光の大灯籠

和魂漢才の碑、道真の唱えた和魂漢才とは、日本古来の国学と儒学精神を失わず、中国の学問、知識も学ぶべきであるという意味で 「菅家遺誡」にある。幕末期、近代以降に再評価された。

筆塚、八瀬真黒石

さざれ石、石灰岩角礫


連歌所の井戸、上は以前、下は現在の井戸

小倉百人一首 菅原道真の「このたびは幣も取りあへず手向山 紅葉のにしき神のまにまに」にちなむ楓という。
摂社・末社

末社・竈社(かまどしゃ)、祭神は庭津彦神(にわつひこのかみ)(庭<家庭>の守護神)、庭津姫神(にわつひめのかみ)(家庭の守護神)、火産霊神(ほむすぴのかみ)(火を司る神)の三神、竈、台所の守り神として、かつて天満宮御供所の竈に祀られていた。使われていた大釜は、社殿の床下に納められていると いう。これらの神を台所に祀ると、福を招くといわれている。祭礼日は6月17日。

末社・文子(あやこ)天満宮、祭神は菅原大神(菅原道真)、入試・学徳成就の信仰がある。
 平安時代、942年、右京七条二坊(下京区千本通り七条辺)の巫女・多治比文子(たじひのあやこ)に、道真の神霊が右近馬場に祀れとお告げした。文子は、自宅に御霊を祀り、その後、947年に現在地に遷された。文子の住居跡は、その後神殿となり、文子天満宮といわれた。後、西の京に遷され、近代、1873年に現在地に遷された。祭礼日は、神幸祭(4月第2木曜)、還幸祭(4月第3日曜)

車祓所


摂社・地主(じぬし)神社、祭神は天神地祇(てんじんちぎ)、相殿に敦実(あつみ)親王、斎世(ときよ)親王、源英明朝臣(みなもとのひであきらあそん)、招福、交通安全、所願成就。
 天満宮創建以前よりこの地に祀られていた北野の地主神であり、北野天神とも呼ばれた。北野で最も古い神になる。平安時代、836年、遣唐使のために天神地祇を祀ったという。(『続日本後紀』)、天神地祇は、日本国内60余国に祀られたすべての神で、相殿の三皇子は道真ゆかり。近代以前に存在した仏教施設・多宝塔の擬宝珠金具(豊臣秀頼の銘)がいまは金具として使われているという。社殿は豊臣秀頼寄進による。1877年に摂社となる。祭礼日は4月16日。

末社・老松社(おいまつしゃ)、祭神は島田忠臣(ただおき)、植林、林業の神。忠臣は道真の家臣とも、夫人の父ともいう。大宰府で道真が自らの無実を 神に訴えるために天拝山に登った際に、道真の笏(しゃく)を預かり、お供をしたという。後に、道真は忠臣に松の種を持たせ、当地に蒔くように託した。道真の神霊がこの地に降臨した際には、多数の松が一夜にして生えたという。

十二社、右より、寛恙社(*「恙」は竹冠に「心」の部分が「廾」)、大門社、橘逸勢社、藤大夫社(藤原吉子)、文大夫社(文室宮田麻呂)、淳仁天皇社、大宰少貮社(藤原広嗣)、老松社、白大夫社、櫻葉社(伊予親王、天照大神とも)、吉備大臣社、祟道天皇社

右より、福部社、高千穂社、安麻神社、御霊社、早鳥社、今雄社、貴布禰社、荒神社

末社・神明社(しんめいしゃ)、祭神は天照大神(あまてらすおおみのかみ)(国家平安、発展を司る最高神の女神)、豊受大神(とようけおおがみ)(食物と産業を司る神)、家内安全、家業発展。二神はそれぞれ、伊勢神宮の内宮と外宮に祀られている。高橋神社とも呼ばれ高橋氏の祖神という。延喜式内社という。かつて、御池通寺之内町下る神明町にあり、近世、現在地に遷された。

末社・文子社(あやこしゃ)、祭神は多治比文子(たじひのあやこ)、相殿に神良種(みわのよしお)(近江国比良の神主)、太郎丸(神良種の子)、最鎮(境内にあった朝日寺の僧)、4人は北野天満宮の創建者。

右より、夷社、松童社、八幡社、若松社

右より、那伊鎌社、一拳社、周枳社、宰相殿社、和泉殿社、三位殿社、大判事社

右より、野見宿祢(のみのすくね)神社、豊国(とよくに)神社、一夜松(いちやまつ)神社、野見宿祢神社。武芸、スポーツ上達。祭神の
 末社・一夜松社、祭神は一夜千松の霊、延命長寿の神。この付近に生えた松に宿る神霊という。道真のお告げでは、自らを祀る場所に、一夜にして千本の松が生じるというものだった。境内の松の木は、この一夜千松の名残りという。
 相殿の野見宿祢神社の野見宿祢は、道真の19代前の先祖だったという。出雲国に生まれ、相撲の祖とされる。第11代・垂仁天皇(B.C.69-A.D. 70)の御前試合において、最強の当麻蹶速(たいまのけはや)を破ったという。その後、朝廷に仕え、殉死に代え埴輪を墳墓に立てることを提言する。その功績により一族は土師氏(はじし)を名乗り、葬送関係の諸事を司ったという。
 相殿の豊国神社、祭神は豊臣秀吉、開運、立身出世の神、秀吉は北野天満宮への崇敬篤く、本殿の造営を遺命とした。船の宮ともいう。



