石井神社・御土居跡 (京都市北区)  
Ishii-jinja Shrine
石井神社・御土居跡 石井神社・御土居跡
50音索引,Japanese alphabetical order  Home 50音索引,Japanese alphabetical order  Home









手水舎

手水舎






本殿




本殿


本殿


本殿


本殿














叢雲龍神


叢雲龍神










 鴨川の西岸にある石井神社(いしい-じんじゃ)は、賀陽宮家(かやのみや-け)の信仰厚かった。安土・桃山時代に築造された御土居(おどい)跡に建てられているという。
 祭神は宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)、石井稲荷大神並53社になる。元町学区の鎮守守護神として崇敬されている。
 福徳・円満・開運五穀豊饒・商売繁栄・病疫祓除・学芸上達などの信仰がある。
◆歴史年表 近代、大正年間(1912-1926)、伏見稲荷一ノ峯(伏見区)に、石井稲荷大神御塚の石井大神が創建される。
 1927年、6月、伏見稲荷一ノ峯より、八木トメにより現在地(北区)に遷座され、創建された。
 1930年、元賀陽宮家の信仰篤く、元賀陽宮大妃(醍醐好子)が参拝する。昭和天皇皇子誕生を神前に祈願奉幣した。
◆八木トメ 近代の女性・八木トメ(?-?)。詳細不明。女性。1927年、伏見稲荷一ノ峯(伏見区)より石井大神を北区に遷座し、石井神社を創建した。
◆醍醐好子
 江戸時代後期-近代の皇族・賀陽宮邦憲王妃・醍醐好子(だいご-よしこ、1865-1941)。女性。父・公卿・ 醍醐忠順(だいご-ただおさ)の第1女。母・不詳。1892年、賀陽宮邦憲王と婚姻した。1895年、由紀子女王、1900年、恒憲王、1903年、佐紀子女王を産む。1906年、勲一等宝冠章した。76歳。
 墓は賀陽宮墓地(東山区)にある。
◆建築 ◈「本殿」は、近代、1927年に造営された。一間社流造、銅版葺。
 ◈「拝殿」は、元賀陽宮家の寄進による。切妻妻入。
◆摂末社 ◈末社・叢雲龍神は賀陽家の守護神だった。寄進され邸内より遷座された。
 ◈ほかに、寿賀明神、石生大神、白良仙・天龍王がある。祖霊社には八木家祖霊が祀られている。
◆賀陽宮 皇族の賀陽宮(かやのみや)は、伏見宮貞敬親王(さだよし-しんのう、1776-1841)の第4王子・朝彦親王(あさひこ-しんのう、1824-1891)に始まる。
 親王は南都一乗院に入り、尊応法親王と称した。後に粟田青蓮院に移り尊融と称した。江戸時代後期、1863年に中川宮と称し、1864年に賀陽宮に改める。近代、1875年に久邇宮(くにのみや)と改めた。
 後、朝彦親王の第2王子・邦憲王(くにのりおう、1867-1909)は、近代、1892年に賀陽宮を称し復興し、1900年に独立した。戦後、1947年に廃号になり、皇籍離脱により賀陽氏を名乗った。
◆文化財 春日燈籠は元賀陽宮家の寄進による。
◆御土居遺構 社殿は御土居跡(堀跡)に建つという。御土居は安土・桃山時代、1591年に築造された。鴨川の西岸にあり、付近には北西から南東方向にあった。
 現在、遺構の確認できない。近代、1927年のこの地での創建時に、土塁はまだ存在していた。現在の境内西側にあったとみられている。
 なお、土塁にはキツネ・タヌキが棲息することがあり、稲荷社が祀られる例があるという。
◆御土居 室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)後、高倉より東、松原以南は、相次ぐ鴨川の氾濫により荒地になった。
 安土・桃山時代、1591年に、豊臣秀吉(1536-1598)は京都の再興・改造を手がける。細川幽斉(1534-1610)、前田玄以(1539-1602)などに命じ、洛中の周囲をめぐらせる堤防・惣構施設の「御土居」の築造させた。諸国大名らにより同年1月に着工になり、旧閏1月に2カ月で完成したという。(近衛信尹『三藐院記[さんみゃくいんき]』)。また、2-4カ月/5カ月の突貫工事で完成させたともいう。
 御土居は、北は上賀茂・鷹ヶ峰、西は紙屋川(天神川)・東寺の西辺、南は東寺南の九条通、東は鴨川西岸の河原町通まで築かれた。当時存在していた聚楽第、京都御所も土塁内側に取り囲んでいる。規模は、東西3.5km、南北8.5km、総延長は22.5kmにもなった。
 御土居は、当初「土居堀」と呼ばれた。ほかに「京廻りノ堤」、「新堤」、「惣曲輪(そうぐるわ)」、「土居」などとも呼ばれ、江戸時代には「御土居」と称されるようになる。
 御土居の構造は外側に堀(濠)、内側に台形状の土塁を築いた。工法は「掻揚城(かきあげしろ)」が採られ、掘った堀の土を積み上げて土塁を築き、積石・石垣で地盤を固めた。墓石・地蔵なども「礎石」として使われている。なお、当時の構築物では一般的なことだった。掻揚だけでは、土塁を築く土量が不足したとの見方もある。
 土塁規模は一定しておらず、高さ3.6-5.4/6m、基底部幅10-20m、頂上部幅4-8m、犬走り1.5-3mあった。土塁頂上は、盛土の保護・強度を増すために竹林が植えられ覆われていた。このため、竹薮の伐採は厳禁された。土塁の外には、堀(幅3.6-18m/12.5-20m、深さ1.5-2.5m)が設けられていた。堀は河川・池・沼などの自然地形も利用して築造されている。堀には水が溜められ、江戸時代には、農業用水としても利用されている。 
