成就院 〔清水寺〕 (京都市東山区) 
Joju-in Temple
成就院 成就院
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「池きよみ宿れる月を見るなへに心の底も澄みまさるらむ」月照


【参照】成就院の南にある「勤皇聖僧 月照、信海両上人遺蹟」、月照歌碑(中央)、西郷隆盛詩碑(右)、信海の歌碑。
 月照辞世「大君の為には何か惜しからん 薩摩の迫門(せと)に身は沈むとも」(中央)、信海辞世「西の海あずまのそらとかわれども こころはおなじ君が代のため」(右)、西郷隆盛碑「相約して淵に投ず 後先なし あに図らんや 波上再生の縁 頭を回らせば 十有余年は夢 空しく幽明を隔てて墓前に哭す」(左)月照17回忌。
 また、脇に月照を薩摩へ案内した平野国臣の詩碑「西海波間記」が立つ。



【参照】詩碑・句碑のすぐ東に立てられている「近藤正慎之碑」。


【参照】詩碑・句碑のすぐ東にある忠僕重助碑、大槻重助の顕彰碑。



【参照】境内南の清水寺墓地内にある月照(右)、信海の墓


【参照】大西良慶大和上の墓


【参照】両上人の東に隣接してある大月重助 (「誠光院忠岳義道居士」)(右)と妻・いさの墓


【参照】清水寺境内南の参道にある「舌切茶屋」
 075-551-3787


【参照】清水寺参道に店を開く「忠僕茶屋」
 075-551-4560
 清水寺境内の北東に塔頭の本房・成就院(じょうじゅいん)はある。  
 北法相宗本山、本尊は十一面千手観音。
◆歴史年表 平安時代、807年、創建されたという。当初は本願寺と称した。かつては清水寺の勧進坊だった。
 また、室町時代、1484年、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した清水寺を復興した願阿により創建されたともいう。その宿坊(願坊、願所)となり、以後、後継者は清水寺の本願職を引き継いだ。その後、成就院と名付けられ清水寺塔頭の一つになる。
 室町時代、1510年、第104代・後柏原天皇の勅願寺となる。
 江戸時代、1629年、成就院より出火し、清水寺伽藍の大半も類焼する。
 その後、東福門院(1607-1678)の命により再建された。
 1639年、書院が再建されている。
 1774年より約10年にわたり、成就院住持を巡り、清水寺と成就院は対立した。
 1819年、第23世・蔵海が住持に就く。
 1835年、第24世・月照が住職となる。
 1854年、第25世・信海が住持となる。
◆本尊 庭園の西、音羽山の持仏堂には、本尊の十一面千手観音観世音菩薩、不動明王を安置する。歴代住職を祀る。
 書院仏間には、月照と、その弟・信海上人坐像が祀られている。
◆願阿 室町時代の時宗の僧・願阿(がんあ、?-1486)。願阿弥。越中国に生まれた。時宗の勧進聖となり、流出した五条大橋の架け替え、南禅寺仏殿の再興も行う。1459年、長谷寺の本尊開帳に際して、勅許の綸旨を興福寺へ持参した。1460年-1461年、8万人の餓死者が出た寛正の大飢饉では、8代将軍・足利義政は、願阿に飢民への施食を命じ、100貫文を与えた。願阿自らも勧進し、六角堂の南に小屋を建て、飢民に粟粥を施した。だが、飢民の数が多く、資金難から1カ月程で中止した。願阿は興福寺により清水寺の勧進僧の役を与えられる。応仁・文明の乱(1467-1477)後、諸国を勧進し、1478年、清水寺の鐘を鋳造、1479年、清水寺本願職に補任された。1481年、奈良・元興寺極楽坊曼荼羅堂の千部経勧進を行い供養する。1482年、清水寺本堂を上棟している。その後、その功により「成就院願阿」と呼ばれた。五条橋中島の堂で亡くなったともいう。
