一条戻橋 (戻橋) (京都市上京区)
Ichijo-modori-bashi Bridge
一条戻橋 一条戻橋
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一条戻橋、和泉式部「いづくにも帰るさまのみ渡れはやもどり橋とは人のいふらん」(和泉式部家集)


現在の戻橋)






【参照】晴明神社境内にある一条戻橋。実際に使われていた石の親柱で再現されたというミニチュア。



堀川、二条城付近


【参照】祇園祭の山伏山、ご神体は浄蔵貴所で、大峰入りの修行で紀伊山地に入る姿を表すという。腰には法螺貝を付けている。


戻橋の南の堀川第一橋(中立売通)


「小野小町 双紙洗水 遺跡」の石標、上京区一条通堀川東入北側、駐車場の南東角


「小野小町 双紙洗水 遺跡」の石標の南側、小町通と記されてる。


諸侯屋敷・一条下り松遺跡、上京区一条通堀川東入北側、駐車場の南西角
 江戸時代の剣号豪・宮本武蔵(1584? -1645)と決闘した吉岡一門の道場跡地という。



小松帯刀寓居参考地・近衛家堀川邸跡ほかの石標、上京区一条通堀川東入南側、宅地脇。
 碑文によると碑の向かいは小松帯刀寓居参考地・近衛家堀川邸跡、東は藤原道綱母子、源頼光一条邸跡。西は応仁の乱洛中最初合戦地とある。
 この地は平安時代、平安京の左京北辺二坊五町にあたり、平安時代の『蜻蛉日記』の著者・藤原道綱母、武将・源頼光、道綱が引き継いだ一条邸跡という。また、室町時代、1467年5月、付近で応仁・文明の乱(1467-1477)の最初の合戦地が始まったという。東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通り一条戻橋から攻め一条大宮で戦った。このため北にあった革堂(行願寺)、百万遍(知恩寺)、誓願寺などが焼失したという。
 江戸時代、筑前福岡黒田家邸になったという。邸に、同家御用達商人だった古高俊太郎(桝屋喜右衛門)も出入りした。1864年、新撰組は古高を捕縛し、池田屋事件の端緒になったという。また向かいには、五摂家筆頭近衛家の堀川邸があり、内部に「御花畑」があったという。薩摩島津家の家老・小松帯刀が寓居した。1866年、桂小五郎(木戸孝允)が邸内に入り、薩長同盟が締結されたともいう。
 堀川に架かる一条戻橋(いちじょう もどりばし)は、かつて平安京の北端、一条大路に架かり、内裏と京外とを分けていた。
 橋の位置に変動はないという。ただ、中立売通(正親町小路)、上長者町通(土御門大路)に通じたともいう。橋は、「一条橋」、「土御門橋」、「土御門堀川橋」とも呼ばれた。  
 かつて近くに蓮台野という葬場があり、葬列の見送り人はこの橋で戻ったという。縁談一切は「出戻り」の縁起をかつぎ、この橋を避けたという。
◆歴史年表 平安時代、794年、平安遷都の際に運河・堀川は整備された。
 
