真如堂 (真正極楽寺) (京都市左京区)
Shinnyo-do Temple 
真如堂 真如堂
50音索引,Japanese alphabetical order  Home 50音索引,Japanese alphabetical order  Home



赤門(総門)


































参道






















本堂(真如堂)(重文)


本堂扁額
























三重塔(法華塔)(京都府指定文化財)


三重塔、紅葉の頃、楓は「花の木」と呼ばれる。

























サガギク


ハギ



ヒガンバナ



シャガ







アセビ









万霊堂


経堂





















石薬師堂


書院の門


本堂から続く回廊


縣井(あがたい)観音堂


三千仏堂


大日如来


千体地蔵堂


新長谷寺


鎌倉地蔵尊


元三大師堂(京都府指定文化財)


元三大師堂




鐘楼


鐘楼


鐘楼、梵鐘



梵鐘には、金属供出の際に、材質を確認するために開けられたという二つの小さな穴が開いている。



鐘楼下の石段、堀川に架橋されていた三哲橋(塩小路通)の遺構



赤崎弁天(弁財天) 


宝篋印塔




お茶所




閼伽水、創建以来の霊水といわれている。
  








露仏、唐金(からがね)弥陀如来 




唐金弥陀如来の台座正面、蓮弁に「木食正禅 造立」とある。


立皮桜(たてかわざくら)













庭 園


書院



庭園「涅槃(ねはん)の庭」


庭園「涅槃(ねはん)の庭」





「涅槃(ねはん)の庭」、釈迦の元を訪れた海の生物



東山と相似、借景は東山、二段目の生垣は作庭当初はなかったという。



大文字山の借景

雪の朝


【参照】五山送り火


「涅槃(ねはん)の庭」、釈迦に見立てた石組と集まった弟子たち



釈迦の母堂を表すという妃摩耶夫人




書院南





庭園に据えられている本歌・燈明寺型石燈籠


 真如堂(しんにょ-どう)は、神楽岡(かぐらおか、吉田山、中山)に位置している。古くより、女性を救済する「女人の寺」と呼ばれた。「真如堂さん」とも呼ばれている。
 真如堂とは本堂を意味し、本尊の阿弥陀如来立像を安置した。正式には真正極楽寺(しんしょう-ごくらく-じ)という。この地が、「仏法有縁真正極楽寺」の霊地であったことに因み、「正真正銘の極楽の霊地」の意味になる。山号は鈴声(聲)山(れいしょう-ざん)という。
 天台宗、本尊は阿弥陀如来。
 神仏霊場会第111番、京都第31番。本堂の阿弥陀如来は、六阿弥陀巡拝(洛陽六阿弥陀めぐり)第1番。新長谷寺の十一面観世音菩薩は、洛陽三十三観音巡礼第5番札所。地蔵堂の鎌倉地蔵は、洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第23番札所本尊。京の通称寺霊場第22番、真如堂。薬師堂の石薬師は、十二薬師霊場第1番。本堂の阿弥陀如来は、西方四十八願所第18番。元三大師堂の元三大師は、京洛十八大師めぐり第6番。茶所の善光寺如来は、善光寺四十八願寺霊場第32番。
 極楽往生、女人往生などの信仰がある。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 現在地は、古くより神楽岡と呼ばれ、「仏法有縁真正極楽の霊地」とされていた。
 平安時代、984年/994年、戒算が、延暦寺常行堂に安置の円仁自刻という阿弥陀如来像を、神楽岡(吉田山)東の女院離宮(東三条院の離宮、現在の元真如堂・換骨堂付近)に遷して開創したという。請願は、東三条院の宮(第66代・一条天皇母・藤原詮子)による。(『真如堂縁起』)

