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曼殊院 (京都市左京区) Manshu-in Temple |
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曼殊院 | 曼殊院 |
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![]() ![]() ![]() ![]() 勅使門 ![]() ![]() ![]() ![]() 曼殊院門跡家紋 ![]() ![]() ![]() ![]() 築地塀と苔、壁の定規筋は最上の5本入り ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 通用門 ![]() 庫裏(重文)、唐破風 ![]() ![]() ![]() 庫裏、良尚法親王筆「媚竈(びそう)」の木額 ![]() ![]() 大書院 ![]() ![]() ![]() 大書院、鶴島のゴヨウマツ ![]() ![]() ![]() キリシマツツジ ![]() ![]() ![]() ![]() 扁額「塵慮尽」、邪な心を払うの意。 ![]() 杉戸引手金具、瓢箪形 ![]() ![]() 蹲踞 ![]() 書院庭園の五基八燈の燈籠のひとつ。 ![]() ![]() ![]() ![]() 書院 ![]() 小書院、富士の間「閑酔亭(かんすいてい)」の扁額、松花堂昭乗筆 ![]() 庭園 ![]() 庭園 ![]() 屋形天井 ![]() 富士の間の縁側、七宝焼の富士の釘隠し、すべて意匠が異なる。 ![]() 七宝焼の富士の釘隠し ![]() 七宝焼の富士の釘隠し ![]() 七宝焼の富士の釘隠し ![]() 七宝焼の富士の釘隠し ![]() 七宝焼の富士の釘隠し ![]() 小書院前の庭園 ![]() ![]() 庭園、「五基八燈」の燈籠の一つ。 ![]() 庭園、滝石の立石 ![]() 庭園、橋石組 ![]() ![]() 庭園、梟(ふくろう)の手水鉢、亀の頭の部分 ![]() 庭園、梟の手水鉢、フクロウの肉彫 ![]() 梟の手水鉢 ![]() 梟の手水鉢、陽光による赤壁への反射 ![]() サクラソウ ![]() ツバキ ![]() 作家・谷崎純一郎(1886-1965)寄贈の梵鐘 ![]() ![]() ![]() 坪庭 ![]() ![]() 坪庭 ![]() 護摩堂 ![]() 弁天島 ![]() 弁天島 ![]() 弁天島 ![]() 弁天島 ![]() ![]() 天満宮 ![]() ![]() 弁天堂 ![]() 弁天池近くの蹲踞 ![]() 東山の景色 ![]() 菌塚 ![]() 弁天池と弁天島 ![]() 弁天池 ![]() |
曼殊院(まんしゅ-いん/まんじゅ-いん)のある比叡山の南西麓は、かつて西坂本と呼ばれていた。 曼殊院の曼殊(まんじゅ)とは、サンスクリット語の「妙薬」「愛楽」の意味がある。天上花を意味する曼珠沙華(まんじゅしゃげ)に由来するともいう。「竹内(たけのうち)門跡」、「竹ノ内御殿(御所)」、「竹裡門跡」などとも呼ばれている。境内は5000坪(16529㎡)を有している。 天台宗の門跡寺院。本尊は阿弥陀如来立像を安置する。 京都天台五箇室門跡(三門派五門跡)(ほかに、青蓮院門跡、妙法院門跡、三千院門跡、毘沙門堂門跡)の一つ。神仏霊場会第108番、京都第28番。京都洛北・森と水の会。 息災延命、国家安泰、学業成就、試験合格祈願などの信仰篤い。十一面観音菩薩は合格祈願の信仰がある。 曼殊院、庭園は、「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン1つ星観光地」(改訂第4版)に選ばれている。 ◆歴史年表 創建の詳細は不明。 奈良時代-平安時代、延暦年間(782-806)/785年、宗祖・伝教大師(最澄)により、鎮護国家の道場として比叡山山上に創建された堂宇(後の東尾坊 [とうびぼう] )が始まりになる。阿弥陀仏を安置した。 平安時代、天慶年間(938-947)、西塔北谷に移され東尾坊と号した。北野社創建期、曼殊院主・是算(ぜさん、曼殊院初代)の時、北野社の別当寺として関わりが生まれたともいう。 天暦年間(947-957)/10世紀(901-1000)、/天慶年間(938-947)、門主・是算の時、比叡山西塔北谷に移り、「東尾房」と称された。寺基の始まりともいう。是算は菅原氏の出身であり、北野社創建(947)にあたり、初代別当職を兼務している。以後、近代まで900年間は、曼殊院が北野別当職を歴任した。その後、「善法院」と号したという。 985年、支院の静慮院が創設される。 天仁年間(1108-1110)、8世・忠尋(ちゅうじん)により「曼殊院」と改称した。忠尋も北野天満宮の別当を兼務した。忠尋が初代ともいう。北野天満宮の管理のために、北山に別院を建てたという。