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枳殻邸(渉成園)・御土居 (京都市下京区) Shosei-en Garden(Kikokutei) |
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枳殻邸(渉成園) | 枳殻邸(渉成園) |
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![]() 渉成園西門 ![]() ![]() 高石垣、切石、礎石、石臼、山石、瓦などが巧みに組み合わされている。 ![]() 枳殻、園のもう一つの名称「枳殻亭」の由来になった。かつては、枳殻の生垣が園の周囲にあったという。 ![]() ![]() ![]() ![]() 庭園北口 ![]() ![]() 臨池亭(左)と滴翠軒(奥) ![]() 臨池亭、滴翠軒前の池泉 ![]() ![]() 滴翠軒 ![]() ![]() 境内を流れる鑓水(やりみず)、印月池に注いでいる。 ![]() 茶室「代笠席(たいりつせき)」 ![]() 亀の甲の井戸 ![]() 園林堂(持仏堂) ![]() 虎関師練筆「園林」の扁額。 ![]() 茶室「蘆菴」、園林堂の南に隣接する。 ![]() ![]() 中門、蘆菴の露地 ![]() 蘆菴の露地 ![]() 蘆菴の露地 ![]() 蘆菴の露地 ![]() 蘆菴の露地 ![]() 傍花閣(ぼうかかく) ![]() 傍花閣の山廊 ![]() 傍花閣 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 園内の鑓水 ![]() ヒノキ科のイブキ(ビャクシン)の大木、2本あり枯死している。 ![]() 渉成園(枳殻邸)、 OpenStreetMap Japan ![]() 侵雪橋、北大島に架かる木造の反橋。「十三景の六」 ![]() ![]() 印月池 ![]() 臥龍堂(南大島) ![]() 源融ゆかりの塔、鶴島に立つ九重塔。 ![]() 御土居、参考文献 『建築家秀吉』 ![]() ![]() 塩釜の手水鉢、縮遠亭の脇にある。 ![]() 茶室、縮遠(しゅくえん)亭の上段の間 ![]() 縮遠亭上段の間、舞台造 ![]() 茶室、縮遠亭の茶室(抹茶席) ![]() 茶室、縮遠亭、板間部分、吹き抜けになっている。 ![]() 碧石の石幢(せきどう)複製据えられている。 ![]() ![]() 井泉「塩釜」、縮遠亭近くの築山麓にある。 ![]() 回棹廊(かいとうろう) ![]() 回棹廊、天井にはかつて金燈籠を吊るし明かりとした。左に藤棚の紫藤岸がある。 ![]() 紫藤岸(しとうがん)、池泉東北端の池畔にある藤棚。かつては野生種であったという。 ![]() かかり藤 ![]() ![]() 獅子吼、印月池北東にある注水口 ![]() 獅子吼から続く園内の鑓水 ![]() 印月池、園の南西方向に京都タワーが建っている。 ![]() 丹楓渓(たんぷうけい)、池泉北岸の楓の並木、「十三景の十三」 ![]() 閬風亭、大書院。 ![]() 閬風亭からの庭園の眺め。 |
東本願寺の東に渉成園(しょうせい-えん)がある。「枳殻邸(きこく-てい)」、「東殿」、「東園」、「東本願寺下屋敷(新屋敷)」、「百間屋敷」とも呼ばれた。16000坪(52960㎡)の敷地を有している。国の特別名勝の庭園になる。 東本願寺別邸であり、飛地境内地になっている。 ◆歴史年表 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉により、現在の池泉の東付近に御土居が築造された。 江戸時代、1641年、3代将軍・徳川家光は、現在地(東洞院以東、六条-七条間、東西194間、南北297間)の田野を東本願寺13世・宣如に与えた。 1643年、園の造営を想定し、御土居とその東を流れていた高瀬川の流路を東に移し、付け替えた。 1653年、宣如は退隠所にした。