 992年、創建の宣旨が下り、離宮は寺に改められたという。本堂(真如堂)が建立される。一条天皇の勅願により戒算が開基したともいう。当初は天台宗だった。
 995年/994年、一条天皇の勅命により、本堂を建立し勅願寺になる。当初は天台宗だった。本尊・阿弥陀如来立像を真如堂に遷座する。戒算が移った。
 1053年、 開山・戒算が没した。
 1166年、11月、覚快親王が入寺する。(『真正極楽寺記』)
 1177年、治承の乱後、荒廃する。その後、貞慶の勧進で復興した。
 1181年、11月、慈円が別当に就く。以後、伽藍が整えられ、不断念仏道場になる。(『真正極楽寺記』)
 鎌倉時代、1264年、安嘉門院は、真如堂に摂津の庄を施入し、父・後高倉院の菩提を弔う。
 1325年、第96代・後醍醐天皇は仏舎利を寄進した。(『真如堂縁起』)
 南北朝時代、1379年、1月、焼失する。(『愚管記』)
 室町時代、浄土宗に改めた。
 1468年、応仁・文明の乱(1467-1477)では、東軍の陣が敷かれた。焼失し、その後荒廃した。8月、難を逃れ本尊は、比叡山西塔・黒谷青竜寺へ遷される。その後、寺地も坂本・宝光院へと移される。
 1470年、3月、本尊は江州穴大・宝光寺(穴太真如堂)に移座した。
  1478年3月、/477年、本尊は、穴太より洛中一条町(現在の元真如堂町)に遷座した。
 1484年5月、/1485年、室町幕府8代将軍・足利義政は、真如堂本堂の旧地(神楽岡)への再建、本尊帰座を命じた。6月、帰座する。義政と妻・日野富子は、灯明料として神楽岡東の土地2町(花園田町)を寄進し、旧地(元真如堂)に戻る。(「真如堂文書」・足利義政寄進状)
 1485年、3月、本堂が立柱になる。
 1493 年、8月、新造の本堂で本尊の遷座供養法会が修される。
 1503年、一条町(一条大路町尻小路西、上京区元真如堂町)へ移る。3月、本尊が開帳される。
 1510年、2月、元三大師画像が修理された。
 1515年、12月、室町幕府は灯明料として、神楽岡東花園田2町を安堵する。
 1519年、9月、不動明王画像を修理した。
 1521年、旧地に戻り再建されたともいう。8月、本堂落慶供養がある。導師・青蓮院尊鎮、勅使蔵人右中弁・柳原資定が参席した。足利義晴は、祝して太刀一腰、馬一疋を寄進する。(『実隆卿記』)
 1522年、 2月、定法寺公助は、真如堂上葺に際し勧進文を草した。
 1523年、閏3月、勧進猿楽を行う。8月、三条西実隆は『真如堂縁起』下巻詞書6段分を揮亳した。
 1524年、8月、青蓮院尊鎮は『真如堂縁起』の奥責を記する。
 1529年、4月、三条西実隆は、『真如堂縁起』詞書を書き改めた。 
 1547年、閏7月、本尊・阿弥陀如来は、小御所へ入参し、太刀、千疋の折紙を賜わる。
 1548年、21世・昭淳が亡くなる。
 永禄年間(1558-1570)、再び一条西洞院に移る。
 1567年、7月、将軍・足利義昭の命により、真如堂は足利義輝の菩提所になる。室町勘解由小路の義輝邸跡に移される。後に、その地に義昭の邸が新築される。
 1569年、2月、織田信長の二条城構築(上京区)に伴い、寺地は替地一条通北(現存の元真如堂町)に移転になる。(『言継卿記』)
 安土・桃山時代、1585年、羽柴秀吉が寺領(神楽岡東)を安堵する。
 1587年/天正年間(1573-1592)、豊臣秀吉の聚楽第建設に伴い、その命により、東京極大路今出川(上京区真如堂突抜町・真如堂前町)に再移転させられた。
 江戸時代、1604年、豊臣秀頼により本堂が再建されたという。
 1606年、本堂を建立したという。12月、落慶遷座式が行われた。
 1614年、鐘楼が再建された。
 1615年、7月、徳川家康が寺領を安堵する。(『真如堂文書』)
 1661年、焼失する。
 寛文年間(1661-1673)、鎌倉地蔵は、第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の霊場の一つになる。
 1677年、 『真如堂縁起之写』が刊行された。
 1690年、真如堂が再建された。
 1692年、焼失した。
 1693年、28世・尊通の時、第113代・東山天皇の勅願により、旧地(元真如堂)の西南にあたる現在地に移る。(『続史愚抄』)。再び天台宗に戻った。旧地には、念仏堂と呼ばれる小堂宇が残された。その後、輪王寺門跡末寺になり、青蓮寺が寺務した。『真如堂縁起』3冊本が刊行される。中院通躬は、『真如堂縁起写』を書写した。
 1695年、現在の総門(中門)が建立される。
 1696年、元三大師堂が建てられた。
 1703年、本堂真如堂の上棟が行われる。
 1705年、真如堂、28世・尊通の勧進により、現在の伽藍を建立し入仏供養される。
 1709年、海北友賢は、「大涅槃図」を制作した。
 1745年、宝蔵が建てられた。
 1759年、鐘楼堂が建てられる。
 1780年、千体地蔵堂が竣工する。
 1817年、現在の三重塔が建立される。
 1830年、大地震により被災し、一時荒廃した。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、吉田神社神宮寺の新長谷寺の本尊・十一面観音立像が移築、遷される。
 1908年、日本で最初の時代劇映画「本能寺合戦」が真如堂で撮影された。
 現代、2008年、「京都映画誕生」の碑が立てられている。
◆戒筭 平安時代中期-後期の僧・戒筭(かいさん/かいざん、963-1053)。詳細不明。男性。戒算。比叡山で天台を学び、後に浄土教を修めた。984年/994年/992年、延暦寺常行堂に安置の円仁自刻という阿弥陀如来像を、神楽岡東の女院離宮(東三条院の離宮、現在の元真如堂・換骨堂付近)に遷して真如堂を開創したという。999年、涅槃仏をつくり奉納した。昼夜の念仏を唱え、浄土経典を講義した。91歳。
◆東三条院 平安時代中期-後期の女御・東三条院(ひがしさんじょういん、962-1001/1002)。藤原詮子(せんし/あきこ)。女性。京都の生まれ。父・太政大臣・藤原兼家、母・藤原時姫(ときひめ)、藤原道長の姉。幼少期を東三条殿で過した。978年、入内し梅壺に候し、第64代・円融天皇の女御になる。980年、従四位下に叙せられる。東三条邸で懐仁親王(後の第66代・一条天皇)を産む。だが、関白・藤原頼忠の娘・遵子に后の座を奪われ、父・兼家と共に里邸の東三条邸に篭り、天皇の召還にも応じなかった。986年、一条天皇の即位により、皇太后の宣下を受けた。女御から直接皇太后に昇る初例になった。991年、円融法皇が没し、病んで出家した。皇太后宮職を廃止し、太上天皇に準じ女院号の最初「東三条院」を授けられる。1001年、四十賀(よそじのが、40歳になった祝い)が行われた。別当・藤原行成(ゆきなり)の邸で亡くなる。40歳。
 宇治陵(宇治市)に葬られた。
◆伊勢貞国 室町時代前期-中期の武将・伊勢貞国(いせ-さだくに、1398-1454) 。男性。初名は貞慶(さだよし)。父・伊勢貞行。将軍・足利義教に失脚させられた兄・貞経の跡を継ぎ、1431年、政所執事になる。足利義教・義勝・義政の3代の将軍に仕えた。57歳。
 真如堂のお十夜(おじゅうや)にまつわる逸話が残る。
◆藤原久国 室町時代後期の画家・藤原久国(ふじわら-の-ひさくに、?-?)。詳細不明。男性。通称は掃部助(かもんのすけ)。1524年、真正極楽寺の『真如堂縁起絵巻』3巻を描いた。漢画の影響を受け、色調は濃厚だった。
◆斎藤利 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・斎藤利三(さいとう-としみつ、1534/1538-1582)。男性。通称は内蔵助。父・斎藤利賢の次男、母・蜷川親順の娘。土岐氏、斎藤道三より斎藤氏3代、織田信長、豊臣秀吉に仕える。美濃国曽根城主で、安藤守就、氏家直元と併せて西美濃三人衆と併称される。三人衆の一人・稲葉一鉄が織田氏へ寝返り、その家臣になり、美濃曽根城主になる。後、一鉄と別れ、明智光秀に仕え、筆頭家老として丹波黒井城主になる。1582年、光秀の織田信長に対する謀反の本能寺の変後、羽柴秀吉との山崎の戦いで敗走した。秀吉方の捜索により近江堅田で捕縛、六条河原で斬首された。首、胴は光秀とともに本能寺に晒されたともいう。首級は親交の深かった絵師・海北友松により、真正極楽寺へ葬られた。妙心寺・智勝院にも墓がある。45/49歳。
◆養阿 江戸時代前期-中期の木食僧・養阿(ようあ、1687?-1763)。男性。俗名は村上茂八郎、木食正禅、木食養阿。父・丹波国桑田郡保津村の村上庄右衛門。幼くして父を亡くし、京都銀座の手代を経て、24歳で泉涌寺・雲竜院の恵雄により出家、朋厚房正禅と名乗った。1711年、高野山に上り、木食恵昌に師事した。五穀を断ち、木の実を食する木食行に入る。甲賀郡安養寺(現嶺南寺)、高野山で木食大戒を修めて大阿闍梨になる。信濃の善光寺、美濃の国一円を行脚した。七条大宮の梅香庵に住し、念仏聖として洛中洛外の無縁墓地を回り供養、六字名号碑、日岡名号碑を建立した。1719年、勧進により弥陀如来像を造立し、真如堂に安置した。享保年間(1716-1736)/1720年、狸谷不動院で入籠し木食行に入る。参詣者が絶えず、幕府の弾圧により五条坂に移る。1725年、安祥院を再興し、勧進により、1736年、日岡峠改修工事を着工する。1737年、旅人休憩所を設けた。1738年、日岡峠改修工事が完成する。1741年、法橋上人位を授与され、養阿に改めた。1747年頃、渋谷街道の修築工事を行い、峠道の管理所、休憩所の梅香庵(木食寺)を建てた。1752年、松明殿稲荷神社に井戸を掘る。石橋の架設、寺社の敷石などの土木工事も行う。1763年、安祥院(東山区)で即身仏になり墓塔に納められた。日岡・梅香庵(山科区)で亡くなったともいう。76歳?。
◆海北友賢 江戸時代前期の絵師・海北友賢(かいほう-ゆうけん、?-?)。詳細不明。男性。1709年、真如堂の極彩色「涅槃図」を僧・厭求(えんぐ)とともに描いた。
◆厭求 江戸時代前期-中期の学僧・厭求(えんぐ、1633-1713)。男性。真蓮社広誉心阿。諱は貞憶。京都の生まれ。1645年、13歳で専念寺信誉に師事し得度した。1649年、江戸に上り霊巌寺・珂山から宗戒両脈を相承した。1657年、大火被害以後、世の無常、三途八難の苦を痛感し、近畿・東海・中国・奥羽を行脚した。1659年、母のために有馬で湯治を行い、極楽寺に入寺した。母没後、再び行脚を続けた。今日の文書伝道の先駆けともいう『厭求和尚法語』を著す。彫刻や絵画にも精通した。晩年、日課念仏百万遍を満たし、三河国岡崎の草庵で亡くなる。82歳。
◆前川文嶺 近現代の日本画家・前川文嶺(まえがわ-ぶんれい、1837-1917)。男性。字は子緝。京都の生まれ。父・前川五嶺。父に画を学び、松村景文門下の四条派画家になる。如雲社、京都美術協会に参加した。1880年、開校した京都府画学校に出仕した。京都私立日本青年絵画共進会で審査員を務める。内国絵画共進会、内国勧業博覧会、日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会、日本南画協会展などに出品した。花鳥に秀でた。80歳。
 真如堂に障壁画がある。
◆牧野省三 近代の映画監督・牧野省三(まきの-しょうぞう、1878-1929)。男性。映画製作者、脚本家、実業家。京都府北桑田郡山国村の生まれ。父・漢方医・山国隊の藤野齋、母・娘義太夫師・竹本弥奈吉 (牧野彌奈)。1901年、劇場「千本座」を母とともに買収し開場した。後に千本座の経営を任された。1908年、「横田商会」の依頼により、真如堂の境内で「本能寺合戦」を初めて撮影した。1912年、合併した日活で関西撮影所の所長就任。1919年、日活在籍のまま、「ミカド商会」を設立し、1920年、ミカド商会は横田商会により日活に吸収され、省三は日活に戻る。1921年、等持院境内に牧野教育映画製作所、等持院撮影所を開設した。1922年、『実録忠臣蔵』を撮り大ヒットする。1923年、「マキノ映画製作所」に改組、1924年、「東亜キネマ」に吸収合併され、「東亜キネマ甲陽撮影所」・「等持院撮影所」の所長就任。1925年、主演・ 澤田正二郎の『国定忠治』で大ヒットした。独立し「マキノ・プロダクション」を設立した。1929年、国産ディスク式トーキー『戻橋』を完成した。300本以上の時代劇映画を製作、尾上松之助ら多くの映画人を育て、「日本映画の父」と呼ばれた。墓は等持院にある。52歳。
