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廬山寺・御土居 (京都市上京区) Rozan-ji Temple |
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廬山寺 | 廬山寺 | |
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![]() 薬医門 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 本堂玄関 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 元三大師堂 ![]() 元三大師堂 ![]() 元三大師堂 ![]() 元三大師堂 ![]() 元三大師堂 ![]() ![]() 御黒戸(尊牌殿) ![]() 鐘楼 ![]() ![]() 紫式部、その娘賢子・第弐三位(だいにさんみ)の歌碑 ![]() 「源氏庭」 ![]() 「紫式部邸宅跡紀元念碑」 ![]() ![]() 桔梗 ![]() ![]() 国宝「源氏物語絵巻 柏木」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 仁孝天皇皇子鎔宮墓、孝明天皇皇女寿萬宮墓 ![]() 仁孝天皇皇子鎔宮墓、孝明天皇皇女寿萬宮墓 ![]() 慶光天皇廬山寺御陵 ![]() 慶光天皇廬山寺御陵 ![]() 「雲水ノ井(くもみずのい)」跡。慶光天皇御陵の右手(東)の椿の生垣のなかにある。 ![]() 「雲水ノ井(くもみずのい)」跡 ![]() ![]() 日本画家・池田遥頓の筆塚 ![]() 三条家の墓 ![]() 有馬晴信の妻ジェスタの墓
![]() 「史蹟 御土居」の石標、境内東側の墓地内 ![]() 御土居、森になっている。 ![]() 土塁南端の上り口 ![]() 土塁の頂部 ![]() ![]() ![]() 土塁の北端上り口 ![]() 土塁の北端頂部 ![]() ![]() 【参照】京都府立医科大学附属図書館の御土居(復元) ![]() 【参照】京都府立医科大学附属図書館の御土居(復元) ![]() |
京都御所の東に位置する廬山寺(ろざん-じ)は、『源氏物語』の作者・紫式部邸宅跡といわれている。近代以前まで、御黒戸四箇院(黒戸四ヵ院、ほかに二尊院、般舟院、遣迎院)のひとつに数えられた。正式には慮山天台講寺(ろざん-てんだいこうじ)という。山号は日本廬山という。 天台円(圓)浄宗大本山。本尊は阿弥陀如来。 大師堂の如意輪観世音菩薩は洛陽三十三か所第32番札所。京都七福神めぐり第3番(毘沙門天)。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 平安時代、938年/天慶年間(938-947)、良源(慈恵大師)により、船岡山南麓(北山とも)に宿坊・与(與)願金剛院(よがん-こんごういん)が開かれた。(寺伝) 鎌倉時代、1243年、法然の弟子・住心覚瑜(住心坊覚瑜)は、船岡山の南麓に再興した。中国の廬山に倣い、廬山天台講寺と称したともいう。覚瑜は、念仏修行の結社「白蓮社(びゃくれんしゃ)」を起こした。 また、1245年、覚瑜が出雲路(船岡山南麓とも)に中興したという。(寺伝)。第88代・後嵯峨天皇の勅による。中国・慮山の恵遠が覚瑜の戒香薫修により来現し、慮山の二文字を残し消えたことから、慮山天台講寺と名付けたともいう。天台別院になり、天台、法相、真言律、浄土の四宗兼学になったという。以後、多数の学僧を輩出した。 1304年、本光禅仙は、一条猪熊(上京区中社町付近、北小路とも)に法庵を結ぶ。与願金剛院、慮山天台講寺の両寺を再興したともいう。(寺伝) また、元亨年間(1321-1324)、覚瑜は、本願を覚瑜、開山を禅仙とし、出雲路に仏閣を建て廬山と号した。禅仙は北小路に草庵を結ぶ。同年間、明導照源が両者の跡を伝え、2寺を一所に合したともいう。(『山城名勝志』『山州名跡志』) 南北朝時代、1368年、廬山、與願両寺兼務の照源により、廬山寺が與願金剛院(よがん-こんこういん)に統合される。中国の廬山に倣い廬山天台講寺(ろざん てんだいこうじ)と号した。(寺伝)。また、同年/元亨年間(1321-1323)、照源は、金剛院と廬山寺を合わせ、猪熊一条北(上京区中社町)(船岡山とも)に廬山寺を開いたともいう。寺は女人の参拝ができる「洛中の叡山」といわれ、第96代・後醍醐天皇の勅願寺になった。同年、明導没後、仁空実導が継承し、法流は廬山寺流と呼ばれたという。 室町時代、1397年、焼失している。(『応仁記』) 1401年、1月、足利義満が参詣した。(『迎陽記』) 1404年、義満により明に派遣された明宝志が、明の唯実上人により中国の廬山寺に倣い、日本廬山寺と公称したという。