枳殻邸(渉成園)・御土居 (京都市下京区)
 
Shosei-en Garden(Kikokutei)
枳殻邸(渉成園) 枳殻邸(渉成園) 
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渉成園西門




高石垣、切石、礎石、石臼、山石、瓦などが巧みに組み合わされている。


枳殻、園のもう一つの名称「枳殻亭」の由来になった。かつては、枳殻の生垣が園の周囲にあったという。








庭園北口




臨池亭(左)と滴翠軒(奥)


臨池亭、滴翠軒前の池泉





滴翠軒




境内を流れる鑓水(やりみず)、印月池に注いでいる。


茶室「代笠席(たいりつせき)」


亀の甲の井戸


園林堂(持仏堂)


虎関師練筆「園林」の扁額。


茶室「蘆菴」、園林堂の南に隣接する。




中門、蘆菴の露地



蘆菴の露地


蘆菴の露地



蘆菴の露地



蘆菴の露地



傍花閣(ぼうかかく)


傍花閣の山廊


傍花閣









 東本願寺の東に渉成園(しょうせいえん)がある。「枳殻邸(きこくてい)」、「東殿」、「東園」、「東本願寺下屋敷(新屋敷)」、「百間屋敷」とも呼ばれた。16000坪(52960㎡)の敷地を有している。国の特別名勝の庭園になる。
 東本願寺別邸であり、飛地境内地になっている。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉により、現在の池泉の東付近に御土居が築造された。
 江戸時代、1641年、3代将軍・徳川家光は、現在地(東洞院以東、六条-七条間、東西194間、南北297間)の田野を東本願寺13世・宣如に与えた。
 1643年、園の造営を想定し、御土居とその東を流れていた高瀬川の流路を東に移している。
 1653年、宣如は退隠所にした。避難所としても用いられた。庭園は、宣如の依頼により、石川丈山が六条院の伝承に基づき作庭したという。伏見桃山より樹石が移されたという。
 1657年、庭園は完成した。
 1678年、高倉学寮が、東坊より園の西に移転する。
 1788年、天明の大火の類焼は免れた。本山の仮殿になる。
 1827年、思想家・文人の頼山陽(1781-1832)が園を訪れ、園内「十三景」を讃えた。
 1842年、庭園は修復される。
 1846年、20世・達如が隠居した。
 1858年、安政の大火により焼失した。池、石組だけが残された。
 幕末、徳川慶喜が一時滞在する。坂本龍馬が幕閣に会いに来たという。また、新撰組が警護していたという。
 1864年、蛤御門の変で類焼している。
 1865年から近代にかけて復興された。
 近代、1880年、第122代・明治天皇が来園する。
 
