御土居の袖 (京都市中京区)
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御土居の袖 御土居の袖
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北野中学校付近、「御土居の袖」の北西端、校内には御土居遺構がある。






威徳水跡、「御土居の袖」内の北辺になる。現在は湧水していない。



円町児童公園、段差が残り、この部分が「御土居の袖」の土塁遺構とみられている。



佐井通(春日通)沿い、道路面より一定の高さで嵩高くなっており土塁遺構とみられる。


眞徳寺、土台の石垣部分が土塁遺構とみられている。


眞徳寺の南北方向の石垣、この付近より南下してきた御土居は東進し始める。




北野中学校、御土居は敷地北西角付近、プール(水色の枠)の下、OpenStreetMap Japan


【参照】円町の地名板


【参照】弘誓寺


弘誓寺
 円町付近には、豊臣秀吉が築造した御土居が、西側に凸状に張り出している部分がある。「御土居の袖(おどい-の-そで)」といわれている。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1592年、豊臣秀吉は、京都の町を取り囲む土塁「御土居(おどい)」を、わすが数カ月の短期間で築造した。総延長は22.5kmになる。
豊臣 秀吉 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・豊臣 秀吉(とよとみ-ひでよし、1537-1598)。男性。幼名は日吉丸、初名は木下藤吉郎。小猿と呼ばれた。父・尾張国(愛知県)の百姓、織田信秀の足軽・木下弥右衛門、母・百姓の娘・なか(天瑞院)。1551年、家出し、後に今川氏の家臣・松下之綱、1554年、織田信長に仕える。1561年、浅野長勝の養女・ねねと結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗った。戦功を重ね、1573年、小谷城主、羽柴姓と筑前守、信長の天下統一にともない西国転戦した。1582年、備中高松城の毛利軍と戦いの最中に本能寺の変が起こり和睦した。軍を返し山崎で明智光秀を討つ。1584年、小牧・長久手で織田信雄、徳川家康の連合軍に敗れる。1585年、紀州根来と雑賀、四国・長宗我部元親を服した。関白に進む。1586年、聚楽第、広寺大仏造営に着手し、太政大臣に昇り豊臣の姓を賜わる。1587年、九州征討、聚楽第が完成する。旧10月、北野天満宮で北野大茶湯を催した。1588年、第107代・後陽成天皇が聚楽第を行幸する。検地、刀狩を行う。1590年、小田原の北条氏直らの征討、朝鮮使を聚楽第に引見した。1591年、利休を自刃させる。1592年、文禄の役を始めた。甥の養子・秀次に関白職を譲り、太閤と称した。1593年、側室淀殿に秀頼が生まれると、1595年、秀次を謀反人として切腹させ、妻妾子女らも処刑した。1597年-1598年、朝鮮を攻めた慶長の役に敗れた。1598年、旧3月、醍醐寺で「醍醐の花見」を行う。旧8月、伏見城で没した。62歳。 
 「普請狂」と称された。京都で「都市改造」を行う。1585年-1591年、洛中検地・洛中地子免除(1591)、1586年よりの方広寺大仏建設、1586年-1587年、聚楽第・周辺の武家邸宅街建設、1589年、禁裏・公家町の修造整備、1590年、新町割建設(短冊形町割)、1590年、三条大橋などの橋梁・道路建設、1591年、御土居築造、寺院街(寺町・寺之内)建設、1595年、方広寺大仏、1597年、伏見城を建てた。ほか、関所廃止、楽市・楽座制、重要都市・鉱山直轄、貨幣鋳造、太閤検地・刀狩、伏見の城下町化、宇治川の整備、倭寇取締、朱印貿易などを進めた。没後、豊国廟に豊国大明神として祀られた。
◆御土居の袖 御土居の西側、中央付近、現在の丸太通を挟む南北の土塁の一部は、西側に張り出す形になっていた。この部分は、聚楽第の西に位置しており、「御土居の袖(そで)」といわれた。
 紙屋川の西に沿い、南下してきた御土居は、やがて川より離れる。現在の北野中学校の北側の延長線上より西進し、西に大きく張り出していた。南北の佐井通(春日通)に当り、通りに沿う形で再び南下し、丸太町通を越えた。さらに南の眞徳寺を経て、朱八会館付近より向きを変え東進した。西大路通を越え、西土居通に戻り南下していた。
 袖の張り出した理由については諸説ある。
 1.虎口(こぐち、城郭などの最も要所にある出入り口)として、敵の侵入に対し、鉄砲、槍での防御を可能にするため設けられた。
