曼殊院 (京都市左京区)
Manshu-in Temple
曼殊院  曼殊院
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勅使門と紅葉、勅使門は江戸時代、1656年頃建立、薬医門形式、前に15段の石段がある。






曼殊院門跡家紋








築地塀と苔、壁の定規筋は最上の5本入りになる。





通用門


庫裏(重文)、唐破風




庫裏、良尚法親王筆「媚竈(びそう)」の額が掛る。論語に、権力者に媚びず、竈(かまど)で働く人々に感謝するの意という。ただ、権臣にへつらうたとえとの意味から、良尚が、江戸幕府に媚びざるを得ない立場を自虐的に表したともいう(司馬遼太郎『街道をゆく 叡山の諸道』)







鶴島のゴヨウマツ






キリシマツツジ






扁額「塵慮尽」、邪な心を払うの意。


杉戸引手金具、瓢箪形




蹲踞


書院庭園の五基八燈の燈籠のひとつ。天台宗の教義により、釈迦の説法五時(華厳、鹿苑、方等、般若、法華涅槃)、八教(頓、漸、不定、秘密、蔵、通、別、円)に因むという








書院


小書院、富士の間「閑酔亭(かんすいてい)」の扁額、松花堂昭乗(1582-1639)筆



庭園 
 曼殊院(まんしゅいん)のある比叡山の南西麓は、かつて西坂本と呼ばれていた。曼殊院の曼殊(まんじゅ)とは、サンスクリット語の「妙薬」「愛楽」の意味がある。また、天上花を意味する曼珠沙華に由来するともいう。「竹内(たけのうち)門跡」「竹ノ内御殿(御所)」「竹裡門跡」などとも呼ばれている。
 天台宗の門跡寺院。本尊は阿弥陀如来立像を安置する。  
 京都天台五箇室門跡(三門派五門跡)(ほかに青蓮院門跡、妙法院門跡、三千院門跡、毘沙門堂門跡)のひとつ。神仏霊場会第108番、京都28番。京都洛北・森と水の会。
 息災延命、国家安泰、学業成就、試験合格祈願などの信仰篤い。十一面観音菩薩は合格祈願の信仰がある。
歴史年表 平安時代、延暦年間(782-806)、785年とも、天台宗を開いた最澄が、比叡山に建立した堂宇(後の東尾坊)に始まる。鎮護国家の道場だったという。
 天暦年間(947-957)、10世紀(901-1000)、天慶年間(938-947)とも、門主・是算(ぜさん、曼殊院初代)の時、比叡山西塔北谷に移り、東尾房(とうびぼう)と称された。是算は菅原氏の出身であり、947年の北野社創建にあたり、初代別当職を兼務している。その後、善法院と号したという。
 985年、支院の静慮院が創設される。
 天仁年間(1108-1110)、8世・忠尋(ちゅうじん)により曼殊院と改称した。忠尋も北野天満宮の別当を兼務した。忠尋が初代ともいう。北山に別院を建てたという。(曼殊院文書「慈厳僧正譲状」)
 永久年間(1113-1118)、慈順の時、現在の金閣寺付近の北山別院に移る。
 室町時代、康暦年間(1379-1381)、足利義満の北山山荘(後の鹿苑寺)造営に伴い、御所の北、現在の相国寺南付近に移る。
 文明年間(1469-1487)、1495年頃とも、伏見宮貞常親王子・慈運(33世、26世とも)の入寺以後、門跡寺院になり宮門跡(親王門跡)寺院になる。また、道豪(道順、関白左大臣二条師良子)が、146世・天台座主に就き、以後、中世、近世までに6人を送り出した。
 1512年頃、慈運は曼殊院御連歌会を度々催す。
 1591年、織田信長は寺禄328石を寄進する。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、曼殊院聖廟法楽月次歌会が度々催される。
 江戸時代、1611年、徳川家康は寺禄528石を寄進する。
 1613年、北野松梅院との間に北野支配をめぐり争いになり、曼殊院司るとの幕命を受けた。
 1634年、八条宮智仁親王の子・良尚(りょうしょう)法親王が入寺する。
