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平野御土居・紫野御土居 (京都市北区) Site of Hirano-Odoi |
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平野御土居 | 平野御土居 | |
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![]() 平野御土居 ![]() 「史跡 御土居」の石標、平野御土居、 ![]() 京都市の説明板、平野御土居 ![]() 石仏、平野御土居 ![]() 平野御土居 ![]() 平野御土居 ![]() 平野御土居、天神川(左端)、OpenStreetMap Japan ![]() ![]() 紫野御土居 ![]() 紫野御土居 ![]() 紫野御土居 ![]() 紫野御土居 ![]() 西土居町の住所板 ![]() 【参照】紙屋川(天神川)、寺之内橋付近 ![]() 【参照】延命地蔵大菩薩の石仏群(北区北町) ![]() 延命地蔵大菩薩 ![]() 延命地蔵大菩薩 |
北野天満宮北に「史跡 御土居(しせき-おどい)」の石標が立つ。 安土・桃山時代に、豊臣秀吉が築造させた御土居(お土居)史跡のうち、紙屋川(天神川)の東には、平野御土居(ひらの-おどい)が築造された。現在も土塁が保存されており、国の史跡に指定されている。 ◆歴史年表 安土・桃山時代、1591年、閏1-2月、豊臣秀吉は御土居(お土居)を築造した。 近代、1919年、史蹟名勝天然祈念物保存法により史蹟に指定される。 1930年、7月、この地の御土居は、ほか7ヵ所の御土居とともに国史跡に指定された。 ◆豊臣秀吉 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし、1537-1598)。幼名は日吉丸、初名は木下藤吉郎、小猿と呼ばれた。父・尾張国(愛知県)の百姓、織田信秀の足軽・木下弥右衛門、母・百姓の娘なか(天瑞院)。1551年、家出し、後に今川氏の家臣・松下之綱、1554年、織田信長に仕える。1561年、浅野長勝養女・ねねと結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗った。戦功を重ね、1573年、小谷城主、羽柴姓と筑前守になる。信長の天下統一にともない西国転戦した。1582年、備中高松城の毛利軍と戦いの最中に本能寺の変が起こり、和睦し、軍を返し山崎で明智光秀を討つ。1584年、小牧・長久手で織田信雄、徳川家康の連合軍に敗れる。1585年、紀州根来と雑賀、四国・長宗我部元親を服した。関白に進む。1586年、聚楽第、広寺大仏造営に着手する。太政大臣に昇り豊臣の姓を賜わる。1587年、九州征討し、聚楽第が完成する。10月、北野天満宮で北野大茶湯を催した。1588年、第107代・後陽成天皇が聚楽第行幸、検地、刀狩を行う。1590年、小田原の北条氏直らの征討、朝鮮使を聚楽第に引見した。1591年、利休を自刃させる。1592年、文禄の役を始め、甥の養子・秀次に関白職を譲り、太閤と称した。1593年、側室淀殿に秀頼が生まれ、1595年、秀次を謀反人として切腹させ、妻妾子女らも処刑した。1597年-1598年、朝鮮を攻めた慶長の役に敗れた。1598年、3月、醍醐寺で「醍醐の花見」を行う。8月、伏見城で没した。没後、豊国廟に豊国大明神として祀られた。62歳。 秀吉は京都で「都市改造」を行っている。1585年-1591年、洛中検地・洛中地子免除(1591)、1586年よりの方広寺大仏建設、1586年-1587年、聚楽第・周辺の武家邸宅街建設、1589年、禁裏・公家町の修造整備、1590年、新町割建設(短冊形町割)、1590年、三条大橋などの橋梁・道路建設、1591年、御土居築造、寺院街(寺町・寺之内)建設などになる。 ◆平野御土居・紫野御土居遺構 ◈「平野御土居」(北区平野鳥居前町)は、北野天満宮の北にあり、住宅地に近接して保存されている。戦後に北半分の土塁は消失した。南側は荒廃し、土を盛り直し台形の土塁を修景したという。 現在、遺構は間近に見ることができる。 ◈「紫野御土居」(北区紫野西土居町)も住宅地に隣接している。