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四之保社跡・威徳水 (京都市中京区) Site of Yonnoho-yashiro Shrine |
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四之保社跡・威徳水 | 四之保社跡・威徳水 |
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![]() 「北野天満宮七保ノ内 新長谷寺古跡」の碑 ![]() 「愛宕山」の石標 ![]() ![]() 地蔵尊 ![]() 威徳水跡 ![]() |
西ノ京中保(なかほ)町に、「北野天満宮七保ノ内 新長谷寺古跡」の碑が立つ。一段下がった所に井戸跡が残る。 この地は、四之保社跡・威徳水(よんのほやしろ-あと・いとくすい)と呼ばれている。四之保社とは北野天満宮七保社のうち、4番目の保(神人居住地域)であったことから呼ばれた。地名の「中保町」も、七保社のうち真中の保を意味した。 ◆歴史年表 平安時代、903年、菅原道真が太宰府で亡くなる。その後、随徒した人々は帰京し、右京の地に七保社を建てたという。七所の御供所が置かれ、そのうち四番目の「保」として、この地は「四之保社」と呼ばれた。当初は、神宮寺・新長谷寺が管掌し、藤原道長の自作という観音像を安置した。多くの帰依者を集めた。 江戸時代、1740年、廃社する。新長谷寺はこの地に残された。 近代、1873年、御供所が廃止される。 1868年、神仏分離令後は新長谷寺が残る。その後、寺は真如堂(左京区浄土寺真如町)内に移された。 ◆西京神人・保 少なくとも鎌倉時代-室町時代、西京は北野天満宮に関係し、奉仕した西京神人(北野神人)の居住区になっていた。(『勘仲記』)。右京一条-二条間に7所の御供所が設けられ、七保と呼ばれていた。(『北野誌』) 「保」の本来の意味は、律令京師制下の行政単位だった。神社の神人(じにん/ じんにん)の居住域も意味した。この地には西京神人が居住し、商業などを生業とし、神供調進も担った。西京神人は、麹造りに関わる。歴史は、少なくとも、南北朝時代、1379年まで遡る。(「北野社麹座文書」)。北野天満宮を本所として麹座を結成、課税免除、麹製造、販売独占の特権も有していた。 ◆威徳水 かつて、名水とされ「威徳水」があった。井水には、椿の大木があり「椿の水」とも呼ばれた。病気平癒のご利益があり、人々の信仰を集める。近年まで湧水があったという。 井戸跡の傍らに地蔵尊が祀られている。付近より出土したものという。 付近は西に張り出した「御土居の袖」内に含まれている。このため「洛中」になる。一説に、良質な威徳水があったため、土塁内に取り込まれたともいわれている。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 説明板、『京都大事典』、『京都まちかど遺産めぐり』、『京都市の地名』 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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