その後、慮山天台講寺、日本湾慮山天台講寺などと称されたともいう。 1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失している。 1494年/明応年間(1492-1501)、焼失した。(『後法興院記』) 1501年、甘露寺元長が参詣した。(『元長卿記』) 1569年/永禄年間(1558-1570)、類焼した。同年、再興される。(『廬山寺縁起』) 1570年、塔頭として竹中坊、金光院、宝林院があった。(『言継卿記」『継芥記』) 1571年、織田信長の比叡山焼討ちの兵火に遭う。焼討ちは、第106代・正親町天皇の女房奉書により免れたともいう。 安土・桃山時代、1573年、第106代・正親町天皇の勅により、現在地に移転したともいう。 1585年/天正年間(1573-1593)、22世・超空の時、豊臣秀吉の命により、現在地の寺町通に移された。(寺伝)。57石を得る。 1591年、豊臣秀吉は境内東に御土居を築造させた。 江戸時代、1637年、寺地南北52間、東西55間あった。(『洛中絵図』) 1708年、宝永の大火により焼失した。 1712年、御土居は寺領(493坪)として払い下げられた。(「京都御役所向大概覚書」) 1788年、天明の大火により焼失した。 1794年、現在の御仏殿(本堂)、御黒戸(尊牌殿)が、第119代・光格天皇の仙洞御所の一部、女院、閑院宮の移築により再建された。 近代以前、「御黒戸四箇院」と呼ばれ、宮中の仏事を司る寺院四寺(廬山寺、二尊院、般舟三昧院、遣迎院)の一つになっていた。 1867年、塔頭の金光院、十輪院、不動院が本寺に合併された。(『坊目誌』) 近代、1868年の神仏分離令後の廃仏毀釈後、塔頭・金光院、十輪院、不動院は本寺に併合される。(『坊目誌』)。金山毘沙門天像が安置される。 1872年、太政官布告により、宮中所属より比叡山延暦寺に属した。その後、第122代・明治天皇の勅命により、御黒戸四箇院中、当山のみが復興された。 1874年、官許により金山天王寺は廬山寺に合併された。 1948年、圓浄宗として、四宗兼学(円、密、戒、浄)の道場になった。 現代、1965年、歴史学者・角田文衛は境内が紫式部邸跡と発表した。「源氏の庭」が作庭される。 ◆良源 平安時代中期の天台宗の僧・良源(りょうげん、912-985)。男性。俗姓は木津氏、元三大師良源、慈恵大師。近江国(滋賀県)の生まれ。923年、12歳で比叡山西塔宝幢院の日燈の坊で理仙大徳の弟子になり、17歳の時、座主尊意から受戒した。論議に優れ、937年、興福寺維摩会の威儀師に選ばれ、叡山を勝利に導く。950年、村上天皇皇子・憲平親王の護持僧になる。950年、阿闍梨となる。963年、清涼殿での南都との法華十講の論戦に参加し、勝利した。964年、内供奉十禅師となる。965年、権律師になる。966年、55歳の若さで18世天台座主になり、以後19年に渡り在任した。その間、伽藍の増改築を行い、比叡山中興の祖となる。藤原忠平、その子・師輔、兼家の後援を得て、山内経営の基盤を築いた。また、問答形式の法会の広学堅義を始めた。970年、「二十六か条起講」を布告し、綱紀粛正も規 した。横川を独立させ、三塔体制を確立した。他方、権門勢力の影響を受け、世俗化、その後の派閥抗争の一因になった。981年、史上2番目の大僧正まで昇りつめた。74歳。 比叡山四大師(伝教、慈覚、智証)のひとり。良源が著した『極楽浄土九品往生義』は、極楽浄土往生者を位付し、それぞれの極楽の相違を述べ、後の浄土宗の展開になった。 元三(がんさん)大師の別名は、正月三日に亡くなったことによる。学識、政治力、霊感にも優れていたため、没後は、元三大師信仰が生まれた。鬼大師、魔滅大師(豆大師)、角大師、木葉大師、御廟(みみょう)大師、御鏡大師などとも呼ばれた。お神籤(おみくじ)の原型になった「観音籤」を考案したといわれている。また、漬物「定心漬」も発案したという。 ◆住心覚瑜 鎌倉時代中期の僧・住心覚瑜(じゅうしん-かくゆ、?-?)。詳細不明。男性。覚瑜(かくゆ)、住心坊覚瑜。法然の弟子。1243年、船岡山の南麓に、中国の廬山に倣い蓮社を結び、廬山天台講寺を再興したともいう。また、1245年、出雲路に再興したともいう。 ◆本光禅仙 南北朝時代の僧・本光禅仙(?-1340)。詳細不明。男性。1304年、一条猪熊(北小路とも)に与願金剛院、慮山天台講寺の両寺を再興したという。元亨年間(1321-1324)、北小路に草庵を結んだともいう。 ◆明導照源 南北朝時代の天台宗の僧・明導照源(みょうどう-しょうげん、1339-1368)。詳細不明。男性。仲円、示導に法を受ける。1368年、廬山、與願両寺を兼務し、廬山寺を與願金剛院に統合し、廬山天台講寺と号した。同年(元亨年間[1321-1323]とも)、金剛院と廬山寺を合し、猪熊一条北(上京区中社町、船岡山とも)に廬山寺を開いたともいう。