一条戻橋 (一条戻り橋) (京都市上京区)
Ichijo-modori-bashi Bridge
一条戻橋 一条戻橋
  Home   Home

一条戻橋、和泉式部「いづくにも帰るさまのみ渡れはやもどり橋とは人のいふらん」(和泉式部家集)


現在の戻橋)






【参照】晴明神社境内にある一条戻橋。実際に使われていた石の親柱で再現されたというミニチュア。



堀川、二条城付近



【参照】祇園祭の山伏山、ご神体は浄蔵貴所で、大峰入りの修行で紀伊山地に入る姿を表すという。腰には法螺貝を付けている。


戻橋の南の堀川第一橋(中立売通)、中立売の橋とも呼ばれる。1873年に石橋に架け替えられた。江戸時代には御成橋といわれ、天皇の行幸路に当たっていた。長さ1.6m、幅7.3m。


「小野小町 双紙洗水 遺跡」の石標、上京区一条通堀川東入北側、駐車場の南東角
 謡曲「草(双)紙洗小町」によると、宮中の歌合で小野小町(生没年未詳)と対戦した大友黒主(生没年未詳)は、小町の歌が『万葉集』の古歌からの盗作であると訴えた。証拠となるとされる『万葉集』の草子(草紙)を突きつけた。だが、改竄の跡があり、小町が庭の遣り水で草子を洗うと歌の文字が流れ消えたという。その地であるという。かつて清和水、更級水ともいう名水が湧いたという。



