御土居遺構北辺 (京都市北区)
Odoi
御土居遺構北辺  御土居遺構北辺
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北区、鴨川沿い(加茂川中学校敷地)に残る御土居、1930年
に国の史跡に指定



鴨川に面した北東隅の御土居。


鴨川近く、堀川通の西


大宮交通公園内


玄琢
斜面に築造された大規模な遺構で堀(中央)と堤(左)からなる。

御土居の概略図




鷹峯



御土居史跡公園
 豊臣秀吉が築造させた御土居(お土居)史蹟のうち、鴨川と面する北東角に、国の史跡である御土居土塁の一部が残されている。現在、鴨川に面している遺構はここにしかない。御土居は、鴨川の堤防としての役割も果たしてきた。
◆歴史年表 この地には、かつて西念寺という寺院があったという。
 安土・桃山時代、1591年、閏1-2月、2カ月をかけて、豊臣秀吉は御土居(お土居)を築造した。
 近代、1919年、史蹟名勝天然祈念物保存法に指定される。
 1930年、御土居9か所が国史跡指定地になる。
 1934年、室戸台風の際にも、御土居によって鴨川洪水の被害を防いだという。
◆御土居 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後、高倉より東、松原以南は、相次ぐ鴨川の氾濫により荒地と化した。安土・桃山時代、1591年、京都の再興・改造を手がけた豊臣秀吉は、細川幽斉、前田玄以などに堤の築造を命じた。諸国大名らは、洛中の周囲をめぐらせた堤防・惣構施設「御土居」を、わずか5カ月(2カ月とも)の突貫工事で完成させる。御土居は、京廻りノ堤、新堤、惣曲輪(そうぐるわ)、土居堀、土居、お土居とも呼ばれた。
 御土居は、北は上賀茂、鷹ヶ峰、西は紙屋川、東寺、南は東寺の南、東は鴨川西岸に対して築かれ、当時存在した聚楽第、現在の御所を取り囲んでいる。その規模は、東西3.5km、南北8.5km、総延長は22.5kmにもなった。
 御土居は、「掻揚城(かきあげしろ)」という工法による。掘った濠の土を積み上げて土塁を築き、積石や石垣で地盤は固められた。この際に、墓石、地蔵なども「礎石」として使われた。これは当時の構築物においては一般的なことだった。なお、「掻揚」だけでは、土塁を築く土量が足りないとする見方もある。
 御土居の土塁は一定しておらず、低幅10-20m、天端4-8m、犬走り1.5-3mあった。土塁の上は、盛土の保護、強度を増すために竹林で覆われた。竹薮の伐採は厳禁だった。土塁の外には、濠(3.6-18m)が設けられている。東北部の鴨川と接する付近では、自然の断崖も利用し、堤の高さが36mにも達したところもあった。鴨川沿いには、旧来の鴨川の堤と御土居、さらに新しい土塁も築かれ、三重の堤防によって鴨川の氾濫を防いだところもあった。江戸時代、御土居の外に造られた濠は、農業用水としても機能する。
 聚楽第、御所を囲むように構築された御土居は、「洛中」と「洛外」の区分をさせるなどの洛中範囲の確定、軍事的な城壁の役割、権勢誇示という政治的な意味合い、小田原城の城下を模したとする見方もある。また、それまでの権力支配(朝廷、公家、寺社)から都の民を分断させ、聚楽第を中心にした新しい都市の再編と支配が強行されたという。さらに、1591年の御土居築造が、1592年の文禄の役の前年であることから、秀吉の朝鮮、明攻略を前提とした首都防衛機能の一環だったともいう。「普請太閤」といわれた秀吉の意図は、複合的な要因も考えられている。一般的には、鴨川、紙谷川などに対する水害対策、防災的な意味が強いと考えられている。
 御土居築造に伴う新たな町割も行われた。平安京以来の条坊制は、東西南北一町四方(正方形)の区画を基本とした。これは、中心部に無駄な空地を生む。秀吉は、一部を除き、これを半町一町の短冊型(長方形)の区割りに再編する。半町毎に新たな南北の道路(小路)を設けている。この新しい町割により、町家の数と人口も増加し、検地の効率も高まった。
 さらに、寺町通といわれる寺院街を御土居に沿う形で整備し、強制移転させている。防御的な意味と、税徴収の効率化、寺院と町民の分断の意味も含まれていた。
 平安京以来、九条大路の南以外には羅城の築かれていなかった都は、初めて本格的な城塞によって囲まれた。この堤の築造により、都の開発は鴨川の間際まで進む。また、散在していた寺院は、御土居の内(西)の鞍馬口から松原間(かつての東の京極通東側、現在の寺町通)に、南北に並べる形で強制移転させた。この寺院町と寺之内町の新設置は、防災の意味と、寺院と民衆の結びつきを分断する意味もあったともいう。
 御土居の保全は、京都所司代の命により、近郊の農民が駆り出されていた。江戸時代、1669年以降は、角倉了以の子・角倉与一が「土居薮之支配」(奉行)に任じられ、管理権を与えられた。御土居に繁茂した竹(土居薮)は民間に払い下げている。竹は資材として利用された。
 築造から40年ほどで、都の開発が御土居を越えて進む。堤防の役割を果たしていたものを除き、大部分の御土居は次々に取り壊され、屋敷用地、道に転用された。元禄期(1688-1704)までは水堀としても機能していた。近代以降、1870年の京都府の「悉皆開拓」令により、土居の破壊が急速に進行した。この時、「お土居薮地」は、田圃、畑、桑畑、茶畑などに開墾することが奨励される。府は土地の払い下げを通達している。
 1919年の史蹟名勝天然祈念物保存法、1930年には御土居9か所が国史跡指定地になる。ただ、遺構の破壊が相次いだ時期もある。また、史跡指定地のほかに4か所で土塁遺構が見られる。史跡指定地も含めて、遺構の保存は万全ではない。
◆七口 土居の出入り口は「七口」といわれた。ただ、秀吉の頃には十口以上だったともいわれ、時代での変遷、呼び名も複数ある。また、「口」そのものは平安時代にすでにあり、「粟田口」「九条口」の呼称があった。室町時代には、「くらま口」には関所があり関銭が徴収されていた。
 長坂口(清蔵口、北丹波口、千本口)、鞍馬口、大原口、粟田口(三条橋口、三条口、大津口)、伏見口(五条橋口、五条口、大仏口・伏見口)、鳥羽口、丹波口(七条口)、荒神口(今道の口)、竹田口(伏見口)、東寺口(鳥羽口)、嵯峨口など、それぞれが「洛外」へ通じる重要な街道につながっていた。


*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』『御土居堀ものがたり』『洛中洛外』『秀吉の京をゆく』『京都の地名検証 2』『京都の地名検証 3』『京都大事典』京都府の歴史散歩 上』『京都・観光文化 時代MAP』
 


  上賀茂神社      御薗橋       廬山寺(御土居)      史跡御土居(鷹ヶ峯)      紙屋川・御土居      枳殻亭(渉成園)                  

「旧土居町」の地名が残っている。御土居史跡公園

【参照】北区北門前町にある、かつてのお土居から出土したという石仏群。いずれも花崗岩で造られた阿弥陀仏、ニ尊、地蔵、五輪塔など。詳細はよくわかっていないが、お土居の礎に用いられたものと推定される。石仏には室町時代のものも含まれるという。現在は町内で、延命地蔵大菩薩として大切に祀られている。
御土居の断面図一例
参照 『豊臣秀吉事典』   © Kyotofukoh
平安京オーバレイマップ
 御土居 京都市北区紫竹上長目町、堀川町
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