避難所としても用いられた。庭園は、宣如の依頼により、石川丈山が六条院の伝承に基づき作庭したという。伏見桃山より樹石が移されたという。 1657年、庭園は完成している。 1678年、高倉学寮が、東坊より園の西に移転する。 1788年、天明の大火の類焼は免れた。本山の仮殿になる。 1827年、思想家・文人の頼山陽(1781-1832)が園を訪れ、園内「十三景」を讃えた。 1842年、庭園は修復される。 1846年、20世・達如が隠居した。 1858年、安政の大火により焼失した。池、石組だけが残された。 幕末、徳川慶喜が一時滞在する。坂本龍馬が幕閣に会いに来たという。また、新撰組が警護していたという。 1863年、2月11日、公卿・三条実美ら7卿が到着し、慶喜が迎えた。 1864年、蛤御門の変で類焼している。 1865年-近代、復興された。 近代、1880年、第122代・明治天皇が来園する。 1884年頃、大玄関が移築された。 1936年、国の名勝に指定されている。 現代、1996年より、庭園の一般公開が始まる。 2014年-2024年、150年前の姿に戻す復元作業が行われる。 2018年、「印月池」南西部でミズアオイ(環境省レッドリスト「準絶滅危惧」)の種子が発見され、当苑で13年ぶりに開花した。 ◆宣如 江戸時代前期の浄土真宗の僧・宣如(せんにょ、1602-1658)。男性。法名は光従、別号に愚渓。京都の生まれ。父・東本願寺第12世・教如の第12子(3男)。1614年、東本願寺第13世になる。1653年、御影堂の改築に着手した。1653年、退隠した。 将軍・徳川家光から寺地の寄進を受け、一画に別邸渉成園(枳殻邸)を営んだ。55歳。 ◆石川丈山 安土・桃山時代-江戸時代前期の文人・石川丈山(いしかわ-じょうざん、1583-1672)。男性。名は凹(おう)、字は孫助、通称は嘉右衛門重之、別号は六々山人、四明山人、凹凸窩(おうとつか)、詩仙堂、丈山は字・号など。三河(愛知県)生まれ。父・武士・信定。源氏の流れを汲み、祖父以来三河・徳川家譜代の臣の家になる。武芸に優れ、16歳で徳川家康の近習になる。1600年、関ヶ原の戦いに出陣し、家康の信望を得た。1615年、旗本として参戦した大坂夏の陣で、軍律違反の先陣争い(一番槍り)をして抜け駆ける。家康の怒りを買い追放される。剃髪し妙心寺に潜居した。1616年、母の病を看るために江戸へ出た。1617年、京都に戻り、友人の儒学者・林羅山の勧めにより、儒学者・藤原惺窩(せいか)門下になり朱子学を修めた。41歳より、病身の母養生のために安芸・浅野家に仕え10数年に及ぶ。母没後に辞する。相国寺近くに庵「睡竹(すいちく)堂」を結び隠棲した。1641年/1635年/1636年)、一乗寺村の庵に移った。後水尾上皇の召にも応じなかった。庵には、羅山、陶工・絵師の尾形乾山、第112代・霊元天皇なども訪れた。1645年、舞楽寺村に祠を築き「頑仙祠」と名付ける。70歳で京都所司代・板倉重宗に、故郷での隠退を願い出るが許されなかった。以後、門戸を閉じたという。 堀杏庵、角倉素庵、元政上人らとも親交する。妻帯しなかった。兵法、剣術、鉾、鉄砲、馬術に優れた。漢詩文にも秀で「日東の李杜」、荻生徂徠は「東方の詩聖」と称えた。江戸時代の「漢詩人の祖」といわれる。凹凸窠には、狩野探幽・尚信筆による、中国の詩家36人の肖像を掲げる詩仙の間が設けられ、丈山の詩も掲げられた。「詩仙堂」の名の由来になる。「渡らじな 瀬見の小川の 浅くとも 老の波そう 影もはづかし」は、後水尾上皇(第108代)の誘いを断る歌だったとも、霊元天皇が丈山の書を見たいとの申し出たことへの返歌ともいう。隷書、茶道にも長け、煎茶も嗜み「文人茶の開祖」といわれる。「三亭(酒店、飯店、茶店)の始祖」ともいう。作庭家としても活躍し、枳殻邸、一休寺、蓮華寺などの庭園の修復などに関わった。詩文集に『新編覆醤集(ふしょうしゅう)』『詩仙詩』など。90歳。 墓は詩仙堂(左京区)近くの山中にある。 ◆大谷句仏 近代の浄土真宗の僧・俳人・大谷句仏(おおたに-くぶつ、1875-1943)。男性。京都の生れ。父・東本願寺22世・光瑩(現如)の次男。東本願寺23世。書道は杉山三郊に師事する。絵画は幸野楳嶺・竹内栖鳳、俳句は河東碧梧桐に学ぶ。俳誌『懸葵(かけあおい』)に加わる。句集に『夢の跡』など。68歳。 ◆渉成園・枳殻亭 「渉成園」の名は、中国六朝時代の詩人・陶淵明(365-427)の「帰去来辞」中の「園日渉而成趣(園は日々に渉[わた] って以て趣を成し)」に因る。 また、かつて周囲に枳殻(からたち)の生垣が組まれたことから、枳殻(きこく)邸とも呼ばれた。 ◆建築 ◈「大玄関」は、近代、1884年頃に大宮御所より移築された。車寄は正面4間、切妻造、玄関は2間。部屋は8畳2間。 ◈「馬繋」は、近代、明治期(1868-1912)初めに建立された。馬を繋いだ。 ◈「閬風亭(ろうふうてい)」は、園内中央にある。大書院になる。江戸時代後期、1864年の安政の大火で焼失し、翌1865年に再建された。大広間になっており、畳を外すと能が演じられた。北西の嘉楽といわれる部屋は、近代、1880年の第122代・明治天皇の来園の際に、休息所として使われ、玉座があった。大広間より東に東山の阿弥陀ヶ峯を借景として取り入れ、前庭は芝地になっている。石川丈山筆「閬風亭」の扁額が掛る。閬風とは、中国・崑崙山脈頂部にあり、仙人が棲む地という。 東面、平屋建。 ◈「回棹廊(かいとうろう)」は、池泉の北東に架かる橋廊をいう。月見台になっている。近代、1884年頃に再建された。木橋、切妻造、左右に小欄、中央は唐破風屋根、檜皮葺。 ◈「滴翠軒」は、園内北部にある。近代、1887年に再建された。「十三景の一」に数えられた。池に面しており、臨池亭とは廊下で繋がる。室内には花頭窓、半月形吹抜の床脇が設えられている。小書院。 ◈「臨池亭」は、近代、1887年に再建されている。池に吹き放しの廊下が迫り出して建つ。以前は2棟を併せて臨池亭と呼んでいた。現在の臨池亭は、喫茶居と呼ばれた。滴翠軒とは吹き放しの廊下で鉤の手に繋がる。 小書院、8畳2間、南面、東面に1間の縁が付く。 ◈「傍花閣(ぼうかかく)」は、「十三景の二」に数えられた。近代、1892年に再建される。園林堂(持仏堂)の三門の意味がある。階上に4畳半の部屋、天井中央に石川丈山が考案した磁石板の十二方位板(十二支)がある。 楼門造と数寄屋造、入母屋造、起破風屋根、杮葺。左右に屋根付き山廊があり、急な階段がある。 ◈「園林堂(持仏堂)」には、虎関師練筆「園林」の扁額が掛かる。正面4間、中央間に桟唐戸。(非公開) ◈「臥龍堂」は、池泉中の南大島にあった。「十三景の四」に数えられる。かつては島に鐘楼堂「臥龍堂」が建てられていたことから、この名で呼ばれた。漱枕居で開かれた茶会の客人が、縮遠亭に舟で向かう際に、刻限を告げるために鐘が鳴らされた。江戸時代後期、1858年、安政の大火により焼失し、その後、再建されていない。二階建、瓦葺。 ◈「偶仙楼」は、閬風亭の地にあった。「十三景の九」といわれた高楼が建てられていた。伏見城から移築されたという。江戸時代後期、1858年の安政の大火で焼失後に再建された。1864年の大火で再び焼失し、その後、再建されなかった。 ◆茶室 ◈茶室「縮遠亭(しゅくえんてい)」は、中島の北大島の築山に建てられている。近代、1884年に再建された。かつては、漱枕居で開かれた茶会の客人が、縮遠亭に舟で向かう趣向になっていた。かつて、この地から東山36峰の阿弥陀ヶ峰が見えていたという。 入口土間に飾り竈、数寄屋風、草庵舞台造、二畳台目。上段の間は三畳敷、天井の棹は、賤ヶ岳の七本槍の柄を用いたという。 板間部分は、吹き抜けになっている。 なお、島は、豊臣秀吉が築造した御土居の遺構になっている。 ◈茶室「代笠席(たいりつせき)」は、煎茶席になる。近代、1888年に建てられた。代笠の名は、人里離れた地を訪れた旅人が、雨宿りする意味という。 半間の土間・小縁、4畳半が2室ある。4畳半の東室は板間に丸太柱、左に天袋、東に潜口。