凝華洞跡 (京都御苑) (京都市上京区)  
Ruins of Gyoka-do(Palace)
凝華洞跡 凝華洞跡
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凝華洞(ぎょうかどう) 跡








【参照】1877年頃の凝華洞跡、松の木、燈籠、閑院宮邸跡収納展示館展示パネルより



 京都御苑内の京都御所南に、「凝華洞跡(ぎょうかどう-あと) 」の駒札、木標が立てられている。
 江戸時代にこの地には、第111代・後西天皇の仙洞御所があったという。京都守護職の仮本陣も置かれた。
◆歴史年表 江戸時代、1663年以降、この地に、第111代・後西天皇退位後の仙洞御所があったという。
 幕末、1864年、禁門の変の頃、京都守護職・会津藩主・松平容保はこの地を仮本陣にしたという。
 近代、1870年、8月、内裏内の公家邸宅地は京都府の管轄になる。
 1871年、11月、内裏内の公家町は隣接する町組に分割された。
 1877年-1880年、京都御苑内の華族士族などの土地は京都府により買上げられた。1877年-1883年、京都御所保存・旧観維持のための大内(おおうち)保存事業などで邸内の池は埋められた。
◆後西天皇 江戸時代前期の第111代・後西天皇(ごさい-てんのう、1637-1685)。幼称は秀宮、諱は良仁(ながひと)、別名は高松宮、桃園宮、花町宮。第108代・後水尾天皇の第8皇子、母は櫛笥隆政の娘・逢春門院(ほうしゅんもんいん)藤原隆子、養母は東福門院源和子。1647年、当初は、叔父・高松宮好仁の遺跡を相続し、明子女王を室にした。桃園宮、花町宮と称した。1648年、親王宣下、1654年、異母兄・第110代・後光明天皇が没した。同天皇に皇嗣なく、同天皇の養子・識仁(さとひと)親王(第112代・霊元天皇)も生後間もなかった。公家らが反対し、良仁親王は中継ぎとして践祚した。1656年、即位する。父・後水尾上皇が院政を行う。1657年、明暦の大火、1661年、御所炎上により近衛基熙邸を仮御所にした。諸国での地震、風水害も相次ぎ、幕府は退位を迫った。この朝廷への圧力には、高家の吉良義冬、義央(上野介)が関与したともいう。1663年、識仁親王(霊元天皇)に譲位した。49歳。
 学問に熱心だった。書、茶、華、香道に秀でた。御府の記録類副本を作成させた。1661年、御所炎上で大半の御府蔵書が焼失した。副本は残り「京都御所東山御文庫蔵書」の基になる。和歌、連歌に優れ、御集『水日集』、御選『集外歌仙』、日記『後西院御記』がある。
 追号の「後西院」は、平安時代初期の第53代・淳和天皇の称号「西院帝(さいいんのみかど)」に由来する。経歴が酷似しているとして名付けられた。淳和天皇は、兄と甥の間で即位し、子孫を皇統に残せなかった。「後西天皇」ではなく、「後西院天皇」と呼ぶべきともされた。後西天皇は譲位後に、「天皇」ではなく「後西院」と呼んだ。近代、1926年、「後西天皇」に統一される。
 陵墓は月輪陵(東山区)になる。
◆松平容保 江戸時代後期-近代の大名・松平容保(まつだいら-かたもり、1836-1893)。名は忠誠、通称は銈之允、号は祐堂、芳山、若狭守、肥後守。江戸の生まれ。美濃(岐阜県)・高須藩主・松平義建(よしたつ)の6男。松平容敬(かたたか)の養子になり、1852年、陸奥会津藩藩主・松平(保科)家9代になり、襲封(領地を受け継ぐ)した。1853年、ペリー来航に際し、井伊直弼とともに国書受理に賛成した。1860年、桜田門外の変で直弼の暗殺後、1862年、幕政改革で幕政参与になる。8月、幕府による再三の要請により初代・京都守護職・正四位下に任じられた。12月、会津藩兵を率いて上洛し、金戒光明寺を宿舎にした。朝廷との交渉、配下の新撰組などを使い、将軍家警護、尊王攘夷派志士弾圧など京都の治安維持にあたる。第121代・孝明天皇の信任を受け公武合体を推進した。1863年、八月十八日の政変を実現し、中川宮、薩摩藩、桑名藩と協力し、長州藩などの攘夷親征を計画した尊攘派を京都から追放した。弟の所司代・松平定敬と京都の治安を確保した。参与として、一橋慶喜、松平慶永らと朝政に参画し、公武合体策による国政挽回を図る。内部対立のために失敗した。1864年、禁門の変(蛤御門の変)で、薩摩藩・桑名藩とともに長州藩を撃退する。一時、前福井藩主・松平慶永が2代・京都守護職に就き、すぐに容保が再任される。1865年-1866年、長州征伐に陸軍総裁職(のち軍事総裁職)に就く。慶喜と協力し条約勅許問題などで動く。1867年、薩摩・長州藩の画策により、容保誅戮(ちゅうりく、罪ある者を殺す)の宣旨が出される。11月、大政奉還後、慶喜とともに大坂に退去し、海路、江戸へ逃れた。1868年、1月、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗戦後、慶喜は再挙を呑まず江戸に帰った。新政府は容保が慶喜に次ぐ朝敵とし、奥羽鎮撫総督は会津処分を決定した。5月、これに対抗し、会津で佐幕派の米沢藩、仙台藩など東北30余藩による奥羽越列藩同盟が結成される。容保はその中心になり、東北・北越に転戦し、9月、会津若松城で降伏した。(会津戦争)。その後、鳥取藩、和歌山藩に永預(えいあずけ)になる。1872年、謹慎が解除される。1880年、日光東照宮宮司、上野東照宮祠官を兼務した。59歳。