 1652年、支院・法雲院が創建された。
 明暦年間(1655-1658)、弁天堂が建てられる。
 1656年、29世・良尚法親王の時、台命により現在地に移る。(「天台座主記」)。現存する本堂、書院、庫裏などがこの時に建立される。良尚は中興開山といわれる。この頃、庭園も作庭されたとみられる。
 1665年、徳川家綱により寺禄700石あまりになる。
 1666年、支院・随縁院が創建された。
 近代、1868年、神仏分離令以後、別当職曼殊院事務政所が廃止された。
 1871年、江戸幕府の定めた三門跡制(宮門跡、摂家門跡、准門跡)は廃止になり、門跡の称号も廃された。法親王は還俗となる。同年、72石が廃されるが、米231石が復された。
 1872年、支院の随縁院、修学院、静慮院も合併された。(「京都府愛宕郡村志」)。宸殿が京都府療病院建設に際して寄付、移築された。
 1876年、宮内省より年250石が贈られる。庭園東の「田楽亭」が撤去になる。
 1885年、内務省より旧門跡は復称を許される。
 現代、1945年以降、戦後は荒廃する。
 1949年以降、国庫、府史よりの補助により復興が進む。
 1954年、書院、庭園が国の名勝に指定された。
 1961年-1963年、大書院の解体修理が行われる。
◆是算 平安時代の天台宗の僧・是算(ぜさん、?-1018)。詳細不明。菅原氏の出身。花山法皇の弟子。初代曼殊院門跡。947年、北野社創建にあたり、初代別当職を兼務した。密教学者。
◆忠尋 平安時代の天台宗の僧・忠尋(ちゅうじん、1065-1138)。佐渡国の人。父は源頼平の子・土佐守忠季。東陽房、大谷座主とも称された。比叡山の長豪、覚尋、良祐に天台教学を学ぶ。8代・曼殊院門主、北野天満宮の別当を兼務。後に比叡山北谷東陽院に移る。鞍馬寺を東寺末から西塔末寺とした。1115年、里坊として東山大谷に十楽院を開創、1118年、権律師、1124年、権少僧都、1130年、46世天台座主、1137年、大僧正に任じられた。門流は東陽院流と称された。
◆慈運法親王 室町時代の曼殊院門跡・慈運法親王(じうん ほっしんのう、1466-1537)。父は伏見宮貞成親王子・伏見宮貞常親王。第103代・後土御門天皇猶子。二品僧正とも称された。曼殊院に入り、1495年、26代・門跡、北野社別当に任じられた。1530年、二品に叙せられ、1533年、法住寺座主を兼任、大僧正に任じられた。和歌、連歌に秀でた。
◆良恕法親王 安土・桃山時代-江戸時代の曼殊院門跡28世・良恕法親王(りょうじょ ほっしんのう、1574-1643)。誠仁(さねひと)親王の第3王子。母は新上東門院。後陽成天皇の弟。親王、得度して1587年、曼殊院門跡、北野別当。1621年、二品に叙される。1639年、天台座主。真如堂、後に曼殊院茅ヶ渓に改葬された。
 和歌、書、有職故実、立花などにすぐれた。竜華院と追号された。著作に「良恕親王厳島参詣記」など。
◆良尚法親王 江戸時代前期の曼殊院門跡29世・良尚法親王(りょうしょう ほっしんのう、1623-1693)。八条宮智仁(としひと)親王第2王子、母は丹後国宮津藩主京極高知の娘常照院。1632年、第108代・後水尾天皇の猶子となる。曼殊院宮の付弟(ふてい)になり、曼殊院門主で伯父・良恕(りょうじょ)の弟子に付き得度、密教、顕教を修める。1634年、親王宣下を受け、曼殊院で得度した。1646年、25歳で175世・天台座主、29代・曼殊院門主。1647年、二品に叙された。1656年、曼殊院を現在地に移し、伽藍を整備した。1687年、曼殊院を辞した。潅頂を受け大阿闍梨になる。曼殊院中興開山とされる。
 国学、和歌、書、茶の湯、立花、香、画、作庭に通じ、画を狩野探幽・尚信兄弟に学び、池坊華道を納めた。
◆嘉長 安土・桃山時代-江戸時代の金工家・嘉長(かちょう、生没年不詳)。伊予松山生まれ。豊臣秀吉に召され堀川油小路に住んだ。建具金具、七宝に優れた。小堀遠州に重用される。桂離宮の釘隠、襖引手、曼殊院・書院の金具も手掛けたという。