西室は赤松の床柱、床脇に地袋と二重棚、西に下地窓。3間。 東に茶畠がある。 ◈茶室「蘆菴」は、園林堂の南に隣接する。現代、1957年に再建された。 庵の名は、江戸時代には「露菴」とされていた。中国、唐末・五代の禅僧・雲門文堰(んもん-ぶんえん、864-948)の言行録より、一文字「露」が取られたという。雲門文堰蘇は、禅門五家七宗の一つ雲門宗の開祖になる。 二階建てで、一階は7畳、西に床、二方に縁が付く。二階の4畳半(主室)は、煎茶席で北に板敷、中央に赤松の曲木、左を床、右脇に二重棚、二方に肘掛窓。台目3畳(次ぎの間)。 ◈茶室「漱枕居(そうちんきょ)」は、池の西南岸に、茶室の一部が迫り出して建つ。江戸時代後期、1865年に再建された。石川丈山好みであり、「十三景の十一」に数えられた。 かつて、煎茶三席の酒店として使われた。名の由来は、旅路にあることを意味する、「漱流枕石(そうりゅうちんせき)による。茶会の客人は、ここから対岸の茶室「縮遠亭」に舟で向かっていた。 四畳半、三畳台目畳敷、天井は化粧屋根裏、土間に一畳台目の張り出し、袋棚、違棚、三畳東に手摺付縁がある。小襖に江戸時代の狩野永納(1631-1697)筆「茶摘の図」が描かれている。 ◆文化財 ◈園林堂(おんりんどう)仏間、入側に、現代、1958年に版画家・棟方志功(1903-1975)筆の障壁画「天に伸ぶ杉木」「河畔の呼吸」42面(44面とも)がある。 ◈傍花閣の絵馬形の額に、狩野永納筆の「熊谷直美像・平敦盛像」が描かれている。 ◈現代、2011年、漫画家・井上雅彦(1967-)筆の屏風「親鸞」がある。 ◆河原院 平安時代初期、第52代・嵯峨天皇の皇子・左大臣・源融(みなもとの-とおる、822-895)が、奥州塩釜の風景を模して作庭した六条院跡ともいわれている。謡曲「融」にも登場し、名月下の河原院で融大臣が舞う。 江戸時代の俳人・考古学者・北村季吟(1625-1705)が、著書の中で類推している。頼山陽(1781- 1832)の『渉成園記』にも伝承について記されている。ただ、河原院跡は現在地の北東(鎌倉時代、『拾芥抄』)にあったとされ、現在では渉成園を河原院跡とする説は否定されている。 六条院はかつて、東は鴨川まで、北は現五条通り近くにまである広大な敷地だったという。4町の規模があり、四季それぞれの風情を織り込んで配置されていた。源融は、藻塩を焼かせ風情を愉しんだ。塩は、難波の海の汐を汲み、毎朝、30石の海水が院まで運ばれていた。鴨川には舟入の川が設けられ、魚や貝まで飼われていたという。 源融は、ほかに宇治・平等院などの別荘も持ち、「河原左大臣」といわれた。紫式部『源氏物語』の主人公・光源氏の実在モデルとされる。邸宅だった六条院も舞台として登場する。風流三昧の生涯を送った源融は、皇位に就くことはかなわなかった。河原院はその後、第59代・宇多法皇の没後に寺院になった。 付近に今も残る本塩竈町や塩小路通などの地名は、六条院の名残りともいわれている。 園内には、源融の供養塔といわれる九重石塔がある。縮遠亭近くに塩釜、塩釜の手水鉢という宝塔灯身などがある。 ◆庭園 ◈大掛かりな池泉回遊式の庭は、大名庭園形式になっている。西を正面とし、東山を借景にしている。石川丈山の作庭という。持仏堂「園林堂」と山門「傍花閣」を結ぶ軸線を元に作庭されたという。 江戸時代後期、1827年、頼山陽が園を訪れ、『渉成園記』中で「十三景」を讃えた。 池の「印月池(いんげつち)」は「十三景の三」に数えられた。広さは1700坪(5619.8㎡)あり、園の6分の1を占める。名は、東山から昇った月が、水面に影を写すことから名付けられ 中島の北大島、南大島がある。築山には豊臣秀吉の御土居が流用されたといわれている。池には、かつて園の北東部から高瀬川の水が引かれていた。現在は、琵琶湖疏水から分流した本願寺水道より、園の北にある小池に導かれ、鑓水により印月池に引かれている。また、印月池の北東部に獅子吼という築山の石組みがある。この注水口は、井戸水の地下水を汲みあげ、池泉に流している。 ◈中島(五松塢)は清水山、小島は阿弥陀ヶ峰、南大島は東隣の山を象っているという。中島(北大島)には、木製の反橋「侵雪橋(しんせつきょう)」、木造の「回棹廊(かいとうろう)」が架けられている。南大島の東に松の島がある。 ◈臨池亭、滴翠軒前の池泉には、築山「キリシマヤマ」が造られている。滝口「滴翠」が組まれている。池の北東に檜垣の灯籠が立つ。 ◆石造物 ◈「塩釜の手水鉢」は、縮遠亭の脇にある。鎌倉時代作とみられている。本歌になる。塩釜を模したという筒状の手水鉢であり、鎌倉時代の石造多宝塔の塔身を転用している。 ◈「九重塔(源融塔)」は、小島の鶴島(塔の島)に立つ。鎌倉時代中期作になる。平安時代の源融の供養塔ともいわれた。塔は園築造以前より、この地にあったともいう。宇治・塔の島の景色を写したともいう。 基礎に格狭間、開花蓮華の陽刻、軸部(塔身)は大面取、四方仏がある。9つの笠石を重ねる。最上部の相輪は失われ、宝篋印塔の笠と宝珠がのる。花崗岩製、3.3m。 ◈「石幢(せきどう)複製」は、侵雪橋近くに据えられている。 下より基礎に幢身、その上に中台、さらに仏像をあらわす六角形の龕部(がんぶ)、笠がのる。石灯籠との違いは、笠に蕨手の装飾がなく、竿(幢身)に節がない。火袋の代わりに龕部を置く。碧石は使われていない。鎌倉時代初期に現れ、南北朝時代には六地蔵石幢が造られた。 ◈「手水鉢」は、東本願寺別邸(非公開)の濡縁傍にある。かつて出雲寺(上出雲寺)の三重塔の心礎だったともいう。尾形光琳の茶室の蹲に転用された。近代、1912年に東本願寺に移されたという。 隅丸の長方形、中央に円穴(直径40㎝)、長さ2.2m、幅1.6m、厚さ50㎝、花崗岩。 ◆句碑 大谷句仏の句碑が立つ。「勿体なや祖師は紙子の九十年」。 ◆井泉 ◈「亀の甲の井戸」は、亀の形に石が組まれている。中心に井筒がある。現在は湧水していない。 ◈井泉「塩釜」は、縮遠亭近くの築山麓にある。石段で降りる横穴の中に井筒が設けられている。かつては、縮遠亭での茶会の際に水が汲まれる泉水だったという。現在、水は涸れている。 ◆五松塢 石幢付近は、かつて五松塢(ごしょうう)と呼ばれ「十三景の五」に数えられた。塢とは、小さな土手を意味した。5本の松が植えられていたとも、一幹5枝の松があったともいう。 ◆梅 梅園の「双梅檐(そうばいえん)」は、「十三景の十」に数えられた。漱枕居近くにあり、紅梅、白梅など20株ほどの梅林がある。 江戸時代後期、1864年の安政の大火以前は、閬風亭の檐(ひさし)が、この部分まで達していたことから名付けられた。 ◆正面通 渉成園は、東西路の正面通(しょうめん-どおり)(全長1.6km)を分断する形で建てられている。通りは、平安京城では七条坊門小路にほぼ重なる。 正面通は、安土・桃山時代、1589年以降に命名された。方広寺(東山区)大仏の正面に通じる道の意味があった。「大仏正面通」とも呼ばれる。江戸時代前期、1686年頃、正面通と呼ばれるようになったともいう。東は大和大路通(東山区茶屋町、方広寺・豊国神社の西側)から、鴨川に架かる正面橋を越え、西は揚屋町通(下京区西新屋敷揚屋町、西新屋敷児童公園 [揚屋町公園]の東側付近)に至る。 安土・桃山時代、1586年に豊臣秀吉(1536-1598)は、方広寺大仏殿(東山区)を創建した。1591年には、その西側に本願寺(下京区)に土地を与えている。1592年、秀吉は、前年に夭逝した長子・鶴松(1589-1591)を追悼するために、祥雲寺(後の智積院の地)(東山区)を創建した。1598年、秀吉が没する。翌1599年に、阿弥陀ヶ峰(東山区)に豊国廟、その麓に豊国神社(東山区)が創建された。本願寺は阿弥陀堂・御影堂を建てている。これらの境内は、鴨川を挟み東西方向にほぼ一直線上に配されていた。 徳川家康(1542-1616)・徳川幕府は、秀吉の神格化を徹底的に妨害した。安土・桃山時代、1602年に家康は東本願寺(下京区)に土地を寄進・別立させて、本願寺を東西に分裂させる。江戸時代前期、1603年に、東本願寺は阿弥陀堂を建てている。