廬山寺3世。『天台三大部猪熊抄』100巻を著す。29歳。 ◆仁空実導 鎌倉時代後期-南北朝時代の僧・仁空実導(1309-1388)。男性。静山、諡号は円応和尚。実導(じつどう)。京都の生まれ。父・藤原為信。比叡山で顕密二教をおさめる。西山・三鈷寺の示導(じどう)に学び、戒をうける。三鈷寺10世となり中興する。廬山寺・明導照源の法流を継ぎ、「廬山寺流」と呼ばれた。著作に『西山上人縁起』『論義鈔』。80歳。 ◆藤原兼輔 平安時代前期-中期の公卿・歌人・藤原兼輔(ふじわら-の-かねすけ、877-933)。男性。堤中納言。父・藤原北家・右中将・藤原利基の6男。邸が鴨川の堤近くにあり堤中納言と呼ばれた。第60代・醍醐天皇の外戚であり、897年、天皇即位後、非蔵人として仕えた。讃岐権掾・右衛門少尉、903年、内蔵助、内蔵寮次官、長官を歴任、左兵衛佐・右衛門佐・左近衛少将、五位蔵人を兼任、917年、蔵人頭、919年、左近衛権中将、921年、参議として公卿に列した。927年、従三位・権中納言に至る。『古今和歌集』以下の勅撰集に入集。家集は『兼輔集』。 57歳。 和歌、管弦に優れ、歌壇の中心的な人物として三十六歌仙の一人。 ◆藤原為時 平安時代中期-後期の官吏・貴族・藤原為時(ふじわら-の-ためとき、949?-1029?)。男性。父・藤原雅正(まさただ)、母・藤原定方の娘の3男。次女は紫式部。菅原文時に師事し文章生となる。977年、東宮・師貞親王の御読書始で副侍読。984年、第65代・花山天皇(師貞親王)即位により式部丞・六位蔵人に任じられた。紫式部の「式部」の由来になる。986年、天皇退位に伴い官職を辞任。官途に恵まれず第66代・一条天皇に詩で訴え、996年、越前守に任じられ、越前には紫式部も同行したという。1009年、正五位下・左少弁。1010年、藤原道長邸での宴席を早退して道長に非難される。1011年、越守、1016年、三井寺で出家した。80歳?。 歌人・漢詩人であり、詩は『本朝麗藻』、和歌は勅撰集に入集。 ◆紫式部 平安時代中期-後期の歌人・作家の紫式部(むらさき-しきぶ、973頃-1014頃)。女性。本名は香子(たかこ/かおりこ/よしこ)、女房名は藤(とう)式部。父・藤原為時、母・藤原為信の娘。幼くして母、後に姉も亡くす。漢籍に通じた。996年、父・為時が越前守に任じられ紫式部も下向する。997年、藤原宣孝(のぶたか)と和歌の贈答をし、求婚の書状が届く。宣孝は式部の又従兄弟に当たる。997年-998年、紫式部は単身帰京する。998年頃、複数の妻子ある地方官吏・藤原宣孝の妻になる。999年、式部は一人娘・賢子(かたこ/けんし)を産む。1001年、夫・宣孝と死別した。『源氏物語』起筆ともいう。1006年/1005年/1004年、内覧左大臣・藤原道長の娘・中野彰子(しょうし、のちの院号・上東門院)に仕える女官になったともいう。紫式部は侍講と して漢文学を教え、傍ら54帖の『源氏物語』を執筆した。物語は当初から宮廷で評判になる。1008年、彰子に『楽府』を進講する。藤原道長と女郎花の歌を贈答する。『源氏物語』が流布した。『源氏物語』冊子作りが進む。道長は『源氏物語』草稿文を持ち帰る。1009年、道長と歌を贈答した。1010年?、『宇治十帖』執筆を始める。『紫式部日記』消息文を執筆する。1013年、『紫式部集』を編集した。1014年、皇太后彰子の病気平癒祈願のために清水寺に参詣した。 通称名は藤(ふじ)式部と呼ばれた。候名(さぶろうな)の「式部」は、父の官名「式部丞(しきぶじょう)」に由る。『源氏物語』中の女主人公、紫の上に因み、紫式部と呼ばれるようになる。娘の賢子(大貳三位、だいにさんみ)も、第70代・後冷泉天皇の乳母になり、歌人としても知られた。寺伝によると、紫式部はこの地で育ち、結婚生活を送り、娘を育て亡くなったという。境内に歌碑が立てられ、関連資料が展示されている。59歳/40歳余?。 『源氏物語』は「桐壷」から始まる54帖からなり、光源氏の誕生と栄華、その晩年の苦悩、その死と子らの悲哀を描く三部構成になる。21帖「少女」巻では、漢学に通じた「漢才(からざえ)」に対し、かな(女手)を用いることを「大和魂」と記した。物語は彰子のために書かれたともいう。当初から宮廷で評判となる。紫式部は、自らの半生を物語に投影したという。12年の歳月をかけ、完成とともに亡くなる。 ◆大弐三位・賢子 平安時代中期-後期の歌人・大弐三位・賢子(だいにの-さんみ、999? -1082?)。女性。越後弁、弁乳母、典侍、藤三位などと呼ばれた。藤原賢子(ふじわら-の-かたいこ/けんし)。父・藤原宣孝、母・紫式部。1001年、3歳頃父と死別。1017年、18歳頃(14歳頃とも)、一条院の女院彰子(上東門院)に女房として出仕。藤原頼宗、藤原定頼、源朝任らと交際があった。関白藤原道兼・次男兼隆と結婚、一女をもうけた。