918年、文章博士・三善清行(みよし きよつら)の臨終の知らせに、熊野詣途中の修験道・八男の浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)は戻橋に駆けつけた。葬列を止めて、浄蔵が観法で祈ると、父は蘇生したという。(『撰集抄』『三国伝記』)。以来、この橋は「戻橋」と呼ばれるようになったという。
 998年、橋の文献の初見として「戻橋路」と記されている。(『権記』)
 平安時代中期(1008年頃)、紫式部『源氏物語』では、「ゆくはかへるの橋」と記された。橋はかつて平安京の北の位置にあり、行っては還るの意味とされたことによる。
 平安時代中期、武将・源頼光(948-1021)の屋敷が橋の東にあった。
 1021年、滝口大蔵忠親は、平到経、公親の命により、この橋で暗殺された。(『左経記』)
 1159年、平治の乱では、悪源太義平、平重盛の戦いの舞台になる。
 1148年、藤原頼長は、実姉の入内について橋占を行う。(『台記』)
 1178年、第80代・高倉天皇の中宮・建礼門院徳子による、第81代・安徳天皇のお産に際して橋占が行われた。禿の童らが現れ、手をたたき、歌いながら立ち去ったという。(『源平盛衰記』)
 1185年、土佐坊昌俊が夜討ちをかけた、源義経の堀川館は、六条辺りの川近くにあった。
 平安時代末期、陰陽師は、橋の上で毎夜、橋占(はしうら)を行った。陰陽師・安倍晴明(921-1005)は、十二神将を式神として使い、式神を橋の下に置いて、用事の際に呼んだという。(『源平盛衰記』)
  証空(1177-1247)は、一条戻橋の橋占により、一人の僧が「法華経」中の偈を誦じて西へ向かったことから、両親により出家を許された。(『証空上人縁起』)
 南北朝時代-室町時代初期、『義経記』に登場し、源義経に兵法を伝授したとされる鬼一法眼(きいちほうげん)も陰陽師であり、「一条堀河」の西に住んだ。屋形を構えて天下の御祈祷をした。弟子も1000人を数えたという。
 室町時代、1544年、武士の囚人・和田新五郎は、この橋でノコギリ引きにされた。(『言継卿記』)
 安土・桃山時代、1584年、石橋が架けられている。
 1596年、豊臣秀吉はキリシタン禁教令を発し、四条堀川にあったフランシスコ修道会の神父、修道僧、信徒を捕らえた。一条の辻のある寺院で彼らの左の耳たぶを削いだ。その後、市中引き回し、長崎へ連行した。(「二十六聖人殉教」)
 1597年、茶人・千利休は、豊臣秀吉の怒りを買い切腹を命じられた。大徳寺山門にあった利休の木像は、利休死後、戻橋で十字架にかけられ磔にされた。聚楽屋敷で切腹した利休の首も橋に晒されたという。
 江戸時代、毎年12月20日の「果の二十日(はてのはつか)」では、罪人の市中引き回しの際に、橋が使われた。
 1620年、第108代・後水尾天皇中宮になった徳川和子は、入内の際に中立売橋を渡った。橋は一条戻橋を継承しており万年橋と名を変えられた。ただ、定着しなかった。
 近代、太平洋戦争(1941-1945)中、兵士は「無事に戻る、生還する」ようにとの願いを込めて、あえて遠回りして橋を渡って出征したという。
 現代、1952年、橋が架け替えられる。
 1995年、橋が架け替えられた。
◆一条戻橋 近年の戻橋は、1952年に架け替えられている。鉄筋コンクリート製、幅5m、長さ8m。
 1995年に、新たに橋が架け替えられている。その際に、橋桁の奥に封印されていた晴明縁の式神が出てきたという。
 現在、晴明神社境内に、一条戻橋に実際に使われていた石の親柱で、縮小した石橋の戻橋が復元されている。
◆戻橋の由来 平安時代、918年、文章博士・三善清行(みよし きよつら)の臨終の知らせに、熊野詣途中の修験道・八男の浄蔵貴所(じょうぞう きしょ)が駆けつけた。
 死後すでに5日目であり、葬列は戻橋に差し掛かっていた。清行は、陰陽道に通じており、菅原道真の失脚に関わったという。浄蔵は、亡き父に一目合いたいとの一念で、葬列を止めて棺に取りすがった。観法で祈ると、一瞬にして辺りが闇に包まれ閃光が走る。また、地獄の冥官を動かして加持祈祷を行った。
 父は蘇生し、父子二人が話しているのを人々が見たという。その後、7日目に清行は息絶えたという。(『撰集抄』『三国伝記』)。
 以来、この橋は戻橋と呼ばれるようになったという。
◆一条戻橋寺 橋を管理する「一条戻橋寺」が橋の東詰にあったという。
 鎌倉時代、律僧・浄信(覚妙房静心)が住した。寺号は「恩徳院」、「一条戻橋寺」、また、「一条雲寺(村雲大休寺、村雲寺、雲寺)」とも呼ばれていたという。
◆一条大路 「一条大路」は、平安京の最北の東西の通り名で、南には大内裏などの官街、北には寺院などがあった。平安京の建都当初は、人家はあまりなかった。
 平安時代末期、北側に邸宅などが建ち並ぶようになる。
 室町時代には、革堂が建ち自治的な組織があった。一条室町付近は「札の辻」と呼ばれ、高札、お触れが立つ政治の中心地に変わった。
 賀茂祭(葵祭)では、一条通に見物人が集まった。鎌倉時代までは院、摂関家、受領などの祭り見物のための桟敷が置かれていた。
◆陰陽師 平安時代末期、陰陽師は、この橋の上で毎夜、橋占(はしうら)を行った。道を通る人の偶然の言葉によって、その吉凶を占った。陰陽師は式神(しきじん)という霊的存在を自在に操ったとされる。
 平安時代の陰陽師・安倍晴明(921-1005)は、使っていた十二神将を式神として使った。だが、妻はその顔を恐れた。晴明は式神を戻橋の下に封じ、用事の際に呼んだという。占いに式神を使うと、人に乗り移り善悪を示したという。(『源平盛衰記』)
◆鬼女伝説 屋代本『平家物語』剣巻、近世の『前太平記』、舞踊劇「戻橋」などに、酒呑童子退治の源頼光臣下・四天王の一人の渡辺綱の武勇伝がある。
 ある夜、綱は戻橋で若く美しい女に出会う。女は道を送ってくれと請う。綱は、橋を渡る際に、水鏡に写る鬼女の形相を見た。美女は鬼女(茨木童子)に変じた。鬼女は綱を空中につるし上げる。綱は、鬼女の片腕を名刀「鬚(ひげ)切」で斬り落とし、愛宕山に追いやった。
 鬼の手を封じたが、綱の養母が手を見せてくれと訪れる。養母は突然に鬼に化し、腕を取り返し、屋根を破り天に昇った。
◆源氏物語・文学 平安時代中期の紫式部『源氏物語』第9帖「葵」巻には、賀茂祭(葵祭)、一条大路での葵の上と六条御息所(みやすどころ)の、牛車の位置争いの場面が描かれている。
 光源氏の妻・葵の上は妊娠し、嫉妬心を抱く六条御息所は、祭りの日に自らの車が後ろに退けられたことから生霊になり、葵の上に取り憑き殺してしまう。
 
