大雲院(祇園閣) (京都市東山区)
Daiun-in Temple 
大雲院(祇園閣) 大雲院(祇園閣)
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総門




総門


南門


南門


南門




本堂


本堂




鐘楼



鐘楼


祇園閣








祇園閣、「祇園閣」の扁額、初層



祇園閣、西園寺公望筆「祇園閣」の扁額、初層



祇園閣、最上階の扁額、大倉喜八郎筆「萬物生物光輝」



祇園閣の鉾先の鶴の飾り物



祇園閣、初層の銅板の扉、鶴の彫り物がある。



祇園閣、初層の銅板の扉、鶴の彫り物







大倉喜八郎の別邸「真葛荘」(書院)(国登録有形文化財)


書院


書院の六角の蹲踞



弁財天



佐土原藩戦没招魂塚



平和観音


仏足石
 大雲院(だいうんいん)は、「貞安寺(じょうあんじ)」とも呼ばれる。境内には、祇園祭の山鉾様の祇園閣が建てられている。正式には大雲院祇園閣という。山号は龍池山という。 
 浄土宗単立寺院、本尊は阿弥陀如来。  
◆歴史年表 安土・桃山時代、1587年、天正年間(1573-1592)とも、第106代・正親町(おおぎまち)天皇の勅命により、1582年の本能寺の変で亡くなった織田信長、信忠父子の菩提を弔うために建立された。当初は、信忠自刃の地である御池御所(正親町天皇第1皇子・誠仁親王邸、二条新御所、烏丸二条南)にあり、寺地は正親町天皇より与えられたという。安土宗論で知られる聖誉貞安(ていあん)が開山になり、信忠の法名「大雲院殿三品羽仙厳大居士」に因み龍池山貞安寺大雲院と名付けられた。当初は、浄土宗知恩院に属した。
 1590年、豊臣秀吉は、寺域が狭いとして寺町四条(下京区貞安前之町)に移させた。以来、第107代・後陽成天皇より勅願所の綸旨を得る。島津以久以後、同家の帰依を受けた。釈迦堂が建てられる。
 1591年、第107代・後陽成天皇により勅願寺になり、「大雲院」の勅額を贈られた。信長、信忠父子の石塔が建立される。
 1592年、京都奉行・前田玄以が境内に制札を掲げる。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、日向国佐土原(さどわら)城城主・島津以久(ゆきひさ)の帰依により、以来、毎年、米100石の寄進を受けた。
 1599年、堂宇新築落成になり、華道家・池坊専好(いけのぼう せんこう)は祝し、大立花会「百瓶華会(ひゃくへいかかい)」を催し絶賛を得る。
 江戸時代、元和年間(1615-1624)、3世・信誉は開山堂を建立する。貞安上人像を安置した。
 1641年、第110代・後光明天皇は、祇園会を観覧した。
 1788年、天明の大火により焼失する。画家・円山応挙の描いていた完成真近い「松に孔雀図」も失われる。
 1792年、再建される。
 1864年、禁門の変では、島津藩兵により類焼を防いだ。
 近代、1868年、復興した。
 1889年、第一回京都市会が開催される。
 現代、1954年、本堂を建立する。
 1973年、1972年とも、髙島屋京都店の増床に伴い、大雲院は現在地の大倉邸内に移転した。阿弥陀像が安置される。
 1997年、祇園閣は国の登録有形文化財に登録された。
 2014年、京都河原町通四条下ル大雲院跡地より、豊臣秀次の供養塔の一部が発見される。五輪塔基礎に「文禄四年(1595年) 禅昌院殿龍叟道意大居士 七月十五日」と刻まれていた。貞安が菩提を弔うために立てたとみられる。