1025年、親仁親王(第70代・後冷泉天皇)の誕生に伴い、乳母に任ぜられた。1037年までに、東宮権大進高階成章と再婚、1038年、為家を産む。女児も産む。1045年、後冷泉天皇の即位により女官最高位の従三位に昇叙した。1053年、夫、1068年、後冷泉天皇を喪う。藤三位(とうのさんみ)、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)とも呼ばれた。女房三十六歌仙の一人。83歳?。 ◆藤原彰子 平安時代中期-後期の藤原彰子(ふじわら-の-しょうし/あきこ、988-1074)。女性。院号は上東門院、大女院、東北院とも呼ばれた。父・藤原道長、母・左大臣源雅信の女・倫子の長女。999年従三位、従兄の第66代・一条天皇に入内し、女御宣下。1000年、皇后に冊立され中宮を号した。1008年、土御門殿で敦成親王(第68代・後一条天皇)を産む。1009年、敦良親王(第69代・後朱雀天皇)を産む。1012年、皇太后、1018年、太皇太后となる。1026年、落飾し法名を清浄覚とした。女院号を賜り、上東門院を称した。1036年、後一条天皇、1045年、後朱雀天皇を相次いで亡くす。後年、父道長が建立した法成寺の内に東北院を建て在所とした。87歳。 女房に歌人の紫式部、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔などがいる。 ◆ジェスタ 安土・桃山時代の女性・ジェスタ(?-?)。男性。父・中山親綱。第107代・後陽成天皇の正室の妹。1580年、公卿・菊亭に嫁ぐ。小西行長の計らいによりキリシタン大名・有馬晴信と再嫁。キリシタンに入信し洗礼名ジェスタ。廬山寺(上京区)に五輪墓がある。 ◆慶光天皇 江戸時代中期-後期の皇族・慶光天皇(きょうこう-てんのう、1733-1794)。男性。典仁(すけひと)、自在王院と号した。父・閑院宮直仁(かんいんのみや-なおひと)親王の第2皇子、光格天皇の父。1742年、中御門天皇の猶子、1743年、親王宣下を受け閑院宮家を相続した。1780年、第6王子(光格天皇の即位により、太上(だじょう)天皇の尊号を希望し幕府に拒否された。(「尊号一件」)。62歳。1884年、中山忠能の発議により慶光天皇の尊号が追謚された。 天皇陵は廬山寺(上京区)にある。 ◆廬山 廬山の寺名については伝承がある。鎌倉時代中期、1245年、住心覚瑜が寺を再興した際に、寺名を慮山天台講寺と名付けた。 住心覚瑜の戒香薫修(かいこうくんじゅう、戒律を保つと功徳が自然に身に備わり、広く人びとに伝わり、敬愛される)により、中国江西省慮山(ルーシャン)の恵遠が現れ、慮山の二文字を残して姿を消したため、寺名を改めたという。 ◆堤第・源氏物語 平安時代にこの地には、紫式部の曽祖父・堤中納言兼輔(藤原兼輔、877-933)の屋敷があった。式部の父・藤原為時(949?-1029?)に譲ったことから紫式部邸宅跡と推定されている。 現代、1965年、文学博士・角田文衛(1913-2008)により、この地が紫式部の曽祖父、父の住居跡「堤第(つつみてい)」と確定された。室町時代の四辻善成(1326-1402)の源氏物語注釈書『河海抄』には、その位置が「正親町以南、京極西頬(つら)、今東北院向也」と記されている。中流貴族の兼輔は、鴨川の東、堤近くに苑池、寝殿などを建てている。南に法成寺、東京極大路を挟んで向かいに、染殿、清和院、斜め向かいに土御門殿があった。 歌人でもあった為時は、淡路守、越前守などを歴任した。紫式部も、この「旧い家」で生まれ育ち、一生の大半を過ごしたという。『源氏物語』の初稿本もここで執筆したという。『源氏物語』第11帖「花散里(はなちるさと)」に登場する紀伊守邸、「花散里」の屋敷も、この付近「中川(中河)」が設定されているという。 『源氏物語』第54帖は「桐壷」から始まる。光源氏の誕生と栄華、晩年の苦悩、その死と子らの悲哀を描く三部構成になる。紫式部は、自らの半生を物語に投影したとされる。執筆に12年の歳月をかけ、物語の完成とともに亡くなる。 『源氏物語』は、紫式部の生きた約100年前、第60代・醍醐天皇(在位: 897-930)、第62代・村上天皇(在位946-967)の頃の治世「延喜・天暦の治」を想定したという。山城のみならず、摂津、播磨、大和、近江、陸奥、常陸などの地方のことも物語に取り入れた。これらは、曾祖父・兼輔、父・為時、伯父・為頼、大叔父・典雅など受領経験者の見聞にも基づいている。また、筑紫の女性の友人との交流もあった。 ◆仏像・木像 ◈本堂に「薬師如来坐像」が安置されている。厩戸王(聖徳太子、574-622)作という。四天王寺造営に際し、工人疫病のために太子が自刻し、平癒祈念した。「小屋の薬師」とも呼ばれたという。(『山州名跡志』) ◈本堂に安置されている本尊「阿弥陀三尊」は、来迎院を結ぶ「阿弥陀如来」であり、右脇侍の跪坐(大和坐り)の「勢至菩薩」、左脇侍の「観音菩薩」がある。