紫竹御土居(鴨川) (京都市北区紫竹)
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紫竹御土居 紫竹御土居
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「史蹟 御土居跡」の石標


京都市の説明板


鴨川沿いの土塁


鴨川沿いの土塁


堀川通西側の土塁


御土居(緑色)、鴨川(右端)、OpenStreetMap Japan








安土・桃山時代の御土居、京都市の大宮交通公園の説明板より


安土・桃山時代の聚楽第(左)、御土居(右端の赤実線)、京都市の説明板より


江戸時代前期の御土居、京都市の説明板より


【参照】御土居より出土した漆器椀(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所蔵)


【参照】御土居より出土した左から漆器若椀、漆器、漆器独楽、木製羽子板(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所蔵)


【参照】御土居の堀の遺構(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所の展示パネル)


【参照】「寺町通り」の通り名板


【参照】「寺之内通り」の通り名板
 鴨川と面する北東角に、国の史跡「紫竹御土居(しちく-おどい)」の土塁の一部が残されている。
 豊臣秀吉が築造させた御土居(お土居)史蹟のうち、現在、鴨川に面している遺構はここにしかない。御土居は、鴨川の堤防としての役割も果たしてきた。
◆歴史年表 この地には、かつて西念寺という寺院があったという。
 安土・桃山時代、1591年、旧閏1-2月、豊臣秀吉は2カ月をかけて、御土居を築造した。
 近代、1919年、史蹟名勝天然祈念物保存法に指定される。
 1930年、御土居8カ所が国史跡指定地になる。
 1934年、9月、室戸台風の際に、御土居によって鴨川洪水の被害を防いだという。
豊臣 秀吉 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・豊臣 秀吉(とよとみ-ひでよし、1537-1598)。男性。幼名は日吉丸、初名は木下藤吉郎、小猿と呼ばれた。父・尾張国(愛知県)の百姓、織田信秀の足軽・木下弥右衛門、母・百姓の娘なか(天瑞院)。1551年、家出、後に今川氏の家臣・松下之綱、1554年、織田信長に仕える。1561年、浅野長勝養女・ねねと結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗った。戦功を重ね、1573年、小谷城主、羽柴姓と筑前守、信長の天下統一にともない西国転戦。1582年、備中高松城の毛利軍と戦いの最中に本能寺の変が起こり、和睦し軍を返し山崎で明智光秀を討つ。1584年、小牧・長久手で織田信雄、徳川家康の連合軍に敗れる。1585年、紀州根来と雑賀、四国・長宗我部元親を服した。関白に進む。1586年、聚楽第、広寺大仏造営に着手、太政大臣に昇り豊臣の姓を賜わる。1587年、九州征討、聚楽第が完成する。旧10月、北野天満宮で北野大茶湯を催した。1588年、第107代・後陽成天皇が聚楽第行幸、検地、刀狩を行う。1590年、小田原の北条氏直らの征討、朝鮮使を聚楽第に引見、1591年、利休を自刃させる。1592年、文禄の役を始め、甥の養子・秀次に関白職を譲り、太閤と称した。1593年、側室淀殿に秀頼が生まれると、1595年、秀次を謀反人として切腹させ、妻妾子女らも処刑した。1597年-1598年、朝鮮を攻めた慶長の役に敗れた。1598年、旧3月、醍醐寺で「醍醐の花見」を行う。旧8月、伏見城で没した。没後、豊国廟に豊国大明神として祀られた。62歳。
 秀吉は京都で「都市改造」を行う。1585-1591年、洛中検地・洛中地子免除(1591)、1586年よりの方広寺大仏建設、1586-1587年、聚楽第・周辺の武家邸宅街建設、1589年、禁裏・公家町の修造整備、1590年、新町割建設(短冊形町割)、1590年、三条大橋などの橋梁・道路建設、1591年、御土居築造、寺院街(寺町・寺之内)建設などになる。
◆鴨川の御土居 ◈「紫竹御土居」は、安土・桃山時代、1591年に豊臣秀吉が築造させた御土居のうち、現在、鴨川に面している唯一の遺構になる。御土居の最北端に位置している。
 鴨川西岸と接しており、土塁は南東から北西、北東から南西方向に屈曲している。かつて、土塁は鴨川に沿い北側にも延びていた。鴨川沿いにあった西念寺を土塁内に取り込んでいた。
 この地点の鴨川の流れは、西から東に迂回している。御土居の築造に際しては自然の断崖も利用し、堤の高さが36mにも達したところもあった。御土居は、鴨川の堤防としての役割も果たしていた。
 鴨川沿いには、旧来の鴨川の堤、御土居、さらに新しい土塁(鴨川堤防・加茂街道)も築かれている。これら三重の堤防により、川の氾濫を防いだ箇所もあった。