◆東福門院 江戸時代前期の第108代・後水尾天皇の中宮・東福門院(とうふくもんいん、1607-1678)。2代将軍・徳川秀忠の3女として江戸に生まれた。1620年、入内、1624年、中宮となる。後水尾天皇の譲位に伴い、第110代・後光明、第111代・後西、第112代・霊元と3代の天皇の養母となる。
◆月照 江戸時代末期の僧・月照(げっしょう、1813-1858)。大坂の町医師・玉井宗江の子に生まれた。1827年、清水寺成就院の叔父・蔵海に学ぶ。中将房忍凱と称した。1835年、15歳で第24世住持となる。清水寺に真言密教子島流を再興した。寺の改革、復興のための資金回収が成功せず、北越へ出奔、1854年、境外隠居の処分の身となる。清水寺が近衛家の祈願寺であり、近衛家と島津家とが姻戚関係にあったことから、薩摩、さらに尊攘派の朝彦親王(法名・尊融法親王)との関係が深まった。また、1854年、和歌で師事した左大臣・近衛忠煕の影響により攘夷に近づく。
 1858年、薩摩藩の政治家・軍人の西郷隆盛、薩摩藩士で政治家の海江田信義らの倒幕の挙兵に加わる。だが、幕府の捕史の手が伸び、京都から逃れ鹿児島へ向った。薩摩藩は、幕府の責任追及を回避するため、2人を東目(日向)へ追放する。後ろ盾だった斉彬も失い、前途を悲観した西郷と月照は入水し、月照のみが死亡した。
 和歌を嗜んだ。辞世の句「大君の為には 何か惜 しからむ  薩摩の迫門に 身は沈むとも」。
 境内に、句碑、墓がある。命日の11月16日に「落葉忌」法要が営まれている。
◆信海 江戸時代末期の僧・信海(1820-1859)。月照の弟。蔵海に師事、高野山万勝寺、兄に続き、1853年、第25世・成就院住職・清水寺正官となる。近衛忠煕に歌道入門し勤王僧となる。尊皇攘夷の祈祷をしたとして安政大獄(1858-1859)により投獄され、江戸で獄中死した。
◆尊融法親王
 江戸時代末期-近代の尊融法親王(1824-1891)。伏見の宮邦家親王第4皇子、朝彦親王、尊応親王と称した。8歳で本能寺に入り、興福寺一乗院門跡、興福寺別当になる。1582年、青蓮院門跡となり、尊融と称した。攘夷派の親王として「今大塔宮」といわれたが、1858年から翌年にかけた安政の大獄で相國寺で謹慎となる。天台座主剥奪、青蓮院退隠、還俗し、粟田宮・中川宮などと称した。西郷隆盛、月照と親交があった。公武合体派として、1863年、八・一八政変の中心となり、近代以降は久邇宮と改称し、晩年は伊勢神宮祭主となった。
◆近衛忠煕 江戸時代末期の公家・近衛忠煕(このえ ただひろ、1808-1898)。近衛基前の子。妻興子は薩摩藩主島津斉興の養女。公家(摂家)、孝明天皇の信を得た。1857年、左大臣、1858年、条約勅許問題を巡り関白九条尚忠と対立。江戸幕藩体制を批判する「戊午(ぼご)の密勅」降下を推進した。安政の大獄(1858-1859)により辞官、落飾、謹慎となり1862年、赦免され、関白・内覧、国事御用掛も兼任した。1863年、尊攘派に忌避され関白・内覧を辞した。
◆大西良慶 近現代の清水寺貫主・大西良慶(1875-1983)。奈良県に生まれた。1889年奈良の興福寺に入る。1899年、興福寺231世となり、1904年、法相宗の管長に就任する。1914年、清水寺住職(興福寺兼務)となる。1952年、京都仏教徒会議を結成する。1965年、清水寺を本山とした北法相宗を設立し、清水寺初代管長に就く。成就院に住した。
