木島神社(木嶋神社)・蚕の社 (京都市右京区)
Konoshima‐jinja Shrine
木島神社 木島神社 
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大鳥居


「蚕養神社」の社号扁額






「式内郷社 木嶋座天照御魂神社」の社号石標


「蚕神社」


「かいこのやしろ」




石灯籠の竿「磐座(いわくら)宮廣前」と刻まれている。


舞殿



拝殿





拝殿



拝所



フタバアオイの神紋



【参照】フタバアオイの花、葉


拝所



本殿



東本殿、摂社・蚕養神社、本殿の右手


八社、本殿の左手






三柱鳥居



三柱鳥居、鳥居の中央に石が積まれ御幣が立つ。


元糺の池、泉水



元糺の池
 太秦(うずまさ)の木島神社(このしま じんじゃ、木嶋神社)は、京都市内最古の神社の一つといわれている。養蚕稲荷神になる。社前の街道は、かつて「太子道」といわれ、広隆寺へ向かう参道になっていた。
 正式には、木島坐天照御魂神社(このしまにます あまてるみたま の かみやしろ/このしまにます あまてるみむすび じんじゃ)という。境内摂社・養蚕神社(かいこ/こかい じんじゃ)も祀られ、「蚕の社(かいこ の やしろ)」とも呼ばれている。旧郷社。
 祭神は、主神・天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、大国魂神(おおくにたまのかみ)、穂々出見命(ほほでみのみこと)、鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の4座を祀る。 
 かつて、天照国照天火明命(あまてらすくにてらすあまのほあかりのみこと)を祭神にした。また、天照大神(あまてらすおおかみ)、高皇産霊神(たかむすびのかみ)、天日神命(あめのひみたまのみこと)、天照御魂神(あまてるみたまのかみ)ともいう。
 学問、祓いの神である養蚕神社は、養蚕、織物、染色、製糸業者の崇敬を集める。
 式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「葛野郡 二十座 大十四座小六座」の「木嶋坐天照御魂神社」に比定されている。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 古墳時代、5世紀(401-500)後半、渡来した秦氏は、6世紀(501-600)後半に深草から葛野(かどの)に移住したとみられる。
 飛鳥時代、600年頃、渡来人豪族・秦氏によりに創建されたとみられる。土着神を祀り、水の神、ムスビの神、蚕の神にされたともいう。
 701年、「木嶋神」の名があり、社はそれ以前に存在したとみられる。山背国の月読神、樺井(かばい)神、木島神などの稲を中臣氏に給えとの勅があったという。(『続日本紀』)
 奈良時代-平安時代、天候を司る神として信仰され、朝廷の崇敬を受けた。
 平安時代、794年、平安京遷都以後、朝廷よりの祈雨の奉幣が行なわれていた。平安時代に祈雨の神としての信仰があり、『日本三代実録』『梁塵秘抄』にも記述がある。周辺一帯は「木島里」と呼ばれた。門前には市が立ち、遊女もいたという。
 平安時代初期、第52代・嵯峨天皇(在位:809-823)の時、学士・大江尹時(おおえ の これとき)が社参し、唐代(中唐)、張文成の艶本『遊仙窟』の訓点を、老翁と化した木島の神から伝授されたと伝えられる。
 859年、正五位下を授けられた。(『三代実録』)
 1043年、正一位を授けられたという。(『広隆寺縁起』)
 12世紀(1101-1200)後半、吉野・金峰山、伏見稲荷神社、石清水八幡宮と並び、木嶋神社には多くの参詣者があった。(『梁塵秘抄』)
 鎌倉時代、1221年、後鳥羽上皇(第82代)が討幕の兵を挙げた承久の乱で、三浦胤義父子がこの地で自害し、社殿に火が放たれたという。
 江戸時代、1780年、三井家祖霊を祀る顕名霊社(あきな れいしゃ)が創祀された。
 1831年、三柱鳥居が再建された。
 近代、明治期(1868-1912)以降、現在の社殿が再建されている。
 1886-1887年、天塚古墳発掘のために、伯清稲荷大神(白清稲荷)(右京区)が遷された。
 現代、1985年、京都市の史跡に指定された。
◆三浦胤義 鎌倉時代の武将・三浦胤義(みうら たねよし、?-1221) 。三浦義澄(よしずみ)の子。1213年、和田合戦で和田氏から北条氏方に翻り、功をたてた。後に北条義時と反目し、検非違使(けびいし)に任じられた。1221年、承久の乱で、後鳥羽上皇方に付いた。兄・義村を誘うが失敗する。京都で伊賀光季を討ち、美濃国摩免戸で幕府軍に敗れた。東寺で幕府方の三浦一族と戦う。幼子に会うために太秦に向かい、木島社で自殺した。