末社・一之保(いちのほ)神社、祭神は菅原大神(菅原道真)、学業成就。かつて、西の京北町の安楽寺天満宮に祀られていた。近代、1873年に現在地に遷される。安楽寺とは、大宰府天満宮の起源とされ、道真の墓所になっていた。相殿の奇御魂(くしみたま)神社は、渡唐神社と呼ばれ、連歌所に祀られていた。



末社・奇御魂(くしみたま)神社、祭神は道真の神霊の奇御魂、文芸歌道上達の神。
 鎌倉時代中期、道真の神霊は、東福寺開祖・円爾国師の前に現れ、宋に飛 び、一日にして禅の奥義を習得したと告げたという。道真が唐衣をまとい、手には一輪の梅の木を持っていたため、以来、「渡唐(宋)天神(ととうてんじ ん)」と呼んだ。かつて、天満宮で催されていた法楽連歌は、この天神の肖像前で行われていたため、道真は歌道、文芸上達の守護神となった。

末社・稲荷神社、祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、猿田彦命(さるたひこのかみ)、大宮女命(おおみやのめのかみ)、五穀豊穣、商売繁盛、火難除け。かつてこの付近での大火の際に、社前で火の手が止まったことから、以後「火除け稲荷」と呼ばれた。

絵馬掛所、合格学業成就の絵馬が数多い。

末社・宗像社(むなかたしゃ)、祭神は田心媛神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(あざつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)、交通、海上運 輸安全。三神は、玄界灘の陸地と沖合の二島に祀られていた「宗像の三女神」で、海上交通の要衝地にあり、道を司る最高神として崇められてきた。当社西にはかつて池があり、三神はその水底に祀られており、その後現在地に遷されたという。

摂社・白太夫社(しろだゆうしゃ)、祭神は渡会春彦(わたらい はるひこ)、子授けの神、例祭日は1月9日。文章博士・菅原是善は、世継ぎの誕生を伊勢神宮神官の渡会に託し、豊受大神宮に祈願し、道真が生まれた。渡会は、数十年に渡り道真に仕えた。渡会は若い頃より白髪で、白太夫(しらたゆう)と呼ばれていた。

摂社・火之御子社(ひのみこしや)、祭神は火雷神(からいしん)、雷除け、五穀豊穣の神、祭礼日は6月1日。火雷神(北野雷公)は、北野天満宮の創建以前よりこの地に祀られていたという。雷電、火難、豊作の守護神として崇敬を集め、奈良時代、880年頃、太政大臣・藤原基経は、五穀豊穣祈願のために祀ったという。現在は、当社前で6月1日の午前4時より、火鑚式(ひきりしき)が行われている。斎火(いみび)に点じ、雷除守礼に祈願を込め、午前5時より参拝者に守り札が授与される。平安時代、雷神に雨を祈念し、五穀豊穣を祈願した。また、併せて雷害除けも祈願していた。

摂社・福部社、祭神は、十川能福(そどうのうふく)、開運招福の神、祭礼日は3月12日。舎人(とねり)の十川は道真の牛車を引く牛の世話役だった。その名より、福の神とされ、金運、開運招福を司る神となった。節分には祭神を題材にした、茂山千五郎社中により追儺狂言「福の神」が奉納されている。参詣者 に悪事を働く鬼を福の神が退治する筋立てとなっている。

摂社・老松社(おいまつしゃ)、祭神は田忠臣(ただおき)、植林、林業の神。祭礼日は3月12日。忠臣は、道真の家臣とも、夫人の父ともいう。大宰府で道真が、自らの無実を神に訴えるために天拝山に登った際に、道真の笏(しゃく)を預かり、お供をしたという。後に、道真は忠臣に松の種を持たせ、当地に蒔くように託した。道真の神霊がこの地に降臨した際には、多数の松が一夜にして生えたという。

末社・伴氏社(ともうじしゃ)、祭神は菅原道真の母の廟、子どもの成長と学業成就の守護。例祭日は1月14日。母が氏族の伴氏(ともうじ)だったことからこの名がある。ちなみに道真は土師氏子孫。かつては、石造りの五輪塔も置かれていた。近代、神仏分離令(1868)後の廃仏毀釈により、東向観音寺に移された。
 石鳥居は鎌倉時代の作、国の重要美術品に指定されている。京都三珍鳥居の一つ(ほかに御所の厳島神社の唐破風鳥居、木嶋坐天照御魂社)。高さ3m。

