成願寺・長宝寺 (京都市上京区)
Jogan-ji Temple
成願寺・長宝寺  成願寺・長宝寺
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「乾三十三所 第弐拾九番 成願寺」と刻まれている。



本堂



本堂



仏足石
 成願寺(じょうがんじ)は、檀家に本郷姓が多く、「本郷寺」とも呼ばれる。山号は大廣山という。
 浄土宗、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1577年、武将・本郷盛久は、大将軍村に良雲を開基1世として創建した。(『坊目誌』)。本山・清浄院末になる。
 また、1578年、実誉上人により創建されたともいう。
 近代、大正年間(1912-1926)、境内より2基のキリシタン墓碑が発見されている。
 現代、2007年、「髪繡(はっしゅう)涅槃図」が発見された。
◆良雲 室町時代の浄土宗の僧・良雲(生没年不詳)。歓公。本郷盛久の弟。1577年、成願寺の開基1世となる。長男・良照は成願寺2世になる。
◆仏像 本尊の「阿弥陀如来坐像」は、平安時代の作による。当時としては珍しい玉眼入の例になる。木造、ヒノキ材、漆伯、玉眼嵌入。
 脇壇に来迎の「阿弥陀如来坐像」を安置する。平安時代作であり、かつて伏見・横大路にあり、廃寺になった西福寺の遺仏という。
◆本郷氏 武家の本郷(ほんごう)氏は、中世の頃、若狭国大飯郡本郷(現在の福井県大飯郡おおい町)に拠点があった、村上源氏に源流があるとされ、初代は鎌倉御家人・源朝親という。朝親は美作蔵人、美作左近大夫と称し、源実朝(1192-1219)の鶴岡八幡宮参拝にも随行した。1221年、承久の乱後、朝親は本郷の地頭職に任じられ、以後、本郷氏を名乗る。子孫は土着し、西遷御家人の一として活躍した。
 室町時代、1568年、織田信長の入洛、1570年、信長の若狭に進出に伴い、本郷泰茂が信長側近・矢部家定を通じ傘下に入る。本郷盛久も信長に仕えたという。
◆長宝寺 境内に、長宝堂(ちょうほうどう)と呼ばれる御堂がある。真言宗の長宝寺(ちょうほうじ)に由来する。
 長宝寺は、かつて北野大将軍にあった。北野神社(北野天満宮)の神供所の三之保社であり、七保社の一つに数えられた。創建の詳細は不明という。
 神仏習合期に本尊の十一面観音菩薩像を安置した。像は平安時代の菅原道真(すがわら の みちざね、845-903)が、梅の木に刻んだ3体のうちの一つという。また、道真祖先の土師(はじ)氏の祖・野見宿祢(のみのすくね)を祀っていたともいう。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、洛陽三十三所観音の第29番(第30番とも)札所になる。近代、1868年の廃仏毀釈以後、長宝堂として成願寺に遷された。なお、1873年、社殿は北野神社に移された。
 現在、道真作とされる鎌倉時代の「十一面観音菩薩像」、鎌倉時代の「不動明王立像」、鎌倉時代の「地蔵菩薩半跏像」、「毘沙門天立像」を安置する。堂の正面上方に神仏習合の御正体が掲げられている。
◆文化財 2007年に「髪繡(はっしゅう)涅槃図」(縦170.6㎝×横84.2㎝)が発見された。江戸時代、1678年に僧侶・空念(くうねん、生没年不詳)が制作した。空念は、諸国行脚し、極楽往生を願う民衆から毛髪を集め、布に縫い込む。涅槃図の中央に横たわる釈迦の螺髪などが黒髪で縫われ、枯れた沙羅双樹は白髪で表現されている。絵柄すべてを毛髪で刺繡した例は極めて稀という。空念の曼荼羅、涅槃図は全国で少なくとも72点作られ、現存8点、そのうち涅槃図はこの1点のみという。
◆キリシタン墓碑 近代、大正年間(1912-1926)、境内より2基のキリシタン墓碑が発見された。江戸時代のものという。
 現在は、京都国立博物館に保存されている。
◆花暦 サクラが知られる。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 当寺縁起、『京都市の地名』『京都大事典』『京のキリシタン史跡を巡る 風は都から』『昭和京都名所図会 5 洛中』



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フヨウ

長宝堂

長宝堂、長宝寺の寺号額が掛かる。

【参照】キリシタン墓碑、京都国立博物館蔵。
map  成願寺 〒602-0000 京都市上京区西町22,一条通御前通西入三丁目  075-462-2666 
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