 2.名水「威徳水(いとくすい)」「堀の水」などの、良質で豊富な地下水脈を御土居内に取り込むために行われた。(今井松太郎、1965年)
 3.紙屋川の治水・開発に伴うものともいう。
 4.付近の街道筋の町並・寺などを取り込むためのものともいう。(大塚隆、1979年)
 5.西大路通の東にある西之京の弘誓寺(ぐぜい-じ)(西弘誓寺、中京区西ノ京中保町1)を御土居内に取り込むために設けられたともいう。(森谷久・横井清、1967年)
 浄土宗の西弘誓寺は、安土・桃山時代、1586年に秀吉により建材を寄進されたという。また、東弘誓寺(上京区長門町419-2)の開祖・潤屋玄富(?-1632?)は、秀吉の信を得ていた。玄富は、五百羅漢の安置場所を秀吉に請い、秀吉は京都所司代・前田玄以に命じ土地を贈り、後に西弘誓寺(開祖・玄富/郷貫?)を創建したともいう。
 6.袖の南半分、円町付近(左京一条二坊十四町、西ノ京北円町付近)にかつて西獄(右獄)があり、その敷地を回避したためともいう。
 7.江戸時代に御土居堀の付け替えが行われたともいう。(石田孝喜、1978年・1990年)。袖も、江戸時代に新たに付け替えられた可能性があるともいう。(中村武生)
◆北野中学校の御土居 「御土居の袖」の北西角、北野中学校(中京区西ノ京中保町1-4)内に御土居の一部が残されている。グラウンドの北側、東西方向にある。国史跡以外で、土塁遺構が良好な状態で残されているのは、北野中学校内と大宮交通公園(北区紫竹北栗栖町3)内の2カ所しかない。
 以前には、京都第二商業学校があった。当時は、敷地の北側と西側に屈曲した連続する土塁が残されていた。移転時に西側の南北方向の土塁は、整地のために消滅した。土塁の北側(外側、現・プールの地点)には堀があった。土塁の規模は基底部幅10m、高さ4m、長さ60mになる。
 現代、1987年に土塁東側で校舎建て替えに伴い、京都市埋蔵文化研究所による発掘調査が行われている。土塁の地下遺構は消失していた。「V」字状の溝(幅1m、深さ0.5m)が見つかっている。御土居築造時の工事基準の溝とも、江戸時代のものともいう。
◆御土居 室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)後、高倉より東、松原以南は、相次ぐ鴨川の氾濫により荒地になった。
 安土・桃山時代、1591年に、豊臣秀吉(1536-1598)は京都の再興・改造を手がける。細川幽斉(1534-1610)、前田玄以(1539-1602)などに命じ、洛中の周囲をめぐらせる堤防・惣構施設の「御土居」の築造させた。諸国大名らにより同年1月に着工になり、旧閏1月に2カ月で完成したという。(近衛信尹『三藐院記[さんみゃくいんき]』)。また、2-4カ月/5カ月の突貫工事で完成させたともいう。
 御土居は、北は上賀茂・鷹ヶ峰、西は紙屋川(天神川)・東寺の西辺、南は東寺南の九条通、東は鴨川西岸の河原町通まで築かれた。当時存在していた聚楽第、京都御所も土塁内側に取り囲んでいる。規模は、東西3.5km、南北8.5km、総延長は22.5kmにもなった。
 御土居は、当初「土居堀」と呼ばれた。ほかに「京廻りノ堤」、「新堤」、「惣曲輪(そうぐるわ)」、「土居」などとも呼ばれ、江戸時代には「御土居」と称されるようになる。
 御土居の構造は外側に堀(濠)、内側に台形状の土塁を築いた。工法は「掻揚城(かきあげしろ)」が採られ、掘った堀の土を積み上げて土塁を築き、積石・石垣で地盤を固めた。墓石・地蔵なども「礎石」として使われている。なお、当時の構築物では一般的なことだった。掻揚だけでは、土塁を築く土量が不足したとの見方もある。
 土塁規模は一定しておらず、高さ3.6-5.4/6m、基底部幅10-20m、頂上部幅4-8m、犬走り1.5-3mあった。土塁頂上は、盛土の保護・強度を増すために竹林が植えられ覆われていた。このため、竹薮の伐採は厳禁された。土塁の外には、堀(幅3.6-18m/12.5-20m、深さ1.5-2.5m)が設けられていた。堀は河川・池・沼などの自然地形も利用して築造されている。堀には水が溜められ、江戸時代には、農業用水としても利用されている。 
 御土居には「京の七口」と呼ばれる出入口が開けられ、主要な街道に通じていた。出入口は特定されず、当初は10カ所あり、江戸時代前期には40カ所にも増えたという。
 「普請太閤」といわれた秀吉の御土居築造の意図は、複合的なものとされる。一般的には、鴨川・紙谷川(天神川)などの氾濫に対する水害対策・防災的な堤防の意図が強かった。さらに、外敵に備える防塁の意味も加わる。平安京以来、京都は九条大路の南以外には羅城は築かれていなかった。御土居により初めて、本格的な城塞により囲まれることになる。