 木島神社の末社・魂鎮(たましずめ)神社は、胤義父子を祀る。
◆三井高安 安土・桃山時代-江戸時代前期の武士・商人・三井高安(みつい たかやす、?-1610)。三井越後守高安(えちご の かみ たかやす)。近江・佐々木氏の家臣。長男に高俊がてる。1568年、織田信長との戦いに敗れ、伊勢松坂に逃れて武士をやめた。質屋、酒屋、味噌などの商いをした。三井家の家祖とされる。
 1780年、木島神社の末社・顕名(あきな)社に祭神として祀られている。
◆蚕養神社 本殿東隣の東本殿に蚕養神社(こかい じんじゃ、蚕の社)がある。養蚕、織物、染色などの技術を有していた秦氏の祖神・蚕養(こかい)の神を祀る。 また、保食命(うけもちのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)も祀るともいう。
 学問、祓いの神になる。養蚕、織物、染色、製糸業者の崇敬を集めている。
◆末社 ◈「白清社」は、本殿西の八社、本殿南西にある。祭神に宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)を祀り、石室の中にある。
 かつて、天塚古墳(右京区)に祀られており、近代、1886年頃に、古墳発掘に伴い当社に遷座された。その後、天塚古墳の石室内にも伯清稲荷大明神が祀られた。
 ◈「顕名(あきな)社」は、三井家の祖・高安命(たかやすのみこと、三井高安)を祀る。
 ◈「魂鎮(たましずめ)神社」は、鎌倉時代の武将・三浦胤義(?-1221)父子を祀る。
 ◈「椿丘神社(椿丘大明神)」は、当社の付近に祀られていた。その後、遷された。
 ◈ ほかに、三十八所神社、稲荷神社などがある。
◆建築 本殿、東本殿、舞殿、拝所があり、南北方向に一直線に建てられている。すべて近代以降に建てられた。
養蚕 この地が養蚕発祥の地といわれている。
 日本に養蚕が伝えられたのは弥生時代に遡る。稲作とともに中国より伝えられた。4世紀後半-5世紀に渡来した秦氏は、養蚕、機織の技術にも長けた。
 伝承が残る。飛鳥時代、664年、秦河勝は駿河不尽河(富士川)で、大生部多(おおふべのおお)が、蚕に似た虫(アゲハチョウ類の幼虫)を祀り、富と長寿をまねく「常世(とこよ)の神」との信仰を広げたとして懲らしめた。 (『日本書紀』)。秦氏は養蚕技術を独占しており、その技術の拡散を防ぐためのものという。
 また、多々羅西平川原(たたらにしひらかわら、京田辺市)を発祥の地とするともいう。百済よりの渡来人・奴理能美(ぬりのみ)は、養蚕と絹生産を営んだ。第16代・仁徳天皇皇后・磐之媛(いわのひめ)は、奴理能美の邸宅を宮室として住した。「一度は這う虫になり、一度は殻になり、一度は飛ぶ鳥になって、三色に変わる」という珍しい虫(蚕)を見たと記されている。(『古事記』)。京田辺市三山木に「日本最初外国養蚕飼育旧跡」の碑が立つ。
 「蚕ノ島」と「木島」との関連について、「蚕ノ島」より「木島」に転じたともいう。「子の島といふ社」(『承久記』)とあり、「此の島(この特別な聖域)」の意味ともいう。
◆三柱鳥居 本殿西、上段神池に明神鳥居を三基組み合せた「三柱(みつはしら)鳥居」がある。「三柱鳥居」「三脚鳥居」「三面鳥居」ともいう。「京都三珍鳥居」(ほかに、厳島神社破風型鳥居、北野伴氏社石鳥居)の一つといわれる。
 八角柱を3本立て、笠木、島木、貫などを渡し交差させている。3本の石柱は3つの島木と貫でつなぐ。上部より見ると3つの鳥居が正三角形に組み合わさる。基本形は貫の出のない八角形の明神鳥居よりなり、3つの角では笠木が交わる。高さ3.4m。石造。
 中央部分に組石があり、幣帛が立てられている。ここは、本殿祭神の組石の神座とされている。三柱鳥居は四方(三方)より神座を拝するために組まれている。鳥居の周辺にはかつて湧水があったという。
 鳥居は、江戸時代、1831年に再建された。また、享保年間(1716-1736)に修復されたともいう。かつて、三ツ組みの木柱の鳥居だったという。(『都名所図会』、1780年)。鳥居には、三行にわたり刻銘がある。当社再興の際のものとみられている。「山城国葛野郡式内 木島再興日向守神服宗夷太神降水本 天保二年辛卯十月再興神主民部輔神服宗秀」。神主・神服(はっとり)宗夷とは、もとは江尾市兵衛(新町屋台所)と称した。呉服商・越後屋(三井家)が、当社を三井家祈願所として再興した際に、神職株を購入して神主に就けたという。