蓮台、蓮華の持物を持つ。平安時代(12世紀)作といわれ、恵心僧都(源信、942-1017)作によるともいう。 ◈大師堂の本尊「元三大師自作像」は、鎌倉時代作による。慈恵大師自刻による。脇壇に最澄(767-822)作という「聖観音像(船来迎[ふならいごう]観音)」、「御前立鬼大師像」が安置されている。「お前立鬼大師像」が祀られている。 ◈平安時代作、鎌倉時代作の「不動明王像」、「薬師如来像」、「金山毘沙門天像」が安置されている。「金山毘沙門天像」は、近代、1868年に遷された。かつて空海(774-835)作という不動、弁財天があったという。 ◈「如意輪観音半跏像」(重文)は、鎌倉時代前期、1207年の作になる。創建当初の像は、厩戸王(聖徳太子)が北山に開基した金山天王寺の本尊だったという。脇持は毘沙門天像だったという。その後、焼失し、鎌倉時代に寺が再興された際に、天王寺の飛鳥仏を模して造立されたという。第三十二番札所であり、現在は、元三大師堂内に御前立のみが安置されている。京都国立博物館委託。 ◈「明智光秀の念持仏」がある。 ◆黒戸四ヵ院 黒戸とは、宮中の仏間になる。近代以前まで、「御黒戸四箇院(おくろど しかいん)(黒戸四ヵ院)」と呼ばれる4寺院があった。廬山寺(上京区)のほかに、二尊院(右京区)、般舟三昧院(上京区)、遣迎院(北区)になる。 御内仏殿に黒戸を用いていたため「黒戸」、「黒戸の御内仏」ともいう。宮中の仏事を司り、仏殿を守った。住職晋山は参内し、紫の衣を贈られるのを慣例としていた。南北朝時代-近代以前まで続く。京都御所内にはいまも「黒戸の間」が残されている。 廬山寺の黒戸(御黒戸、尊牌殿)には、第120代・仁孝天皇(1800-1846)が祀った第119代・光格天皇(1771-1840)、新清和院皇后(1779-1846)の尊牌が安置されている。 ◆金山天王寺 大師堂内にかつて安置された如意輪観世音菩薩は、旧金山天王寺の本尊だったという。 金山天王寺は、飛鳥時代、586年に厩戸王(聖徳太子)により全国4か所に建立された天王寺の一つという。その後、数度の火災により伽藍、本尊ともに失い廃絶した。鎌倉時代前期、1207年に烏丸一条北に再建される。1219年上立売室町東に移る。本尊は、四天王寺の飛鳥仏を模して造立された。安土・桃山時代、1585年、廬山寺22世・超空により今出川通七本松に移された。近代、1874年官許により廬山寺に合併になる。 ◆建築 2つの山門、大師堂、本堂(御仏殿)、尊牌殿、鐘楼などが建つ。 ◈現在の「御仏殿(本堂)」、「御黒戸(尊牌殿)」は江戸時代後期、1794年、第119代・光格天皇の勅命により仙洞御所の一部、女院、閑院宮の移築により再建された。 ◈「元三大師堂」は、江戸時代後期、1835年に再建された。西面し前面1間通りを畳敷きの外陣、内陣は護摩壇を丸柱で柱間1間に2間の方形に囲み、三面を1間の庇で取り巻く。奥に元三大師を祀る仏壇がある。般舟三昧院の元三大師堂とは両側1間を除き類似する。正面3間、奥行4間。 ◆文化財 ◈平安時代中期、972年の「慈恵大師筆遺告状」(国宝)、東京国立博物館寄託。 ◈平安時代中期、970年の「慈恵大師廿六箇条起請」(重文)。 ◈法然(1133-1212)自筆の「選択本願念仏集」(重文)は、鎌倉時代前期、1198年に、法然が九条兼実の請いにより草稿した。表題から「南無阿弥陀仏 往生之業念仏為先」までは法然、その後は安楽房が法然の口述を筆記したという。 ◈絹本著色「普賢十羅刹女像」1幅(重文)は、平安時代後期、12世紀作になる。普賢菩薩は六牙の白象に乗る。10人の女神、十羅刹女(じゅうらせつにょ)、訶梨帝母(かり ていも、鬼子母神)が描かれている。 ◈「阿弥陀三尊像」1幅、「地蔵菩薩像」1幅、安土・桃山時代作の「後醍醐天皇像」1幅、安土・桃山時代作の「後陽成天皇像」1幅。 ◈鎌倉時代後期、1321年の「後伏見天皇宸翰願文」(重文)。室町時代後期、1571年の「正親町天皇宸翰女房奉書」(重文)。「源氏貝合せ」。 ◈「富士の間」は源氏物語の屏風で飾られている。、 ◈「源氏具合わせ」など、紫式部、『源氏物語』関連の資料なども展示されている。 ◆庭園 本堂前の枯山水式庭園の「源氏の庭」は、平安朝の庭園を再現している。現代、1965年に作庭された。白砂に洲浜形(源氏雲形)の苔島は金泥の雲を表現する。 庭は桔梗の花(6月-8月末)で知られている。『源氏物語』に登場する朝顔は、桔梗の花になるという。 ◆雲水ノ井跡 慶光天皇御陵の右手(東)、椿の生垣のなかに「雲水ノ井(くもみずのい)」跡がある。 平安時代後期、1030年、藤原彰子が法成寺内に建てた東北院にあった井戸とされる。寺は、法成寺四町の北東にあり、その名で呼ばれた。1058年、法成寺の焼失により東北院も類焼した。同年、再建される。1171年、再び焼失した。