◆円山応祥 近現代の日本画家・円山応祥(まるやま-おうしょう、1904-1981)。男性。国井謙太郎。京都の生れ。父・円山応挙の5代末裔・応陽。父に学び、京都市立絵画専門学校を中退した。父没後、山元春挙に師事する。田鶴会に所属した。山水・花鳥に長じる。応挙、円山派絵画の鑑定者として知られる。円山派七世を号している。77歳。
 真如堂に障壁画がある。
◆曽根三郎 現代の作庭家・曽根三郎(そね-さぶろう、1946-1995)。男性。大阪の生まれ。大阪府立園芸高校卒業後、京都大学農学部林学科造園教室で研究した。1967年、研修生として渡米し、ワシントン州エベレットコミュニティカレッジで造園学を学び、オレゴン州で造園工事を行う。日本造園組合連合会・花博指導員。樹木医。1971年、樋口造園株式会社の総括責任者、1976年、曽根造園を設立した。1995年、日本庭園協会賞を受賞した。宮内庁、金閣寺、北野天満宮、泉湧寺、東大寺、天龍寺、東福寺などの造園・管理を行う。49歳。
 真如堂に作庭した「涅槃(ねはん)の庭」がある。
◆重森千菁 現代の作庭家・重森千菁(しげもり-ちさを、 ?-?)。男性。重森三玲の孫。中央大学文学部文学科卒業。(有)重森庭園設計研究室代表。京都工芸繊維大学非常勤講師、西北農林科学大学高級講師。
 真如堂に作庭した「随縁の庭」がある。
◆本尊 ◈本堂の本尊「阿弥陀如来立像」(重文)(108.4㎝)は、「三国無双の阿弥陀如来」と賞賛された。平安時代後期の作になる。一木彫で、印相の九品来迎(くぽんらいごういん)の来迎仏では最古例という。慈覚大師(円仁、794-864)作という。円仁は、第3代天台座主、入唐八家の一人になる。
 「うなずきの弥勒(阿弥陀)」「頭(かぶ)振りの阿弥陀」ともいわれる。円仁が唐より帰国後、近江の苗鹿明神(みょうか-みょうじん)で見つけたカヤの霊木を二つに割った。そのうちの一つで自ら仏を彫ったという。片方はそのままにした。平安時代前期、838年、円仁は唐の五台山で、生身の文殊菩薩より引声阿弥陀経を授けられる。帰国の際に引声を忘れたため、船上より仏に祈ると、阿弥陀如来が現れ一節を教えた。円仁はこの如来を持ち帰り、残りのカヤの木で阿弥陀を刻み、その胎内に納めた。
 また、円仁は、比叡山の修行者の本尊になるようにと、如来の眉間に白毫(びゃくごう、仏の眉間のやや上に生えているという白く長い毛)を入れようとした。だが、如来は頭を3度横に振り拒否した。円仁が、それでは京都に下り、一切衆生を導き女人を救うように請うと今度は3度頷いたという。
 円仁は、そのまま白毫を入れることをためらい、如来を比叡山常行堂に本尊として安置した。
 円仁没後、比叡山の僧・戒算(963-1053)、東三条院(藤原詮子、962-1002)に夢告があった。阿弥陀如来は老僧として現れ、「神楽岡のあたりに、小さな桧千本が一晩のうちに生えた場所がある。そここそ仏法有縁の地であり、衆生済度の場である」という。戒算は、阿弥陀如来立像を比叡山から京都へ遷し、お告げの場所である東三条院の離宮に遷座させた。以後、切衆生済度、女人済度の真如堂本尊になったという。(『花洛名勝図会』、1864)。その後、真如堂は一条天皇の勅願所になり、女性から深い帰依を得た。
 また、本尊は東三条院(藤原詮子、962-1002)が夢告により、延暦寺常行堂より女院の離宮に遷したものを東山に安置した像ともいう。10世紀後半になり、その像を摸刻したものが現在の像ともみられている。(『真如堂縁起』)
 本尊・阿弥陀如来像には、もう一つの逸話がある。真如堂に安置された後、室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)により真如堂は荒廃、阿弥陀如来も行方不明になった。安土・桃山時代、1603年、深誉は伏見の荒れた堂内に、金色に輝く阿弥陀如来を見つける。その姿に心痛め、持ち帰って五条に仏堂(大蓮寺)を建て安置した。
 再興された真如堂では、かつての本尊を探していた。やがて大蓮寺の像は、真如堂本尊であることが知れる。大蓮寺は、幕府から返還するように命じられる。深誉は念仏を称え、満願の21日目の朝になると、阿弥陀如来像が二体に分かれたという。このため、大蓮寺と真如堂で一体ずつを安置することになったという。
 また、深誉が念じ続けたところ、最後の夜に旅の僧が現れ、ともに念じた。翌朝、僧の姿はなく、阿弥陀如来が二体になっており、両寺に分けて安置したという。
 本尊に対して、法然、親鸞は篤い信仰を寄せた。女性の篤い信仰も集める。洛陽六阿弥陀めぐりの第1番で、11月15日に限り開扉されている。
◆仏像・木像 ◈本尊左脇侍の「不動明王坐像(長寿不動)」は、平安時代の智証大師(円珍、814-891)作という。平安時代の陰陽師・安倍晴明(921?-1005)の念持仏だった。家に安置していた不動明王像が閻魔大王に直談判し蘇生させた。(『真如堂縁起』)。晴明の逝去後に当寺に納められた。
 ◈本尊右脇侍に「千手観音」が安置されている。奈良時代-平安時代の天台宗開祖・最澄(767-822)作とされる。延命・病気平癒・夫婦円満・恋愛成就などのご利益がある。
 ◈本堂中陣に、木像「合掌の御影」が安置されている。平安時代-鎌倉時代の浄土真宗開祖・親鸞(1173-1263)自作という。親鸞は当寺にも参籠し、阿弥陀如来を参拝している。像は一時、仏願寺に遷され、現代、1945年頃に再び戻された。
 ◈新長谷寺の「十一面観音」(2m)は、長谷寺本尊の分身になる。吉田神社創建者・藤原山蔭が神宮寺に祀っていた。近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、真如堂に遷された。
 ◈書院に、本尊前立の「阿弥陀如来立像」、「親鸞聖人合掌像」、「不空羂索観音」が安置されている。
 ◈お茶所の中央仏間に、「阿弥陀如来像(一光三尊善光寺如来)」が安置されている。江戸時代前期、1694年に開帳され、50日間法会執行され、そのまま当寺に奉安された。「日本三大如来」(ほかに長野善光寺、嵯峨釈迦堂清凉寺)の一つに数えられ、善光寺如来の分身といわれる。全身が黒いことから「黒如来」とも呼ばれている。
 左右に「勢至菩薩」、「観音菩薩」が並び、日本最古の仏像とされる一光三尊を再現している。
 ◈「不動明王像」には、室町時代後期、「永正十六年(1519年)」の修補銘がある。
 ◈塔頭・法伝寺に、「茶吉尼天像」が安置されている。奈良時代-平安時代の空海(774-835)が刻んだという。白狐に女性が乗っている。
◆唐金陀如来 境内に安置されている露仏「唐金(からがね)弥陀如来(阿弥陀如来露仏)」は、江戸時代中期、1719年に、六阿弥陀めぐりの祖・木食正禅(もくじき-しょうぜん)により建立されたという。
 唐金弥陀如来の台座正面、蓮弁に「木食正禅 造立」、像の背面に「寒夜三十日念佛修行例年墓回り成就廻向佛併書寫大乗妙典血經一部御内服納之 木食正禅造立 享保四巳亥歳八月十五日 弟子 蓮入 朋真 願真」と刻まれている。
 木食正禅は、造立のために3人の弟子と勧進を行い、正禅自らが作った像の首模型を担いで廻ったという。完成した像は、翌1720年、地車に載せ人々が曳いて真如堂へ運び込んだ。鋳造は六条大宮辺の鋳物師庄右衛門・喜兵衛による。銅製。
◆建築 本堂、開山堂、元三大師堂、薬師堂、三重塔、千体地蔵堂、鐘楼堂などがある。
 ◈ 「赤門(総門)」(京都府指定文化財)は、江戸時代前期、1695年に建立された。敷居がないのは、神楽岡(かぐらおか)の神々が、夜に参集する邪魔にならないため、躓かないためという。西面している。
 ◈ 「本堂(真如堂)」(京都府指定文化財)は、江戸時代中期、享保年間(1716-1736)/1717年に建てられた。内陣は金箔の天蓋、瓔珞(ようらく)で飾られている。正面障子にケヤキ材、素木の孔を開けただけの「引手」がある。
 7間7面/7間4面、ケヤキ造、単層、入母屋造、本瓦葺。
 ◈ 「元三大師堂」は、江戸時代前期、1696年に建てられた。
 ◈ 「三重塔(法華塔)」(京都府指定文化財)は、かつて江戸時代中期、宝暦年間(1751-1764)建立になる。江戸時代前期、1696年ともいう。江戸時代後期、1817年に再建された。当初、4仏が祀られていたという。後に、舎利宝塔を安置した。下層中央に桟唐戸、左右に連子窓、擬宝珠勾欄付。
 方3間。本瓦葺。高さ30m。
 ◈ 「石薬師堂」は、現代、1966年に金光院(東山五条)より移された。
 ◈ 「鐘楼堂」(京都府指定文化財)は、江戸時代中期、1759年に建立された。当初は極彩色に塗られていた。
 梵鐘も、1759年に竣工された。第2次世界大戦中に金属供出になり、後に返還される。 梵鐘には、金属供出の際に、材質を確認するために開けられたという二つの小さな穴が開いている。
 鐘楼下の石段には、堀川に架橋されていた三哲橋(塩小路通)の遺構が使われている。
 ◈ 「真如山荘」(30畳)は、大広間、食堂、和室、茶室などがある。
◆鎌倉地蔵尊 「鎌倉地蔵堂」に、下野国那須野の「殺生石(せっしょうせき)」で造られたという等身大の「地蔵菩薩」が安置されている。
 1300年前、中国殷(いん)に「白面金毛九尾」という、金色の毛と9つの尾を持つ狐がいたという。もとは天竺におり、千人の王の首を取った班足太子の塚神になる。中国に渡り美女姐妃の褒似に化け、皇帝紂王を虜にし国を傾けさせたという。やがて、正体が見破られた狐は日本に渡る。
 狐は右大臣・藤原道春の妹・初花姫、さらに玉藻前(たまものまえ)という才色兼備の女に変身した。鳥羽上皇の官女になり寵愛を受ける。上皇が病に罹り、玉藻前は上皇兄の薄雲皇子と謀る。安倍晴明の子孫で7代の陰陽師・安倍泰観(泰親とも)は、泰山府君祭を行い、これを見破り調伏した。狐は空を飛び下野国那須野原へと逃れた。上皇は、上総介広常、三浦介義明に狐退治を命じる。二人は神前で百日行を行い、狐退治のお告げを受けた。上総介の弓は狐を射抜き、三浦介が止めをこれを刺した。狐の魂は石になり、悪霊になり生き物を殺した。このため、「殺生石」と呼ばれ怖れられた。
 室町時代の僧・玄(源)翁禅師(1329-1400)は、南北朝時代、文和年間(1352-1356)、石を柱杖(きり杖)で叩いて割り、悪霊を成仏させた。三つ(一つは成仏して消え去り、二つであったとも)に割れた石の一つで地蔵菩薩を刻み、鎌倉に建てた堂に祀った。金鎚のことを「げんのう(玄(源)翁)」というのは、禅師の名に由来するという。
 安土・桃山時代-江戸時代前期、慶長年間(1596-1615)、像を信仰した慈眼大師の実弟で、幕府作事方大棟梁・甲良豊後守(1574-1646)に夢告があった。地蔵尊が真如堂に遷すようにと告げ、当寺に遷したという。(『鎌倉地蔵略縁起』)
 話は謡曲『殺生石』、『絵本三国妖婦伝』『玉藻前三国伝記』などにもある。地蔵尊は、家内安全、福寿、延命、無実の罪晴らし、心の病治癒の功徳があるという。
◆新長谷寺 「新長谷寺」は、洛陽三十三所第5番札所になる。かつて寺は、吉田神社の神宮寺として神楽岡西、藤原山蔭(824-888)邸内にあった。近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、本尊・十一面観音立像が真如堂に遷された。
 平安時代、第107代・陽成天皇(在位 :877-884)の頃、越前守・藤原高房( 795-852)は、西国に3歳の子を連れて赴いた。一人の猟師が亀を殺そうとしている。高房はその亀を助けた。翌朝、高房が出帆すると、海が荒れており、過って子が海に落ちた。助けた亀が現れ、子を背に乗せてその命を救った。高房は信心している長谷観音のご加護であるとして帰依したという。