指定当初は、やや屈曲し、犬走、塁壁なども保存されていたという。規模は土塁の幅25m、高さ4.5m、長さ45mあった。 現代、1964年に宅地開発により大半が破壊され、現在は御土居遺構の東側の一部が残されている。名残の地名「西土居町」に位置している。 ◈近くの寺之内橋(高橋)は紙屋川(天神川)に架けられている。安土・桃山時代、1591年3月に、豊臣秀吉は、この付近より御土居を検分したという。 橋のすぐ北側に「富士垢離場(ふじごりば)が設けられていたという。西国の修験者が行う富士山信仰行事であり、堀の水で身を清めて富士山を遥拝していた。松原橋付近にもあったという。 ◆御土居 室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)後、高倉より東、松原以南は、相次ぐ鴨川の氾濫により荒地になった。 安土・桃山時代、1591年に、豊臣秀吉(1536-1598)は京都の再興・改造を手がける。細川幽斉(1534-1610)、前田玄以(1539-1602)などに命じ、洛中の周囲をめぐらせる堤防・惣構施設の「御土居」の築造させた。諸国大名らにより同年1月に着工になり、閏1月に2カ月で完成したという。(近衛信尹『三藐院記[さんみゃくいんき]』)。また、2-4カ月/5カ月の突貫工事で完成させたともいう。 御土居は、北は上賀茂・鷹ヶ峰、西は紙屋川(天神川)・東寺の西辺、南は東寺南の九条通、東は鴨川西岸の河原町通まで築かれた。当時存在していた聚楽第、京都御所も土塁内側に取り囲んでいる。規模は、東西3.5km、南北8.5km、総延長は22.5kmにもなった。 御土居は、当初「土居堀」と呼ばれた。ほかに「京廻りノ堤」、「新堤」、「惣曲輪(そうぐるわ)」、「土居」などとも呼ばれ、江戸時代には「御土居」と称されるようになる。 御土居の構造は外側に堀(濠)、内側に台形状の土塁を築いた。工法は「掻揚城(かきあげしろ)」が採られ、掘った堀の土を積み上げて土塁を築き、積石・石垣で地盤を固めた。墓石・地蔵なども「礎石」として使われている。なお、当時の構築物では一般的なことだった。掻揚だけでは、土塁を築く土量が不足したとの見方もある。 土塁規模は一定しておらず、高さ3.6-5.4/6m、基底部幅10-20m、頂上部幅4-8m、犬走り1.5-3mあった。土塁頂上は、盛土の保護・強度を増すために竹林が植えられ覆われていた。このため、竹薮の伐採は厳禁された。土塁の外には、堀(幅3.6-18m/12.5-20m、深さ1.5-2.5m)が設けられていた。堀は河川・池・沼などの自然地形も利用して築造されている。堀には水が溜められ、江戸時代には、農業用水としても利用されている。 御土居には「京の七口」と呼ばれる出入口が開けられ、主要な街道に通じていた。出入口は特定されず、当初は10カ所あり、江戸時代前期には40カ所にも増えたという。 「普請太閤」といわれた秀吉の御土居築造の意図は、複合的なものとされる。一般的には、鴨川・紙谷川(天神川)などの氾濫に対する水害対策・防災的な堤防の意図が強かった。さらに、外敵に備える防塁の意味も加わる。平安京以来、京都は九条大路の南以外には羅城は築かれていなかった。御土居により初めて、本格的な城塞により囲まれることになる。 御土居築造により、都の開発は鴨川の間際まで進んだ。また、聚楽第・御所を取り込むように構築されたため、「洛中」・「洛外」の区分を生み洛中範囲の確定に繋がった。軍事的な城壁の役割、権勢誇示という政治的な意味合いもあった。それまでの権力支配(朝廷・公家・寺社)から町衆を分断させ、聚楽第を中心にした新都市の再編・支配が強行されたともいう。1591年の御土居築造が、1592年の文禄の役の前年にあたり、秀吉の朝鮮・明攻略を前提とした首都防衛機能の一環だったともいう。なお、築造に際して、小田原城の城下を模したとする見方もある。 御土居築造に先立ち、新たに「町割(天正町割)」も行われた。1590年に寺院に対し「寺割」が実施される。それまで散在していた寺院を強制移転させ、新たに寺町、寺之内、本願寺などの寺院町を形成させた。これにより、防御・防災、税徴収の効率化、寺院と民衆の結びつきの分断の意味もあったという。 