その後も法燈だけは続き、現在は真如堂近くの浄土寺(左京区)に移されている。 藤原彰子の女房には、紫式部のほかに、和泉式部(978頃-?)、赤染衛門(956頃?-1041∼)、伊勢大輔年(989頃?-1060頃?)などが集まり、華麗な文芸の舞台になっていた。井水では、紫式部が身だしなみの際に、水に顔を映したともいう。かつて境内には、「澗底(かんてい)の松」も植えられていた。謡曲『東北』に因んでいる。現在、水は涸れている。 ◆碑 ◈庭園に「紫式部邸宅跡紀元念碑」が立てられている。現代、1965年12月に建立された。考証者は角田文衛による。題字の揮亳は言語学者で、広辞苑の編纂者として知られる新村出(しんむら-いずる、1876-1967)であり絶筆になった。 かつて新村は角田に紫式部の墓の調査研究を託したという。その後、角田は邸宅跡を確定する。顕彰碑の建立に際して、角田の依頼により新村が題字を揮毫した。 ◈紫式部、その娘・賢子・第弐三位(だいにさんみ)の歌碑が立つ。小倉百人一首にもある紫式部の「めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに くもがくれにし 夜半の月(影)」、 大弐三位「有馬山 ゐなのささ原 風ふけば いでそよ人を 忘れやはする」。 ◈日本画家・池田遥頓(1895-1988)の筆塚がある。 ◆御土居 ◈境内東側にある墓地東端には、安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉によって築造された御土居遺構(国史跡)がわずかに残されている。江戸時代中期、1712年に寺の所有になった。寺町に唯一残る遺構として貴重になる。遺構の南北端以外は国史跡に指定されている。 土塁は、鴨川に平行し、南北方向に築かれている。南端、北端に上がり口がある。頂部に上ることもできる。現在は、樹木が繁茂しており森になっている。幅9m、高さ3m、長さ55m。 ◈境内南に隣接する京都府立医科大学附属図書館(上京区中御霊町410,清和院口寺町東入ル)の敷地内にも、かつて御土居は南北方向に続いていた。現在は消失している。 1991年に保存修景計画研究会の提言があった。1992年の図書館完成に伴い、河原町通沿いに土塁様のサツキツツジの大刈込による「模擬の土塁様」が築造された。 ◆御土居 室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)後、高倉より東、松原以南は、相次ぐ鴨川の氾濫により荒地になった。 安土・桃山時代、1591年に、豊臣秀吉(1536-1598)は京都の再興・改造を手がける。細川幽斉(1534-1610)、前田玄以(1539-1602)などに命じ、洛中の周囲をめぐらせる堤防・惣構施設の「御土居」の築造させた。諸国大名らにより同年1月に着工になり、閏1月に2カ月で完成したという。(近衛信尹『三藐院記[さんみゃくいんき]』)。また、2-4カ月/5カ月の突貫工事で完成させたともいう。 御土居は、北は上賀茂・鷹ヶ峰、西は紙屋川(天神川)・東寺の西辺、南は東寺南の九条通、東は鴨川西岸の河原町通まで築かれた。当時存在していた聚楽第、京都御所も土塁内側に取り囲んでいる。規模は、東西3.5km、南北8.5km、総延長は22.5kmにもなった。 御土居は、当初「土居堀」と呼ばれた。ほかに「京廻りノ堤」、「新堤」、「惣曲輪(そうぐるわ)」、「土居」などとも呼ばれ、江戸時代には「御土居」と称されるようになる。 御土居の構造は外側に堀(濠)、内側に台形状の土塁を築いた。工法は「掻揚城(かきあげしろ)」が採られ、掘った堀の土を積み上げて土塁を築き、積石・石垣で地盤を固めた。墓石・地蔵なども「礎石」として使われている。なお、当時の構築物では一般的なことだった。掻揚だけでは、土塁を築く土量が不足したとの見方もある。 土塁規模は一定しておらず、高さ3.6-5.4/6m、基底部幅10-20m、頂上部幅4-8m、犬走り1.5-3mあった。土塁頂上は、盛土の保護・強度を増すために竹林が植えられ覆われていた。このため、竹薮の伐採は厳禁された。土塁の外には、堀(幅3.6-18m/12.5-20m、深さ1.5-2.5m)が設けられていた。堀は河川・池・沼などの自然地形も利用して築造されている。堀には水が溜められ、江戸時代には、農業用水としても利用されている。 御土居には「京の七口」と呼ばれる出入口が開けられ、主要な街道に通じていた。出入口は特定されず、当初は10カ所あり、江戸時代前期には40カ所にも増えたという。 「普請太閤」といわれた秀吉の御土居築造の意図は、複合的なものとされる。一般的には、鴨川・紙谷川(天神川)などの氾濫に対する水害対策・防災的な堤防の意図が強かった。さらに、外敵に備える防塁の意味も加わる。平安京以来、京都は九条大路の南以外には羅城は築かれていなかった。