 御土居築造により、都の開発は鴨川の間際まで進んだ。また、聚楽第・御所を取り込むように構築されたため、「洛中」・「洛外」の区分を生み洛中範囲の確定に繋がった。軍事的な城壁の役割、権勢誇示という政治的な意味合いもあった。それまでの権力支配(朝廷・公家・寺社)から町衆を分断させ、聚楽第を中心にした新都市の再編・支配が強行されたともいう。1591年の御土居築造が、1592年の文禄の役の前年にあたり、秀吉の朝鮮・明攻略を前提とした首都防衛機能の一環だったともいう。なお、築造に際して、小田原城の城下を模したとする見方もある。
 御土居築造に先立ち、新たに「町割(天正町割)」も行われた。1590年に寺院に対し「寺割」が実施される。それまで散在していた寺院を強制移転させ、新たに寺町、寺之内、本願寺などの寺院町を形成させた。これにより、防御・防災、税徴収の効率化、寺院と民衆の結びつきの分断の意味もあったという。
 平安京以来の条坊制は、東西南北一町四方(正方形)の区画を基本としていた。これでは、中心部に無駄な空地が生じる。秀吉は一部を除き、これを半町一町の短冊型(長方形)の区割りに再編する。半町毎に、新たな南北の道路(小路)を設けた。この新しい町割により、町家数・人口増加をもたらし、検地の効率も高められた。
 御土居の保全は、京都所司代の命により、近郊の農民が駆り出されていた。江戸時代前期、1669年以降は、角倉了以の子・角倉与一(1571-1632)が「土居薮之支配(奉行)」に任じられ、管理権を与えられている。この頃、御土居に繁茂した竹(土居薮)を民間に払い下げている。竹は資材として利用された。
 御土居築造から40年ほどで、都の開発が御土居を越えて進行する。鴨川には新たな堤防が築かれ、東側の開発が進み土塁は取り壊された。御土居のうち堤防の役割を果たしていたものを除き、大部分は次第に撤去され、屋敷用地・道路などに転用される。なお、江戸時代中期、元禄期(1688-1704)までは、堀はまだ水堀としては機能していた。その後、築造後100年を経て堀は埋没し、周辺住民の生活廃材の捨て場になった。このため、後の発掘調査により土器・陶磁器、瓦、金属製品、石加工品、木製品などが多数出土している。
 近代以降、1870年の京都府の「悉皆開拓」令により、府は土地の払い下げを通達している。以来、御土居の破壊が急速に進行する。「お土居薮地」は、田圃、畑、桑畑、茶畑などに開墾することが奨励された。1945年の第二次大戦後は、土塁遺構の大部分は消失し、現在はごく一部のみが保存されている。
◆国史跡 近代、1919年の史蹟名勝天然祈念物保存法、1930年には御土居8カ所が国史跡指定地になった。
 その後、現代、1965年に北野天満宮境内の1カ所が追加され、現在、9カ所が指定地になっている。1.平野(北区平野鳥居前町)、2.紫野(北区紫野西土居町)、3.鷹ヶ峯(北区鷹ヶ峯旧土居町)、4.鷹ヶ峯(北区鷹ヶ峯旧土居町)、5.大宮(北区大宮土居町)、6.紫竹(北区紫竹上長目町・上堀川町)、7.蘆山寺(上京区来之辺町)、8.西ノ京(中京区西ノ京原町)、9.北野天満宮(上京区馬喰町)になる。
 史跡指定地のほかにも、大宮交通公園(北区紫竹北栗栖町3)、北野中学校(中京区西ノ京中保町1-4)を含む4カ所で土塁遺構が見られる。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*便宜的に御土居通称を使用しています。
*参考文献・資料 『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』、『御土居堀ものがたり』、『京都まちかど遺産めぐり』、『洛中洛外』、『秀吉の京をゆく』、『京都の地名検証 2』、『京都の地名検証 3』、『京都大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都・観光文化 時代MAP』、『豊臣秀吉事典』、『御土居跡』、延命地蔵大菩薩の駒札、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、ウェブサイト「御土居跡-京都市」、ウェブサイト「コトバンク」、 OpenStreetMap Japan


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御土居の袖 京都市中京区西ノ京付近
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