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市五郎大明神神社(市五郎神社)・御土居 (京都市中京区) Ichigoro-daimyojin Shrine |
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市五郎大明神神社 | 市五郎大明神神社 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「史蹟御土居」の石標 ![]() 拝殿 ![]() 拝殿 ![]() 拝殿 ![]() 拝殿 ![]() 白龍? ![]() 市五郎大明神 ![]() 山下弁財天 ![]() 源五郎大明神 ![]() 玉光大明神 ![]() 高吉大明神 ![]() ![]() 「北村利幾子大刀自(おおとじ)霊神」碑 ![]() 手水 ![]() 御土居の斜面・石段 ![]() 本殿 ![]() 本殿、市五郎稲荷大明神社、市助稲荷大明神社 ![]() 本殿、市五郎稲荷大明神社、市助稲荷大明神社 ![]() 本殿 ![]() 本殿 ![]() 本殿 ![]() 本殿 ![]() 本殿 ![]() ![]() 八一大神 ![]() 八一大神 ![]() ![]() 遥拝所 ![]() ![]() 御土居の頂部北側 ![]() ![]() 御土居の頂部 ![]() 御土居の斜面・石段 ![]() ![]() ![]() 国司大明神、市五郎大明神、三徳大明神 ![]() ![]() 末丸大神 ![]() 市八大神、八助大神、白春大神 ![]() 市倉大明神 ![]() 福丸大明神 ![]() 市丸大神 ![]() ![]() 国司大明神、市五郎大明神、三徳大明神 ![]() 国司大明神、市五郎大明神、三徳大明神 ![]() 白龍 ![]() 熊鷹大神 ![]() 福寿弁財天、三〇〇神?、白虎弁財天 ![]() 天晃 末丸大神 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
西土居通に西面して、市五郎大明神神社(いちごろう-だいみょうじん-じんじゃ)が建つ。 境内は安土・桃山時代、豊臣秀吉により築造された御土居遺構(国史跡指定地)の斜面、頂上にある。「土居稲荷」、「お土居稲荷」とも呼ばれた。 祭神は市五郎稲荷大明神、市助稲荷大明神などを祀る。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 かつて、東本願寺境内に祀られていたという。その後、伏見稲荷大社に遷され、国司神社として祀られたという。 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉は現在地に御土居を築造させた。 近代、1890年、北村利幾子が神託を得て、この地に小祠を創建し、市五郎大明を祀ったという。(当社碑文) 1924年、市立第一商業学校(現・西京高校)の移転に伴い、整地用の土砂用に近接する御土居が削平された。 ◆北村 利幾子 江戸時代後期-近代の女性・北村 利幾子(きたむら-りきこ、1847-1916)。詳細不明。女性。岡崎に住んだ。1890年、神託を得て小祠を創建し、市五郎大明を祀った。70歳。 ◆祭神 祭神の市五郎大明神は、狸像をご神体とする。稲荷社という。 一時期、賭け事の「チーハ」にご利益があるとされ、多くの参拝者を集めた。太平洋戦争中には、出征した我が子のためのお百度参りが行われたという。 ◆チーハ 賭事の一種「チーハ(チーパ/一八/字華)」は、中国に始まり、近代、明治期(1868-1912)初期に日本に伝えられた。当初は横浜・神戸の中国人が胴元になり、その後、大正期(1912-1926)初めにかけ流行した。 胴元が、筋紙(すじがみ、2字ずつの漢字36組が書かれている)と、附和(ふわ、5字ずつ2行・4字2行の漢字が書かれている)を参加者に配る。客は賭け金を払い、附和をヒントに、胴元が伏せている筋紙の中の1組の数字を当て、賭け金を受け取った。 ◆御土居遺構 境内に、御土居(西ノ京御土居)遺構(国史跡指定地)が残る。安土・桃山時代、1591年に豊臣秀吉により築造された御土居遺構が南北方向に残る。土塁の頂上、西斜面が境内として使われている。東斜面には小規模の塚がある。鳥居が並ぶ参道部分が堀跡ともいう。規模は幅30m、高さ5m、長さ40mになる。 当社は、御土居にあることから「土居稲荷」、「お土居稲荷」とも呼ばれた。御土居そのものが神体ともいう。なお、土塁には稲荷社が祀られる例があるという。土塁に棲みついていたキツネ・タヌキなどに由来するともいう。当社は狸像をご神体にする稲荷社になる。 近代、1924年に、市立第一商業学校(現・西京高校)の移転に伴い、整地用の土砂用に御土居が削平された。当社にも工事が及び事故が相次いだ。その後、工事担当者が工事続行を止め、当社・御土居も残されたという。 ◆御土居 室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)後、高倉より東、松原以南は、相次ぐ鴨川の氾濫により荒地になった。 安土・桃山時代、1591年に、豊臣秀吉(1536-1598)は京都の再興・改造を手がける。細川幽斉(1534-1610)、前田玄以(1539-1602)などに命じ、洛中の周囲をめぐらせる堤防・惣構施設の「御土居」の築造させた。諸国大名らにより同年1月に着工になり、旧閏1月に2カ月で完成したという。(近衛信尹『三藐院記[さんみゃくいんき]』)。