 ◈堀川通東側の土塁は、かつて西側の土塁と連続していた。近代、1932年頃に堀川通の開通に伴い分断された。かつて、土塁の基底部には排水溝が設けられていたという。
◆御土居 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後、高倉より東、松原以南は、相次ぐ鴨川の氾濫により荒地になった。
 安土・桃山時代、1591年に、豊臣秀吉(1536-1598)は京都の再興・改造を手がける。細川幽斉(1534-1610)、前田玄以(1539-1602)などに命じ、洛中の周囲をめぐらせる堤防・惣構施設の「御土居」の築造させた。諸国大名らにより同年1月に着工になり、旧閏1月に2カ月で完成したという。(近衛信尹『三藐院記[さんみゃくいんき]』)。また、2-4カ月/5カ月の突貫工事で完成させたともいう。
 御土居は、北は上賀茂・鷹ヶ峰、西は紙屋川(天神川)・東寺の西辺、南は東寺南の九条通、東は鴨川西岸の河原町通まで築かれた。当時存在していた聚楽第、京都御所も土塁内側に取り囲んでいる。規模は、東西3.5km、南北8.5km、総延長は22.5kmにもなった。
 御土居は、当初「土居堀」と呼ばれた。ほかに「京廻りノ堤」、「新堤」、「惣曲輪(そうぐるわ)」、「土居」などとも呼ばれ、江戸時代には「御土居」と称されるようになる。
 御土居の構造は外側に堀(濠)、内側に台形状の土塁を築いた。工法は「掻揚城(かきあげしろ)」が採られ、掘った堀の土を積み上げて土塁を築き、積石・石垣で地盤を固めた。墓石・地蔵なども「礎石」として使われている。なお、当時の構築物では一般的なことだった。掻揚だけでは、土塁を築く土量が不足したとの見方もある。
 土塁規模は一定しておらず、高さ3.6-5.4/6m、基底部幅10-20m、頂上部幅4-8m、犬走り1.5-3mあった。土塁頂上は、盛土の保護・強度を増すために竹林が植えられ覆われていた。このため、竹薮の伐採は厳禁された。土塁の外には、堀(幅3.6-18m/12.5-20m、深さ1.5-2.5m)が設けられていた。堀は河川・池・沼などの自然地形も利用して築造されている。堀には水が溜められ、江戸時代には、農業用水としても利用されている。 
 御土居には「京の七口」と呼ばれる出入口が開けられ、主要な街道に通じていた。出入口は特定されず、当初は10カ所あり、江戸時代前期には40カ所にも増えたという。
 「普請太閤」といわれた秀吉の御土居築造の意図は、複合的なものとされる。一般的には、鴨川・紙谷川(天神川)などの氾濫に対する水害対策・防災的な堤防の意図が強かった。さらに、外敵に備える防塁の意味も加わる。平安京以来、京都は九条大路の南以外には羅城は築かれていなかった。御土居により初めて、本格的な城塞により囲まれることになる。
 御土居築造により、都の開発は鴨川の間際まで進んだ。また、聚楽第・御所を取り込むように構築されたため、「洛中」・「洛外」の区分を生み洛中範囲の確定に繋がった。軍事的な城壁の役割、権勢誇示という政治的な意味合いもあった。それまでの権力支配(朝廷・公家・寺社)から町衆を分断させ、聚楽第を中心にした新都市の再編・支配が強行されたともいう。1591年の御土居築造が、1592年の文禄の役の前年にあたり、秀吉の朝鮮・明攻略を前提とした首都防衛機能の一環だったともいう。なお、築造に際して、小田原城の城下を模したとする見方もある。
 御土居築造に先立ち、新たに「町割(天正町割)」も行われた。1590年に寺院に対し「寺割」が実施される。それまで散在していた寺院を強制移転させ、新たに寺町、寺之内、本願寺などの寺院町を形成させた。これにより、防御・防災、税徴収の効率化、寺院と民衆の結びつきの分断の意味もあったという。
 平安京以来の条坊制は、東西南北一町四方(正方形)の区画を基本としていた。これでは、中心部に無駄な空地が生じる。秀吉は一部を除き、これを半町一町の短冊型(長方形)の区割りに再編する。半町毎に、新たな南北の道路(小路)を設けた。この新しい町割により、町家数・人口増加をもたらし、検地の効率も高められた。
 御土居の保全は、京都所司代の命により、近郊の農民が駆り出されていた。江戸時代前期、1669年以降は、角倉了以の子・角倉与一(1571-1632)が「土居薮之支配(奉行)」に任じられ、管理権を与えられている。この頃、御土居に繁茂した竹(土居薮)を民間に払い下げている。竹は資材として利用された。
 御土居築造から40年ほどで、都の開発が御土居を越えて進行する。鴨川には新たな堤防が築かれ、東側の開発が進み土塁は取り壊された。御土居のうち堤防の役割を果たしていたものを除き、大部分は次第に撤去され、屋敷用地・道路などに転用される。なお、江戸時代中期、元禄期(1688-1704)までは、堀はまだ水堀としては機能していた。その後、築造後100年を経て堀は埋没し、周辺住民の生活廃材の捨て場になった。このため、後の発掘調査により土器・陶磁器、瓦、金属製品、石加工品、木製品などが多数出土している。