◆近藤正慎  江戸時代末の尊攘運動家・近藤正慎(義重、1816-1858)。丹波に生まれる。成就院で出家した。住持月照と活動をともにする。安政の大獄に連座し投獄され、師を守り獄中で自害した。青龍寺に墓がある。 
◆大槻重助 江戸時代末の下僕・大槻重助(1838-1893)。丹波国何鹿郡綾部村字高津の農家の生まれ。5、6歳で、旅僧より観音像の入った御守をもらう。村に養生に訪れていた成就院門番がこれを聞きつけ、観音像を見せてもらうと平癒したため、成就院に連れ、以後、月照の下僕として仕えた。安政の大獄(1858-1859)の際、1858年、都落ちした月照、西郷隆盛らを3カ月かけて薩摩へ送る。月照らの入水事件では、平野国家臣と二人を助けたが、月照は亡くなる。重助は、京都へ戻ろうとして幕府追手に捕えられ、六角獄舎に投獄された。月照の安否について拷問を受けたが口を割らなかった。1859年、釈放され、故郷に戻る。妻・いさの姉の縁切れ金をもとに、清水寺境内で妻とともに茶店を開く、だが、「謀反人」として商いは困難を重ねた。後に屋号は「忠僕茶屋」と改められる。1877年、京都府より感謝状を贈られている。
  境内に忠僕重助碑、大槻重助の顕彰碑が立つ。没後の1899年に建立された。揮毫は西郷従道による。
◆建築 現在の建物は、江戸時代、1639年の再建による。
 境内南にある北総門は、かつて成就院の正門であったという。
 持仏堂(護摩堂)は、江戸時代の東福門院(徳川和子、1607-1678)の寄進による。
◆仏像・木像 本尊十一面千手観世音菩薩、近代作の月照上人坐像、信海上人坐像を安置する。
◆文化財 月照筆「大日如来図」。
◆庭園 書院北の借景式池泉鑑賞式庭園(国の名勝)は、1500㎡の広さがある。「雪月花の洛中三名園」という三つの成就院のひとつ、「月の庭」として知られていた。ただ、庭は北向きであるため、月を見ることはできない。池に映る月を愛でていた。ほかには、北野か祇園にあったという成就院(廃寺)の「花の庭」、妙満寺(移転)の成就院「雪の庭」があった。
 作庭は室町時代の相阿弥(?-1525)、さらに江戸時代の作庭家・茶人の小堀遠州(1579-1647)が手を加えたと伝えられる。(江戸時代、『都林泉名勝図会』)。江戸時代の国学者・歌人の松永貞徳(1571-1654)作ともいう。
 庭の北に借景となる清水山(高台寺山、興正寺山)が見える。この山も自然の築山とし、間の谷筋、湯屋谷(ゆやだに)との庭境に作られた生垣は、低く直線的に刈り込まれている。また、庭の東の音羽山の急斜面も借景として活かされ、四角や円形の低く抑えられた刈込が見られる。開口部の刈り込みは高く、斜面の下は低く抑えて刈り込まれている。 
 池泉は奥(北西方向)にいくほど三角形状に狭められ、遠近法により池面をより広く見せている。池には、山からの湧き水が引き入れられている。二つの中島があり、板橋、石橋が架けられている。右の中島には右端に「陽」となる烏帽子石(合掌岩、男根とも)、左端に鎌倉時代作の火袋が小さな蜻蛉灯籠が据えられている。その左手の小島には、「陰」となる籬島石(まがきいし、鸚鵡石、言葉石、女陰とも)が島全体に立てられている。石は四角く、須磨の浦産という。二つの石は陰陽石とされる。左端に鶴出島がある。
 中島の蜻蛉灯籠に、夜間に火が灯されると、火袋から漏れた明りは、かげろうの様に池面に映るという。灯籠の北西、湯屋谷を越えて山の中腹に、さらにもう一基の灯籠(高台寺山の灯籠)が据えられている。書院縁の東から見ると、この二つの灯籠が線上に結ばれる。これは、二基の灯籠による遠近法を用いて、庭が借景を取り込むための工夫という。双方を一体的に見せることで、庭に無限の広がりを持たせる趣向という。
