|
|
JR京都駅0番のりば・御土居遺構 (京都市下京区) Site of Odoi |
|
JR京都駅0番のりば・御土居遺構 | JR京都駅0番のりば・御土居遺構 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() JR京都駅 ![]() 0番のりば ![]() 0番のりば ![]() 0番のりば、ホームは東西に走っていた御土居遺構の上部を削りその上に造られている。 線路は右端に0番線、中央に1番線(東海道本線上り通過線)、左端に2番線の3線が走っている。 ![]() 0番のりばの床、御土居の上部が削られてホームが造られたという。 ![]() 30番のりば ![]() ![]() ![]() 【参照】京都駅ビル ![]() 【参照】京都駅ビル ![]() 【参照】京都駅ビル 京都駅、 OpenStreetMap Japan ![]() 【参照】初代京都駅、京都鉄道博物館の展示パネルより ![]() 【参照】2代目・京都駅のシャンデリア、1926年の第124代・昭和天皇御大典時の改築の際に新調されたという。京都鉄道博物館 |
JR京都駅には日本一長いホーム(558m)がある。かつて「1番のりば」といわれ、現在は「0番のりば」に改称されている。 0番のりばは、豊臣秀吉が築造した御土居遺構の上に築かれている。御土居の最南端に位置し、南と北とで洛中と洛外を分ける境界線になっていた。 ◆歴史年表 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉は御土居を築造する。 近代、1914年、京都駅移転(2代目駅舎建築)の際に、御土居遺構を削りその上に1番のりばが造られた。 ◆豊臣 秀吉 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・豊臣 秀吉(とよとみ-ひでよし、1537-1598)。男性。幼名は日吉丸、初名は木下藤吉郎。小猿と呼ばれた。父・尾張国(愛知県)の百姓、織田信秀の足軽・木下弥右衛門、母・百姓の娘・なか(天瑞院)。1551年、家出し、後に今川氏の家臣・松下之綱、1554年、織田信長に仕える。1561年、浅野長勝の養女・ねねと結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗った。戦功を重ね、1573年、小谷城主、羽柴姓と筑前守、信長の天下統一にともない西国転戦した。1582年、備中高松城の毛利軍と戦いの最中に本能寺の変が起こり和睦した。軍を返し山崎で明智光秀を討つ。1584年、小牧・長久手で織田信雄、徳川家康の連合軍に敗れる。1585年、紀州根来と雑賀、四国・長宗我部元親を服した。関白に進む。1586年、聚楽第、広寺大仏造営に着手し、太政大臣に昇り豊臣の姓を賜わる。1587年、九州征討、聚楽第が完成する。旧10月、北野天満宮で北野大茶湯を催した。1588年、第107代・後陽成天皇が聚楽第を行幸する。検地、刀狩を行う。1590年、小田原の北条氏直らの征討、朝鮮使を聚楽第に引見した。1591年、利休を自刃させる。1592年、文禄の役を始めた。甥の養子・秀次に関白職を譲り、太閤と称した。1593年、側室淀殿に秀頼が生まれると、1595年、秀次を謀反人として切腹させ、妻妾子女らも処刑した。1597年-1598年、朝鮮を攻めた慶長の役に敗れた。1598年、旧3月、醍醐寺で「醍醐の花見」を行う。旧8月、伏見城で没した。62歳。 「普請狂」と称された。京都で「都市改造」を行う。1585年-1591年、洛中検地・洛中地子免除(1591)、1586年よりの方広寺大仏建設、1586年-1587年、聚楽第・周辺の武家邸宅街建設、1589年、禁裏・公家町の修造整備、1590年、新町割建設(短冊形町割)、1590年、三条大橋などの橋梁・道路建設、1591年、御土居築造、寺院街(寺町・寺之内)建設、1595年、方広寺大仏、1597年、伏見城を建てた。ほか、関所廃止、楽市・楽座制、重要都市・鉱山直轄、貨幣鋳造、太閤検地・刀狩、伏見の城下町化、宇治川の整備、倭寇取締、朱印貿易などを進めた。没後、豊国廟に豊国大明神として祀られた。 ◆0番のりば ホーム番号の0番のりばは京都駅の北、烏丸中央口に面している。日本一長いホームといわれている。かつて1番のりば(1番プラットホーム)といわれ、山陰本線と北陸本線が連なって発着に利用していた。その後、現在の0番のりばに改称された。 のりばは、東の東海道線上り北陸方面と西の30番のりばから成る。