「小野小町 双紙洗水 遺跡」の石標の南側、小町通と記されてる。
 平安時代、794年、平安遷都の際に運河・堀川は整備された。川に架かる一条戻橋(いちじょう もどりばし、一条戻り橋)は、かつて平安京の北端、一条大路に架かり、内裏と京外とを分けていた。
 いまの橋の位置と変動がないという。ただ、中立売通(正親町小路)、上長者町通(土御門大路)に通じたともいう。橋は、一条橋、土御門橋、土御門堀川橋とも呼ばれた。 
◆歴史年表 平安時代初期、918年、文章博士・三善清行(みよし きよつら)の臨終の知らせに、熊野詣途中の修験道・八男の浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)が駆けつけた。死後すでに5日目であり、葬列は橋に差し掛かっていた。清行は、陰陽道に通じており、菅原道真失脚に関わったとされている。浄蔵は、亡き父に一目合いたいとの一念で葬列を止めて観法で祈ると、一瞬にして辺りが闇に包まれ閃光が走った。父は蘇生し、父子二人が話しているのを人々が見たという。その後、7日目に清行は息絶えたという。(『撰集抄』『三国伝記』)。以来、この橋は戻橋と呼ばれるようになったという。
 998年、戻橋の文献の初見として「戻橋路」と記されている。(藤原行成『権記』)
 平安時代中期(1008年頃)、紫式部『源氏物語』では、「ゆくはかへるの橋」として紹介された。橋がかつて平安京の北の位置にあり、行っては還るの意味とされたことによる。
 平安時代中期、武将・源頼光(948-1021)の屋敷が橋の東にあった。
 1021年、滝口大蔵忠親は、平到経、公親の命によりこの橋で暗殺された。(『左経記』)
 平安時代後期、1159年、平治の乱では、悪源太義平、平重盛の戦いの舞台になる。
 1148年、藤原頼長は、実姉の入内について橋占を行う。(藤原頼長『台記』、同年条)
 1178年、第80代・高倉天皇中宮・建礼門院徳子による安徳天皇お産に際して橋占が行われた。禿の童らが現れ、手をたたき、歌いながら立ち去ったという。(『源平盛衰記』)
 1185年、土佐坊昌俊が夜討ちをかけた、源義経の堀川館も六条辺りの川近くにあった。
 平安時代末期、陰陽師は、この橋の上で毎夜、橋占(はしうら)を行った。道を通る人の偶然の言葉によって、その吉凶を占った。陰陽師は式神(しきじん)という霊的存在を自在に操ったとされる。陰陽師・安倍晴明〈921-1005)は、使っていた十二神将を式神として使っていた。だが、その顔を恐れた妻のために、式神をこの橋の下に置いて、用事の際に呼んだという。占いに式神を使うと人に乗り移って善悪を示したという。(『源平盛衰記』)
  証空(1177-1247)は、一条戻橋の橋占により、一人の僧が「法華経」中の偈を誦じて西へ向かったことから両親により出家を許された。(『証空上人縁起』)
 南北朝時代-室町時代初期、『義経記』に登場し、源義経に兵法を伝授したとされる鬼一法眼(きいちほうげん)も陰陽師であり、「一条堀河」の西に住んみ屋形を構えて天下の御祈祷をした。弟子も1000人を数えたという。
 室町時代、1544年、武士の囚人・和田新五郎は、この橋でノコギリ引きにされた。(『言継卿記』)
 安土・桃山時代、1596年、豊臣秀吉は再びキリシタン禁教令を発し、四条堀川に当時あったフランシスコ修道会の24人の神父、修道僧、信徒を、京都奉行・石田三成に命じて捕らえさせ、一条の辻のある寺院で彼らの左の耳たぶを削いだ。また、鼻を削げと命じられた。その後、8台の牛車に乗せ、市中引き回し、長崎へ800kmの道のりを徒歩で連行した。翌1597年、26人(途中で2人が自主的に加わった)の外国人、日本人信者らは、長崎・西坂の丘で十字架に架けられ、槍で処刑された。遺骸はそのまま80日間曝される。10代の少年も4人含まれていた。(「二十六聖人殉教」)
 1584年、石橋が架けられている。
 1597年、豊臣秀吉の怒りを買い切腹を命じられた茶人・千利休(1522-1591)の大徳寺山門にあった木像は、利休死後、ここで十字架にかけられ磔にされた。聚楽屋敷で切腹した利休の首は、淀の河原で処刑となり、この橋に運ばれる。首を木像が踏みつける格好で晒されたともいう。首は、夜、何者かに持ち去られたともいう。現在、その木像は大徳寺山門に戻されている。
 かつて近くに蓮台野という葬場があり、葬列の見送り人はこの橋で戻ったという。縁談一切は「出戻り」の縁起をかつぎ、この橋を避けた。
 江戸時代、毎年12月20日(果の二十日)に行われていた罪人の市中引き回しの際にも、この橋が使われた。六角獄を出され、三条、一条と市中を回り、橋まで来ると引き返した。橋では、罪人は馬から下ろされ、花屋から花を、餅屋から「御華足」(オケソク、仏事に供える小さい鏡餅)を貰い、役人から「今度生まれてくるときには、真人間になれ」と諭され、再び三条へ戻り、粟田口刑場へと向かった。
 1620年、後水尾天皇中宮になった徳川和子は入内の際に、中立売橋を渡った。橋は一条戻橋を継承しており万年橋と変えられた。ただ、定着しなかった。
 近代、太平洋戦争(1941-1945)中、兵士は「無事に戻る、生還する」ようにとの願いを込め、あえて遠回りしてこの橋を渡ったという。
 現代、1952年、橋が架け替えられる。
 1995年、橋が架け替えられた。
◆一条戻橋 近年の戻橋は、1952年に架け替えられている。コンクリート製、幅5m、長さ8m、
 1995年、橋が架け替えられた。その際に、橋桁の奥に封印されていた晴明縁の式神が出てきたという。現在、晴明神社境内に、一条戻橋に実際に使われていた石の親柱で再現された縮小模型が置かれている。
◆一条大路 一条大路は、平安京の最北の東西の通り名で、南には大内裏などの官街、北には寺院などがあり、建都当初、人家はあまりなかった。
 平安時代末期、北側に邸宅などが建ち並ぶようになる。
 室町時代には、革堂が建ち自治的な組織がつくられる。一条室町付近は「札の辻」と呼ばれ、高札やお触れが立つ政治の中心地に変わった。
 賀茂祭(葵祭)では、一条通に見物人が集まった。鎌倉時代までは院、摂関家、受領などの祭り見物のための桟敷が置かれていた。
◆一条戻橋寺 橋を管理する一条戻橋寺が橋の東詰にあったという。鎌倉時代、律僧・浄信(覚妙房静心)が住した。寺号は恩徳院、一条戻橋寺、また、一条雲寺(村雲大休寺、村雲寺、雲寺)とも呼ばれていたという。
◆鬼女伝説 屋代本『平家物語』剣巻、近世の『前太平記』、舞踊劇「戻橋」などに、酒呑童子退治の源頼光臣下・四天王の一人の渡辺綱の武勇伝がある。
 ある夜、綱は戻橋で若く美しい女に出会う。女は道を送ってくれと請う。綱は、橋を渡る際に、水鏡に写る鬼女の形相を見た。美女は鬼女(茨木童子)に変じた。鬼女は綱を空中につるし上げる。綱は、鬼女の片腕を名刀「鬚(ひげ)切」で斬り落とし、愛宕山に追いやった。
 鬼の手を封じたが、綱の養母が手を見せてくれと訪れる。突然に養母は鬼に化して腕を取り返し、屋根を破り天に昇った。
◆源氏物語・文学 平安時代中期の紫式部『源氏物語』第9帖「葵」巻には、賀茂祭(葵祭)、一条大路での葵の上と六条御息所(みやすどころ)の牛車の位置争いの場面が描かれている。
 光源氏の妻・葵の上は妊娠し、嫉妬心を抱く六条御息所は祭りの日、自らの車が後ろに退けられたことから生霊になり、葵の上に取り憑き殺してしまう。
 