江戸時代前期、1614年に方広寺、1615年には祥雲寺、1619年に豊国廟・豊国神社を次々と破却に追う。1641年に、3代将軍・家光(1604-1651)は、東本願寺住職に土地を与え、渉成苑(枳殻邸)(下京区)を建てさせている。1655年には、豊国廟の参道を塞ぐ形で、新日吉神宮(東山区)を創祀させた。 このため、現在も残る正面通は1本道ではなく途切れている。東から渉成園(枳殻邸)、東本願寺、西本願寺などの広大な敷地・境内に行く手を遮られている。なお、渉成園-不明門通間での通り名は、「中珠数屋町なか-じゅずやまち)通」ともいう。 ◆御土居遺構 この地は、豊臣秀吉が安土・桃山時代、1591年に築造した御土居の南東端に当たる。 御土居は河原町通、南西方向の渉成園内の築山・中島の北大島・南大島を繋ぐ線上に造られていたという。これらは、ほぼ同じ標高で、北東から南西に斜直線状に並んでいる。 江戸時代前期、1641年に枳殻邸の建設計画では、土塁は東本願寺に譲渡され、庭園内に取り込まれた。このため、幕府により東側に10年をかけて新たに御土居が付け替えられた。園を回避する形になっており、鴨川の西側に「逆L」字形に再築造されている。 その後、1648年には、七条舟入(内浜)(七条通北側沿い、東西方向)とそれに通じる南北方向の水路(七条舟入筋)が整備された。周辺には、材木町、納屋町などの地名が残る。御土居の南側(舟入東小口)の畑地は、江戸時代中期、1714年に、六条村の宅地化される。近代、1912年頃に内浜・水路は埋め立てられ消滅した。 ◆御土居の発掘調査 現代、2021年4月-9月に、京都市埋蔵文化財研究所による渉成園の南東(下京区郷之町七条河原町交差点付近)での移設・付け替え後の御土居発掘調査(50.9.25㎡)が行われた。 調査地の北東部で、江戸時代前期、1641年以降に付け替えられた東西方向の御土居の土塁(南裾部の基底部)が見つかった。上部は後世に削平され、基底部(東西17m、南北7.5m、高さ0.7m)のみが残っていた。「舟入東小口」(『京都惣曲輪御土居絵図』)に続く舟の入口だったとみられている。 調査地北部では、江戸時代後期の石積も発見された。江戸時代前期の石積を修復したとみられ、割石(花崗岩)を「コ」の字状に並べていた。当初の土塁裾部を切り崩し、石を「L」字状に並べ、土の充填後に、東側に石を並べて土盛していた。土塁裾部の盛土流出を防ぐための修復工事跡とみられている。 土塁の南裾部では、江戸時代後期の東西方向の護岸が見つかり、坩堝(るつぼ)を2段並べていた。江戸時代中期に舟入東小口の南に掘られた、六条村の生活排水用の細い溝跡の可能性がある。 西部では、江戸時代後期の南北方向の水路・護岸(長さ12m、幅3.5m、深さ0.6m)が見つかった。水路は、舟で建築資材などを御土居内に運び入れるため、高瀬川から水を引いていたという。江戸時代後期の水路の一部を埋め、0.5m西に新たな護岸を築いていた。東側の護岸では、高瀬川と同様に丸杭・横板を用いていた。(『拾遺都名所図会』)。 なお、江戸時代後期の陶磁器片、土製玩具なども出土している。 ◆御土居 室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)後、高倉より東、松原以南は、相次ぐ鴨川の氾濫により荒地になった。 安土・桃山時代、1591年に、豊臣秀吉は京都の再興・改造を手がける。細川幽斉、前田玄以などに洛中の周囲をめぐらせる堤防・惣構施設の「御土居」の築造を命じた。諸国大名らにより同年1月に着工になり、閏1月に2カ月で完成したという。(近衛信尹『三藐院記[さんみゃくいんき]』)。また、2-4カ月/5カ月の突貫工事で完成させたともいう。 御土居は、北は上賀茂・鷹ヶ峰、西は紙屋川(天神川)・東寺の西辺、南は東寺南の九条通、東は鴨川西岸の河原町通まで築かれた。当時存在していた聚楽第、京都御所も土塁内側に取り囲んでいる。規模は、東西3.5km、南北8.5km、総延長は22.5kmにもなった。 