凝華洞跡 凝華洞(ぎょうかどう)跡は、京都御所の南、仙洞御所の西にある。かつて「御花畑」と呼ばれた。詳細は不明。この地には、江戸時代前期、1663年以降の第111代・後西天皇退位後に仙洞御所があったという。
 幕末、1864年、禁門の変の頃に、京都守護職・会津藩主・松平容保は病になった。胆道を患っていたともいう。容保は第121代・孝明天皇の信任を得ており、朝廷の配慮により、京都御所に近いこの地を仮本陣にしたという。禁門の変時に、長州藩兵は京都守護職の追放を掲げ京都御所に向けて進軍した。容保はここで指揮を執り勝利した。
 付近に丘がありその上に松が植えられていた。その横に、東本願寺が寄進した大燈籠が立てられていた。その南に池があったという。
 近代、明治期、1877年-1883年の御所保存・旧観維持のための「大内(おおうち)保存事業」などで、邸内の池は埋められた。大燈籠は京都御苑内南の九条池畔に移される。1939年-1945年の第二次世界大戦時の金属供出により失われ、現在は台座だけが残されているという。
◆蛤御門の変 蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)は、禁門(きんもん)の変、元治の変、元治甲子の変ともいわれる。
 幕末、1863年、八月十八日の政変で、尊王攘夷を主張する長州藩は、公武合体派の会津藩、薩摩藩らの諸藩兵により京都を追放された。長州藩は朝廷九門の一つである禁門警備の任を免じられ、13代藩主・毛利敬親(たかちか 、慶親)は処罰された。長州には、京都を脱した七卿、真木和泉ら浪士が集結し、藩内では急進派の進発出兵論と慎重論の論争が続く。
 1864年、京都では公武合体派諸侯の連携が破れる。6月、池田屋事件で、長州藩などの志士20数人が新撰組に急襲され、多数の犠牲者が出た。
 長州藩内の慎重論である周布政之助(すふ-まさのすけ)、木戸孝允、高杉晋作らに対し、一挙に急進派の来島又兵衛(くるしま-またべえ)らの勢力が支配的になる。藩主・毛利敬親は、公武合体派排除の形勢立て直しのために、急進派3家老の福原越後、国司信濃(くにし-しなの)、益田右衛門介に軍令状を与えた。来島、久坂玄瑞、真木和泉ら先発隊は、藩兵と諸藩浪士軍ら3000を率いて上京する。兵は山崎・宝積寺、伏見・長州屋敷、嵯峨・天龍寺などに分営した。久留米水天宮の真木和泉の一隊は、山崎に布陣した。長州藩による朝廷への藩主父子の名誉回復、尊攘派7卿の赦免は拒絶された。幕府では、征長令の発令工作が進んでいた。
 7月19日(新暦8月20日)、長州藩兵は世子・毛利元徳(定広)の率いる本隊の到着前に、各隊が京都守護職の追放を掲げ市中に進軍開始した。伏見・福原隊は早くに敗退する。天龍寺を発した国司隊は京都御所に進軍した。伏見とともに、京都御所の蛤御門、堺町御門付近で戦闘が始まる。長州勢は、朝廷警備に当たっ京都守護職・松平容保の率いる会津、桑名、薩摩、大垣ら諸藩兵3200と戦闘に入った。来島らは蛤御門に迫り最も激戦地になる。長州勢は最初は優位に立った。その後、薩摩藩兵の来襲により敗退し、昼までに長州藩は敗北した。来島は戦死、久坂、真木らは自刃している。
 戦いで京都の半分の家屋が焼失する大火(どんどん焼け、鉄砲焼け)になった。その後、幕府は朝敵になった長州藩に対し第一次長州征伐の出兵を行う。3家老7参謀は、各々切腹、斬殺に処された。
 なお、大火の混乱に乗じて、六角獄舎の政治犯が斬首されている。
◆イチョウ 凝華洞跡近くにイチョウの大木がある。
 高さ24.0m、枝張22.3m、幹周5.28m。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 駒札、『京都大事典』、閑院宮邸跡収納展示館、『岩波講座2 近代日本の文化史 コスモロジーの「近世」』、ウェブサイト「コトバンク」


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