 子は後の中納言・藤原山蔭)であり、妻、子と幸せに暮らしていた。妻の病没後、後妻を迎える。子が生まれると、継母は先妻の子が疎ましい。山蔭が大宰府長官に任じられ、一家は九州に赴く。継母は船上から先妻の子を海へ突き落とした。山蔭が子を探していると、かつて山蔭を救った亀が再び現れ、その子も助けた。山蔭は、子を家に帰しても不憫だと思い、高僧に託したという。
 山蔭は、自らとわが子を2度救った大亀は、観音のご加護であるとして、神楽岡に新長谷寺を建立した。また、大和国・長谷寺(ちょうこくじ)の十一面観音像を写した像を作り、春日仏師により8尺(2.4m)の大像を前立としたともいう。
◆石薬師堂 「石薬師堂」の本尊は、奈良時代-平安時代の伝教大師(最澄、766/767-822)作という石薬師如来になる。平安時代前期、794年、平安遷都の頃、大地より光沢のある蓮華の蕾のような大石が現れたという。第50代・桓武天皇(在位 :781-806)は、石の上にお堂を建て、石の頭で薬師如来を彫りこれを安置した。その後、洛中では不思議なことが相次いだ。
 江戸時代、第106代・正親町天皇(在位 :1557-1585)は、今出川内府に命じて真如堂の僧・全海により、本尊として安置したという。江戸時代前期、元禄年間(1688-1704)ともいう。病気平癒のご利益があるという。
 現在の建物は、現代、1966年に金光院(東山五条)より移された。
◆元三大師堂 「元三大師堂」は、平安時代の天台座主で、中興の祖・元三大師(慈恵大師良源)画像を祀る。左に石薬師如来を安置する。
 大師は降魔(ごうま)大師ともいわれ、魔除けの符として貼られる角大師(つのだいし)、おみくじ「観音籤」という100番の発案者という。月命日の毎月3日に、護摩供法要が行われている。京洛十八大師めぐり第3番札所になる。
◆縣井観音堂 「縣井(あがたい)観音堂」には、かつて本尊・閻浮壇金(えんぶだんごん)如意輪観世音菩薩(縣井観世音)が安置されていた。
 鎌倉時代前期、承久年間(1219-1222)、東洞院辺り(京都御苑内とも)に「御所三名水」の一つ「縣井(あがたい)」が湧いた。井戸からは夜な夜な光が放たれ、御経が聞こえたという。第84代・順徳天皇の命により調べると、井戸の底に五寸(15.2㎝)あまりの仏が見つかった。仏像は真如堂に遷され、寺号を「法伝寺」とした。病気平癒、女性の難産を救うとの信仰がある。(『真如堂縁起』)
◆万霊堂 「万霊堂」は、地蔵菩薩を安置する。近代、1934年に三井財閥本家の寄進による。
◆塔頭 室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)後の再建により、塔中十二坊が創建された。近代、四坊が合併されるなどして、現在は8院(東陽院、松林院、吉祥院、覚円院、法輪院、理正院、喜運院、法伝寺)がある。
 また、その後、地蔵庵が再建された。北野神社にあった二末寺は廃寺になった。
◆神楽岡 境内のある神楽岡は、古くは中山とも呼ばれ、神との関わりが深い。
 神楽岡一帯は、神代の時代に、八百万の神が神楽を舞った聖地になっていたという。真如堂山門には敷居がない。夜に参集する神々の邪魔にならないように配慮されたためという。神々の乗る馬の蹄を痛めないためともいう。
 また、鈴声山の号も、神々の鳴らす鈴の音が響き渡る山を意味しているという。
 平安時代初期には、遊猟地康楽岡としても知られていた。南麓、栗原岡、中山は葬送地にもなっていた。
 土蜘蛛(山蜘蛛)にまつわる伝承もあり、源頼光と渡辺綱は、蓮台野で髑髏が空を飛び、神楽岡の森に消えるのを見た。あばら屋にたどると、巨大な蜘蛛の化け物がおり、これを退治した。(『土蜘蛛草子』)。このような土蜘蛛伝承は、時の権力に抗した勢力への賤称が基にあるとみられている。
◆安倍晴明・陰陽師  平安時代の陰陽師・安倍晴明(あべの-せいめい、921-1005)、その子孫の陰陽家・土御門家に関する伝承がある。
  ◈晴明が不慮死した時、晴明の念持仏の本尊脇侍・不動明王坐像も閻魔王宮に飛来した。不動明王坐像は閻魔大王に、晴明はまだ現世にいるべき人物であり、現世に戻すようにと命乞いした。閻魔大王は、「是は我が秘印にして、現世には横死の難を救い、未来にはこの印鑑を持ち来る亡者、決定往生の秘印なり。是は汝一人のために非ず。娑婆へ持ち帰り、この印鑑を施し、あまねく諸人を導くべし」と言ってこれを聞き入れた。閻魔大王は、「結定(決定)往生之秘印(五行之印)」を授けて晴明を蘇生させたという。
 晴明は、秘印を多くの人々に施したという。寺宝として自然石に五芒星を陰刻した印鑑「御本尊閻魔大王印鑑」が伝わる。晴明がこの世に戻った際に、懐中にあった印という。
  ◈室町時代中期、文政年間(1444-1449)、陰陽師・安倍有道は、坐像の安倍家への返却を第102代・後花園天皇に請願した。天皇はそれを命じたという。坐像を唐櫃に納めて遷す途中に、宮中の天皇に披露しようとした。符を切り櫃を開けると坐像は消えていた。その坐像は真如堂に戻り、東向きから北向きに座り直し、剣を膝に置いていたという。以後、不動明王坐像は真如堂に安置し続けることになったという。(『真如堂縁起』)
  ◈晴明が閻魔王宮を訪れた際の様子を描いた、掃部助(藤原)久国(かもんのすけ-ひさくに)作の「安倍晴明蘇生図」は、宝物虫払会(7月25日)で一般公開されている。拝観者は、晴明が閻魔大王から贈られたという五芒星を象る金印を押した紙「結定往生之秘印」を頭に当て加持を受け、往生極楽護符が授けられる。無病息災、長寿・天寿全う、極楽往生のご加護があるという。印紋は本堂で授与され、「復活」の護符、極楽往生祈願になる。
  ◈晴明の念持仏の不動明王像は、11月15日に公開されている。
  ◈境内に、江戸時代前期の公卿(非参議)・陰陽家の土御門泰福(1655-1717)の墓、土御門家、1612年、土御門泰吉に始まる別家・倉橋家の墓など50基ほどがある。遠祖は阿部倉梯麻呂(あべの-くらはしまろ)にあり、真如堂が一条大橋(元真如町辺)にあった際に、近くに晴明の邸宅(土御門町辺)があったことから関係が生まれたとみられている。
◆赤崎弁天 「赤崎弁天(弁財天)」は、弁才天本坐像を安置する。室町時代後期、1519年、美作国に善阿弥という念仏行者が、真如堂の勧進を周防国赤崎弁財天宝前で行う。断菜木食して祈念し、足利義政の寄進により成就した。このため、後に勧請した。八臂像で八手に、弓、刀、斧、羂索、三股軾、独鈷杵、輪、箭を持つ。
◆文化財 ◈「法華経六巻」(国宝)は、平安時代後期、1183年/安元年間(1175-1177)の奥書を持つ。仏師・運慶(?-1223)が法華経書写を発願し、阿古丸の援助、快慶(?-?)、一門の仏師により書写された。
 ◈室町時代後期、「永正七年(1510年)」の修銘がある「元三大師画像」。
 ◈絹本着色「普賢菩薩像」(重文)がある。
 ◈紙本着色『真如堂縁起』3巻(上中下巻)(重文)は、室町時代後期、1524年に、土佐派の掃部助久国(かもんのすけ-ひさくに)作になる。詞を第104代・後柏原天皇(1464-1526)、その第5皇子・尊鎮法親王(1504-1550)が書いた。
 阿弥陀如来の前身法蔵比丘の故事、本尊、真如堂建立と沿革、室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)の惨状、乱後の本尊移転、阿弥陀如来の霊験、再建された本堂の落慶供養、遣唐使、上人たちの逸話なども描かれている。また、安倍晴明判伝説の初見史料になっている。
 原本は京都国立博物館寄託、宝物虫払会(7月25日)で写本が公開されている。江戸時代前期、1692年の真如堂の焼失を機に写本が制作された。
 ◈「慈円僧正消息」(重文)。
 ◈油壷「ルソンの壷」は「釉貼花花卉鳳凰六耳壺」ともいわれる。15-16世紀に中国福建省で作られた。足利義政(1436-1490)が永代燈明油入れとして寄進した。当時は「汲めども尽きぬ真如堂の油壺」ともいわれた。
 ◈「釈迦三尊像」は、江戸時代作、厭求筆による。本堂裏堂にある。
 ◈墨画「寒山拾得」(重文)は、江戸時代 作、 狩野山雪(1590-1651)筆による。風狂な2人の僧は薄笑いしている。
 ◈「舎利塔」は、鎌倉時代後期、1325年に第96代・南朝初代・後醍醐天皇(1288-1339)により寄進された。釈迦様の遺骨(舎利)を納める。四天王が取り囲み護持する。「御綸書」には、仏舎利を真如堂の霊宝として朝夕のお勤めを怠ることがないようにと記されている。
 ◈江戸時代中期の「鶯丸刺繍観経曼荼羅」、江戸時代中期の「親鸞聖人座像」。
 ◈極彩色「涅槃図(ねはんず、大涅槃図)」(縦6.2m、横4.5m)は、江戸時代中期、1709年に制作された。海北友賢(かいほう-ゆうけん、?-?)、僧・厭求(えんぐ、?-?)筆による。三井家の女性により寄進されたという。
 釈迦入滅に際して釈迦は、沙羅双樹の下に身を横たえている。空には満月と雲に乗って来る釈迦の生母・摩耶夫人が描かれている。釈迦の周囲に集まった菩薩、天部、法弟、さらに127種と日本で最も多い生類(象、キリン、昆虫など)が色鮮やかに描かれている。涅槃図としては珍しく猫もいる。左下には水辺が描かれており、烏賊、蛸、鯨などの海洋生物もいる。
 ◈金色刺繍「観経曼荼羅(かんぎょうまんだら、当麻曼荼羅)」(縦5m×横4.4m)は、江戸時代中期、1767年に本堂の大きさに合わせて製作された。大乗仏教の経典「観無量寿経」の説話を絵解きした。浄土変相図であり、中央に阿弥陀如来、左右・下部には十六観のうちの定善十三観、九品往生を描く。
 一般公開(11月1日-12月8日)。
 ◈本堂の三尊奉安の厨子は、江戸時代前期、元禄年間(1688-1704)、5代将軍・徳川綱吉(1646-1709)と母・桂昌院(1627-1705)の寄進による。
 ◈「梵鐘」は鐘楼堂に吊るされている。名鐘とされ、撞木の叩き方、天候で音色が変わるという。近代、1942年の太平洋戦争中に金属供出により持ち出された。府下で集められた数は総計990にもなった。全国からは1万個以上が集められた。
 多くは潰され、わずかに残された30(全国では380個ほど)ほどの一つという。香川の精錬所にあった。戦後、1946年、三井造船玉野工場業務部長(当時)・三田三郎の尽力により、奇跡的に寺に返還されたという。 梵鐘には、金属供出の際に、材質を確認するために開けられたという2つの小さな穴が今も開いている。
◆障壁画 ◈書院に日本画家・前川文嶺(1837-1917)の墨画の障壁画がある。近代、1905年、文嶺・孝嶺親子によって描かれた。涅槃の庭に面した3つの部屋にある。
 北側の間は孔雀(文嶺)、中央の間は鶴(文嶺・孝嶺)、南側の間には松(孝嶺)により描かれている。
 ◈書院の「四季殿」に、円山(国井)応祥(1904-1981)による襖絵がある。4部屋に春夏秋冬の情景が描かれている。
◆庭園 ◈書院東の「涅槃(ねはん)の庭」は、現代、1988年、曽根三郎(1946-1995)作庭による。直線と曲線により刈り込まれた二段の生垣の奥に、大文字山と東山を借景として取り入れた枯山水式庭園になる。曽根の作庭としては、天龍寺方丈前庭園がある。
 築山と白砂、桧の巨木、楓などが配置されている。東山の稜線に呼応するように、苔地の築山に、左を頭にして横たわった釈迦が巨石で組まれている。その周りに、集まった5人の弟子と釈迦の生母、そのほかの生類、水生の生き物を表したという石が据えられている。石は、木曽川上流から運ばれたという。
 ◈「随縁の庭」は、現代、2010年、重森三玲孫・千菁(ちさお)により作庭された。随縁とは、随縁真如、絶対不変の真理も、時としてさまざまな変容を見せることを意味する。仏殿蟇股にある四つ目の家紋が題材になっており、葛石で囲まれた四角形、五角形は黒色と灰色の枠になり、その中心に石が据えられている。これらは、白川砂、砂利、黒砂利、たたき、苔、植栽により構成され、複数の多角形の組み合わせによる幾何学的な意匠になっている。石のチャートなど主な材は、境内にあったものが再利用され、玉垣、墓石も用いられた。植栽も以前よりあった槇、檜、オトヨウゾメなどが使われている。
 