30番のりばは、切欠(切り欠き)ホームになっており、関西空港方面の特急「はるか」専用ホームになっている。現代、1994年の運転開始当初は「はるかホーム」と呼ばれていた。この切欠ホームというのは、ホームの端を削り、列車の発着に充てたものをいう。 ホームは、全長558mある。0番のりばの全長323mに、30番のりばの全長235mを加えている。近代、1914年の駅の移転の際に、東西にあった御土居遺構の上部を削りその上にホームが築かれている。 なお、現在の京都駅にはホーム番号0番のりばと2番のりばしかなく、1番のりばは存在しない。ただ、番線の1番線が0番のりば・0番線と2番のりば・2番線の間に敷設されており、東海道本線上り通過線になっている。また、1番線の東海道本線下り通過線は廃止された。このため下りの貨物列車は、7番のりば(東海道線下り・白浜新宮方面)の7番線を通過している。1番のりばを0番のりばに改称したのは、配線上の番号(番線)とホーム番号(のりば)を一致させるためだった。 ◆御土居 室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)後、高倉より東、松原以南は、相次ぐ鴨川の氾濫により荒地になった。 安土・桃山時代、1591年に、豊臣秀吉(1536-1598)は京都の再興・改造を手がける。細川幽斉(1534-1610)、前田玄以(1539-1602)などに命じ、洛中の周囲をめぐらせる堤防・惣構施設の「御土居」の築造させた。諸国大名らにより同年1月に着工になり、旧閏1月に2カ月で完成したという。(近衛信尹『三藐院記[さんみゃくいんき]』)。また、2-4カ月/5カ月の突貫工事で完成させたともいう。 御土居は、北は上賀茂・鷹ヶ峰、西は紙屋川(天神川)・東寺の西辺、南は東寺南の九条通、東は鴨川西岸の河原町通まで築かれた。当時存在していた聚楽第、京都御所も土塁内側に取り囲んでいる。規模は、東西3.5km、南北8.5km、総延長は22.5kmにもなった。 御土居は、当初「土居堀」と呼ばれた。ほかに「京廻りノ堤」、「新堤」、「惣曲輪(そうぐるわ)」、「土居」などとも呼ばれ、江戸時代には「御土居」と称されるようになる。 御土居の構造は外側に堀(濠)、内側に台形状の土塁を築いた。工法は「掻揚城(かきあげしろ)」が採られ、掘った堀の土を積み上げて土塁を築き、積石・石垣で地盤を固めた。墓石・地蔵なども「礎石」として使われている。なお、当時の構築物では一般的なことだった。掻揚だけでは、土塁を築く土量が不足したとの見方もある。 土塁規模は一定しておらず、高さ3.6-5.4/6m、基底部幅10-20m、頂上部幅4-8m、犬走り1.5-3mあった。土塁頂上は、盛土の保護・強度を増すために竹林が植えられ覆われていた。このため、竹薮の伐採は厳禁された。土塁の外には、堀(幅3.6-18m/12.5-20m、深さ1.5-2.5m)が設けられていた。堀は河川・池・沼などの自然地形も利用して築造されている。堀には水が溜められ、江戸時代には、農業用水としても利用されている。 御土居には「京の七口」と呼ばれる出入口が開けられ、主要な街道に通じていた。出入口は特定されず、当初は10カ所あり、江戸時代前期には40カ所にも増えたという。 「普請太閤」といわれた秀吉の御土居築造の意図は、複合的なものとされる。一般的には、鴨川・紙谷川(天神川)などの氾濫に対する水害対策・防災的な堤防の意図が強かった。さらに、外敵に備える防塁の意味も加わる。平安京以来、京都は九条大路の南以外には羅城は築かれていなかった。御土居により初めて、本格的な城塞により囲まれることになる。 御土居築造により、都の開発は鴨川の間際まで進んだ。また、聚楽第・御所を取り込むように構築されたため、「洛中」・「洛外」の区分を生み洛中範囲の確定に繋がった。軍事的な城壁の役割、権勢誇示という政治的な意味合いもあった。それまでの権力支配(朝廷・公家・寺社)から町衆を分断させ、聚楽第を中心にした新都市の再編・支配が強行されたともいう。1591年の御土居築造が、1592年の文禄の役の前年にあたり、秀吉の朝鮮・明攻略を前提とした首都防衛機能の一環だったともいう。なお、築造に際して、小田原城の城下を模したとする見方もある。 御土居築造に先立ち、新たに「町割(天正町割)」も行われた。1590年に寺院に対し「寺割」が実施される。それまで散在していた寺院を強制移転させ、新たに寺町、寺之内、本願寺などの寺院町を形成させた。