御土居により初めて、本格的な城塞により囲まれることになる。 御土居築造により、都の開発は鴨川の間際まで進んだ。また、聚楽第・御所を取り込むように構築されたため、「洛中」・「洛外」の区分を生み洛中範囲の確定に繋がった。軍事的な城壁の役割、権勢誇示という政治的な意味合いもあった。それまでの権力支配(朝廷・公家・寺社)から町衆を分断させ、聚楽第を中心にした新都市の再編・支配が強行されたともいう。1591年の御土居築造が、1592年の文禄の役の前年にあたり、秀吉の朝鮮・明攻略を前提とした首都防衛機能の一環だったともいう。なお、築造に際して、小田原城の城下を模したとする見方もある。 御土居築造に先立ち、新たに「町割(天正町割)」も行われた。1590年に寺院に対し「寺割」が実施される。それまで散在していた寺院を強制移転させ、新たに寺町、寺之内、本願寺などの寺院町を形成させた。これにより、防御・防災、税徴収の効率化、寺院と民衆の結びつきの分断の意味もあったという。 平安京以来の条坊制は、東西南北一町四方(正方形)の区画を基本としていた。これでは、中心部に無駄な空地が生じる。秀吉は一部を除き、これを半町一町の短冊型(長方形)の区割りに再編する。半町毎に、新たな南北の道路(小路)を設けた。この新しい町割により、町家数・人口増加をもたらし、検地の効率も高められた。 御土居の保全は、京都所司代の命により、近郊の農民が駆り出されていた。江戸時代前期、1669年以降は、角倉了以の子・角倉与一が「土居薮之支配(奉行)」に任じられ、管理権を与えられている。この頃、御土居に繁茂した竹(土居薮)を民間に払い下げている。竹は資材として利用された。 御土居築造から40年ほどで、都の開発が御土居を越えて進行する。鴨川には新たな堤防が築かれ、東側の開発が進み土塁は取り壊された。御土居のうち堤防の役割を果たしていたものを除き、大部分は次第に撤去され、屋敷用地・道路などに転用される。なお、江戸時代中期、元禄期(1688-1704)までは、堀はまだ水堀としては機能していた。その後、築造後100年を経て堀は埋没し、周辺住民の生活廃材の捨て場になった。このため、後の発掘調査により土器・陶磁器、瓦、金属製品、石加工品、木製品などが多数出土している。 近代以降、1870年の京都府の「悉皆開拓」令により、府は土地の払い下げを通達している。以来、御土居の破壊が急速に進行する。「お土居薮地」は、田圃、畑、桑畑、茶畑などに開墾することが奨励された。1945年の第二次大戦後は、土塁遺構の大部分は消失し、現在はごく一部のみが保存されている。 ◆国史跡 近代、1919年の史蹟名勝天然祈念物保存法が施行し、1930年に京都市内の御土居8カ所が国史跡指定地になった。 その後、現代、1965年に北野天満宮境内の1カ所が追加され、現在、9カ所が国史跡指定地になっている。 1.紫竹御土居(鴨川)(北区紫竹上長目町・上堀川町)、2.大宮御土居(北区大宮土居町玄琢下)、3.鷹ヶ峯御土居(北区鷹ヶ峯旧土居町2)、4.鷹ヶ峯御土居(御土居史跡公園)(北区鷹ヶ峯旧土居町3)、5.紫野御土居(北区紫野西土居町)、6.平野御土居(北区平野鳥居前町)、7.北野天満宮(上京区馬喰町)、8.市五郎稲荷神社(中京区西ノ京原町)、9.蘆山寺(上京区来之辺町)になる。 土塁遺構は史跡指定地のほかに、大宮交通公園(北区紫竹北栗栖町3)、北野中学校(中京区西ノ京中保町1-4)を含む4カ所がある。 ◆墓 ◈境内に、江戸時代中期の追尊天皇・慶光(きょうこう)天皇(1733-1794)の御陵がある。第114代・中御門天皇猶子・閑院宮典仁(すけひと)親王であり、光格天皇の父になる。 ◈宝蓮華院宮(第122代・明治天皇の妹)、江戸時代、第113代・東山天皇皇子。江戸時代、第119代・光格天皇皇子の御陵など数多い。 ◈御土居近くに平安時代の仏師・定朝(?-1057)と伝えられる墓がある。 ◈江戸時代初期の画家住吉派の祖、具慶(1631-1705)、如慶(1599-1670)、狩野正桜。 ◈室町時代-江戸時代のキリシタン大名・有馬晴信(1561-1612)の妻ジェスタの墓。 ◈公卿・中山忠親(1131-1195)以下24代の名を刻む「遠祖墳表記」が立つ。中山家は洛東中山・吉田寺の南にあり、中山に葬られた。戦乱により壊滅され、1897年に廬山寺内に遷された。この中で公卿・歌人・中山定規(1401-1459)は、『薩戒記』を著した。 ◈公卿・中山愛親(1741-1814)は、江戸時代、1789年、第119代・光格天皇が父・典仁(すけひと)親王に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ることを幕府に図る。だが、老中松平定信の反対でならなかった「尊号一件」に関与した。 ◈武将・宮部継潤(1528-1599)、公卿・歌人・中院通勝(1556-1610)、公卿・歌人・中院通村(1588-1653)、公卿・歌人・中院通茂(1631-1710)、公卿・歌人・清水谷実業(1648-1709)、公卿・清水谷公考(1845-1882)、公卿・野宮定基(1669-1711)、維新宮廷女房・中山績子(1795-1875)、大江磐代(おおえ-いわしろ、1744-1813)、公卿・野宮定功(1815-1881)。 ◆中川 かつてこの地は「中川(中河)」と呼ばれた。中川と呼ばれる川があり、鴨川と桂川の間に位置したためという。水源は鴨川上流にあり、東京極大路の外郭に沿い流れた。「京極川」と呼ばれ、二条以北を「中川」と呼んだ。(『河海抄』)。京極殿と御堂の間にあったもという。(『扶桑京華志』)。 ◈「中川のわたり」(寺町通の今出川通-丸太町通間)には、『蜻蛉日記』の右大将道綱母(936?-995)も過ごした。藤原道長(966-1027)の中川の御堂も川に面してあり、藤原定家(1162-1241)の邸宅もあった。歌枕としても知られた。 ◈紫式部の曽祖父・藤原宣孝が堤中納言といわれたのも、邸宅に川の水を引き入れていたからという。邸は京都御苑、梨木神社参道から蘆山寺付近も含んでいたという。『源氏物語』中にも中川が登場する。光源氏は、方違の宿りとして紀の守の「中川のわたりる家」に出かけた。雨夜の品定めをにぎわした人妻の中の品の女を見かける。 第11帖「花散里」巻に、光源氏は故桐壷院の麗景殿女御、同母妹・花散里の里邸を訪ねる。屋敷は「中川のほど」にあった。 ◆花暦 源氏庭の桔梗は、6月-9月に花咲く。 ◆節分会 2月3日の節分に大師堂で行われる「追儺(ついな)式鬼法楽」は、昭和期(1926-1989)初期に始まった。「鬼踊り」は、大正期(1912-1926)末に始まったともいう。 仏教の三毒とされる赤(貪欲)・青(瞋恚、しんい)・黒(愚痴)を表しており、三鬼の悪霊退散祈願として知られている。赤鬼は手に松明・剣、青鬼は斧、黒鬼は大槌を持つ。鬼は法螺(ほら)、太鼓の囃子で足拍子で踊り、追儺使の豆まきに遭うと退散する。これは、元三大師の修法中に邪魔をした三匹の鬼(悪霊)を、三鈷の法力により退散させたことに因む。 ◆修行体験 毎日、随時に写経が行える。 ◆年間行事 初元三会(1月3日)、節分会・追儺式鬼法楽(14時15分、鬼の加持。15時、鬼踊り。16時、鬼の加持。古式焼式。)(2月3日)、春彼岸(春分の日)、盂蘭盆会(8月1日-8月16日)、 元三大師生誕会(9月3日)、秋彼岸(秋分の日)。 元三大師堂息災護摩修法(毎月3日)。源氏庭の拝観休み(1月1日、2月1日-2月9日、12月30日-31日)。 写経(毎日9:00-15:00の間に60-90分ほど)。 *年間行事は中止、日時、内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都歴史案内』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都を歩こう 洛陽三十三所観音巡礼』、『古都歩きの愉しみ』『京のキリシタン史跡を巡る 風は都から』、『平安京散策』、『京都大事典』、『京都 四季の庭園』、『おんなの史跡を歩く』、『京を彩った女たち』、『紫式部と平安の都』、『平成28年第52回 京都非公開文化財特別公開 拝観の手引』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京都時代MAP 平安京編』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『京の福神めぐり』、『京都歩きの愉しみ』、『こころ美しく京のお寺で修行体験』、『週刊 京都を歩く 44 京都御所周辺』、『週刊 仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』、『週刊 京都を歩く 18 桂・松尾』、『広辞苑はなぜ生まれたか-新村出の生きた軌跡』、『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』、『御土居堀ものがたり』、『洛中洛外』、『秀吉の京をゆく』、『京都の地名検証 2』、『京都の地名検証 3』、『京都大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都・観光文化 時代MAP』、『豊臣秀吉事典』、『御土居跡』、 『建築家秀吉』、延命地蔵大菩薩の駒札、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、ウェブサイト「御土居跡-京都市」、ウェブサイト「廬山寺」 、ウェブサイト「コトバンク」、 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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