牛社

牛社

牛社
 
七不思議

影向松(ようごうのまつ)
①影向松(ようごうのまつ)。一ノ鳥居の右手の松は、三冬(初冬-節分)の間の初雪の時に祭神・菅原道真が降臨し、雪見の歌を詠んだとされる。道真は天台座主・尊意より仏舎利を伝播し、常に襟にかけて護持されていた。初雪の日、仏舎利は大宰府より飛来しこの松の枝に掛かったという。以来、松は影向松と呼ばれた。
 かつて、松を拝して本殿に参拝していた。初雪の時、硯、筆、墨を供え初雪祭を行う。

左が本殿、奥に地主神社があり、参道が迂回している。


地主神社

②筋違いの本殿。楼門の北に地主神社への参道が延びている。地主神社は836年に鎮座した最も古い社になる。その後、947年に北野天満宮が祀られたため、天満宮の本殿は地主神社の正面を避け、楼門より西側に外して建てられたという。



三光門(中門)の彫刻、上より日、月、三日月
③星欠けの三光門。三光門(中門)には日、月、星の彫刻があり三光門と呼ばれる。だが実際には日、月、三日月しかなく、星の彫りものは存在しないともいう。
 平安京の大内裏大極殿の北に北野天満宮が祀られた。天皇は門の真上に瞬くという北極星を拝していたため、門には星が刻まれなかったともいう。


大黒天の燈籠
④大黒天の燈籠。三光門の東南、参道の西側にある燈籠は江戸時代、1855年に河原町正面にあった質屋「大黒屋」を中心とした質商組合の寄進による。燈籠の台座に大黒天の浮き彫りがある。この大黒天の口か頬に小石を載せ、もしも落ちなければ、その石を財布に入れて祈るとお金に困らないという。かつては、砂を載せて商売の吉凶を占ったという。花崗岩。

拝殿の立牛の彫り物
⑤立牛。拝殿欄間正面の牛の彫刻は、境内唯一の立つ牛の像(神牛)になっている。その理由は不明。

裏の社
⑥裏の社。本殿の裏(北)にあり、菅原道真の祖先を祀る。祖先神・天穂日命(あめのほひのみこと)、祖父・菅原清公、父・菅原是善の三柱神(御后三柱)が祀られている。近代以前まで影向松に飛来したという仏舎利を祀っており、舎利門と呼ばれていた。かつて、参拝に際しては三柱神を含めて礼拝していた。

天狗山
⑦天狗山。境内の乾、西北角にある小山をいう。かつてこの付近に天狗が出没したともいう。古くより牛を祀る祠があり、一願成就所として知られていた。現在は境内の南西に遷され牛社として祀られている。



牛社


梅花

お土居にある梅


お土居、紙屋川

紙屋川


土用干しされる梅(7月22日)、正月前に授与する縁起物「大福梅(おおふくうめ)」の土用干しは、大暑から行われる。6月に収穫され、塩漬けされた約3tの梅は、2-3週間かけて天日干す。梅は元日の朝、白湯に入れて飲むと無病息災に過ごせるとされている。 正月の縁起物として、12月13日の事始めから授与される。

梅干し

瑞饋(ずいき)祭(10月1-4日)は、五穀豊穣の秋の祭礼であり、平安時代に始まるとも、室町時代に始まるともいう。現在の形となったのは安土・桃山時代から江戸時代、慶長年間(1596-1615)という。
 ずいき神輿は屋根を里芋の茎で葺き、野菜や穀物、湯葉・麩などの乾物類、金盞花などによって装飾されたためこの名称となった。かつては、北野祭(例祭)のお供えの野菜を、神輿に作り飾りつけたことに始まるという。ずいき御輿2基は、祭礼期間中は御旅所に供えられる。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後途絶えていた神幸祭は、明治期以降再興され、ずいき祭に取り入れられた。10月1日に本社からの御旅所(西ノ京御輿岡)へ3基の鳳輦と松鉾など150人が渡御、3日間駐輦の後、4日に牛に曳かれた御羽車も加わり本社に還幸する。この還幸祭(おいでまつ り)は、天神が本社に還るとともに、道真の御霊が神として初めて北野へ鎮座した由来が再現されている。

梅花祭(2月25日)

長五郎餅

終い天神(12月25日)は、天神さんの最後であり、京都の行事の締めくくりで、師走の恒例神事として多くの参拝者で娠わう。

【参照】北野天満宮の東にある和菓子店「天神堂」。「やきもち」が知られている。

お土居(左の堤部分)紙屋川

【参照】お土居遺構(神明町)、境内の北の住宅地にある。

境内の西、紙谷川沿いにあるお土居に空けられた排水溝跡「悪水抜石伏樋」、お土居の中で唯一の排水溝遺構とされている。土塁の下に開けられ、土塁内に溜まった水を紙屋川へ落していた。境内社殿への、お土居内の水による浸食を防ぐための工夫とみられている。

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平安京オーバレイマップ
map 北野天満宮 〒602-8386 京都市上京区馬喰町御前通今小路上ル  075-461-0005  開門夏季5:00-18:00 冬季5:30-17:30 社務所9:00-17:00
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