庭園に据えられている本歌・燈明寺型石燈籠は、作者不明という。鎌倉時代、山城国にあった燈明寺(相楽郡加茂町)に伝わる石灯籠で、もとは9基あったという。日本一古い燈籠ともいう。鑿と金槌だけで造られ、接着されていない。新町三井家山居士(?-1788)が寺より入手、新町の同邸に置かれていた。現代、1955年、東京水道町の邸に移された。1985年に6個の基壇石、火立石とともに当寺に寄贈された。
◆六阿弥陀巡拝 六阿弥陀巡拝(めぐり)」は、江戸時代中期、1717年に安祥院の養阿が阿弥陀仏の霊感を受けて発願したという。縁日の日には、真如堂で洛陽六阿弥陀巡拝の証をもらい、蓮華の朱印を受け、先祖回向、極楽往生を祈願する。その後、永観堂、清水寺阿弥陀堂、安祥院、安養寺の順で回り、誓願寺で結願する。功徳日とされる1月15日、2月8日、3月14日、4月15日、5月18日、6月19日、7月14日、8月15日、9月18日、10月8日、11月24日、12月24日、春秋彼岸に3年3か月巡拝する。無病息災、家運隆盛、諸願成就を得ることができるという。
 札所は、第1番・真如堂(真正極楽寺、左京区)の阿弥陀如来、第2番・永観堂禅林寺(左京区)の阿弥陀如来、第3番・清水寺(東山区)の阿弥陀堂の阿弥陀如来、第4番は安祥院(日限地蔵、東山区)の阿弥陀如来、第5番・安養寺(中京区、新京極)の阿弥陀如来、第6番・誓願寺(中京区、新京極)の阿弥陀如来になる。
◆映画誕生地・映画 ◈境内の一角本堂近くに「京都映画誕生」の碑が立てられている。境内は、日本の映画文化の誕生地になった。
 現代、2008年に、「京都・映画100年宣言」プロジェクト推進協議会の呼びかけにより、俳優・吉永小百合(1945-)、俳優・田村正和(1943-)らなどの映画関係者ら81人の寄付で建立された。碑の四角形は、「映画の父」と呼ばれたリュミエール兄弟(兄オーギュスト、1862-1954)・(弟ルイ、1864-1948)が発明した複合映写機「シネマトグラフ」を模した。
 近代、1908年、映画監督・製作者・牧野省三(1878-1929)は横田商会(横田永之助)の依頼により、真如堂境内でチャンバラ劇映画「本能寺合戦」を初めて監督し撮影した。撮影にはシネマトグラフを用い、日本初の時代劇映画になる。境内を本能寺に見立て、森蘭丸の奮闘場面が撮影された。牧野の千本座の役者らが出演している。
 ◈時代劇映画「鬼平犯科帳」(1995年、松竹)の撮影が行われた。境内に茶店が設けられた。江戸の大泥棒・荒神のお豊(岩下志麻)が、火付盗賊改方長官・長谷川平蔵(2代目中村吉右衛門)を見かける。
◆お十夜 「十日十夜別時念仏会」(11月5日-15日)は、「お十夜(おじゅうや)」とも呼ばれる。この世で10日10夜善いことをすれば、仏国土で千年善いことをするに勝るという。(『無量寿経』)。この教えに基づき、阿弥陀如来の法恩に感謝する法要になる。
 室町幕府6代将軍・足利義教に仕えた武将・伊勢貞国(1398-1454)の逸話に起因している。
 貞国は若い時より阿弥陀如来を崇敬した。室町時代中期、永亨年間(1429-1441)、出家しようと真如堂で3日間参籠した。夢枕に立った僧が、さらに3日3晩に延期するように告げる。その通りにすると、兄の謹慎により貞国が家督を継ぐことになる。貞国は阿弥陀の導きに感謝し、さらに7日参籠した。これを「十夜」といい、当寺が発祥地になった。また、第102代・後花園天皇は、これを聞くに及んで、さらに7日7夜の念仏を続けるようにとして、10日10夜の方式を定めたという。その後、第103代・後土御門天皇の勅により全国の浄土宗寺院に広まる。天台宗の中で最も盛大なものであり、この時期に善行が10日10夜があると、他方諸仏の国土で千年の善をするにも勝るともいう。
 5日、夕刻から連日、「鉦講(かねこう)」の人々(鉦講員)による鉦が叩かれる。結願法要の11月15日には、貫主が導師になり、稚児、僧によるお練り法要がある。秘仏の「うなずきの弥勒」が開帳される。その手には白い「縁の綱」が結ばれ、堂の外の角塔婆(回向柱)まで引かれている。参詣者はその綱に触れて阿弥陀との縁を結ぶ。中風除け、「たれこ(おもらし)止め」の効能があるという小豆粥「十夜粥」の接待もある。なお、粥のことを「おじや」というのは、お十夜の転訛ともいわれている。
◆祭礼 ◈「節分会」(2月2日-2月3日)では、般若心経を2日間で365回唱える。厄除けと無病息災を祈念する法要であり、南天の枝を持った赤鬼の練り歩き、薬湯「招福湯」の接待、立春大吉護符が授与される。
 ◈「涅槃図特別公開」(3月1日-3月31日)では、巨大な涅槃図(縦6.2m×横4.5m)が本堂内陣との結界に吊るされる。涅槃会(3月15日)に参拝すると、京菓子「花供曽(はなくそ) 」あられが授与される。和菓子店の「田丸弥」が手掛ける軽く焼いた球状のあられで、黒砂糖をまぶしている。参詣者に無病息災のために授与されている。
 ◈「宝物虫払会」(7⽉25⽇)は、土用の虫干しを兼ねて、本堂で寺宝200点を一般公開する。「安倍晴明蘇生図」の公開、晴明が閻魔大王より贈られたという金印「五行之印」による無病息災・長寿の加持がある。暑気払いとして真如堂秘伝の枇杷湯が接待される。
 ◈「精霊送り灯籠供養会」(8⽉16⽇)では、五山の送り火の当日に、大文字山山麓の真如堂で、「大の字」に献灯が並べられ、本堂内で精霊送りの法要が執り行わる。
 ◈「引声(いんぜい)阿弥陀経会」(10月14日-10月16日)は、平安時代前期、836年に唐に渡った慈覚(円仁、794-864)が、五台山の文殊菩薩より伝授されたという。比叡山で行ったのが初めとされる。極楽世界八功徳池の波音に唱和するものという。1語1語引き、ゆるやかな節で読経し、極楽浄土に生まれるようにと願う。
 引声阿弥陀経はいまも伝えられ、1000年以上の歴史を持つ。当日は僧により唱和される。現在では真如堂でのみ勤修されている。
 ◈「観経曼荼羅特別公開」(11月1日-12月8日)では、巨大な金色刺繍「観経曼荼羅」(縦5m×横4.4m)が本堂内陣との結界に吊るされる。極楽浄土の情景が描かれている。
 ◈「除夜の鐘」(12月31日)で、鐘撞は、0 :00頃-1:00過ぎまで先着順に4-5人で1回撞く。先着500杯のお薬湯(おやくとう) の振舞いがある。シャクヤク、ヨモギ、カンゾウ、ナツメ、ニッキ、ショウガを煮出した薬茶の接待がある。
◆たてかわ桜 「立皮桜(たてかわざくら)」は、本堂前南側の囲いの中に植得られている。幹の樹皮に松の木のような筋が縦に入る。「縦皮桜」ともいわれる。江戸時代、3代将軍・徳川家光の乳母・春日の局(1579-1643)が、父・斉藤利三(1534-1582)の菩提を弔うために植えたという。
 もとは、エドヒガン系、幹廻り1mの巨木だった。現代、1958年の伊勢湾台風により倒木した。その後、接木により復活している。
 小説家・水上勉(1919-2004)は『桜守』で、この桜を題材にした。桜守の「宇多野」が接木に成功する設定になっている。実際には、京都の著名な桜守による接木は活着しなかった。当寺貫主が接木に成功したと説明板にある。白く小ぶりで清楚な花を咲かせる。
◆花暦・樹木 サクラ(3⽉下旬-4⽉中旬)は、ソメイヨシノ、三重塔横にはシダレザクラ、鐘楼堂付近にはヤエザクラ、本堂前にタテカワサクラがある。ツバキは、30本が植えられている。ミズキ科のサンシュユ、アジサイ、黄色い花をつけるハナノキ、境内に400本のカエデがあり、紅葉(11月中旬-12月初旬)の名所として知られている。
 吉祥院近くにモクゲンジ、鐘楼近くにオオモクゲンジ、池の端にアセビの大木がある。涅槃の庭には、ツツジ科スノキ属シャシャンポ、ボダイジュ(区民の誇りの木)がある。実が2つ以上つくものを財布に入れておくとお金がたまるという。本堂近くにサラソウジュ(ナツツバキ)などがある。
 池近くにハナノキがある。近代、1935年に植えられた。かつて木曽福島にあり、府立植物園を経て移植された。樹高10m、幹周り1.6m。
 春はサクラ。初夏の青モミジ(5月-6月)、ハス、ボダイジュ、サラソウジュ(ナツツバキ)、アジサイ、ムクゲ、サルスベリ。秋はハギ、ヒガンバナ、スイフヨウ、フジバカマ。冬はナンテン、サンシュユ、ツバキ(11月-4月)、スイセン、ハクバイ、ナンテンなどが楽しめる。
◆墓 ◈開山堂は、戒算の御廟所になる。(非公開)
 ◈江戸時代、第111代・後西天皇皇女・真珠院宮、藤原氏一門、正親町家、冷泉家、油小路家、六角堂池坊家、春日局の父・斎藤利三、蜷川親長、猪飼敬所、海北友松、中林竹洞、竹渓、望月玉泉の墓などがある。
 ◈斉藤利三(1534/1538?-1582)は、明智光秀の重臣であり、本能寺の変(1582)後、山崎の戦いにも参戦、だが、秀吉軍に近江堅田で捕まり、六条河原で斬首された。首は、当寺の東陽院の開祖で利休とも親交があった東陽坊長盛(1515-1598)と、利三と親しかった画家・海北友松(1533-1615)により奪って持ち帰えられたという。真如堂に葬られた。現在、利三と友松の二人の墓は、並んで眠っている。
 