1884年頃、大玄関が移築された。
 1936年、国の名勝に指定されている。
 現代、1996年より、庭園の一般公開が始まる。
 2014年-2024年、150年前の姿に戻す復元作業が行われる。
 2018年、「印月池」南西部でミズアオイ(環境省レッドリスト「準絶滅危惧」)の種子が発見され、当苑で13年ぶりに開花した。
◆宣如 江戸時代初期の浄土真宗の僧・宣如(せんにょ、1602-1658)。東本願寺第12世・教如の第12子(3男)として生まれる。1614年、東本願寺第13世になる。1653年、退隠した。
◆石川丈山 安土・桃山時代-江戸時代の文人・石川丈山(いしかわ じょうざん、1583-1672)。石川嘉右衛門重之。三河生まれ。父は武士・信定。源氏の流れを汲む三河・徳川家譜代の臣の家になる。武芸に優れ、16歳で徳川家康の近習になる。1600年、関ヶ原の戦いに出陣、家康の信望を得る。1615年、旗本として参戦した大坂夏の陣で、禁じられていた先陣争い(一番槍り)をし、抜け駆ける。家康の怒りを買い追放される。剃髪し妙心寺に潜居した。1616年、母の病を看るために江戸へ出た。1617年、京都に戻り、友人の儒学者・林羅山の勧めにより、儒学者・藤原惺窩(せいか)門下になり朱子学を修めた。41歳より、病身の母養生のために安芸・浅野家に仕え10数年に及ぶ。母没後に辞する。相国寺近くに庵「睡竹(すいちく)堂」を結び隠棲した。1641年、一乗寺村の庵に移った。庵には、林羅山、陶工・絵師の尾形乾山、第112代・霊元天皇なども訪れた。角倉素庵らとも親交する。1645年、舞楽寺村に祠を築き、頑仙祠と名付ける。70歳で京都所司代・板倉重宗に、故郷での隠退を願い出るが許されなかった。以後、門戸を閉じたという。
 妻帯しなかった。兵法、剣術、鉾、鉄砲、馬術に優れた。詩文にも秀で「日東の李杜」といわれる。書は隷書、茶道にも長け、煎茶も嗜み「文人茶の開祖」といわれる。三亭(酒店、飯店、茶店)の始祖ともいう。作庭家としても活躍し、枳殻邸、一休寺、蓮華寺などの庭園の修復などに関わった。
◆大谷句仏 浄土真宗の僧・俳人・大谷句仏(おおたに くぶつ、1875-1943)。京都生れ。東本願寺22世・光瑩(現如)の次男。東本願寺23世。書道は杉山三郊に師事する。絵画は幸野楳嶺・竹内栖鳳、俳句は河東碧梧桐に学ぶ。俳誌『懸葵(かけあおい』)に加わる。句集に『夢の跡』など。
◆渉成園・枳殻亭 「渉成園」の名は、中国六朝時代の詩人・陶淵明(365-427)の「帰去来辞」中の「園日渉而成趣(園は日々に渉<わた>って以て趣を成し)」に因る。
 また、かつて周囲に枳殻(からたち)の生垣が組まれたことから、枳殻(きこく)邸とも呼ばれた。
◆建築 ◈「大玄関」は、近代、1884年頃に大宮御所より移築された。車寄は正面4間、切妻造、玄関は2間。部屋は8畳2間。
 ◈「馬繋」は、明治期(1868-1912)初めに建立された。馬を繋いだ。
 ◈「閬風亭(ろうふうてい)」は、園内中央にある。大書院になる。江戸時代末期、1864年の安政の大火で焼失し、翌1865年に再建された。大広間になっており、畳を外すと能が演じられた。北西の嘉楽といわれる部屋は、近代、1880年の第122代・明治天皇の来園の際に、休息所として使われ、玉座があった。大広間より東に東山の阿弥陀ヶ峯を借景として取り入れ、前庭は芝地になっている。石川丈山筆「閬風亭」の扁額が掛る。閬風とは、中国・崑崙山脈頂部にあり、仙人が棲む地という。
 東面、平屋建。
 ◈「回棹廊(かいとうろう)」は、池泉の北東にに架かる橋廊をいう。月見台になっている。近代、1884年頃に再建された。木橋、切妻造、左右に小欄、中央は唐破風屋根、檜皮葺。
 「滴翠軒」は、園内北部にある。近代、1887年に再建された。「十三景の一」に数えられた。池に面しており、臨池亭とは廊下で繋がる。室内には花頭窓、半月形吹抜の床脇が設えられている。小書院。
 「臨池亭」は、近代、1887年に再建されている。池に吹き放しの廊下が迫り出して建つ。以前は2棟を併せて臨池亭と呼んでいた。現在の臨池亭は、喫茶居と呼ばれた。滴翠軒とは吹き放しの廊下で鉤の手に繋がる。
 小書院、8畳2間、南面、東面に1間の縁が付く。
 ◈「傍花閣(ぼうかかく)」は、「十三景の二」に数えられた。近代、1892年に再建される。園林堂(持仏堂)の三門の意味がある。階上に4畳半の部屋、天井中央に石川丈山が考案した磁石板の十二方位板(十二支)がある。
 楼門造と数寄屋造、入母屋造、起破風屋根、杮葺。左右に屋根付き山廊があり、急な階段がある。
 ◈「園林堂(持仏堂)」には、虎関師練筆「園林」の扁額が掛かる。正面4間、中央間に桟唐戸。(非公開)
 ◈「臥龍堂」は、池泉中の南大島にあった。「十三景の四」に数えられる。かつては島に鐘楼堂「臥龍堂」が建てられていたことから、この名で呼ばれた。漱枕居で開かれた茶会の客人が、縮遠亭に舟で向かう際に、刻限を告げるために鐘が鳴らされた。江戸時代、1858年、安政の大火により焼失し、その後、再建されていない。二階建、瓦葺。
 ◈「偶仙楼」は、閬風亭の地にあった。「十三景の九」といわれた高楼が建てられていた。伏見城から移築されたという。江戸時代、1858年の安政の大火で焼失後に再建された。1864年の大火で再び焼失し、その後、再建されなかった。
◆茶室 ◈茶室「縮遠亭(しゅくえんてい)」は、中島の北大島の築山に建てられている。近代、1884年に再建された。かつては、漱枕居で開かれた茶会の客人が、縮遠亭に舟で向かう趣向になっていた。かつて、この地から東山36峰の阿弥陀ヶ峰が見えていたという。
 入口土間に飾り竈、数寄屋風、草庵舞台造、二畳台目。上段の間は三畳敷、天井の棹は、賤ヶ岳の七本槍の柄を用いたという。 板間部分は、吹き抜けになっている。
 なお、島は、豊臣秀吉が築造した御土居の遺構になっている。
 