御土居の構造は外側に濠(堀)、内側に台形状の土塁を築いた。工法は「掻揚城(かきあげしろ)」が採られ、掘った濠の土を積み上げて土塁を築き、積石・石垣で地盤を固めた。墓石・地蔵なども「礎石」として使われている。当時の構築物においては一般的なことだった。なお、掻揚だけでは、土塁を築く土量が不足したとの見方もある。 土塁規模は一定しておらず、高さ3.6-5.4m、基底部幅10-20m、頂上部幅4-8m、犬走り1.5-3mあった。土塁頂上は、盛土の保護・強度を増すために竹林で覆われた。竹薮の伐採は厳禁された。土塁の外には、濠(3.6-18m)が設けられ、江戸時代には、農業用水としても利用されている。 御土居は、当初「土居堀」と呼ばれた。ほかに「京廻りノ堤」、「新堤」、「惣曲輪(そうぐるわ)」、「土居」などとも呼ばれ、江戸時代に「御土居」と称されるようになる。 御土居には「京の七口」と呼ばれる出入口が開けられ、主要な街道に通じていた。出入口は特定されるものではなく、当初10カ所あり、江戸時代前期には40カ所に増えたという。 「普請太閤」といわれた秀吉の御土居築造の意図は、複合的なものとされる。一般的には、鴨川・紙谷川(天神川)などの氾濫に対する水害対策・防災的な堤防の意図が強かった。さらに、外敵に備える防塁の意味も加わる。平安京以来、九条大路の南以外には羅城は築かれていなかった。御土居により初めて、京都は本格的な城塞により囲まれることになった。 御土居築造により、都の開発は鴨川の間際まで進む。また、聚楽第、御所を取り込むように構築されたため、「洛中」・「洛外」の区分を生み洛中範囲の確定に繋がった。軍事的な城壁の役割、権勢誇示という政治的な意味合いもあった。それまでの権力支配(朝廷・公家・寺社)から都人を分断させ、聚楽第を中心にした新都市の再編・支配が強行されたともいう。安土・桃山時代、1591年の御土居築造が、1592年の文禄の役の前年であり、秀吉の朝鮮・明攻略を前提とした首都防衛機能の一環だったともいう。なお、築造に際して、小田原城の城下を模したとする見方もある。 御土居築造に先立ち、新たな「町割」も行われた。1590年に寺院に対し「寺割」が行われた。それまで散在していた寺院の強制移転をさせ、新たに寺町、寺之内、本願寺などの寺院町を形成させた。これにより、防御・防災、税徴収の効率化、寺院と民衆の結びつき分断の意味もあったという。 平安京以来の条坊制は、東西南北一町四方(正方形)の区画を基本とした。これでは、中心部に無駄な空地が生じてしまう。1590年に秀吉は、一部を除き、これを半町一町の短冊型(長方形)の区割りに再編する。半町毎に、新たな南北の道路(小路)を設けた。新しい町割により、町家数と人口増加をもたらし、検地の効率も高められた。 御土居の保全は、京都所司代の命により、近郊の農民が駆り出されていた。江戸時代前期、1669年以降は、角倉了以の子・角倉与一が「土居薮之支配」(奉行)に任じられ、幕府により管理権を与えられた。この頃、御土居に繁茂した竹(土居薮)を民間に払い下げている。竹は資材として利用された。江戸時代前期、1702年に角倉家は、『京都惣曲輪(そうくるわ)御土居絵図』を作成し、御土居の変遷を記録し管理を継続した。 御土居築造から40年ほどで、都の開発が御土居を越えて進行する。鴨川には新たな堤防が造られ、東側の開発が進み土塁は取り壊された。御土居のうち堤防の役割を果たしていたものを除き、大部分は次第に撤去され、屋敷用地・道路などに転用された。なお、江戸時代中期、元禄期(1688-1704)までは、まだ水堀としては機能していた。 近代以降、1870年の京都府の「悉皆開拓」令により、府は土地の払い下げを通達している。以来、御土居の破壊が急速に進行する。「お土居薮地」は、田圃、畑、桑畑、茶畑などに開墾することが奨励されている。第二次大戦後は、土塁遺構の大部分は消失した。現在はごく一部のみが残る。 ◆幕末 幕末に、徳川慶喜(1837-1913)は、二条城ではなく、枳殻邸、知恩院、越前藩、小浜藩などを宿舎にあてた。