◆北野天満宮 菅原氏出身の曼殊院始祖・是算は道真とも関り深く、947年(1004年とも)に勅命により北野社の別当職に任じられている。以来、歴代住持が北野天満宮(北野社)の別当も兼務した。近代、1868年の神仏分離令により、別当職曼殊院事務政所が廃止され、事実上、神仏習合が終焉を迎えるまで900年にわたり関係は続いた。なお、北野社の創建時の燈明は、曼殊院の旧地、延暦寺根本中堂きえずの燈明の火によるといわれている。
 別当の職務は、北野天満宮に奉仕した祠宮三家(松梅院、徳勝院、妙蔵院)の得度の際の戒師、神殿の奉仕をした宮仕(ぐうじ)の増位、北野神人(じにん、西京の社人)の叙任などに当たった。神子職も曼殊院宮により上月(こうづき)文子と襲名されていた。
 社務のために北山に別院が建立された。その場所は特定されていないが、現在の金閣寺付近ともいう。1397年、足利義満の北山第(北山殿)建立に際して、別院は相国寺の南付近に移転したともいう。実務については、曼殊院から派遣された目代(もくだい)が当っていた。
 現在、本尊の隣に安置されている平安時代後期作の十一面観音菩薩像は、かつて北野天満宮の本地仏として安置されていた。観音は、道真の化身と考えられており、良尚法親王により遷されたという。ほかにも曼殊院には多数の天神像、「北野天神縁起絵巻」などが所蔵されている。
 また、境内西の弁天島には、弁天堂と室町時代の曼殊院天満宮が建つ。菅原道真を祀り神仏習合時代の名残りになっている。
◆仏像・木像・仏画 大書院仏間、厨子中央に鎌倉時代作、本尊の「阿弥陀如来立像」が安置されている。かつて大書院西に宸殿があり、1872年に壊された際に、仏間に遷された。
 厨子内左手前に良尚法親王が北野天満宮より遷した「十一面観音立像」を安置する。平安時代後期作、天神の本地仏といわれている。左に室町時代の「阿弥陀如来坐像」、安土・桃山時代の「大日如来胎蔵界」が安置されている。
 厨子右に室町時代の「薬師如来像」、鎌倉時代後期の「阿弥陀如来坐像」、そのほか歴代門跡ゆかりの仏像が安置されている。
 「慈恵大師坐像」(重文)(84㎝)は、鎌倉時代作という。当院の栄盛という僧が、1261年よりほぼ毎年1体ずつ全部で33体の像を造立した。そのうちの一体で、1268年の作による。当時は怨霊災禍を祓う民間信仰として、33体、66体、99体という大師像が造られていたという。木造、寄木造、玉眼、古色。
 平安時代の絹本著色「不動明王像(黄不動)」(国宝)(178.1×80.9cm)は、「三大不動尊」(ほかに青蓮院・青不動、高野山明王院・赤不動)のひとつに数えられている。円珍(智証大師、814-891)が感見した、滋賀・園城寺の金色の不動明王像(黄不動)を写したものという。模写としては現存最古、最も優れたものという。ただ、模写については異説もある。本像とは異なり、岩座に立ち、全身が黄色く着色されている。着衣の配色、装飾性も増している。頭光を背負い、頭髪は右旋螺の巻毛、両目は見開き、口の牙は両方ともに上を向き、筋肉質の上半身は裸、右手に剣を立て、左手に羂索を手繰る。染紙に和様書体で書写された平安時代の古今和歌集は、仮名の名品として知られる。原画は現在、京都国立博物館寄託、復元画は「宿直の間」に掲げられている。
 「松の間」に1949年より「善光寺如来」が安置され、京都別院になった。
 護摩堂の須弥檀上に安置の本尊の「不動明王立像(大聖不動明王)」は平安時代後期作(鎌倉時代とも)による。
 持仏堂に本尊・「阿弥陀仏」を安置する。
建築 曼殊院の建物、庭園は「小さな桂離宮」といわれる。江戸時代の中興の祖・良尚法親王の2歳上の兄は桂離宮を完成させた智忠親王であり、当院の建立に際しても関わったとみられている。