◆貞安 室町時代-江戸時代前期の浄土宗の僧・貞安(ていあん、1539-1615)。聖誉貞安。相模国に生まれた。父は後北条氏の一族・北条能登守満教、母は大江正時の娘。4歳で母、5歳で父と死別し、姨母に養育された。7歳で小田原・大蓮寺の一蓮社堯誉上人還魯文宗の室に入り、11歳で剃髪。14歳で師に従い下総・飯沼の弘経寺へ移る。同寺7世・見誉善悦の法を継ぐ。1572年、香衣綸旨拝載のために上京。1573年、弘経寺の首座。1575年、能登七尾・西光寺にあり、上杉謙信の穴水城攻より逃れ、1576年、近江・妙金剛寺へ移る。織田信長の帰依を受けた。1579年、貞安の斡旋により、知恩院は信長より寺領100石の加増を受ける。貞安は信長より安土田中に寺領を得る。能登七尾・西光寺に倣い、龍亀山西光寺を建立した。 1579年、信長の命により、安土・浄厳院(じょうごん)での宗論に参加し、霊誉玉念らと法華経の日晄らを論破する。以後、信長の信任を得る。1582年、本能寺の変で信長没後、1583年、上洛して淨教寺に入る。1585年、第106代・正親町天皇の勅請で御所参内し「選擇集」を講じ、僧伽梨大衣を贈られる。1586年、紫宸殿で陽光院親書の「阿弥陀経」を贈られる。1587年、正親町天皇の勅命により、信長、信忠父子の菩提を弔うために、大雲院、伏見・勝念寺を創建した。1594年、石川五右衛門の処刑前に引導を渡す。1595年、豊臣秀次の切腹に伴い、妻妾、幼児などは三条河原で打首になる。貞安は刑場の一隅に地蔵尊を運び、子女らに引導を授けた。1599年、大雲院移転により、「百瓶華会」を催した。1615年、二条城で徳川家康に謁した。大雲院・栖養院に隠棲した。
◆織田信忠 安土・桃山時代の武将・織田信忠(おだ-のぶただ、1557-1582)。尾張に生まれた。織田信長の長男。1572年、岐阜城で元服し、父とともに近江小谷城を攻め初陣を飾る。1575年、長篠の戦、1576年、美濃岐阜城主、1582年、先鋒大将として武田勝頼を討った際には、恵林(えりん)寺を焼き打ちし、150人の僧を焼き殺した。1582年、本能寺の変に際して、二条御所で明智光秀軍に包囲され、自刃した。
◆池坊専好 安土・桃山時代-江戸時代前期の華道家・初代・池坊専好(初代)(いけのぼう-せんこう、?-1621)。池坊家31代。頂法寺(六角堂)の僧。1599年、大雲院で門人100人(浄土宗寺院・他宗派本山の僧88人、武士・町衆100人)と100個の銅瓶に花を生ける「百瓶華会」を開催し絶賛を博した。七つ道具(役枝)を考案した。著作に「池坊専好花伝書」など。
◆石川五右衛門 安土・桃山時代の盗賊・石川五右衛門(いしかわ-ごえもん、?-1594)。詳細不明。河内国生まれ。五郎吉。17歳で家を出で伊賀の異人僧・臨寛に忍術を習うともいう。また、浜松・三好家家臣・石川明石の子で、16歳で宝物庫の金装具刀を盗み諸国放浪した。また、浜松の武士・真田八郎ともいう。京都の市中を荒らし、1594年、豊臣秀吉の命をうけた五奉行の一人、前田玄以に捕らえられる。三条河原(六条河原とも)で子・一郎とともに釜ゆでの刑に処された。浄瑠璃、歌舞伎、読み本などの題材になる。37歳。
◆円山応挙 江戸時代の画家・円山応挙(まるやま-おうきょ、1733-1795)。姓は源。丹波国桑田郡穴太村(亀岡市)の農業・丸山藤左衛門の次男。1740年頃、近くの金剛寺に小僧として入る。1747年、15歳で呉服屋「岩城」、後に高級玩具商「尾張屋」に入る。13-14歳で上京したともいう。17歳頃(15歳とも)、主人のつてで狩野派石田幽汀に絵を学ぶ。1759年、西洋渡来の覗き絵(浮絵)を制作する。1763年頃、宝鏡寺の蓮池院尼公を知る。1765年頃、円満院門主祐常と親交する。1766年頃、「応挙」と改名し、「応挙」の落款を用いた。1773年頃、「雲龍図」(東寺観智院旧蔵)を描く。1775年、「平安人物志」に画家部第一位で記載され、京都四条麩屋町西入に住んだという。1786年、紀州無量寺の障壁画を描く。1787年、一門とともに大乗寺(兵庫県香住町)障壁画を描く(第一期)。1790年、禁裏造営で一門により障壁画を制作する。1795年、一門とともに大乗寺障壁画を描く(第二期)、悟真寺(四条大宮西入)に葬られる。
 応挙は大雲院で絵画を制作していた。だが、1788年、天明の大火で大雲院が焼失する。完成間近の「松に孔雀図」も焼失した。「孔雀の間」は1795年、大乗寺障壁画第二次制作により2度目の「松に孔雀図」を完成させる。遠目の絵の手法で描かれている。その年に没した。