(「慈厳僧正譲状」・曼殊院文書) 永久年間(1113-1118)、慈順の時、現在の金閣寺付近(葛野郡北山)の北山別院に移る。北野天満宮の管理に当たった。また、房舎とは別に、「竹内門跡院宇始在北山(曼殊院門跡次第)」、門跡院地(葛野郡北山)を開いたという。 南北朝時代、1350年、当院が比叡山西塔北谷に本拠があったと記されている。。忠尋の時、北野社との関わりが始まったともいう。(「慈厳僧正譲状」・曼殊院文書) 室町時代、康暦年間(1379-1381)、足利義満の北山山荘(後の鹿苑寺)造営に伴い、御所の北、現在の相国寺南付近(御所内公家町)に移る。(『諸門跡譜』) 文明年間(1469-1487)、1495年頃とも、伏見宮貞常親王子・26世・慈運の入寺以後、門跡寺院になり宮門跡(親王門跡)寺院になる。院主に覚恕法親王、良恕法親王が続く。(『諸門跡譜』)。また、道豪(道順、関白左大臣二条師良子)が、146世・天台座主に就き、以後、中世、近世までに6人を送り出した。 1512年頃、慈運は曼殊院御連歌会を度々催した。 1591年、織田信長は寺禄328石を寄進する。 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、曼殊院聖廟法楽月次歌会が度々催される。 江戸時代、1611年、徳川家康は寺禄528石を寄進する。 1613年、北野松梅院との間に北野支配をめぐり争いになり、「曼殊院司る」との幕命を受けた。 1634年、八条宮智仁親王の子・良尚(りょうしょう)法親王が入寺する。 1652年、支院・法雲院が創建された。 明暦年間(1655-1658)、弁天堂が建てられる。 1656年、29世・良尚法親王の時、台命により現在地に移る。(『天台座主記』)。「竹内門跡」と俗称されるようになった。現存する本堂、書院、庫裏などが、この時建立される。良尚は中興開山といわれる。この頃、庭園も作庭されたとみられる。 1665年、徳川家綱により寺禄700石余りになる。 1666年、支院・随縁院が創建された。 1682年、当院が紹介され、良尚法親王が住するなどと記されている。(『雍州府志』) 近代、1868年、神仏分離令以後、別当職曼殊院事務政所が廃止された。 1871年、江戸幕府の定めた三門跡制(宮門跡、摂家門跡、准門跡)は廃止になり、門跡の称号も廃された。法親王は還俗した。同年、72石が廃されるが、米231石に復された。 1872年、支院の随縁院、修学院、静慮院も合併された。(『京都府愛宕郡村志』)。宸殿が京都府療病院建設に際して寄付され、移築された。 1876年、宮内省より年250石が贈られる。庭園東の「田楽亭」が撤去になる。 1885年、内務省より旧門跡は復称を許される。 現代、1945年以降、荒廃する。 1949年以降、国庫、府史よりの補助により復興が進む。 1954年、書院、庭園が国の名勝に指定された。 1961年-1963年、大書院の解体修理が行われる。 2012年、明仁(あきひと)上皇・上皇后が行幸した。 ◆是算 平安時代後期の天台宗の僧・是算(ぜさん、?-1018)。詳細不明。菅原氏の出身。花山法皇(第65代)の弟子。初代曼殊院門跡になる。947年、北野社創建にあたり、初代別当職を兼務した。密教学者。 ◆忠尋 平安時代後期の天台宗の僧・忠尋(ちゅうじん、1065-1138)。通称は大谷座主、号は東陽房。佐渡国(新潟県)の生まれ。父は源頼平の子・土佐守忠季。東陽房、大谷座主とも称された。比叡山の長豪、覚尋、良祐に天台教学を学ぶ。8代・曼殊院門主、北野天満宮の別当を兼務した。後に比叡山北谷東陽院に移る。鞍馬寺を東寺末から西塔末寺にした。1115年、里坊として東山大谷に十楽院を開創した。1118年、権律師、1124年、権少僧都、1130年、46世天台座主、1137年、大僧正に任じられた。門流は東陽院流と称された。74歳。 ◆慈運法親王 室町時代中期-後期の曼殊院門跡・慈運法親王(じうん-ほっしんのう、1466-1537)。法名は良厳、通称は二品僧正、号は松牧子。 父は伏見宮貞成親王子・伏見宮貞常親王。第103代・後土御門天皇の猶子になる。二品僧正とも称された。曼殊院に入り、1495年、26代・門跡、北野社別当に任じられた。1530年、二品に叙せられる。1533年、法住寺座主を兼任、大僧正に任じられた。和歌、連歌に秀でた。72歳。 ◆良恕法親王 安土・桃山時代-江戸時代前期の曼殊院門跡28世・良恕法親王(りょうじょ-ほっしんのう、1574-1643)。初名は勝輔、法名は覚円、良恕、幼称は三宮、号は忠桓。誠仁(さねひと)親王の第3王子。母は新上東門院。第107代・後陽成天皇の弟。得度して、1587年、曼殊院門跡、北野別当になる。1621年、二品に叙される。1639年、天台座主に就く。真如堂、後に曼殊院茅ヶ渓に改葬された。 和歌、書、有職故実、立花などに優れた。竜華院と追号される。著『良恕親王厳島参詣記』など。70歳。 ◆覚恕法親王 室町時代後期-安土・桃山時代の曼殊院門跡・覚恕法親王(かくじょ、1521-1574)。法号は金蓮院。 第105代・後奈良天皇の第2皇子。1525年、延暦寺曼殊院門跡において得度し、1527年、曼殊院門跡を相続した。1557年、准三宮の宣下を受け金蓮院准后と称した。1570年、166世天台座主になる。1571年、織田信長による比叡山焼討の責により辞し、甲斐の武田信玄を頼り亡命する。 和歌・連歌など禁中の御会にも出席する。尊鎮流の書も能くした。著に『覚恕百首』。60歳。 ◆良尚法親王 江戸時代前期の曼殊院門跡29世・良尚法親王(りょうしょう-ほっしんのう、1623-1693)。八条宮智仁(としひと)親王の第2王子、母は丹後国(京都府)宮津藩主京極高知の娘常照院。1632年、第108代・後水尾天皇の猶子になる。曼殊院宮の付弟(ふてい)になり、曼殊院門主で伯父・良恕(りょうじょ)の弟子に就き得度、密教、顕教を修める。1634年、親王宣下を受け、曼殊院で得度した。1646年、25歳で175世・天台座主になる。29代・曼殊院門主。1647年、二品に叙された。1656年、曼殊院を現在地に移し、伽藍を整備した。1687年、曼殊院を辞した。潅頂を受け大阿闍梨になる。曼殊院中興開山とされる。 国学、和歌、書、茶の湯、立花、香、画、作庭に通じ、画を狩野探幽・尚信兄弟に学び、池坊華道を納めた。72歳。 ◆嘉長 安土・桃山時代-江戸時代の金工家・嘉長(かちょう、?-?)。伊予(愛媛県)松山生まれ。豊臣秀吉に召され堀川油小路に住んだ。建具金具、七宝に優れた。小堀遠州に重用される。桂離宮の釘隠、襖引手、曼殊院・書院の金具も手掛けたという。 ◆笠坊武夫 近現代の実業家・笠坊武夫(1904-1996)。1930年、麦芽を栽培し、分泌する酵素の「α-アミラーゼ」を製造し、糊抜剤として綿紡の染色工業分野に販売した。1947年、大和化成株式会社(大阪)が発足し参画、専務取締役、工場長、社長、相談役を歴任した。酵素工業界の発展に寄与した。92歳。 ◆仏像・木像・仏画 ◈大書院(本堂)仏間、厨子中央に本尊の「阿弥陀如来立像」が安置されている。鎌倉時代作になる。かつて大書院西に宸殿があり、近代、1872年に壊された際に仏間に遷された。 ◈厨子内左手前に「十一面観音立像」を安置する。平安時代後期作であり、良尚法親王が北野天満宮より遷した。天神の本地仏といわれている。 左に室町時代作の「阿弥陀如来坐像」、安土・桃山時代作の「大日如来胎蔵界」が安置されている。 ◈厨子右に室町時代作の「薬師如来像」、鎌倉時代後期作の「阿弥陀如来坐像」、そのほか歴代門跡ゆかりの仏像が安置されている。 ◈右に「慈恵大師坐像」(84㎝)(重文)は、鎌倉時代作という。当院の栄盛という僧が、1261年よりほぼ毎年1体ずつ、全部で33体の像を造立した。そのうちの一体で、1268年の作による。当時は怨霊災禍を祓う民間信仰として、33体、66体、99体という大師像が造立されたという。木造、寄木造、玉眼、古色。 ◈絹本著色「不動明王像(黄不動)」(178.1×80.9cm)(国宝)は、平安時代作になる。「三大不動尊」(ほかに青蓮院・青不動、高野山明王院・赤不動)の一つに数えられている。円珍(智証大師、814-891)が感見した、滋賀・園城寺の金色の不動明王像(黄不動)を写したという。模写としては現存最古、最も優れているという。ただ、模写については異説もある。 本像とは異なり、岩座に立ち、全身が黄色く着色されている。着衣の配色、装飾性も増している。頭光を背負い、頭髪は右旋螺の巻毛、両目は見開き、口の牙は両方ともに上を向き、筋肉質の上半身は裸、右手に剣を立て、左手に羂索(けんさく)を手繰る。 描く際に、儀式「御衣絹加地(みそぎぬかじ)」が行われたとみられている。僧侶が無色透明の香水(こうずい、聖水)で絹地に仏像を描き、材の穢れを祓い霊性を持たせた。黄不動の腹部付近に、10分の1の大きさの黄不動の下書きが、薄墨線画で残されており判明した。 染紙に和様書体で書写された平安時代の古今和歌集は、仮名の名品として知られる。原画は現在、京都国立博物館寄託、復元画は「宿直の間」に掲げられている。 ◈松の間に、「善光寺如来」が、現代、1949年より安置されている。当院は京都別院になった。 ◈護摩堂の須弥檀上に本尊の「不動明王立像(大聖不動明王)」が安置されている。平安時代後期作(鎌倉時代とも)による。 ◈持仏堂に本尊「阿弥陀仏」を安置する。 ◈「元三大師木像」、「良尚法親王寿像」、「良尚法親王像」、「天神像」などがある。 ◆建築 曼殊院の建物・庭園は「小さな桂離宮」といわれる。江戸時代の中興の祖・良尚法親王の2歳上の兄・智忠親王は、桂離宮を完成させた。智忠親王は、当院の建立に際しても関わったとみられている。 『古今和歌集』では、その詠み方、歌い方、意味などは、秘事の口伝「古今和歌伝授 」により伝えられた。この文学精神を具現化したのが桂離宮・曼殊院の建築・庭園とされている。