 最も主要な建物といわれた1656年建立の「宸殿」は、境内南西にあった。近代、1872年の京都府療病院建設に際して移築になり現在は失われている。北東にあり、1876年取り壊された「夕陽亭」、庭園の東に小堀遠州好みという「澆花亭(ぎょうかてい)」は1934年の台風で倒壊した。「田楽亭」も現在は失われている。
 「勅使門」は、江戸時代、1656年頃に建てられた。15段の石段上に建てられている。薬医門。
 「唐門」は江戸時代初期の建立による。唐破風の向唐門、松、菊、木鼻・大瓶束に笈形の牡丹などの彫刻がある。桁行1間半、梁行1間半。桁行1間、梁行4間の廻廊が続く。
 「大玄関」には「先入関」の良尚法親王筆の横額が掲げられている。軒唐破風、土間に六角のせんを敷く。車寄、式台桁行8間、梁行7間半。
 「庫裏」(重文)は、江戸時代建立。唐破風、かつて下之台所として使われていた。良尚法親王筆の扁額「媚竈(びそう)」を掲げる。論語「その奥に媚びんよりはむしろ竈に媚びよ」に因る。桁行9間、梁行7間半。
 「本堂(大書院)」(附廊下)(重文)は、江戸時代、1656年に良尚親王により建立された。当初は書院として建てられた。広縁を廻し、低い高欄がある。天袋、地袋、火灯窓を持つ棚のある「十雪(じっせつ)の間」(10畳)の貼付壁に狩野探幽筆という絵、欄間に卍字くずしの意匠がある。ほかに「滝の間」(15畳、床付)、「鞘の間」、本尊などが安置されている「仏間」はかつて上段の間にあり、1868年(1872年とも)の宸殿の取り壊しに伴い仏像などが遷された。良尚法親王の御寝所の「御寝の間」「控えの間」などからなる。なお、大書院と良尚親王の父・智仁親王、兄・智忠親王造営の桂離宮の「笑意軒」意匠の相似例については、引手金具(扇、瓢箪、長い矢)、釘隠しの飾金具(十弁の菊と短冊形)、桂離宮「新御殿」の「月の字欄間」と欄間(月形卍字くずし)などが指摘されている。これらは金工家・嘉長作ともいう。数寄屋風書院造、一重、寄棟造、こけら葺、むくり屋根。桁行7間、梁行8間。
 「小書院」(重文)は江戸時代、1656年に建てられた。なお、小書院と大書院は雁行型に建てられ、南、東に折矩(おりかね)の縁が廻り、天井は疎垂木(まばらたるき)木舞裏になっている。「黄昏の間(次の間)」(7畳)は良尚法親王の居間であり最高の室になる。上段(台目二畳)は黒漆塗框、床の床柱に磨き丸太、一段低い吹寄の格天井、格縁は黒漆塗、鏡板は朱漆塗になる。付書院には10種(柿、欅、楓、桑、栃など)の寄木で作られた歌書棚の造り付け「曼殊院棚」(桂離宮の桂棚、修学院離宮の霞棚に並ぶ)が設えられ、狩野探幽筆という障壁画がある。棚は3段5枚、中央の上下に物入がある。前室の「富士の間(正室)」(8畳)には実際の富士山を見なかった法親王のために、長押の釘隠しに富士山と山にかかる雲、霞をあしらった七宝焼がある。板目の木目もまた雲に譬えている。釘隠しの雲の意匠、色調がそれぞれ変えられる凝った趣向になる。狩野探幽筆の障壁画もある。
 小書院「黄昏の間」と「富士の間」の間にある欄間(籬<まがき>に菊の欄間)には、細い格子に浮彫りと、透かし彫りで表から見た「表菊(おもてぎく)」、裏から見た薄肉彫「裏菊(うらぎく)」が上下二段(14個)に交互に配置されている。菊花紋は白、赤、褐、茶、黄、鼠の漆で彩色されている。これらの文様は、後に流行る元禄模様の先駆とされている。小書院広縁の板欄干(高欄、格狭間透嵌板)は、屋形舟(御座舟)の趣向になっており、建物全体が舟に譬えられ、大海原を越え蓬莱島を目指す航海を表している。
 ほかに、茶室(「八窓軒」「二畳の間」)、西に3畳、2畳、5畳、水遣の間(5畳半)などが続く。縁側と室の境に板戸4枚(外面吹寄堅桟戸、内面紙貼)、2枚の紙障子。東、南に縁側を廻す。当時は雨戸と戸袋はなく、戸襖により戸締りをしていた。一重、寄棟造、こけら葺、むくり屋根、二重屋根、桁行6間、梁行5間。
 江戸時代建立の「大玄関」(重文)は、軒唐破風、車寄、式台があり、良尚法親王筆「先入関」の額が掛る。土間に六角の敷瓦。