 庭石、縁先左に、着物の振袖に似た豊臣秀吉寄進という誰ヶ袖(たがそで)型(振袖型)の手水鉢が置かれている。『古今和歌集』には次の歌がある。「色よりも香こそあはれと思ほゆれ誰が袖ふれし宿の梅ぞも(この花は色よりも香りのほうがいっそうすばらしいと思われる。いったいだれが袖を触れ、その移り香を残した庭の梅であろう。)」。また、匂い袋に似ているともいう。石は瀬戸内海犬島産という。地に置かれた長形の石畳は、加藤清正が朝鮮から持ち帰ったものという。また、湯屋渓は豊臣秀吉の遺構とされる。東端の扇の要の位置には、火袋が丸い小形の手鞠灯籠が据えられている。
 植栽は、樹齢400年の秀吉手植えという侘助椿、五葉松は、亀の島と対比し鶴を意味しているという。桜、サツキ、紅葉でも知られている。
 書院西の西庭は、景色を楽しむ庭という。南に樫の巨木が植えられている。かつては二本あり、その後一本は失われた。ここからは、西の方角に、愛宕山、五山送り火・鳥居形の曼荼羅山、嵐山とともに、京都の市街地を望むことができる。書院南には、基礎、竿、中台、火袋、笠、宝珠などすべてが三角形の珍しい三角灯籠が据えられている。
 庭は、春(5月上旬)と秋(11月中下旬)に一般公開される。
◆詩碑  成就院の南近くに、西郷隆盛、月照、信海の詩碑・歌碑、その東に隣接して近藤正慎の碑が立てられている。
◆茶屋 境内南の参道脇に、月照ゆかりの二つの茶屋「舌切茶屋」、「忠僕茶屋」がある。
 1858年、西郷隆盛らの倒幕の挙兵計画後、月照も薩摩へ逃れた。その際に、後のことを仕えていた近藤正慎(1816-1858)に託したという。その後、正慎は安政の大獄により捕えられ、江戸送りとなる。1858年、正慎は獄中で月照らの居所を尋問され、拷問を受けた。だが、正慎は口を割らず、獄舎の壁に頭を打ちつけ、舌を噛みきって自害したという。43歳。残された妻子のために、境内での茶屋営業が許可され、「舌切茶屋」としていまも店は開いている。
 その西にある「忠僕茶屋」は、月照の下僕・大槻重助(?-1893)にまつわる。重助は、幼少の頃より月照に仕えた。月照が京都を離れた際には、ともに薩摩へ同行した。月照入水後、代わりに捕らえられ京都の獄に半年つながれた。その後釈放され、境内で店を開くことを許された。かつての店は、境内三重の塔近くの藤棚付近にあり、その後、現在地に移転した。重助は妻・いさとともに、生涯に渡り月照らの墓守をしたという。
◆墓 境内南の「子安の塔」の西の墓地に、清水寺貫主で、中興の祖・大西良慶(1875-1983)と並んで、月照、信海の墓がある。そのすぐ東に、大月重助の墓(忠僕重助碑)と妻・いさの墓もある。
◆年間行事 春の庭園一般公開(5月上旬)、落葉忌(月照、信海両上人の法要が催される)(11月16日)。秋の庭園一般公開(11月中下旬)。


*普段は非公開、建物、建物内、庭園は撮影禁止。
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『古寺巡礼 京都 26 清水寺』『京都・山城寺院神社大事典』『図解 日本の庭 石組に見る日本庭園史』『西本願寺』『拝観の手引き』『京都秘蔵の庭』『京都隠れた史跡100選』『ガイドブック清水寺』『京都・世界遺産手帳 清水寺』『新選組と幕末の京都』『週刊 仏教新発見 10 清水寺』『週刊 古寺を巡る 6 清水寺』『週刊 京都を歩く 2 清水寺周辺』『週刊 古寺名刹巡礼の旅 東山ふもと道京都』


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