なお、当時の欧州で大流行していた黄金分割(最も調和のとれた比)も設計・地割に応用されているという。 ◈「勅使門(表門)」は、江戸時代、1656年頃に建てられた。本柱が前後の中央より前にある。後方に細い控柱がある。渦、唐草などの彫刻が施されている。 切妻造、薬医門、本瓦葺。 15段の石段上に建てられている。 ◈「唐門」は江戸時代初期の建立による。唐破風の向唐門、松、菊、木鼻・大瓶束に笈形の牡丹などの彫刻がある。 1間半1間半。1間4間の廻廊が続く。 ◈「大玄関」(重文)は、江戸時代に建立された。玄関は竹内門跡と称していた建物を移したという。「先入関」の良尚法親王筆の横額が掲げられている。内部に虎の間、竹の間、孔雀の間がある。土間に六角の塼(せん)を敷く。 前に車寄、式台8間7間半、軒唐破風。 ◈「宸殿」は、境内南西にあった。江戸時代、1656年に建立された。最も主要な建物といわれた。近代、1872年の京都府療病院建設に際して移築になり、現在は失われている。 「夕陽亭」は北東にあり、近代、1876年取り壊された。 「澆花亭(ぎょうかてい)」は、庭園の東にあり、小堀遠州好みという。近代、1934年の台風で倒壊した。 「田楽亭」も、現在は失われている。 ◈「本堂(大書院)」(附廊下)(重文)は、江戸時代、1656年に良尚親王により建立された。当初は書院として建てられた。広縁を廻し、低い高欄がある。南に天袋、地袋、火灯窓を持つ棚のある「十雪(じっせつ)の間」(10畳、床、棚付き)の貼付壁に狩野探幽筆という絵、欄間に月形・卍字崩しの意匠がある。ほかに「滝の間」(15畳、床付)、西に細長い「鞘(さや)の間」、本尊などが安置されている「仏間」(床、違棚)はかつて書院上段の間にあり、1868年(1872年とも)の宸殿の取り壊しに伴い仏像などが遷された。北に良尚法親王の御寝所の「御寝の間」「控えの間」などからなる。 なお、大書院と良尚親王の父・智仁親王、兄・智忠親王造営の桂離宮の「笑意軒」意匠の相似例については、引手金具(扇、瓢箪、長い矢)、釘隠しの飾金具(十弁の菊と短冊形)、桂離宮「新御殿」の「月の字欄間」と大書院の欄間(月形・卍字崩し)などが指摘されている。これらは金工家・嘉長作ともいう。 桁行14.7m、梁間10.8m、7間8間/7間5間、数寄屋風書院造、一重、寄棟造、杮葺、むくり屋根。 ◈「小書院」(重文)は江戸時代前期、1656年に建てられた。なお、小書院と大書院は雁行型に建てられ、南、東に折矩(おりかね)の縁が廻り、天井は疎垂木(まばらたるき)木舞裏になっている。「黄昏の間(次の間)」(7畳)は、良尚法親王の居間であり最高の室になる。上段(台目二畳)は黒漆塗框、床の床柱に磨き丸太、一段低い吹寄の格天井、格縁は黒漆塗、鏡板は朱漆塗になる。付書院には10種(柿、欅、楓、桑、栃など)の寄木で作られた歌書棚の造り付け「曼殊院棚」(桂離宮の桂棚、修学院離宮の霞棚に並ぶ)が設えられ、狩野探幽筆という障壁画がある。付書院に火灯窓が開く。棚は3段5枚、中央の上下に物入がある。 前室の「富士の間(正室)」(8畳)には、実際の富士山を見なかった法親王のために、長押の釘隠しに富士山と山にかかる雲、霞をあしらった七宝焼(絵入り富士形金具)がある。板目の木目もまた雲に譬えている。釘隠しの雲の意匠、色調がそれぞれ変えられる凝った趣向になっている。狩野探幽筆の障壁画もある。 小書院「黄昏の間」と「富士の間」の間にある欄間(籬 [まがき] に菊の欄間)には、細い格子に浮彫りと、透かし彫りがある。表から見た「表菊(おもてぎく)」、裏から見た薄肉彫「裏菊(うらぎく)」が上下二段(14個)に交互に配置されている。菊花紋は白、赤、褐、茶、黄、鼠の漆で彩色されている。これらの文様は、後に流行る元禄模様の先駆とされている。小書院広縁の板欄干(高欄、格狭間透嵌板)は、屋形舟(御座舟)の趣向になっており、建物全体が舟に譬えられ、大海原を越え蓬莱島を目指す航海を表している。 ほかに、茶室(「八窓軒」「二畳の間」)、西に3畳、2畳、5畳、水遣の間(5畳半)などが続く。縁側と室の境に板戸4枚(外面吹寄堅桟戸、内面紙貼)、2枚の紙障子。東、南に縁側を廻している。当時は雨戸と戸袋はなく、戸襖により戸締りをしていた。 桁行10.0m、梁間8.9m、6間5間、数寄屋風、一重、南面寄棟造、北面切妻造、杮(こけら)葺、むくり屋根、二重屋根(下に廊下の屋根、上に室内の屋根)。南面・東面・西面庇付。 大書院、書院の「廊下」は折曲り7間1間、一重、両下(まや)造、杮(こけら)葺。 「上之台所」(重文)は、貴賓、高僧のための厨房だった。明暦年間(1655-1658)の創建時の建立による。1996年-2000年に杮葺に復元された。8間6間半。 ◈「護摩堂」は良尚法親王が建立したという。良尚法親王筆の篆書「驚覚(きょうがく)」が掲げられている。真剣な修法を説いている。桟唐戸に木瓜形の透かし。土間に六角塼瓦敷。 宝形造、桟瓦葺、3間3間。 ◈ほかに「座敷」は4間9間。「宝蔵」は2間6間。