◆大倉喜八郎 近現代の実業家で大倉財閥の創設者・大倉喜八郎(おおくら-きはちろう、1837-1928)。越後に生まれた。幕末維新期に江戸・東京で銃砲販売、新政府の御用商人として、軍需品の調達・輸送,鉄道・建物関係・土木建設、中国での炭鉱・鉄鉱山経営・製鉄事業、欧州、朝鮮との貿易、東京電灯、帝国ホテルなども設立した。1917年、大倉組は、大倉商事、大倉土木(大成建設)、大倉鉱業によるコンツェルン機構を形成した。
◆伊東忠太 近代の建築家・建築史家の伊東忠太(いとう-ちゅうた、1867-1954)。山形県に生まれた。東京帝国大学、早稲田大学教授。工学博士。日本建築史を創始し、『法隆寺建築論』(1893)により、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを著した。法隆寺の柱の膨らみがギリシャ神殿に遡るとし、英国・ジェームス・ファーガソンに反論した。1923年、首里城正殿の保存に尽力した。1943年、建築界ではじめて文化勲章を受章する。
 京都の主な作品としては、豊国廟(1898)、 旧・二条駅舎、真宗信徒生命保険(1912、京都、現伝道院)、祇園閣(1927)。そのほか伊勢両宮(遷宮)(1899)、明治神宮(1920)、共同で内務大臣等官邸(1915)など多数。
◆本尊 本堂に、本尊「阿弥陀如来坐像」が安置されている。定印を結び、江戸時代作、六丈(3m)の大きさがある。
 像内の内彫り部に室町時代-安土・桃山時代にかけてみられる「阿弥陀如来立像」(97.5cm)が納められており、創建時の本尊ともいう。
 左に「信忠像」が安置されている。
◆建築 ◈「総門」は、旧宮家の門であり、東京より移築されたという。
 ◈「南門」は、四条寺町の旧地より移築された。
 ◈「本堂」は、1973年に建立された。平安・鎌倉の折衷方式の2階建てになる。鉄筋コンクリート造、寄棟造、本瓦葺。
 ◈「祇園閣」(国・登録有形文化財)は、俗称として「銅閣」「銅閣寺」とも呼ばれる。大倉財閥の創始者・大倉喜八郎の別邸「真葛荘」に、1928年(1927年とも)に建立された。大倉は、御大典記念に祇園祭の鉾を常に見たいと願い、鉾を模して建築が始まる。京都に新たな観光名所を造るという意図もあったという。設計は伊東忠太(1867-1954)による。寺院の楼閣建築を模範にした。大倉は塔の完成を見ることなく亡くなる。その後、東伏見宮の仮住を経て、1973年に寺院施設になる。
 鉾先には、大倉の本名の鶴吉(鶴彦)に因み翼を広げた鶴(人の背丈ほど)が飾られている。上層の唐破風に紅龍石による組物、蟇股がある。低層外壁は北木島(岡山県)産の錆色石の乱積みによる。中高層の軒裏、組物、高欄に紅龍石が使われている。それ以外の外壁は、モルタル塗りになる。塔の地下に隠し部屋がある。下中層の階段照明に、丸い電燈を魑魅魍魎(ちみもうりょう)が両手で支える意匠が施されている。魑魅魍魎は、設計者・伊東忠太の好みだったという。上層の天井に、銅板で円形に十二支が連なる中心飾などが見られる。塔の最上階に平和の鐘、初層には、1973年より阿弥陀像が安置されている。1988年、内部に敦煌壁画模写などが描かれた。1997年、国の登録有形文化財に登録された。
 設計・伊東忠太、施工・大倉組。三階建、基礎・下層は鉄筋コンクリート造、中階層以上はSRC(鉄筋・鉄骨コンクリート)造、欄干、扉も銅製。屋根は銅板葺で金閣、銀閣に比する。高さ36m。
 ◈「書院」(旧大倉家京都別邸)(登録有形文化財、国登録)は、東に八角形状の応接間がある。16本の垂木を放射状に並べ、八角形の屋根を支える。窓、玄関に蔀戸。2階座敷に3畳台目の上段の間、格天井。床、付け書院、脇棚。
 大倉喜八郎の別邸「真葛荘」(書院)(国登録有形文化財)は、1927年に建立された。木造の近代和風住宅になっている。設計は北村伝兵衛親子(8代、9代)による。鉄筋コンクリート造。
 