また、2-4カ月/5カ月の突貫工事で完成させたともいう。 御土居は、北は上賀茂・鷹ヶ峰、西は紙屋川(天神川)・東寺の西辺、南は東寺南の九条通、東は鴨川西岸の河原町通まで築かれた。当時存在していた聚楽第、京都御所も土塁内側に取り囲んでいる。規模は、東西3.5km、南北8.5km、総延長は22.5kmにもなった。 御土居は、当初「土居堀」と呼ばれた。ほかに「京廻りノ堤」、「新堤」、「惣曲輪(そうぐるわ)」、「土居」などとも呼ばれ、江戸時代には「御土居」と称されるようになる。 御土居の構造は外側に堀(濠)、内側に台形状の土塁を築いた。工法は「掻揚城(かきあげしろ)」が採られ、掘った堀の土を積み上げて土塁を築き、積石・石垣で地盤を固めた。墓石・地蔵なども「礎石」として使われている。なお、当時の構築物では一般的なことだった。掻揚だけでは、土塁を築く土量が不足したとの見方もある。 土塁規模は一定しておらず、高さ3.6-5.4/6m、基底部幅10-20m、頂上部幅4-8m、犬走り1.5-3mあった。土塁頂上は、盛土の保護・強度を増すために竹林が植えられ覆われていた。このため、竹薮の伐採は厳禁された。土塁の外には、堀(幅3.6-18m/12.5-20m、深さ1.5-2.5m)が設けられていた。堀は河川・池・沼などの自然地形も利用して築造されている。堀には水が溜められ、江戸時代には、農業用水としても利用されている。 御土居には「京の七口」と呼ばれる出入口が開けられ、主要な街道に通じていた。出入口は特定されず、当初は10カ所あり、江戸時代前期には40カ所にも増えたという。 「普請太閤」といわれた秀吉の御土居築造の意図は、複合的なものとされる。一般的には、鴨川・紙谷川(天神川)などの氾濫に対する水害対策・防災的な堤防の意図が強かった。さらに、外敵に備える防塁の意味も加わる。平安京以来、京都は九条大路の南以外には羅城は築かれていなかった。御土居により初めて、本格的な城塞により囲まれることになる。 御土居築造により、都の開発は鴨川の間際まで進んだ。また、聚楽第・御所を取り込むように構築されたため、「洛中」・「洛外」の区分を生み洛中範囲の確定に繋がった。軍事的な城壁の役割、権勢誇示という政治的な意味合いもあった。それまでの権力支配(朝廷・公家・寺社)から町衆を分断させ、聚楽第を中心にした新都市の再編・支配が強行されたともいう。1591年の御土居築造が、1592年の文禄の役の前年にあたり、秀吉の朝鮮・明攻略を前提とした首都防衛機能の一環だったともいう。なお、築造に際して、小田原城の城下を模したとする見方もある。 御土居築造に先立ち、新たに「町割(天正町割)」も行われた。1590年に寺院に対し「寺割」が実施される。それまで散在していた寺院を強制移転させ、新たに寺町、寺之内、本願寺などの寺院町を形成させた。これにより、防御・防災、税徴収の効率化、寺院と民衆の結びつきの分断の意味もあったという。 平安京以来の条坊制は、東西南北一町四方(正方形)の区画を基本としていた。これでは、中心部に無駄な空地が生じる。秀吉は一部を除き、これを半町一町の短冊型(長方形)の区割りに再編する。半町毎に、新たな南北の道路(小路)を設けた。この新しい町割により、町家数・人口増加をもたらし、検地の効率も高められた。 御土居の保全は、京都所司代の命により、近郊の農民が駆り出されていた。江戸時代前期、1669年以降は、角倉了以の子・角倉与一(1571-1632)が「土居薮之支配(奉行)」に任じられ、管理権を与えられている。この頃、御土居に繁茂した竹(土居薮)を民間に払い下げている。竹は資材として利用された。 御土居築造から40年ほどで、都の開発が御土居を越えて進行する。鴨川には新たな堤防が築かれ、東側の開発が進み土塁は取り壊された。御土居のうち堤防の役割を果たしていたものを除き、大部分は次第に撤去され、屋敷用地・道路などに転用される。なお、江戸時代中期、元禄期(1688-1704)までは、堀はまだ水堀としては機能していた。その後、築造後100年を経て堀は埋没し、周辺住民の生活廃材の捨て場になった。このため、後の発掘調査により土器・陶磁器、瓦、金属製品、石加工品、木製品などが多数出土している。 近代以降、1870年の京都府の「悉皆開拓」令により、府は土地の払い下げを通達している。以来、御土居の破壊が急速に進行する。「お土居薮地」は、田圃、畑、桑畑、茶畑などに開墾することが奨励された。1945年の第二次大戦後は、土塁遺構の大部分は消失し、現在はごく一部のみが保存されている。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 「北村利幾子大刀自霊神」碑文(1917)、『京都大知典』、『御土居堀ものがたり』、『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』、『洛中洛外』、『秀吉の京をゆく』、『京都の地名検証 2』、『京都の地名検証 3』、『京都大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都・観光文化 時代MAP』、『豊臣秀吉事典』、『御土居跡』、 『建築家秀吉』、延命地蔵大菩薩の駒札、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、ウェブサイト「御土居跡-京都市」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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