◈茶室「代笠席(たいりつせき)」は、煎茶席になる。近代、1888年に建てられた。代笠の名は、人里離れた地を訪れた旅人が、雨宿りする意味という。
 半間の土間・小縁、4畳半が2室ある。4畳半の東室は板間に丸太柱、左に天袋、東に潜口。西室は赤松の床柱、床脇に地袋と二重棚、西に下地窓。3間。
 東に茶畠がある。
 ◈茶室「蘆菴」は、園林堂の南に隣接する。1957年に再建された。
 庵の名は、江戸時代には「露菴」とされていた。中国、唐末・五代の禅僧・雲門文堰(864-948、うんもん ぶんえん)の言行録より、一文字「露」が取られたという。雲門文堰蘇は、禅門五家七宗の一つ雲門宗の開祖になる。
 二階建てで、一階は7畳、西に床、二方に縁が付く。二階の4畳半(主室)は、煎茶席で北に板敷、中央に赤松の曲木、左を床、右脇に二重棚、二方に肘掛窓。台目3畳(次ぎの間)。
 ◈茶室「漱枕居(そうちんきょ)」は、池の西南岸に、茶室の一部が迫り出して建つ。江戸時代、1865年に再建された。石川丈山好みであり、「十三景の十一」に数えられた。
 かつて、煎茶三席の酒店として使われた。名の由来は、旅路にあることを意味する、「漱流枕石(そうりゅうちんせき)による。茶会の客人は、ここから対岸の茶室「縮遠亭」に舟で向かっていた。
 四畳半、三畳台目畳敷、天井は化粧屋根裏、土間に一畳台目の張り出し、袋棚、違棚、三畳東に手摺付縁がある。小襖に江戸時代の狩野永納(1631-1697)筆「茶摘の図」が描かれている。
◆文化財 園林堂(おんりんどう)仏間、入側にに、1958年に版画家・棟方志功(1903-1975)筆の障壁画「天に伸ぶ杉木」「河畔の呼吸」42面(44面とも)がある。
 傍花閣
の絵馬形の額に、狩野永納筆の「熊谷直美像・平敦盛像」が描かれている。
 2011年、漫画家・井上雅彦(1967-)筆の屏風「親鸞」がある。 
◆河原院 平安時代初期、第52代・嵯峨天皇の皇子・左大臣・源融(みなもと の とおる、822-895)が、奥州塩釜の風景を模して作庭した六条院跡ともいわれている。謡曲「融」にも登場し、名月下の河原院で融大臣が舞う。
 江戸時代の俳人・考古学者・北村季吟(1625-1705)が、著書の中で類推している。頼山陽(1781- 1832)の『渉成園記』にも伝承について記されている。ただ、河原院跡は現在地の北東(鎌倉時代、『拾芥抄』)にあったとされ、現在では渉成園を河原院跡とする説は否定されている。
 六条院はかつて、東は鴨川まで、北は現五条通り近くにまである広大な敷地だったという。4町の規模があり、四季それぞれの風情を織り込んで配置されていた。源融は、藻塩を焼かせ風情を愉しんだ。塩は、難波の海の汐を汲み、毎朝、30石の海水が院まで運ばれていた。鴨川には舟入の川が設けられ、魚や貝まで飼われていたという。
 源融は、ほかに宇治・平等院などの別荘も持ち、「河原左大臣」といわれた。紫式部『源氏物語』の主人公・光源氏の実在モデルとされる。邸宅だった六条院も舞台として登場する。風流三昧の生涯を送った源融は、皇位に就くことはかなわなかった。河原院はその後、第59代・宇多法皇の没後に寺院になった。
 付近に今も残る本塩竈町や塩小路通などの地名は、六条院の名残りともいわれている。
 園内には、源融の供養塔といわれる九重石塔がある。縮遠亭近くに塩釜、塩釜の手水鉢という宝塔灯身などがある。
◆庭園 ◈大掛かりな池泉回遊式の庭は、大名庭園形式になっている。西を正面とし、東山を借景にしている。石川丈山の作庭という。持仏堂「園林堂」と山門「傍花閣」を結ぶ軸線を元に作庭されたという。
 江戸時代、1827年、頼山陽が園を訪れ、『渉成園記』中で「十三景」を讃えた。
 池の「印月池(いんげつち)」は「十三景の三」に数えられた。広さは1700坪(5619.8㎡)あり、園の6分の1を占める。名は、東山から昇った月が、水面に影を写すことから名付けられ 中島の北大島、南大島がある。築山には豊臣秀吉の御土居が流用されたといわれている。池には、かつて園の北東部から高瀬川の水が引かれていた。現在は、琵琶湖疏水から分流した本願寺水道より、園の北にある小池に導かれ、鑓水により印月池に引かれている。また、印月池の北東部に獅子吼という築山の石組みがある。この注水口は、井戸水の地下水を汲みあげ、池泉に流している。
 ◈中島(五松塢)は清水山、小島は阿弥陀ヶ峰、南大島は東隣の山を象っているという。中島(北大島)には、木製の反橋「侵雪橋(しんせつきょう)」、木造の「回棹廊(かいとうろう)」が架けられている。南大島の東に松の島がある。
 ◈臨池亭、滴翠軒前の池泉には、築山「キリシマヤマ」が造られている。滝口「滴翠」が組まれている。池の北東に檜垣の灯籠が立つ。
◆石造物 ◈「塩釜の手水鉢」は、縮遠亭の脇にある。鎌倉時代作とみられている。本歌になる。塩釜を模したという筒状の手水鉢であり、鎌倉時代の石造多宝塔の塔身を転用している。
 ◈「九重塔(源融塔)」は、小島の鶴島(塔の島)に立つ。鎌倉時代中期作になる。平安時代の源融の供養塔ともいわれた。塔は園築造以前より、この地にあったともいう。宇治・塔の島の景色を写したともいう。
 基礎に格狭間、開花蓮華の陽刻、軸部(塔身)は大面取、四方仏がある。9つの笠石を重ねる。最上部の相輪は失われ、宝篋印塔の笠と宝珠がのる。花崗岩製、3.3m。
 ◈「石幢(せきどう)複製」は、侵雪橋近くに据えられている。
 下より基礎に幢身、その上に中台、さらに仏像をあらわす六角形の龕部(がんぶ)、笠がのる。石灯籠との違いは、笠に蕨手の装飾がなく、竿(幢身)に節がない。火袋の代わりに龕部を置く。碧石は使われていない。鎌倉時代初期に現れ、南北朝時代には六地蔵石幢が造られた。
◆句碑 大谷句仏の句碑が立つ。「勿体なや祖師は紙子の九十年」。
◆井泉 ◈「亀の甲の井戸」は、亀の形に石が組まれている。中心に井筒がある。現在は湧水していない。
 