和泉式部は「いづくにも帰るさまのみ渡ればやもどり橋とは人のいふらん」と詠んだ。(『和泉式部続集』)
◆有栖川 京都には3つの「有栖川(ありすがわ、斎川)」が流れていたという。賀茂、紫野、嵯峨になる。(『山州名跡志』)。一条戻橋の上流には、若狭川(有栖川)があり、大徳寺東の小川(紫野の有栖川)に通じていたという。
◆晴明水 戻橋東北にかつて、晴明水が湧いていたという。 


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』『京の橋ものがたり』『京都歴史案内』『京をわたる 橋がつなぐ人と暮らし』『京のキリシタン史跡を巡る 風は都から』『證空辞典』『平安の都』『京都の地名検証 2』『京都隠れた史跡100選』『京のしあわせめぐり55』『陰陽道と平安京 安倍晴明の世界』『安倍晴明・紫式部を歩く』『陰陽師 安倍晴明に出会う旅』『安倍晴明読本』『京都の地名検証』 『京都歩きの愉しみ』



   堀川       晴明神社      山中油店      六角獄舎・首洗い井      正面橋       大徳寺      北白川天神宮       葵祭          

諸侯屋敷・一条下り松遺跡、上京区一条通堀川東入北側、駐車場の南西角
 江戸時代の剣号豪・宮本武蔵(1584? -1645)と決闘した吉岡一門の道場跡地という。

小松帯刀寓居参考地・近衛家堀川邸跡ほかの石標、上京区一条通堀川東入南側、宅地脇。
 碑文によると碑の向かいは小松帯刀寓居参考地・近衛家堀川邸跡、東は藤原道綱母子、源頼光一条邸跡。西は応仁の乱洛中最初合戦地とある。
 この地は平安時代、平安京の左京北辺二坊五町にあたり、平安時代の『蜻蛉日記』の著者・藤原道綱母、武将・源頼光、道綱が引き継いだ一条邸跡という。また、室町時代、1467年5月、付近で応仁・文明の乱(1467-1477)の最初の合戦地が始まったという。東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通り一条戻橋から攻め一条大宮で戦った。このため北にあった革堂(行願寺)、百万遍(知恩寺)、誓願寺などが焼失したという。
 江戸時代、筑前福岡黒田家邸になったという。邸に、同家御用達商人だった古高俊太郎(桝屋喜右衛門)も出入りした。1864年、新撰組は古高を捕縛し、池田屋事件の端緒になったという。また向かいには、五摂家筆頭近衛家の堀川邸があり、内部に「御花畑」があったという。薩摩島津家の家老・小松帯刀が寓居した。1866年、桂小五郎(木戸孝允)が邸内に入り、薩長同盟が締結されたともいう。

より大きな地図で 堀川 を表示
平安京オーバレイマップ
一条戻橋 京都市上京区竪富田町
  Home     Home  
 © 2006- Kyotofukoh,京都風光