平安京以来の条坊制は、東西南北一町四方(正方形)の区画を基本としていた。これでは、中心部に無駄な空地が生じる。秀吉は一部を除き、これを半町一町の短冊型(長方形)の区割りに再編する。半町毎に、新たな南北の道路(小路)を設けた。この新しい町割により、町家数・人口増加をもたらし、検地の効率も高められた。 御土居の保全は、京都所司代の命により、近郊の農民が駆り出されていた。江戸時代前期、1669年以降は、角倉了以の子・角倉与一(1571-1632)が「土居薮之支配(奉行)」に任じられ、管理権を与えられている。この頃、御土居に繁茂した竹(土居薮)を民間に払い下げている。竹は資材として利用された。 御土居築造から40年ほどで、都の開発が御土居を越えて進行する。鴨川には新たな堤防が築かれ、東側の開発が進み土塁は取り壊された。御土居のうち堤防の役割を果たしていたものを除き、大部分は次第に撤去され、屋敷用地・道路などに転用される。なお、江戸時代中期、元禄期(1688-1704)までは、堀はまだ水堀としては機能していた。その後、築造後100年を経て堀は埋没し、周辺住民の生活廃材の捨て場になった。このため、後の発掘調査により土器・陶磁器、瓦、金属製品、石加工品、木製品などが多数出土している。 近代以降、1870年の京都府の「悉皆開拓」令により、府は土地の払い下げを通達している。以来、御土居の破壊が急速に進行する。「お土居薮地」は、田圃、畑、桑畑、茶畑などに開墾することが奨励された。1945年の第二次大戦後は、土塁遺構の大部分は消失し、現在はごく一部のみが保存されている。 ◆国史跡 近代、1919年の史蹟名勝天然祈念物保存法が施行し、1930年に京都市内の御土居8カ所が国史跡指定地になった。 その後、現代、1965年に北野天満宮境内の1カ所が追加され、現在、9カ所が国史跡指定地になっている。 1.紫竹御土居(鴨川)(北区紫竹上長目町・上堀川町)、2.大宮御土居(北区大宮土居町玄琢下)、3.鷹ヶ峯御土居(北区鷹ヶ峯旧土居町2)、4.鷹ヶ峯御土居(御土居史跡公園)(北区鷹ヶ峯旧土居町3)、5.紫野御土居(北区紫野西土居町)、6.平野御土居(北区平野鳥居前町)、7.北野天満宮(上京区馬喰町)、8.市五郎稲荷神社(中京区西ノ京原町)、9.蘆山寺(上京区来之辺町)になる。 土塁遺構は史跡指定地のほかに、大宮交通公園(北区紫竹北栗栖町3)、北野中学校(中京区西ノ京中保町1-4)を含む4カ所で見られる。 ◆石仏群 ◈ 平野御土居の南端に、石仏30体が祀られている。御土居から出土したという。 ◈ 遺跡の南の北区北町には、かつて御土居から出土したという石仏群が残されている。現在は町内で、延命地蔵大菩薩として祀られている。 いずれも花崗岩製の阿弥陀仏、二尊、地蔵、五輪塔などになる。石仏には室町時代のものも含まれるという。詳細は不明ながら、御土居築造の際に土塁礎として用いられたと推定されている。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *便宜的に御土居通称を使用しています。 *参考文献・資料 『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』、『御土居堀ものがたり』、『洛中洛外』、『秀吉の京をゆく』、『京都の地名検証 2』、『京都の地名検証 3』、『京都大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都・観光文化 時代MAP』、『豊臣秀吉事典』、『御土居跡』、『京都 秀吉の時代-つちの中から』、 『建築家秀吉』、延命地蔵大菩薩の駒札、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、ウェブサイト「御土居跡-京都市」、ウェブサイト「コトバンク」、 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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![]() 紫野御土居 〒603-8314 京都市北区紫野西土居町 |
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