 近代以降、1870年の京都府の「悉皆開拓」令により、府は土地の払い下げを通達している。以来、御土居の破壊が急速に進行する。「お土居薮地」は、田圃、畑、桑畑、茶畑などに開墾することが奨励された。1945年の第二次大戦後は、土塁遺構の大部分は消失し、現在はごく一部のみが保存されている。
◆国史跡 近代、1919年の史蹟名勝天然祈念物保存法が施行し、1930年に京都市内の御土居8カ所が国史跡指定地になった。
 その後、現代、1965年に北野天満宮境内の1カ所が追加され、現在、9カ所が指定地になっている。1.平野(北区平野鳥居前町)、2.紫野(北区紫野西土居町)、3.鷹ヶ峯(北区鷹ヶ峯旧土居町)、4.鷹ヶ峯(北区鷹ヶ峯旧土居町)、5.大宮(北区大宮土居町)、6.紫竹(北区紫竹上長目町・上堀川町)、7.蘆山寺(上京区来之辺町)、8.西ノ京(中京区西ノ京原町)、9.北野天満宮(上京区馬喰町)になる。
 土塁遺構は史跡指定地のほかに、大宮交通公園(北区紫竹北栗栖町3)、北野中学校(中京区西ノ京中保町1-4)を含む4カ所がある。
◆発掘調査 現代、2023年2月に、京都市埋蔵文化財研究所は、御土居遺構から敵の侵入を防ぐための障子堀跡を初めて発見したと発表した。御土居は軍事的側面を重視していたとみられている。
 2022年9月-2023年1月の京都市中央卸売市場第一市場(下京区)の施設整備に伴い発掘調査が行われた。調査地は、御土居の南西部分、旧丹波口近くになる。南北66m、東西幅5m以上、深さ1.3-2mの堀が見つかり、堀底から人為的に掘り出した東西・南北方向に交差する畝状の高まり(間隔2-3.5m、高さ最大0.7m)が確認された。畝は東西方向に15本あり、南北方向にも1本あった。これらは、城郭の障子堀と同じ構造になっており、堀底に障子の桟様の格子目(ワッフル)状の畝を設けていた。侵入者はこの凹凸により移動が妨害された。堀底には泥が厚く堆積しており、付近は水堀だったとみられ、水堀・障子堀により防御機能を高めていた。
 安土・桃山時代、1590年に豊臣秀吉は、北条氏の小田原城を水陸より大軍で攻め包囲した。北条氏は3カ月の籠城戦の末に降伏している。小田原城には、城と城下町を掘・土塁で囲む総構があり、障子堀も用いられていた。秀吉は、戦の中で見た小田原城の技術を、翌年の御土居築造に際して転用した可能性も指摘されている。
 小田原城の城郭の外には、南東の海岸線を底辺とした蒲鉾状の巨大な大外郭の堀・土塁(幅約6m)を廻らしていた。これらの堀・土塁は秀吉の侵攻に備え、急遽構築されたという。規模は南西-北東、北西-南東ともに1.8km、周囲9kmに及ぶ。なお、関西では大坂城、高槻城などでも採用された。
 御土居の堀底の形状は、場所により異なっていたと考えられている。南東には街道拠点の丹波口があるため、防衛機能を高める必要があった。ただ、南部には低地が広がり、北部のように土塁を高く造れないため、障子堀も用い補ったともいう。
◆七口 御土居の出入り口は「七口」といわれた。ただ、秀吉の頃には十口以上だったともいわれ、時代での変遷、呼び名も複数ある。また、「口」そのものは平安時代にすでにあり、「粟田口」「九条口」の呼称があった。室町時代には、「くらま口」には関所があり関銭が徴収されていた。
 長坂口(清蔵口、北丹波口、千本口)、鞍馬口、大原口、粟田口(三条橋口、三条口、大津口)、伏見口(五条橋口、五条口、大仏口・伏見口)、鳥羽口、丹波口(七条口)、荒神口(今道の口)、竹田口(伏見口)、東寺口(鳥羽口)、嵯峨口など、それぞれが「洛外」へ通じる重要な街道につながっていた。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*便宜的に御土居通称を使用しています。

*参考文献・資料 『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』、『御土居堀ものがたり』、『洛中洛外』、『秀吉の京をゆく』、『京都の地名検証 2』、『京都の地名検証 3』、『京都大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都・観光文化 時代MAP』、『豊臣秀吉事典』、『御土居跡』、『京都 秀吉の時代-つちの中から』、 『建築家秀吉』、延命地蔵大菩薩の駒札、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、ウェブサイト「御土居跡-京都市」、ウェブサイト「コトバンク」、OpenStreetMap Japan
 


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紫竹御土居 〒603-8101 京都市北区紫竹上堀川町・上長目町 
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