 大書院、書院の「廊下」は折曲り桁行7間、梁行1間、一重、両下(まや)造、こけら葺き。
 「上之台所」(重文)は、貴賓、高僧のための厨房だった。明暦年間(1655-1658)の創建時の建立による。1996年-2000年にこけら葺に復元された。桁行8間、梁行6間半。
 「護摩堂」は良尚法親王が建立したという。良尚法親王筆の篆書「驚覚(きょうがく)」が掲げられている。真剣な修法を説いている。桟唐戸に木瓜形の透かし。土間に六角せん瓦敷。宝形造、桟瓦葺、桁行3間、梁行3間。
 ほかに「座敷」は桁行4間、梁行9間。「宝蔵」は桁行2間、梁行6間。「経蔵」は桁行2間、梁行3間。「持仏堂」は桁行2間半、梁行2間半。「浴室」は桁行1半間、梁行1間半。「供侍所」は桁行2間、梁行3間半など。
 境内西、弁天島の「天満宮社」は、室町時代末に建立された院内最古の建物になる。向拝と身舎は海老虹梁で繋ぐ。向拝中央に松と梅、身舎に牡丹文の蟇股。良尚法親王により江戸時代、1656年に建立された。また、かつて一乗寺山にあり、現在地に移され建立されたともいう。桁行9尺2寸、梁行8尺7寸。檜皮葺、一間社春日造。
 「弁天堂」は、良尚法親王が明暦年間(1655-1658)に建立した。江戸時代、1833年、再建されている。弁財天像が祀られており、比叡山延暦寺の無動寺弁財天の御前立という。無動寺参詣に際して、かつてこの弁財天に参った後に山に向かっていたという。桁行9尺、梁行9尺。
◆茶室 富士の間西に、江戸時代の二畳(一畳台目)(一坪)の「無窓の席」(重文)がある。窓がないことから名付けられた。「くさりの間」とも呼ばれる。殿中の茶立所(茶の湯の間)と貴族趣味が加わった趣向になる。炉は向切、左に洞庫、付床(1尺4寸)(楓の地板、逆蓮華の擬宝珠の小柱、壁付柱との間に格狭間透かしの袖板)、天井に蛭釘が打たれている。東に襖2枚、西に片引襖の出入口がある。 
 「黄昏の間」北に「八窓軒(はっそうけん、八窓席)」(重文)がある。「京都三名席」(ほかに孤篷庵「忘筌席」、金地院「八窓席」)のひとつになる。東向きの平三畳台目、下座床の席。小堀遠州好みという。桂離宮の「松琴亭」に近いといわれている。釈迦の生涯を8場面で説く「八相成道(はっそうじょうどう)」、また八宗を表しているともいう。庭より飛石伝いに南寄りに躙口がある。袖壁に刀掛がある。狭い部屋に、障子の付いた8つの窓(連子窓、下地窓、掛込天井の垂木振分の天窓)が開けられ、それらの開閉により室内の光量を微調整できる。障子は接ぎ目を桟からあえてずらした石垣張りになる。「虹窓」ともいわれるのは、外の光の具合により虹のような影が生まれ、映る景色に変化が生じることによる。突上窓は「月見の窓」ともいわれる。台目床は黒塗りの框を置く。床の天井が高いことで知られている。躙口上の半間通りに掛込み天井(皮付小丸太の垂木、女竹吹寄の小舞に杉へぎ板)、床前半間の平天井の蒲天井(竹竿縁)が手前畳前まである。中柱に皮付き桜丸太、二重釣棚、床の間に左柱(皮付雑木丸太)、右柱(つり目の丸柱)。土壁はすさを散らし、黒い壁部分には烏賊墨が用いられているともいう。西に給仕口、茶道口がある。南の下地窓を通して、南庭の橋石組を観る趣向が凝らされている。こけら葺、付け足し屋根。
 江戸時代初期の露地もあり、飛石、方形の手水鉢の蹲踞、踏石などが据えられている。
 「御座の間」に炉、「丸炉の間」に丸炉、水屋がある。大徳寺・春屋宗園の「寒更」の額が掲げられている。
◆庭園 大書院と小書院南面にある国の名勝、枯山水式庭園(書院式枯山水)は、江戸時代、1656年の作庭による。小堀遠州(1579-1647)作という。ただ、作庭時に遠州はすでにない。中興の祖・良尚親王が、遠州好みに作庭させたともいう。禅庭と王朝風庭園が融合しているといわれている。