◈江戸時代前期の公卿(非参議)・陰陽家の土御門泰福(1655-1717)、土御門家の墓もある。
 安倍晴明の子孫の墓として、安倍晴明の19世で陰陽師・土御門久脩(1559-1625)は、安倍有脩の子になる。室町時代前期、1572年に元服し、陰陽頭、左馬助、天文博士を歴任した。織田信長、豊臣秀吉に仕える。安土・桃山時代、1595年に秀吉により追放され若狭国名田庄に移る。1600年に京都に戻り、徳川家康に陰陽道宗家と認められ、公家昵懇衆の一人として仕えた。家康、秀忠、家光、後水尾天皇などの即位を祝う天曹地府祭を執行した。
 その久脩の次男、初代民部卿・倉橋泰吉(1599-1670) が、江戸時代前期、1612年に勅許により別家・倉橋家を創設した。倉橋家の遠祖は飛鳥時代の官人・阿部倉梯麻呂(?-649)といい、大和国十市郡倉橋が出身地になる。
 ◈江戸時代前期の公卿(非参議)・陰陽家の土御門(安倍)泰福(1655-1717)は、平安時代の陰陽師・安倍晴明の子孫で、室町時代以来の土御門家を名乗った家に生まれる。江戸時代前期、1661年、家督を継ぐ。土御門家は代々陰陽頭を務めていたが、江戸時代初期以来、幸徳井家(賀茂氏)側との対立が続いた。1682年以後、泰福が陰陽頭に就任し、翌1683年には諸国の陰陽師を支配・免許の権限を得る。1699年、土御門家を陰陽道宗家となる。山崎闇斎の垂加神道を学び、陰陽道・神道による神道理論(土御門神道)を打ち立てた。
 ◈冷泉家の為治(1626-1649)-為臣(1911-1944)、為任(1914-1986)、医師・20代・北小路経彦の墓がある。
 ◈医家・儒学者・向元升(1609-1677)の墓には貝原益軒の撰文がある。その長男・向井元端(1649-1704)、俳人・向井去来(元淵、1651-1704)は元升の次男になる。かつて五輪塔が立てられていた。現在はない。境内茶所前には去来の句碑が立つ。「涼しさは野山にみつる念仏かな」。
 ◈岩倉具視の妹で第121代・孝明天皇の後宮・堀河紀子(1837-1910)の墓、その父・堀河康隆の髪歯塚がある。
 ◈旧三井家の菩提寺であり、三井高利(1622-1694)(家祖)夫妻の墓がある。東三条院の宮の弟・藤原道長の愛妾・桜ノ内侍の子が三井財閥の遠祖にあたる。かつては、塔頭東陽院にあり、明治期(1868-1912)中期に本山に移された。三井高福(たかよし、1808-1885)の墓がある。三井財閥の基礎を確立した。
◆年間行事 初洛陽六阿弥陀めぐり(1月15日)、節分会(2月2日-2月3日)、涅槃図公開(3月1日-3月31日)、涅槃会法要(3月15日)、宝物虫払会(7月25日)、引声(いんぜい)阿弥陀経会(10月14日-10月16日)、観経曼荼羅特別公開(11月1日-12月8日)、十日十夜別時(べつじ)念仏会(11月5日-11月15日)、除夜の鐘(12月31日)。
 護摩供法要(月命日) [元三大師堂] (毎月3日)。