 三柱鳥居の解釈については諸説がある。
 1.三井家が三柱鳥居の再建に深く関わっていることから、三井家を象徴して三柱になったという。
 2.三角形は、夏至と冬至の日の出、日の入りの逍拝線上にあるとする見方もある。それぞれに山が当てられている。冬至の朝日は境内東方の稲荷山から昇り、夕日は西方の松尾大社に沈む。夏至は東方の下鴨神社・糺の杜、そのさらに東の延長線上の比叡山・四明嶽から昇り、西方の愛宕山に沈む。
 3.三角形のそれぞれの線上に秦氏ゆかりの社・古墳、南東の伏見稲荷大社、南西の松尾大社、真北の双ヶ丘が配置されているとする。
 正確には北東に比叡山、北西に愛宕山があり、当社境内を含め実際には逆三角形になる。
 4.かつて、鳥居の周辺より清泉が湧き出し、神池(元糺の池)を潤し続けていた。東には禊池跡も残されている。現在の鳥居付近よりの湧水もあったという。この泉を三方より拝するために、三柱三角の鳥居が立てられたともいう。池を磐座(いわくら)とし、祭祀の場として祀られたともいう。
 5.秦氏祖先を景教(ネオトリオス派)と関連付け、ユダヤ人と関わるとして日猶同祖論とするものもある。
 6.鳥居付近直前で、かつて御室川、宇多川が合流し、御室川として流れ下った。川は神事に関していたともいう。
 三柱鳥居について、当社唯一といわれていた。その後、全国に7カ所確認された。京都には南禅寺大寧軒の茶庭(非公開)に、明治期に設計された池中の石造の三鳥居がある。
◆元糺 当社と下鴨神社(左京区)の関わりは深いとみられている。秦氏は鴨氏とも婚姻関係にあったという。
 当社の周囲の森を「元糺(もとただす)」、「元糺の森」という。(「木島坐天照御魂神社由緒書」)。元糺と下鴨神社の糺の森という2つの井泉は、地下水脈で繋がっているともいう。
 平安時代、第52代・嵯峨天皇の時(809-823)に、潔斎(けっさい、物忌み)の場が、この地から下鴨神社に遷された。賀茂明神も糺の杜へ遷されたという。そのため元糺の名のみが残されたという。
 土用の丑の日に、当社では足つけ神事が行われている。池水に手足を浸すと霜焼け、脚気などに罹らないという。下鴨神社にも同様の神事がある。
◆遊仙窟 平安時代の第52代・嵯峨天皇(在位: 809-823)の頃、大江尹時(おおえ の これとき)が、当社を参籠した。初唐の張鷟(ちょう さく、 660頃-740頃) 著の文語中編伝奇小説、『遊仙窟(遊僊窟)』の語句が難解で読みこなせなかった。尹時は、当社に居た老翁に読み方を教授される。尹時が礼物を持って、当社を再び訪ねると、老翁の姿はなかった。老翁とは、木島明神の化現だったという。
 物語は、主人公・張生が旅に出て神仙窟に迷い込む。戦争未亡人の仙女、崔十娘(さいじゅうじょう)、王五嫂(おうごそう)の歓待を受け、翌朝別れる。
 『遊仙窟』は、奈良時代に遣唐使が持ち帰った。万葉集、江戸時代の洒落本などにも影響を与え、古写本に付された傍訓は貴重な資料とされている。中国では失われていたため、江戸時代に中国に逆輸入された。
◆葵 社紋は、賀茂社と同じく双葉葵になる。
◆野生生物 ナガバヒョウタンゴケ(蘚類、準絶滅危惧種)がある。2015年現在。
◆年間行事 御手洗祭・足つけ神事(庶民信仰として、手足を神池の水に浸すと諸病、しもやけ、脚気に効くという。無病息災、諸病に罹らないともいう。)(7月土用の丑の日)、例祭(10月10日)。
 月次祭(毎月1日)。
 

*年間行事(拝観)などは、中止、日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の古代社寺 京都の式内社と古代寺院』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 上』 『続・京都史跡事典』『洛西探訪』『京都の地名 検証3』『昭和京都名所図会 4 洛西』『京都の寺社505を歩く 下』『京都大事典』『稲荷信仰と宗教民俗』『京都ご利益徹底ガイド』『鳥居』『京都はじまり物語』『京都歩きの愉しみ』 、ウェブサイト「コトバンク」


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狛狐

石橋

末社、白清社・宇迦之御魂大神

白清社

白清社

白清社・宇迦之御魂大神

不明

不明

不明

元糺の森
平安京オーバレイマップ
map 木島神社 〒616-8105 京都市右京区太秦森ヶ丘町  075-861-2074
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