◈「鐘楼」は、かつて北野天満宮にあり、江戸時代、1607年、豊臣秀頼が寄進した。近代、神仏分離令(1868)後の廃仏毀釈後、1872年に移転された。3間2面、重層、袴腰、入母屋造、桟瓦葺。
◆文化財 ◈絹本著色「前田玄以像(重文)」。
 ◈紙本墨書「正親町天皇宸翰消息」(重文)。
 ◈「寺地指図」には、安土・桃山時代、1587年の前田玄以の花押がある。
 ◈京都所司代・「村井貞勝(1520?-1582)の肖像画」がある。頭を丸めた姿になる。
 ◈祇園閣内部には、「敦煌(とんこう)莫高窟(ばっこうくつ)壁画」の模写が描かれている。1988年、中国の葛新民(1951-)筆による。莫高窟は中国甘粛省敦煌市の近郊にある仏教遺跡で、1987年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
 祇園閣に描かれているのは、最も早期(421-439)の272窟西壁龕内南北「脇持菩薩(北涼)」、盛唐時代(721-781)の320窟南壁「仏法説図」、172窟南壁「観無量寿経変相図」など。
 ◈「梵鐘」は、室町時代、「延徳二年(1490年)」の銘があり、もとは祇園感神院(八坂神社)にあった。近代、神仏分離令(1868)後の廃仏毀釈後、1870年(1868年とも)、島津家が佐土原藩士の菩提を弔うために当山に寄進し移された。
◆塔頭 かつて12院の塔頭が存在した。その後、本院に併合され、本光院、是住院、信養院、南昌院の4院が残る。本院の移転後、各院は独立する。
◆火除天満宮 旧寺域(四条寺町)の一角には、いまも火除天満宮(下京区)がある。かつて大雲院の鎮守社であり、寺の移転後も残されている。
石川五右衛門の墓 石川五右衛門の墓にまつわる伝承が残る。五右衛門は、刑場に連行される途中、大雲院の門前を通りがかり、貞安の教化を受けたという。
 貞安は、引き取り手のなかった五右衛門の遺体を葬ることを秀吉に頼んだ。秀吉は許したが、世を憚り墓は立てなかった。江戸時代、1632年、33回忌を機に現在の墓を立て追善したという。墓石には、「融仙院良岳寿感禅定門」と刻まれている。
◆葛覃居 江戸時代の文人画・池大雅(1723-1776)と妻・玉瀾(1727-1784)が暮らした草庵「葛覃居(かつたんきょ)」は、現在の大雲院の西南端付近だったという。
◆墓 境内南西の墓地には、室町時代-安土・桃山時代の織田信長(1534-1582)、信忠(1557-1582)父子碑、日向国佐土原藩の初代藩主・島津以久(1550-1610)、京都奉行・前田玄以(1539-1602)、安土・桃山時代の大盗賊・石川五右衛門(?-1594)、江戸時代の儒学者・伊藤坦庵(1623-1708)、江戸時代中期の俳人・北条団水(1663-1711)、江戸時代後期の画家・望月玉川(1794-1852)、杉浦家、鳩居堂の熊谷家などの墓がある。
 近代の画家・儒学者・富岡鉄斎(1837-1924)の墓は、現在は旧塔頭・是住院(西京区)に遷されている。


*普段は非公開。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献 『拝観の手引』『京都・山城寺院神社大事典』『京都府の歴史散歩 中』『京都古社寺辞典』『京都の近代化遺産』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』『京都大事典』『続・京都史跡事典』『京都 歴史案内』『京都隠れた史跡100選』『京都の寺社505を歩く 上』『おんなの史跡を歩く』、勝念寺のウェブサイト、ウェブサイト「コトバンク」


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圓山地蔵尊

墓地

織田信長・信忠の碑

石川五右衛門の墓

祇園閣からの東山の眺め

祇園閣からの八坂の塔、八坂の景観

祇園閣からの南西の眺め、澄んだ日には二つのアンテナの間に大阪城が見えるという。近くの高台寺からも同じように見え、豊臣秀吉の側室・北政所(ねね、高台院湖月尼、1542-1624)は、1615年の大坂城落城の時、高台寺から城より立ち昇る煙を見ていたという。 
大雲院 〒605-0074 京都市東山区祇園町南側594-1  075-531-5018
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