*室内の写真撮影は禁止。
*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『京の古寺から 11 真如堂』、『鈴声山真正極楽寺 真如堂』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都大事典』、『京都・美のこころ』、『京都古社寺辞典』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『増補版 京の医史跡探訪』、『稲荷信仰と宗教民俗』、『旧版 京のお地蔵さん』、『京都の映画80年の歩み』、『シネマの京都をたどる』、『京都絵になる風景』、『京都まちかど遺産めぐり』、『京都はじまり物語』、『京都の寺社505を歩く 上』、『山科の歴史を歩く』 、『京の寺 不思議見聞録』、『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』、『京都 神社と寺院の森』『京都を歩こう 洛陽三十三所観音巡礼『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『京都のご利益徹底ガイド』、『京のしあわせめぐり55』、『京の福神めぐり』、『週刊 京都を歩く 28 吉田』、『週刊 古社名刹巡拝の旅 26 吉田山と白川』、『週刊 日本の仏像 第43号 観音寺 国宝十一面観音と蟹満寺・国宝釈迦如来』、『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』、ウェブサイト「日本庭園協会」、ウェブサイト「木食正禅上人と阿弥陀如来露仏-境内霊譚奇談集Ⅸ 竹内純照」、ウェブサイト「真正極楽寺」、ウェブサイト「新纂浄土宗大辞典」、ウェブサイト「東文研アーカイブデータベース - 東京文化財研究所」、ウェブサイト「文化庁 文化財データベース」、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺元真如堂(換骨堂)  関連・周辺日吉神社  周辺福ノ川跡・中山・吉田寺跡  周辺吉田神社  関連大蓮寺  関連冷泉家  関連延暦寺・横川(大津市)   関連亀の水不動明王・梅香庵(木食寺)跡・粟田口大名号碑・日ノ岡宝塔    関連成願寺・七保天満宮跡  関連国生寺  関連去来墓・西行井戸(小倉山墓)  関連鎔宮墓・寿萬宮墓  関連旧三井家下鴨別邸  関連日本映画発祥の地・シネマトグラフ上映地(旧立誠小学校)  関連稲畑勝太郎の銅像・旧関西日仏学館  関連二条城撮影所跡     50音索引,Japanese alphabetical order 