◈井泉「塩釜」は、縮遠亭近くの築山麓にある。石段で降りる横穴の中に井筒が設けられている。かつては、縮遠亭での茶会の際に水が汲まれる泉水だったという。現在、水は涸れている。 
◆五松塢 石幢付近は、かつて五松塢(ごしょうう)と呼ばれ「十三景の五」に数えられた。塢とは、小さな土手を意味した。5本の松が植えられていたとも、一幹5枝の松があったともいう。
◆梅 梅園の「双梅檐(そうばいえん)」は、「十三景の十」に数えられた。漱枕居近くにあり、紅梅、白梅など20株ほどの梅林がある。
 江戸時代、1864年の安政の大火以前は、閬風亭の檐(ひさし)が、この部分まで達していたことから名付けられた。
◆御土居 この地は、豊臣秀吉が安土・桃山時代、1591年頃に築造した御土居の南東端に当たる。
 御土居は河原町通、南西方向の園内の築山、中島の北大島、南大島に造られていたとみられている。これらは、ほぼ同じ標高であり、北東から南西に直線状に並んでいる。かつての御土居遺構とみられている
◆琵琶湖疏水 庭の水は、かつて高瀬川から導かれていた。近代以降は疏水が利用されている。近代の東本願寺再建の時、防火用水として琵琶湖疏水貯水池(蹴上)より寺まで、本願寺水道(1894-1896年、4.7km)が引かれた。いまは、この本願寺水道と地下水が利用されている。
◆花暦 ツバキ・ウメ(2月-3月)、ユキヤナギ(3月-4月)、ヒカンザクラ・ヤマザクラ・ソメイヨシノ・ベニシダレザクラ(4月)、カラタチ(4月中旬-下旬)、フジ(4月-5月)、ショウブ(5月)、ツツジ(5月-6月)、ムラサキシキブ(7月、実は9月-11月)、スイレン(5月-9月)、クチナシ(6月)、ノカンゾウ・ムラサキシキブ(8月-9月)、ハギ(8月-10月)、チャノキ・ツバキ(10月-12月)。秋には楓、銀杏の紅葉が知られている。