和泉式部は「いづくにも帰るさまのみ渡ればやもどり橋とは人のいふらん」と詠んだ。(『和泉式部続集』)
◆二十六聖人殉教 安土・桃山時代、1596年、豊臣秀吉は、再びキリシタン禁教令を発した。四条堀川に当時あったフランシスコ修道会の24人の神父、修道僧、信徒を、京都奉行・石田三成に命じて捕らえた。一条の辻のある寺院で、彼らの左の耳たぶを削いだ。また、鼻を削げと命じられた。
 その後、信者らは8台の牛車に乗せられ、市中引き回しの後、長崎へ800kmの道のりを徒歩で連行された。翌1597年、26人(途中で2人が自主的に加わった)の外国人、日本人信者らは、長崎・西坂の丘で十字架に架けられ、槍により処刑された。遺骸はそのまま80日間曝される。10代の少年も4人含まれていたという。(「二十六聖人殉教」)
◆千利休 安土・桃山時代、1597年、茶人・千利休(1522-1591)は、豊臣秀吉の怒りを買い切腹を命じられた。大徳寺山門にあった利休の木像は、利休死後、戻橋で十字架にかけられ磔にされた。
 聚楽屋敷で切腹した利休の首は、淀の河原で処刑になり、3日後に戻橋に運ばれる。首を木像が踏みつける格好で晒されたともいう。首は、夜、何者かに持ち去られたともいう。
 現在、その時の木像は大徳寺山門に戻されている。
◆果の二十日 江戸時代、毎年12月20日には、果の二十日(はてのはつか)が行われていた。罪人の市中引き回しの際に、戻橋が使われた。
 罪人は六角獄を出され、三条、一条と市中を回り、橋まで来ると引き返した。橋で、罪人は馬から下ろされ、花屋から花を、餅屋から「御華足(オケソク、仏事に供える小さい鏡餅)」を貰った。
 役人から「今度生まれてくるときには、真人間になれ」と諭された。再び三条へ戻り、粟田口刑場へと向かい処刑された。
◆有栖川 京都には3つの「有栖川(ありすがわ、斎川)」が流れていたという。賀茂、紫野、嵯峨になる。(『山州名跡志』)。一条戻橋の上流には、若狭川(有栖川)があり、大徳寺東の小川(紫野の有栖川)に通じていたという。
◆晴明水 戻橋東北にかつて、「晴明水」が湧いていたという。 
◆小町 「小野小町 雙紙洗水遺跡」(上京区一条通堀川東入北側、松下通北西角、駐車場の南東角)が、堀川に注ぐかつての小川の傍らにある。平安時代の歌人・小野小町にまつわる。かつてこの地に「小町の井戸」が湧いたという。
 謡曲「草(双)紙洗小町」によると、宮中の歌合で、小野小町と対戦した大友黒主(?-?)は、小町の歌が『万葉集』の古歌からの盗作であると訴えた。証拠になるとされた『万葉集』の草子(草紙)を突きつけた。だが、改竄の跡があり、小町は墨付きを怪しむ。庭の遣り水、御遣水(みかわみず)を注ぐと、歌の文字が流れ消えたという。
 その地であり、かつて「清和水」、「更級水」という名水が湧いたという。江戸時代には、謡曲の名所になり、井戸の傍らに小町塔が立てられていたという。 
◆常磐津 歌舞伎舞踊劇の常磐津に『戻橋恋(こい)の角文字(つのもじ)』がある。河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ、1816-1893)作、作曲は6世岸沢式佐(しきさ)、振付けは初世・花柳寿輔(はなやぎ じゅすけ)による。近代、1890年、東京・歌舞伎座で初演された。
 渡辺綱(初世市川左団次)が夜の一条戻橋で、扇折小百合(5世尾上菊五郎)という美女と道連れになる。綱は、小百合が愛宕山の悪鬼の化身と見破り、その片腕を切り落とす。
◆堀川第一橋 戻橋の南の堀川第一橋(中立売通)は、中立売の橋とも呼ばれる。江戸時代には御成橋といわれ、天皇の行幸路に当たっていた。
 近代、1873年に石橋に架け替えられた。長さ1.6m、幅7.3m。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』『京の橋ものがたり』『京都歴史案内』『京をわたる 橋がつなぐ人と暮らし』『京のキリシタン史跡を巡る 風は都から』『證空辞典』『平安の都』『京都の地名検証 2』『昭和京都名所図会 5 洛中』『京都隠れた史跡100選』『京のしあわせめぐり55』『陰陽道と平安京 安倍晴明の世界』『安倍晴明・紫式部を歩く』『陰陽師 安倍晴明に出会う旅』『安倍晴明読本』『京都の地名検証』 『京都府の歴史散歩 上』『京都歩きの愉しみ』 、ウェブサイト「コトバンク」   


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