これにより、防御・防災、税徴収の効率化、寺院と民衆の結びつきの分断の意味もあったという。 平安京以来の条坊制は、東西南北一町四方(正方形)の区画を基本としていた。これでは、中心部に無駄な空地が生じる。秀吉は一部を除き、これを半町一町の短冊型(長方形)の区割りに再編する。半町毎に、新たな南北の道路(小路)を設けた。この新しい町割により、町家数・人口増加をもたらし、検地の効率も高められた。 御土居の保全は、京都所司代の命により、近郊の農民が駆り出されていた。江戸時代前期、1669年以降は、角倉了以の子・角倉与一(1571-1632)が「土居薮之支配(奉行)」に任じられ、管理権を与えられている。この頃、御土居に繁茂した竹(土居薮)を民間に払い下げている。竹は資材として利用された。 御土居築造から40年ほどで、都の開発が御土居を越えて進行する。鴨川には新たな堤防が築かれ、東側の開発が進み土塁は取り壊された。御土居のうち堤防の役割を果たしていたものを除き、大部分は次第に撤去され、屋敷用地・道路などに転用される。なお、江戸時代中期、元禄期(1688-1704)までは、堀はまだ水堀としては機能していた。その後、築造後100年を経て堀は埋没し、周辺住民の生活廃材の捨て場になった。このため、後の発掘調査により土器・陶磁器、瓦、金属製品、石加工品、木製品などが多数出土している。 近代以降、1870年の京都府の「悉皆開拓」令により、府は土地の払い下げを通達している。以来、御土居の破壊が急速に進行する。「お土居薮地」は、田圃、畑、桑畑、茶畑などに開墾することが奨励された。1945年の第二次大戦後は、土塁遺構の大部分は消失し、現在はごく一部のみが保存されている。 ◆京都駅舎 京都駅舎は近代以来、4回建て直されている。 ◈ 近代に入り、官設鉄道による阪神間の京都延長工事が行われる。近代、1868年、大阪方面より進められ、1876年9月に大宮通に京都仮停車場が置かれ、一般運輸の営業が開始された。1877年2月に、第122代・明治天皇の行幸があり、開業式が執り行われた。6日、七条停車場(京都停車場)が開設され、初代・京都停車場になる。赤煉瓦造、2階建。 当初は旅客と貨物の取扱いが未分化だった。鉄道輸送の拡充にともない、1910年秋に、鉄道院は今後の基本計画を立てた。京都駅を旅客専用に改め、別に貨物専用の梅小路駅を新設する。京都機関庫・二条機関庫を統合し、新たに梅小路機関庫を設けることにした。 ◈ 2代目駅舎は、近代、1913年2月に初代駅舎の南側で起工し、1914年11月に竣工した。1914年8月に営業を開始している。第123代・大正天皇の即位大礼(1915年11月)が京都で挙行されることになっていた。 設計は鉄道院西部鉄道管理局/渡辺節(1884-1967)、施工は大林組による。渡辺は、当初、鉄筋コンクリート造にすることを主張していた。この時、貨物ヤード・機関区は西方の梅小路に移転され、初代駅舎跡地は駅前広場拡張に利用された。 木造、ルネッサンス様式。 なお、現代、1950年11月に2代目駅舎は失火により全焼している。 ◈ 3代目駅舎は、現代、1953年5月に完成した。設計は佐野正一(1921-2014)による。 鉄筋コンクリート造、2階建、中央に8階建の塔。 ◈4代目駅舎は、現代、1997年9月に完成した。設計は原広司(1936-)による。 鉄骨造 SRC造、地上16階、地下3階。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』、『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』、『御土居堀ものがたり』、『洛中洛外』、『秀吉の京をゆく』、『京都の地名検証 2』、『京都の地名検証 3』、『京都大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都・観光文化 時代MAP』、『豊臣秀吉事典』、『御土居跡』、 『建築家秀吉』、延命地蔵大菩薩の駒札、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、京都鉄道博物館、ウェブサイト「御土居跡-京都市」、OpenStreetMap Japan ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
京都駅構内概略図 1番のりばはない![]() |
|
![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|