大目付・永井尚志(1816-1891)が宿舎にし、坂本龍馬(1835-1867)が幕閣に会いに来たという。また、新撰組が警護していたという。 江戸時代後期、1863年、2月11日午前、公卿・三条実美(1837-1891)、阿野公誠(あの-きんみ、1818- 1879)、野宮定功(1815-1881)、橋本実麗(1809-1882)、豊岡大蔵、滋野井実在(1826-1878)、正親町公童、姉小路公知(1840-1863)ら、急進派の公卿7人が枳殻邸に到着した。慶喜が迎えている。公卿は上段の間に坐した。午後、松平春嶽(1828-1890)、松平容保(1836-1893)、山内容堂(1827-1872)ら幕閣が駆け付けた。実美は、前年に将軍・家茂が譲位決行の宣言をしたとして、第121代・孝明天皇の勅書を示し攘夷期限を慶喜に迫った。慶喜は譲位決行を明言をしている。 ◆琵琶湖疏水 庭の水は、かつて高瀬川から導かれていた。近代以降は疏水が利用されている。近代の東本願寺再建の時、防火用水として琵琶湖疏水貯水池(蹴上)より寺まで、本願寺水道(1894-1896年、4.7km)が引かれた。いまは、この本願寺水道と地下水が利用されている。 ◆花暦 ツバキ・ウメ(2月-3月)、ユキヤナギ(3月-4月)、ヒカンザクラ・ヤマザクラ・ソメイヨシノ・ベニシダレザクラ(4月)、カラタチ(4月中旬-下旬)、フジ(4月-5月)、ショウブ(5月)、ツツジ(5月-6月)、ムラサキシキブ(7月、実は9月-11月)、スイレン(5月-9月)、クチナシ(6月)、ノカンゾウ・ムラサキシキブ(8月-9月)、ハギ(8月-10月)、チャノキ・ツバキ(10月-12月)。秋には楓、銀杏の紅葉が知られている。 *一般的な順路に従って案内しています。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都四季の庭園』、『昭和京都名所図会 5 洛中』 、『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』、『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』、『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』、『御土居堀ものがたり』、『洛中洛外』、『秀吉の京をゆく』、『京都の地名検証 2』、『京都の地名検証 3』、『京都大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都・観光文化 時代MAP』、『豊臣秀吉事典』、『御土居跡』、「河原町七条の御土居の発掘調査-京都市考古資料館」、 『建築家秀吉』、延命地蔵大菩薩の駒札、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、ウェブサイト「御土居跡-京都市」、ウェブサイト「コトバンク」、 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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![]() 印月池、左が北大島、右が南大島。 |
![]() 「明治天皇御休所枳殻邸」の石標、天皇は近代、1880年に当園を訪れている。閬風亭の近く、双梅檐の傍に立つ。 |
![]() 双梅檐(そうばいえん) |
![]() 漱枕居(そうちんきょ) |
![]() 楠木の大木、南口近くに立つ。 |
![]() ![]() 大玄関 |
![]() 馬繋 |
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![]() 【参照】正面通 ![]() 【参照】「正面」の通名板 ![]() 【参照】「正面通不明門」の通名 |
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