ツツジ科スノキ属シャシャンポ

シャシャンポ
 

書院北の露地

露地

仏殿

仏殿蟇股にある四つ目の家紋

「随縁の庭」

「随縁の庭」
 

「随縁の庭」、白川砂、砂利、黒砂利が使い分けられている。

書院四季殿、春の間、国井應祥の障壁画などがある。
 
墓碑


たてかわ桜


海北友松(右)、斎藤内蔵助利三の墓

向井去来の墓はなく、一族の墓のみが残されている。

東陽坊長盛の墓

陰陽権助賀茂保屋ほか賀茂氏の墓

安倍晴明の子孫の墓

安倍泰福の墓

堀河紀子の墓

堀河康隆髪歯塚

「京都映画誕生の碑」

洛東の眞如堂にして、善光寺如来開帳の時
「凉しくも野山にみつる念仏哉」去来
寺が所蔵する善光寺如来の御開帳に際して詠んだ。
塔頭、そのほか

喜蓮院

理正院

法輪院

松林院

東陽院


覚円院、去来の寺、門の脇に植えられた「連理のもみじ」、連理とは、木の枝と枝が重なり、木理が通じたことという。白居易の長恨歌に「吾、天に在りては比翼の鳥となり。地に在りては連理の枝とならん」とあり、男女の愛の深さをいう。

吉祥院

法伝寺、空海が刻んだという茶吉尼天像が安置されている。白狐に女性が乗る。

回向柱(5m)、縁の綱、十日十夜別時(べつじ)念仏会(11月5-15日)

吒枳尼天

吒枳尼天

【参照】境内西にある平安時代、第57代・陽成(ようぜい)天皇(869-949)の神楽岡東陵(かぐらおかのひがしのみささぎ)。第56代清和天皇の第一皇子、母は権中納言藤原長良(ながら)娘・女御の藤原高子(二条后)。

【参照】将軍塚より見た神楽岡、中央付近の丘

【参照】白川のサクラ

【参照】白川の白砂
真如堂 〒606-8414 京都市左京区浄土寺真如町82  075-771-0915  9:00-16:00
50音索引,Japanese alphabetical order  Home   50音索引,Japanese alphabetical order  Home  
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光