 御土居には「京の七口」と呼ばれる出入口が開けられ、主要な街道に通じていた。出入口は特定されず、当初は10カ所あり、江戸時代前期には40カ所にも増えたという。
 「普請太閤」といわれた秀吉の御土居築造の意図は、複合的なものとされる。一般的には、鴨川・紙谷川(天神川)などの氾濫に対する水害対策・防災的な堤防の意図が強かった。さらに、外敵に備える防塁の意味も加わる。平安京以来、京都は九条大路の南以外には羅城は築かれていなかった。御土居により初めて、本格的な城塞により囲まれることになる。
 御土居築造により、都の開発は鴨川の間際まで進んだ。また、聚楽第・御所を取り込むように構築されたため、「洛中」・「洛外」の区分を生み洛中範囲の確定に繋がった。軍事的な城壁の役割、権勢誇示という政治的な意味合いもあった。それまでの権力支配(朝廷・公家・寺社)から町衆を分断させ、聚楽第を中心にした新都市の再編・支配が強行されたともいう。1591年の御土居築造が、1592年の文禄の役の前年にあたり、秀吉の朝鮮・明攻略を前提とした首都防衛機能の一環だったともいう。なお、築造に際して、小田原城の城下を模したとする見方もある。
 御土居築造に先立ち、新たに「町割(天正町割)」も行われた。1590年に寺院に対し「寺割」が実施される。それまで散在していた寺院を強制移転させ、新たに寺町、寺之内、本願寺などの寺院町を形成させた。これにより、防御・防災、税徴収の効率化、寺院と民衆の結びつきの分断の意味もあったという。
 平安京以来の条坊制は、東西南北一町四方(正方形)の区画を基本としていた。これでは、中心部に無駄な空地が生じる。秀吉は一部を除き、これを半町一町の短冊型(長方形)の区割りに再編する。半町毎に、新たな南北の道路(小路)を設けた。この新しい町割により、町家数・人口増加をもたらし、検地の効率も高められた。
 御土居の保全は、京都所司代の命により、近郊の農民が駆り出されていた。江戸時代前期、1669年以降は、角倉了以の子・角倉与一が「土居薮之支配(奉行)」に任じられ、管理権を与えられている。この頃、御土居に繁茂した竹(土居薮)を民間に払い下げている。竹は資材として利用された。
 御土居築造から40年ほどで、都の開発が御土居を越えて進行する。鴨川には新たな堤防が築かれ、東側の開発が進み土塁は取り壊された。御土居のうち堤防の役割を果たしていたものを除き、大部分は次第に撤去され、屋敷用地・道路などに転用される。なお、江戸時代中期、元禄期(1688-1704)までは、堀はまだ水堀としては機能していた。その後、築造後100年を経て堀は埋没し、周辺住民の生活廃材の捨て場になった。このため、後の発掘調査により土器・陶磁器、瓦、金属製品、石加工品、木製品などが多数出土している。
 近代以降、1870年の京都府の「悉皆開拓」令により、府は土地の払い下げを通達している。以来、御土居の破壊が急速に進行する。「お土居薮地」は、田圃、畑、桑畑、茶畑などに開墾することが奨励された。1945年の第二次大戦後は、土塁遺構の大部分は消失し、現在はごく一部のみが保存されている。
◆年間行事 歳旦祭(1月1日)、節分祭(2月上旬)、初午祭(2月23日)、宵宮御神輿洗い(5月3日)、神幸祭(5月5日)、火焚祭(11月23日)、除夜祭(12月31日)。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 「石井神社由緒記」、『御土居堀ものがたり』 、ウェブサイト「廻游日記~京の神祠~」、『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』、『洛中洛外』、『秀吉の京をゆく』、『京都の地名検証 2』、『京都の地名検証 3』、『京都大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都・観光文化 時代MAP』、『豊臣秀吉事典』、『御土居跡』、『京都 秀吉の時代-つちの中から』、 『建築家秀吉』、延命地蔵大菩薩の駒札、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、ウェブサイト「御土居跡-京都市」、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺,relevance&surrounding area紫竹御土居(鴨川)  周辺,surrounding area  関連,relevance伏見稲荷大社・稲荷山   関連,relevance賀陽宮・久邇宮墓地   関連,relevance賀陽宮邸跡(京都御苑)  関連,relevance大宮御土居・鷹ヶ峯御土居  関連,relevance平野御土居・紫野御土居  関連,relevance北野天満宮・御土居  関連,relevance紙屋川・西堀川・御土居  関連,relevance御土居の袖(西ノ京)  関連,relevance市五郎大明神社・御土居   関連,relevance御土居(JR京都駅0番のりば)  関連,relevance廬山寺・御土居  関連,relevance枳殻亭(渉成園)・御土居  京都歴史災害年表     50音索引,Japanese alphabetical order 
map 石井神社・御土居跡 〒603-8112 京都市北区小山元町25 075-492-0148
50音索引,Japanese alphabetical order  Hometop 50音索引,Japanese alphabetical order  Hometop
logo,kyotofukoh © 2006- Kyotofukoh,京都風光