 深山から流れた水が、滝、渓流、海へと注ぐ様が、3つの築山、立石、石橋、白砂で表現されている。庭園の東、小書院前庭に蓬莱山、滝石(橋挟石、はしばさみいし)が据えられ、大書院前の鶴島には、飛翔する鶴が象られた樹齢400年のゴヨウマツ(ヒメコマツ)が植えられている。その根元に曼殊院型灯籠(キリシタン灯籠)が立つ。他方、小書院前の亀島には、地を這うような亀の形のアカマツが植えられていた。大書院の間からは、5月、真紅の花を付けるキリシマツツジを愛でることができる。
 小書院前庭には、築山の間を2つの巨石の青石による「橋石組」が組まれている。下を一段上げられ砂紋を引いた白砂の大河が苔地の間を流れ下り、大海に注ぐ。その右手の橋添石(はしぞえいし)は立てられ、この立石は滝を表し流れの起点を示している。東の蓬莱山には塔灯籠が立ち、寺院に見立てられている。小書院廊下は屋形舟(御座舟)に見立てられており、縁には板欄干が廻らされている。天井の一部も屋形船の様に造られている。煩悩に満ちた此岸から蓬莱の彼岸へ向かう大海(庭園)を渡る舟(書院の建築群)の意味があるともいう。
 5つの灯籠が据えられ、「五基八燈の灯籠」といわれる。天台宗の五時八教(釈迦説法の五つの時<華厳、鹿苑、方等、般若、法華涅槃>、八つの教え<頓、漸、不定、秘密、蔵、別、円>)を表すという。鶴島の織部灯「籠の曼殊院灯籠(キリシタン灯籠、クルス灯籠)」は親王がキリシタンの母・常照院より贈られたものという。竿四面に丸形の突出、火袋にアーチ、月形の火口が彫られている。「塔型灯籠」、「三重塔型灯籠」などがある。八燈とは正面左の塔に三段三燈、右に二段二燈が入り、ほかの三燈と合わせての数になる。
 小書院広縁手前に「梟(ふくろう)の手水鉢」(直径80cm)がある。江戸時代作で、花崗岩製の四方に梟の彫刻が突起した丸型になっている。かつて、小書院南縁の蹲踞として据えられた。石組の亀型の上に載せる形になっており、東に亀頭石が見えている。亀は屋形船に併走している形になる。手水鉢は建物側へわずかに傾けられており、部屋内から水に写した月見の趣向があったという。また、月や太陽の光は、蹲踞の水面で反射し趣を添えている。
 ほかに、奇石の蹲踞、花の間前の中庭に枯山水式庭園に一文字手水鉢、菊の花型井戸、松の根元に石が据えられている。
◆文化財 鎌倉時代、1268年の木像「慈恵大師坐像」(重文)。
 明時代の呂敬甫筆の紙本著色墨書「草虫図」2幅(重文)は、菊などの草花の周りを蝶、蜂、蜻蛉、蟷螂などが色鮮やかに描かれている。
 紙本墨書「雅楽器 教訓鈔 巻三」(重文)、南都楽所舞人の手になる鎌倉時代の楽書の最古の写本になる。南北朝時代、1390年に豊原量秋が書写した。
 室町時代の紙本墨書「後柏原天皇宸翰 後土御門 後柏原両天皇御詠草」(重文)、室町時代、1542年の紺紙金字「後奈良天皇宸翰 般若心経」(重文)など歴代天皇の宸翰、宸筆など多数。
 鎌倉時代の紙本墨書「花園天皇宸翰消息」7通(重文)、鎌倉時代、1329年の紙本墨書「花園天皇宸翰消息」、鎌倉時代の「慈円僧正消息」。
 南北朝時代、1354年の絹本著色「是害房絵巻」2巻(重文)は、大唐の天狗首領が比叡山に昇る途中、余慶律師、飯室僧正らにより懲らしめられ、逃げ帰るという話を描いている。
 平安時代の伝・藤原行成筆の紙本墨書「古今和歌集」(国宝)は色紙に仮名墨書し、「巻第十七 雑 七十首」とあり、そのうちの31首が残されている。南北朝時代の紙本墨書「源氏物語」3冊(重文)。鎌倉時代とみられる「論語総略」(重文)。
 鎌倉時代-江戸時代の「古今伝授資料一式」73種(重文)は、御所伝授とは別系統の宗祇相伝以前の古態による。そのうちの鎌倉時代、1331年の紙本墨書「古今秘聴抄」、安土・桃山時代の紙本墨書「和歌師資相伝血脈譜」(重文)。良恕法親王が細川幽斎より伝授されたものがある。
 天神関連の「北野天神縁起」3巻(国宝)、「渡唐天神図」(「応永二十四年銘」1417)、「束帯天神像」など多数。
 南北朝時代-江戸時代の「諸国社寺縁起勧進帳類」(京都府指定有形文化財)。