「経蔵」は2間3間。「持仏堂」は2間半2間半。「浴室」は1半間1間半。「供侍所」は2間間半など。 ◈「庫裏」(重文)は、江戸時代前期、1656年に建立された。かつて下之台所として使われていた。良尚法親王筆の扁額「媚竈(びそう)」を掲げる。論語の「その奥に媚びんよりはむしろ竈に媚びよ」に因る。 9間7間半、桁行15.9m、梁間12.3m、一重、入母屋造(天台宗門跡寺院庫裏としては類例は少い)、平入、本瓦葺、玄関附属、唐破風造、檜皮葺。 ◈境内西、弁天島の「天満宮社」は、室町時代末に建立された院内最古の建物になる。祭神は菅原道真を祀る。向拝と身舎は海老虹梁で繋ぐ。向拝中央に松と梅、身舎に牡丹文の蟇股がある。良尚法親王により江戸時代、1656年に建立された。また、かつて一乗寺山にあり、現在地に移され建立されたともいう。当院背後の山腹に祀られていたともいう。 9尺2寸、8尺7寸。一間社、春日造、檜皮葺。 ◈「弁天堂」も門前の弁天池の中島にある。祭神に弁財天を祀る。良尚法親王が、江戸時代、明暦年間(1655-1658)に建立した。江戸時代、1833年、再建されている。弁財天像は、比叡山延暦寺の無動寺弁財天の御前立という。無動寺参詣に際して、かつてこの弁財天に参った後に山に向かっていたという。 9尺9尺。 ◆茶室 ◈「無窓の席」(重文)は富士の間の西にある。江戸時代の窓がないことから名付けられた。「くさりの間」とも呼ばれる。中世以来の殿中の茶立所(茶の湯の間)と貴族趣味が加わった趣向になる。貴重例とされている。炉は向切、左に洞庫、付床(1尺4寸)(楓の地板、逆蓮華の擬宝珠の小柱、壁付柱との間に格狭間透かしの袖板)、天井に蛭釘が打たれている。東に襖2枚、西に片引襖の出入口がある。二畳(一畳台目)(一坪)。 ◈「八窓軒(はっそうけん、八窓席)」(重文)は、「黄昏の間」の北にある。「京都三名席」(ほかに孤篷庵「忘筌席」、金地院「八窓席」)の一つになる。東向きの平三畳台目、下座床の席。小堀遠州好みという。桂離宮の「松琴亭」に近いといわれている。釈迦の生涯を8場面で説く「八相成道(はっそうじょうどう)」、また、八宗を表しているともいう。 庭より飛石伝いに南寄りに躙口がある。袖壁に刀掛がある。狭い部屋に、障子の付いた8つの窓がある。躙口の連子窓、重ね窓(連子窓、下地窓)、勝手先に風炉先窓、勝手付に重ね窓(下地窓、連子窓)、南壁に下地窓、掛込天井の垂木振分の天窓が開けられている。それらの開閉により、室内の光量を微調整できる。障子は接ぎ目を桟からあえてずらした石垣張りになる。「虹窓」ともいわれるのは、外の光の具合により虹のような影が生まれ、映る景色に変化が生じることによる。突上窓は「月見の窓」ともいわれる。台目床は黒塗りの框を置く。床の天井が高いことで知られている。躙口上の半間通りに掛込み天井(皮付小丸太の垂木、女竹吹寄の小舞に杉へぎ板)、床前半間の平天井の蒲天井(竹竿縁)が手前畳前まである。中柱に皮付き桜丸太、二重釣棚、床の間に左柱(皮付雑木丸太)、右柱(つり目の丸柱)。土壁はすさを散らし、黒い壁部分には烏賊墨が用いられているともいう。西に給仕口、茶道口がある。南の下地窓を通して、南庭の橋石組を観る趣向が凝らされている。杮(こけら)葺、付け足し屋根。 江戸時代初期の露地もあり、飛石、方形の手水鉢の蹲踞、踏石などが据えられている。 ◈「御座の間」に炉、「丸炉の間」に丸炉、水屋がある。大徳寺・春屋宗園の「寒更」の額が掲げられている。 ◆庭園 大書院と小書院南面にある国の名勝、枯山水式庭園(書院式枯山水)は、江戸時代、1656年の作庭による。小堀遠州(1579-1647)作という。ただ、作庭時に遠州はすでにない。中興の祖・良尚親王が、遠州好みに作庭させたともいう。禅庭と王朝風庭園が融合しているといわれている。 深山から流れた水が、滝、渓流、海へと注ぐ様が、3つの築山、立石、石橋、白川石の白砂で表現されている。庭園の東、小書院前庭に蓬莱山、滝石(橋挟石、はしばさみいし)が据えられ、大書院前の鶴島には、飛翔する鶴が象られた樹齢400年のゴヨウマツ(ヒメコマツ)が植えられている。その根元に曼殊院型灯籠(キリシタン灯籠)が立つ。他方、小書院前の亀島には、地を這うような亀の形のアカマツが植えられていた。大書院の間からは、5月、真紅の花を付けるキリシマツツジを愛でることができる。 小書院前庭には、築山の間を2つの巨石の青石による「橋石組」が組まれている。下を一段上げられ砂紋を引いた白砂の大河が苔地の間を流れ下り、大海に注ぐ。その右手の橋添石(はしぞえいし)は立てられ、この立石は滝を表し流れの起点を示している。東の蓬莱山には塔灯籠が立ち、寺院に見立てられている。小書院廊下は、屋形舟(御座舟)に見立てられており、静かに水面を遡る。縁には板欄干が廻らされている。天井の一部も屋形船の様に造られている。煩悩に満ちた此岸から蓬莱の彼岸へ向かう大海(庭園)を渡る舟(書院の建築群)の意味があるともいう。 5つの灯籠が据えられ、「五基八燈の灯籠」といわれる。