JR京都駅0番のりば・御土居遺構 (京都市下京区)
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JR京都駅0番のりば・御土居遺構 JR京都駅0番のりば・御土居遺構
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JR京都駅


0番のりば


0番のりば


0番のりば、ホームは東西に走っていた御土居遺構の上部を削りその上に造られている。
線路は右端に0番線、中央に1番線(東海道本線上り通過線)、左端に2番線の3線が走っている。


0番のりばの床、御土居の上部が削られてホームが造られたという。


30番のりば





【参照】京都駅ビル


【参照】京都駅ビル
 JR京都駅には日本一長いホーム(558m)がある。かつて「1番のりば」といわれ、現在は「0番のりば」に改称されている。 
 0番のりばは、豊臣秀吉が築造した御土居遺構の上に築かれている。御土居の最南端に位置し、南と北とで洛中と洛外を分ける境界線になっていた。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉は御土居を築造する。
 近代、1914年、京都駅移転(2代目駅舎建築)の際に、御土居遺構を削りその上に1番のりばが造られた。
豊臣秀吉 室町時代-安土・桃山時代の武将・豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし、1537-1598)。幼名は日吉丸、初名は木下藤吉郎、小猿と呼ばれた。父は尾張国の百姓、織田信秀の足軽・木下弥右衛門、母は百姓の娘なか(天瑞院)。1551年、家出、後に今川氏の家臣・松下之綱、1554年、織田信長に仕える。1561年、浅野長勝養女・ねねと結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗った。戦功を重ね、1573年、小谷城主、羽柴姓と筑前守、信長の天下統一にともない西国転戦。1582年、備中高松城の毛利軍と戦いの最中に本能寺の変が起こり、和睦し軍を返し山崎で明智光秀を討つ。1584年、小牧・長久手で織田信雄、徳川家康の連合軍に敗れる。1585年、紀州根来と雑賀、四国・長宗我部元親を服した。関白に進む。1586年、聚楽第、広寺大仏造営に着手、太政大臣に昇り豊臣の姓を賜わる。1587年、九州征討、聚楽第が完成する。10月、北野天満宮で北野大茶湯を催した。1588年、第107代・後陽成天皇が聚楽第行幸、検地、刀狩を行う。1590年、小田原の北条氏直らの征討、朝鮮使を聚楽第に引見、1591年、利休を自刃させる。1592年、文禄の役を始め、甥の養子・秀次に関白職を譲り、太閤と称した。1593年、側室淀殿に秀頼が生まれると、1595年、秀次を謀反人として切腹させ、妻妾子女らも処刑した。1597年-1598年、朝鮮を攻めた慶長の役に敗れた。1598年、3月、醍醐寺で「醍醐の花見」を行う。8月、伏見城で没した。没後、豊国廟に豊国大明神として祀られた。62歳。
 秀吉は京都で「都市改造」を行う。1585-1591年、洛中検地・洛中地子免除(1591)、1586年よりの方広寺大仏建設、1586-1587年、聚楽第・周辺の武家邸宅街建設、1589年、禁裏・公家町の修造整備、1590年、新町割建設(短冊形町割)、1590年、三条大橋などの橋梁・道路建設、1591年、御土居築造、寺院街(寺町・寺之内)建設などになる。
◆御土居 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後、高倉より東、松原以南は、相次ぐ鴨川の氾濫によって荒地と化していた。安土・桃山時代、1591年、都の再興を手がけた豊臣秀吉は、細川幽斉、前田玄以などに命じ、諸国大名らにより、洛中の周囲をめ ぐらせた堤防・惣構施設の「御土居」(京廻りノ堤、惣曲輪[そうぐるわ] 、土居堀、土居、お土居)を築造する。わずか5カ月(2カ月とも)の突貫工事で完成させた。
 御土居は、北の上賀茂、鷹ヶ峰、西の紙屋川、東寺、南の東寺の南、東の鴨川西岸に対して築かれ、当時存在した聚楽第、現在の京都御所を取り囲むように造られている。その規模は、東西3.5km、南北8.5km、総延長は22.5kmにもなった。土塁(一定していないが、低幅10-20m、天端4-8m、犬走り1.5-3m)の上は、強度を増すために竹林で覆われていた。土塁の外には、濠(3.6-18m)が設けられた。工法は、「掻揚城(かきあげしろ)」というもので、掘った濠の土を積み上げて土塁を築き、積石や石垣で地盤は固められた。
 聚楽第、御所を囲むように構築された御土居は、「洛中」と「洛外」の区分をさせるなどの洛中範囲の確定、軍事的な城壁の役割、権勢誇示という政治的な意味合い、小田原城の城下を模したとする見方もある。また、それまでの権力支配(朝廷、公家、寺社)から都の民を分断させ、聚楽第を中心にした新しい都市の再編と支配が強行されたという見方もある。さらに、1591年の御土居築造が、1592年の文禄の役の前年であることから、秀吉の朝鮮、明攻略を前提とした首都防衛機能の一環だったともいう。
 平安京以来、九条大路の南以外に羅城の築かれていなかった都は、初めて本格的な城塞によって囲まれた。この堤の築造によって、都の開発は鴨川の間際まで進むことになる。また、散在していた寺院は、御土居の内(西)の鞍馬口から松原間(かつての東の京極通東側、現在の寺町通)に、南北に並べる形で強制移転させられた。この寺院町と寺之内町の新設置は、防災の意味と、寺院と民の結びつきを分断する意味もあったとする説もある。
 築造から40年ほどで、都の開発が御土居を越えて進む。堤防の役割を果たしていたものを除いて、大部分の御土居は次々に取り壊され、屋敷用地や道に利用された。近代以降、京都府の「悉皆開拓」令(1870)により、御土居の破壊が急速に進行した。この時、「お土居藪地」は、米、野菜、桑、茶畑などに開墾することが奨励され、府は土地の払い下げを通達している。現在は9か所の御土居遺構が国の史跡指定地(1930)になっている。
◆0番のりば ホーム番号の0番のりばは京都駅の北、烏丸中央口に面している。日本一長いホームといわれている。かつて1番のりば(1番プラットホーム)といわれ、山陰本線と北陸本線が連なって発着に利用していた。その後、現在の0番のりばに改称された。
 のりばは、東の東海道線上り北陸方面と西の30番のりばから成る。30番のりばは、切欠(切り欠き)ホームになっており、関西空港方面の特急「はるか」専用ホームになっている。1994年の運転開始当初は「はるかホーム」と呼ばれていた。この切欠ホームというのは、ホームの端を削り、列車の発着に充てたものをいう。
 ホームは、全長558mある。0番のりばの全長323mに、30番のりばの全長235mを加えている。1914年の駅の移転の際に、東西にあった御土居遺構の上部を削りその上にホームが築かれている。
 なお、現在の京都駅にはホーム番号0番のりばと2番のりばしかなく、1番のりばは存在しない。ただ、番線の1番線が0番のりば・0番線と2番のりば・2番線の間に敷設されており、東海道本線上り通過線になっている。また、1番線の東海道本線下り通過線は廃止された。このため下りの貨物列車は、7番のりば(東海道線下り・白浜新宮方面)の7番線を通過している。1番のりばを0番のりばに改称したのは、配線上の番号(番線)とホーム番号(のりば)を一致させるためだった。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』、『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』、『御土居堀ものがたり』 


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京都駅構内概略図 1番のりばはない
     
平安京オーバレイマップ
JR京都駅 京都市下京区東塩小路町901(JR西日本)、下京区東塩小路高倉町8-3(JR東海)  
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