 「慈恵大師像」(重文)は、鎌倉時代作、33体造られたうちの9体目にあたるとみられている。。
 江戸時代の絹本著色「立花図」108点(重文)は、名手と謳われた2世・池坊専好(1570-1658)の仙洞御所、曼殊院などでの立花を描いている。初期と晩年の作品であり、文学史上の価値が高いとされる。同じく「月次立花図」66図(重文附けたり指定)。
 「智仁親王像」、自画像とみられる「良尚親王像」。
 上之台所より庫裏に至る処に吊り下げられている鐘は作家・谷崎純一郎(1886-1965)の寄贈による。「あさゆふのかね能ひびきに吹きそえよ 我たつ杣乃やまおろし能かぜ」の歌が添えられている。
 竹の間の木版画による壁紙は日本初の版画という。
◆障壁画 安土・桃山時代、狩野永徳筆という紙本金地著色「竹虎図」11面(重文)は大玄関虎の間を飾る。竹虎の障壁画としては最古の例とされている。竹林で水を飲み、竹を噛む虎と豹が描かれている。虎は竹に乗りかかり、竹が襖面4面にしなるさまが描かれている。御所北の曼殊院旧地より大玄関とともに移された。
 大玄関の孔雀の間に江戸時代の岸駒筆、紙本淡彩「松に孔雀図襖」14面がある。南画風に描かれている。
◆文学 作家・谷崎潤一郎(1886-1965)の『少将滋幹の母』では、平安時代の平定文の恋の遍歴を描いている。
 谷崎が寄贈した鐘がある。「あさゆふの かね能ひびきに 吹きそへよ 我がたつ仙乃 やまおろし能かせ」と刻まれている。
◆塚 境内北にある菌塚は、菌類学者・元大和化成株式会社社長の笠坊武夫(?-1996)が、1981年に建立した。遺灰として 枯草菌一株、陀羅尼経一巻が納められた。毎年5月に法要が行われている。
◆おみくじ 書院内に座す元三慈慧大師は、おみくじの元祖という。
◆音羽滝 かつて「古今集」に詠まれた音羽滝があった。三段の流れがあったという。いまは林丘寺の東に残されている。
◆花暦・樹木 ウメ・ツバキ(3-5月)、書院庭園のキリシマツツジ・ヒラドツツジ・サツキ(5月初旬)、サルスベリ(6-8月)、サザンカ・リンドウ(9-11月)、勅使門、書院庭園、弁天池周辺の紅葉(11月)。
 弁天堂近くにヤマモモがある。
◆年間行事 不動尊初護摩(1月3日)、弁財天法要(1月初巳の日)、節分会(2月3日)、涅槃会(2月15日)、太子講(2月22日)、彼岸会(3月21日)、仏生会(4月8日)、禅光寺如来法楽(4月20日)、菌塚供養会(5月初旬)、山家会(6月4日)、良尚法親王忌(7月5日)、盂蘭盆会(8月15日)、弁財天法要(9月初巳の日)、彼岸会(9月23日)、瀑涼(虫干し)(10月上旬)、天台会(11月24日)、成道会(12月8日)。
 朔日法要(毎月1日)、例月法要(毎月15日)、不動尊護摩供養(毎月28日)、弁財天法要(1月、4月、9月の初巳日)。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*建物内の撮影禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『旧版 古寺巡礼 京都22 曼殊院』『京都・山城寺院神社大事典』『古寺巡礼 京都 10 曼殊院』『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』『京都の仏像』『京都の寺社505を歩く 上』『庭を読み解く』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 中』『京都 四季の庭園』『京の茶室 東山編』『原色日本の美術15 桂離宮と茶室』『史跡探訪 京の七口』『京都大事典』『週刊 京都を歩く 17 修学院・北白川』『街道をゆく 叡山の諸道』『京の寺 不思議見聞録』『京都 神社と寺院の森』『週刊 古社名刹巡拝の旅 21 大原道 京都』『京の庭の巨匠たち 3 小堀遠州』『週刊 日本庭園をゆく 19 京都洛北の名庭 3 曼殊院 円通寺 詩仙堂』