天台宗の教義により「五時八教(釈迦説法の五つの時)」の華厳、鹿苑、方等、般若、法華涅槃、八つの教えである頓、漸、不定、秘密、蔵、別、円を表すという。鶴島の織部灯「籠の曼殊院灯籠(キリシタン灯籠、クルス灯籠)」は、親王がキリシタンの母・常照院より贈られたという。竿四面に丸形の突出、火袋にアーチ、月形の火口が彫られている。「塔型灯籠」、「三重塔型灯籠」などがある。八燈とは正面左の塔に三段三燈、右に二段二燈が入り、ほかの三燈と合わせての数になる。 小書院広縁手前に「梟(ふくろう)の手水鉢」(直径80cm)がある。江戸時代作で、花崗岩製の四方に梟の陽刻が突起した丸型になっている。かつて、小書院南縁の蹲踞として据えられた。石組の亀型の上に載せる形になっており、東に亀頭石が見えている。亀は屋形船に併走している形になる。手水鉢は建物側へわずかに傾けられており、部屋内から水に写した月見の趣向があったという。また、月や太陽の光は、蹲踞の水面で反射し趣を添えている。 書院の東側は、八窓茶席の露地として飛石を配している。ほかに、奇石の蹲踞、花の間前の中庭に枯山水式庭園に一文字手水鉢、菊の花型井戸、松の根元に石が据えられている。 ◆文化財 ◈紙本墨書「古今和歌集(曼殊院本)」(国宝)は、平安時代中期の伝・公卿・書家・藤原行成(ふじわらの-ゆきなり、972-1028)筆による。色紙に仮名墨書し、「巻第十七 雑 七十首」とあり、そのうちの31首が残されている。 ◈「教訓鈔及続教訓鈔」9巻(国宝)は、鎌倉時代-南北朝時代作になる。雅楽士・狛近真(こま-ちかざね、1177-1242)撰「教訓鈔」3巻、雅楽士・狛朝葛(こまの-ともかず、 1247-1331)撰「続教訓鈔」6巻になる。南都楽所舞人の楽書であり、国内舞楽史上最重要な古伝書になる。 「教訓鈔」3巻は僚巻で、巻3、巻7に、鎌倉時代後期、「天福元年(1233年)六・七月」の本奥書があり書写本になる。 「続教訓鈔」6巻は、室町時代、1392年-1393年に楽人・豊原量秋(とよはらの-かずあき、1234-1305)が書写した。「教訓鈔」、南北朝時代、1374年の「豊原信秋楽(とよはらの-のぶあき、1318-1386)日記」、「尋問鈔」上下などの紙背を利用し書写した。狛朝葛の自筆原本から書写したという奥書を有している。 ◈「古今伝授資料一式」73種(国宝)は、鎌倉時代-江戸時代作による。門跡相承の秘籍になる。寛永年年間に曼殊院門跡・良恕親王に相承された。御所伝授とは別系統の宗祇相伝以前の古態による。 第1種-第21種「注釈書・聞書類」、第22種「二條流和歌相承系図」、第23種「目録」、第24種-第68種「切紙類」、第69種-第73種「伝授関係文書類」に分類される。 鎌倉時代、1331年の紙本墨書「古今秘聴抄」、安土・桃山時代の紙本墨書「和歌師資相伝血脈譜」(重文)、良恕法親王が細川幽斎(1534-1610)より伝授されたものなどある。 ◈天神関連の「北野天神縁起」3巻(国宝)。 ◈絹本著色「立花図(42図)」1帖108点(国宝)は、江戸時代、1617年-1656年作になる。名手と謳われた2世・池坊専好(1570-1658)の仙洞御所、曼殊院などでの立花を描いている。収集、整理された写生図・転写本とみられる。 1617年-1628年の初期14図、1654年-1656年の晩期7図は、唯一の立花図になる。文学史上の価値が高いとされる。 同じく「月次立花図」66図(重文附けたり指定)。 ◈木像「慈恵大師坐像」(重文)は、鎌倉時代、1268年の作になる。 ◈紙本著色墨書「草虫図」2幅(重文)は、明時代の呂敬甫筆による。菊などの草花の周りに蝶、蜂、蜻蛉、蟷螂などが色鮮やかに描かれている。 ◈室町時代の紙本墨書「後柏原天皇宸翰 後土御門 後柏原両天皇御詠草」(御歌巻物)(重文)。 ◈紺紙金字「後奈良天皇宸翰 般若心経」(重文)は、室町時代、1542年作による。第105代・後奈良天皇(1497-1557)は疫病流行の際に、般若心経を社寺に納めた。良尚法親王(1623-1693)の実家である八条宮(桂宮)家の所領が安房国知波(千葉)にあり、当院に伝えられたとみられる。 ◈鎌倉時代の紙本墨書「花園天皇宸翰消息」7通(重文)、鎌倉時代、1329年の紙本墨書「花園天皇宸翰消息」、鎌倉時代の「慈円僧正消息」。 ◈絹本著色「是害房(ぜがいぼう)絵巻」2巻(重文)は、南北朝時代、1354年頃の作になる。1308年、原本は磯長寺で成立したという。(曼殊院本奥書)。唯一の完本になる。 大唐の天狗首領・是害房が渡来し、比叡山に昇る途中に、余慶律師、飯室僧正らとの法力に負け、懲らしめられて逃げ帰るという話を描いている。(『今昔物語集』巻第20「震旦天狗智羅永寿渡此朝語第二」) ◈紙本墨書「源氏物語」3冊(重文)は、南北朝時代作になる。 ◈「論語総略」(重文)は、鎌倉時代作とみられる。 ◈「慈恵大師像」(重文)は、鎌倉時代作であり、33体造られたうちの9体目にあたるとみられている。 ◈室町時代、「渡唐天神図」(「応永二十四年銘」1417)、「束帯天神像」など多数。 ◈南北朝時代-江戸時代の「諸国社寺縁起勧進帳類」(京都府指定有形文化財)。 ◈「智仁親王像」、自画像とみられる「良尚親王像」。 ◈「茶道具」、「雅楽器」がある。 ◈庫裏に、良尚法親王筆「媚竈(びそう)」の額が掛る。論語に、権力者に媚びず、竈(かまど)で働く人々に感謝するの意という。ただ、権臣にへつらうたとえとの意味から、良尚が、江戸幕府に媚びざるを得ない立場を自虐的に表したともいう。(司馬遼太郎『街道をゆく 叡山の諸道』) ◈小書院の富士の間に「閑酔亭(かんすいてい)」の扁額が掲げられている。松花堂昭乗(1582-1639)筆による。 ◈大書院縁側に扁額「塵慮尽」がある。良尚法親王は、扁額の完成を待ち曼殊院造成を始めたという。塵とは汚すという意味で、邪心を払い取り除いて曼殊院の清浄が続くことを願っている。 ◈上之台所より庫裏に至る処に鐘が吊り下げられている。作家・谷崎純一郎(1886-1965)の寄贈による。「あさゆふのかね能ひびきに吹きそえよ 我たつ杣乃やまおろし能かぜ」の歌が添えられている。 ◈玄関脇の竹の間に壁紙(木版画)がある。日本初の版画という。曼殊院門跡は竹ノ内門跡とも呼ばれたことに因んでいる。 ◆障壁画 ◈大玄関虎の間の紙本金地著色「竹虎図」11面(重文)は、安土・桃山時代、狩野永徳(1543-1590)筆、狩野派の手によるともいう。旧竹内門跡の障壁画とみられている。竹虎の障壁画としては最古の例とされている。竹林で水を飲み、竹を噛む虎と豹が描かれている。虎の胴は長く、想像して描かれた。虎は竹に乗りかかり、竹が襖面4面にしなるさまが描かれている。竹林に金雲がかかる。御所北の曼殊院旧地より大玄関とともに移された。 ◈大玄関の孔雀の間に江戸時代の岸駒(1756/1749-1839)筆、紙本淡彩「松に孔雀図襖」14面がある。南画風に描かれている。人間の一生を孔雀の姿で表現し、親仔の孔雀が描かれている。 ◆北野天満宮 菅原氏出身の曼殊院始祖・是算は、道真とも関り深く、947年(1004年とも)に勅命により北野社の別当職に任じられている。以来、歴代住持が北野天満宮(北野社)の別当も兼務した。近代、1868年の神仏分離令により、別当職曼殊院事務政所が廃止され、事実上、神仏習合が終焉を迎えるまで、900年にわたり関係は続いた。なお、北野社の創建時の燈明は、曼殊院の旧地、延暦寺根本中堂きえずの燈明の火によるといわれている。 別当の職務は、北野天満宮に奉仕した祠宮三家(松梅院、徳勝院、妙蔵院)の得度の際の戒師、神殿の奉仕をした宮仕(ぐうじ)の増位、北野神人(じにん、西京の社人)の叙任などに当たった。神子職も曼殊院宮により「上月(こうづき)文子」と襲名されていた。 社務のために北山に別院が建立された。その場所は特定されていないが、現在の金閣寺(鹿苑寺)付近ともいう。室町時代、1397年、足利義満の北山第(北山殿)建立に際して、別院は相国寺の南付近に移転したともいう。実務については、曼殊院から派遣された目代(もくだい)が当っていた。 現在、本尊の隣に安置されている平安時代後期作の十一面観音菩薩像は、かつて北野天満宮の本地仏として安置されていた。観音は、道真の化身と考えられており、良尚法親王により遷されたという。ほかにも曼殊院には多数の天神像、「北野天神縁起絵巻」などが所蔵されている。 また、境内西の弁天島には、弁天堂と室町時代の曼殊院天満宮が建つ。菅原道真を祀り、神仏習合時代の名残りになっている。 ◆子院 近代以前には、子院として、随縁院、静慮院、法雲院、恵明院があった。その後、本院に合併された。 ◆鎮守社 ◈「天満宮」は、境内の北西の弁天島に祀られている。菅原道真を祀る。山内の最も古い建物であり鎮守堂になる。 ◈「弁天堂」は、天満宮の西に隣接している。弁才天が祀られている。 ◆文学 近現代の作家・谷崎潤一郎(1886-1965)の『少将滋幹の母』(1949-1950)では、平安時代の平定文の恋の遍歴を描いている。谷崎は、執筆するにあたり曼殊院第39世・山口光円門主に天台教学を学び、作中に「天台宗の某碩学」として書いた。滋幹が雲母坂越えで母に再会する描写は、現在の曼殊院付近を想定している。門主から一乗寺近辺の地理・道程を聞いて描いた。 谷崎が寄贈した鐘がある。法要準備、開始の合図に使用されている。「あさゆふの かね能ひびきに 吹きそへよ 我がたつ仙乃 やまおろし能かせ」と刻まれている。 なお、谷崎は母の法要を曼殊院で営んでいる。 ◆菌塚 境内北の林中に「菌塚」がある。菌類学者・元大和化成株式会社社長の笠坊武夫(?-1996)が、1981年に建立した。遺灰として、枯草菌一株、陀羅尼経一巻が納められた。 菌塚の題字は、農芸化学者・東京大学名誉教授・坂口謹一郎(1897-1994)筆による。裏面の碑文は「人類生存に大きく貢献し 犠牲となれる 無数億の菌の霊に対し至心に恭敬して 茲に供養のじんを捧ぐるものなり」と刻まれている。