*一般的な順路に従って案内しています。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都府の歴史散歩 上』『京都四季の庭園』『昭和京都名所図会 5 洛中』 、ウェブサイト「コトバンク」



東本願寺     佛願寺     文子天満宮     詩仙堂     平等院(宇治市)       

園内の鑓水

ヒノキ科のイブキ(ビャクシン)の大木、2本あり枯死している。

侵雪橋、北大島に架かる木造の反橋。「十三景の六」

印月池

臥龍堂(南大島)

源融ゆかりの塔、鶴島に立つ九重塔。

塩釜の手水鉢、縮遠亭の脇にある。

茶室、縮遠(しゅくえん)亭の上段の間

縮遠亭上段の間、舞台造

茶室、縮遠亭の茶室(抹茶席)

茶室、縮遠亭、板間部分、吹き抜けになっている。

碧石の石幢(せきどう)複製据えられている。


井泉「塩釜」、縮遠亭近くの築山麓にある。

回棹廊(かいとうろう)

回棹廊、天井にはかつて金燈籠を吊るし明かりとした。左に藤棚の紫藤岸がある。

紫藤岸(しとうがん)、池泉東北端の池畔にある藤棚。かつては野生種であったという。


かかり藤


獅子吼、印月池北東にある注水口


獅子吼から続く園内の鑓水

印月池、園の南西方向に京都タワーが建っている。

丹楓渓(たんぷうけい)、池泉北岸の楓の並木、「十三景の十三」

閬風亭、大書院。
 


閬風亭からの庭園の眺め。


印月池、左が北大島、右が南大島。

「明治天皇御休所枳殻邸」の石標、天皇は近代、1880年に当園を訪れている。閬風亭の近く、双梅檐の傍に立つ。

双梅檐(そうばいえん)

漱枕居(そうちんきょ)

楠木の大木、南口近くに立つ。


大玄関

馬繋

渉成園(枳殻亭)グーグルマッブ・ストリートビュー  平安京オーバレイマップ
渉成園 〒600-8190 京都市下京区東玉水町,下数珠屋町(しもじゅずやちょう)通間之町東入る   075-371-9210   9:00-17:00(3月-10月、9:00-16:00(11月-2月)。
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