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庭園

屋形天井

富士の間の縁側、七宝焼の富士の釘隠し、すべて意匠が異なる。

七宝焼の富士の釘隠し

七宝焼の富士の釘隠し

七宝焼の富士の釘隠し

七宝焼の富士の釘隠し

七宝焼の富士の釘隠し

小書院前の庭園


庭園、「五基八燈」の燈籠の一つ。庭園には全部で5つの燈籠がある。

庭園、滝石の立石

庭園、橋石組


庭園、梟(ふくろう)の手水鉢、亀の頭の部分

庭園、梟の手水鉢、フクロウの肉彫

梟の手水鉢

梟の手水鉢、陽光による赤壁への反射

サクラソウ

ツバキ

作家・谷崎純一郎(1886-1965)寄贈の梵鐘



坪庭


坪庭

護摩堂


天満宮、境内最古の建造物


弁天堂

弁天池近くの蹲踞

東山の景色

菌塚、題字菌塚の題字は東京大学名誉教授・坂口謹一郎筆、裏面の碑文「人類生存に大きく貢献し 犠牲となれる 無数億の菌の霊に対し至心に恭敬して 茲に供養のじんを捧ぐるものなり」、曼殊院門跡第40世 大僧正圓道筆による。

弁天池と弁天島

弁天池
曼殊院 〒606-8134 京都市左京区一乗寺竹ノ内町42  075-781-5010  9:00-16:30
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