曼殊院門跡第40世・大僧正圓道筆による。 法要(5月)が行われている。 ◆おみくじ 書院内に座す元三慈慧大師は、おみくじの元祖という。 ◆音羽滝 かつて『古今集」に詠まれた音羽滝があった。三段の流れがあったという。いまは林丘寺の東に残されている。 ◆敦忠の山荘 平安時代中期の公卿・歌人・藤原敦忠(ふじわらの-あつただ、906-943)は、公卿・藤原時平(ふじわらの-ときひら、871-909)の3男になる。時平は、菅原道真の左遷に関与している。 敦忠は、枇杷中納言、本院、土御門とも号した。三十六歌仙の一人で、恋歌を得意とし管絃にも優れた。『後撰和歌集』以下の勅撰集に入首、家集に『敦忠集』がある。 敦忠は、修学院離宮から曼殊院近くに山荘を営んだという。山荘は音羽川の水を入れ、滝、池を設けていた。敦忠亡き後、山荘を訪れた女性歌人・伊勢(いせ、872-938頃)の歌に「音羽川せき入れておとす滝つ瀬に人の心の見えもするかな」がある。 ◆月林寺 現在の曼殊院付近と、西北の月輪寺町(左京区修学院)付近に、かつて天台宗の「月林寺(げつりんじ、月輪寺)」があった。延暦寺に属した。平安時代、寛平年間(889-898)以前より存在したという。この時、御灯(ごとう)の行事が行われた。(『西宮記』)。3月3日、9月3日に、天皇が清涼殿より火を供した北山・北辰妙見菩薩を拝した。五穀豊穣、国家安泰を祈願する。当初は、北山・霊巌寺で行われ、後に月林寺で行われた。 第60代・村上天皇(在位:946-967)、第64代・円融天皇(在位:969-984)の頃には、月林寺で勧学会も開かれていた。平安時代、967年には、藤原実頼により観桜の宴が催された。いつの頃か、寺は廃絶したという。 ◆花暦・樹木 ウメ・ツバキ(3-5月)、ソメイヨシノ、書院庭園のキリシマツツジ・ヒラドツツジ・サツキ(5月初旬)、サルスベリ(6-8月)、サザンカ・リンドウ(9-11月)、勅使門、書院庭園、弁天池周辺の紅葉(11月)。 弁天堂近くに山ツツジ、ヤマモモ、池に蓮などがある ◆墓 境内背後の山麓に曼殊院宮墓(左京区一乗寺坂端)があり、法親王が葬られている。 室町時代の覚恕親王墓(1521-1574、第105代・後奈良天皇皇子)の宝塔、室町時代-江戸時代の良恕親王墓(1574-1643 、第106代・正親町天皇皇孫)の無縫塔、江戸時代の良尚親王墓(1623-1693、第106代・正親町天皇曽孫)の宝塔、江戸時代の良応親王墓(第111代・後西天皇皇子)の宝篋印塔、清宮墓(第113代・東山天皇曽孫)の宝篋印塔、富宮墓(第113代・東山天皇玄孫)の宝篋印塔、江戸時代の譲仁親王墓(1824-1842 、第93代・後伏見天皇19世皇孫)の宝篋印塔がある。 ◆年間行事 不動尊初護摩(1月3日)、弁財天法要(1月初巳の日)、節分会(2月3日)、涅槃会(2月15日)、太子講(2月22日)、彼岸会(3月21日)、仏生会(4月8日)、禅光寺如来法楽(4月20日)、弁財天法要(4月初巳の日)、菌塚供養会(5月初旬)、山家会(6月4日)、良尚法親王忌(7月5日)、盂蘭盆会(8月15日)、弁財天法要(9月初巳の日)、彼岸会(9月23日)、瀑涼(虫干し)(10月上旬)、天台会(11月24日)、成道会(12月8日)。 朔日法要(毎月1日)、例月法要(毎月15日)、不動尊護摩供養(毎月28日)。 *年間行事は中止、日時変更の場合があります。 *建物内の撮影禁止。 *原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『旧版 古寺巡礼 京都22 曼殊院』、『京都・山城寺院神社大事典』、『古寺巡礼 京都 10 曼殊院』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、『京都府の歴史散歩 中』、『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』、『京都古社寺辞典』、『京都の仏像』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京都 四季の庭園』、『京の茶室 東山編』、『原色日本の美術15 桂離宮と茶室』、『庭を読み解く』、『史跡探訪 京の七口』、『京都大事典』、『週刊 京都を歩く 17 修学院・北白川』、『街道をゆく 叡山の諸道』、『京の寺 不思議見聞録』、『京都 神社と寺院の森』、『週刊 古社名刹巡拝の旅 21 大原道 京都』、『京の庭の巨匠たち 3 小堀遠州』、『週刊 日本庭園をゆく 19 京都洛北の名庭 3 曼殊院 円通寺 詩仙堂』、ウェブサイト「曼殊院」、ウェブサイト「菌塚のホームぺージ」、ウェブサイト「文化庁 文化財データベース」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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