二条家邸跡 (京都市上京区)  
Ruins of residence of Nijō family's Palace
二条家邸跡 二条家邸跡
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「二条家邸跡」の石標


焼けた柱跡の残る礎石


「内裏之図」、石標の移置は赤色の丸印部分、二条家はその上になる。


白壁の土塀、二条家邸の遺構
 同志社女子大学東門脇に「二条家邸跡(にじょうけ-てい-あと)」の石標と礎石がある。
 二条家は五摂家の一つであり、この地には、二条家本邸(今出川邸)が置かれていた。
◆歴史年表 江戸時代初期、二条家邸は内裏(京都御所)の南に隣接していた。
 1661年、二条家邸宅(本邸)は、今出川通の北側の現在地に移転する。
 1663年、第112代・霊元天皇は第113代・後西天皇に譲位した。後西天皇の院御所用地として二条家の旧地があてられた。 
 1837年、現在地付近に二条家が描かれている。(「禁闕内外全図」)
 1864年、3月、第14代将軍・徳川家茂が二条邸を訪れ、公武合体を印象付けた。将軍後見職・一橋慶喜、政事総裁職・松平直克(川越藩主) らも随行した。
 近代、1877年、敷地西半分を同志社が取得した。
 現代、1946年、東半分を同志社が取得し、現在は同志社女子大学校地になっている。
 2013年、同志社女子大学が石標を立てている。
◆二条良実 鎌倉時代前期-中期の公卿・二条良実(にじょう-よしざね、1216-1270)。号は普光園院(ふこうおんいん)、法名は行空。父は九条道家、母は西園寺公経(きんつね)の娘・倫子(りんし)。1226年、元服、左大臣、1229年、従三位、権中納言、春宮権大夫兼左近衛大将、権大納言、内大臣、右大臣などを歴任した。1238年、従一位、左大臣。1242年、関白、氏長者になった。父・道家が弟・実経(さねつね)を寵愛し不和になる。1246年、関白を辞し実経に譲る。同年、名越氏の乱、1247年、三浦氏の乱に関連し、父、前将軍・九条頼経が絡んだとして北条氏は九条家と絶縁した。以来、九条家が実権を失う。良実は北条氏に内通し免れた。父に義絶され、所領分配も受けずに一家をたてる。1261年、関白に還任した。1265年、関白を辞し、1270年、出家する。55歳。
 五摂家の一つ二条家の祖になる。
◆二条道平 鎌倉時代後期-南北朝時代の公卿・歌人・二条道平(にじょう-みちひら、1288/1287-1335)。後光明照院殿。父は兼基、母は藤原為顕(ためあき)の娘・宣子(せんし)、子に良基。1295年、従三位。内大臣、右大臣を経て、1313年、左大臣、1314年、従一位になる。1316年、関白、氏長者になった。1318年、関白を辞した。1327年-1330年、再び関白になる。第96代・後醍醐天皇の第2次討幕運動に関与し、1331-1333年、元弘の乱に関与したとして、1332年、鎌倉幕府から問責された。父・兼基に預けられる。1333年、隠岐に流されていた後醍醐天皇の討幕運動が成功し、その親政のもとで左大臣に復し、氏長者になった。『新後撰和歌集』、日記『後光明照院関白道平公記』がある。48歳。
 二条家4代になる。
◆二条良基  鎌倉時代後期-南北朝時代の公家・連歌作者・二条良基(にじょう-よしもと、1320-1388)。五湖釣翁、関路老槐、号は後普光園院(ごふこうおんいん)。京都の生まれ。父は二条道平、母は洞院公賢の娘。1328年、従三位、左右大臣を経て、1346年、関白・氏長者になる。1352年、北朝第4代・後光厳天皇の践祚に出仕し、1353年、南朝が京都を奪還した際に、蔵書・家記文書を没収された。1363年、関白に再任される。1376年、准三后。その後、2度関白を務めた。69歳。
 従一位。有職故実に通じ、和歌を頓阿、連歌を救済(ぐさい)に学ぶ。式目を制定し、邸宅で連歌会を催した。『万葉集』、『源氏物語』に興味を持つ。著『筑波問答』『連理秘抄』『十問最秘抄』など多数。紀行文『小島の口ずさみ』は、南朝に京都を追われた後光厳天皇が美濃小島へ逃れた道中、小島滞在を描いた。歴史物語『増鏡』も著作とされる。
 初めは後醍醐天皇に仕え、南北朝分立後は北朝の光明、崇光、後光厳、後円融、後小松の5天皇に仕えた。足利義満の顧問役として宮中の作法を教え、参内に同行し、義満の王権簒奪計画を支えた。
 二条家5代になる。
◆二条師基 鎌倉時代後期-南北朝時代の公家・二条師基(にじょう-もろもと、1301-1365)。光明台院。父は二条兼基、母は源兼任の娘。1312年、従三位に叙せられた。1316年、大納言になる。1335年、西園寺公宗の謀反を知った第96代・後醍醐天皇の命で、兵を率い勅使として後伏見法皇(第93代)を持明院殿から京極殿に移した。1336年、後醍醐天皇から離反した足利尊氏の兵と、丹波大江山、洛中で戦う。内大臣、左大臣を経て、1351年、関白になる。後に出家した。65歳。
 南朝の公家とし、『太平記』にも記されている。子・教基、孫・冬実も南朝方だった。
◆二条満基 南北朝時代-室町時代前期の公卿・二条満基(にじょう-みつもと、1383-1411)。初名は道忠。二条師嗣(もろつぐ)の子。1395年、従三位になる。内大臣を経て、1409年、関白、左大臣になる。従一位。将軍・足利義満の1字をもらい名を改めた。28歳。
 二条家8代になる。
◆二条尹房 室町時代後期の公卿・二条尹房(にじょう-ただふさ、1496-1551)。父は二条尚基(ひさもと)、母は家女房。1497年、父の死により2歳で家督を継ぐ。1511年、従三位。1515年、内大臣、1518年、関白になる。1533年、准三宮。1534年、再び関白、従一位になった。1536年-1541年、加賀国井家荘(石川県)の領家職を巡り勧修寺家と長年争い、知行回復のために井家荘へ下向した。1144年、備後(広島県)に下り、1545年、大内義隆の招きで周防(山口県)に滞在した。1551年、義隆の臣・陶隆房(すえ-はるかた、晴賢)の反乱に巻き込まれ、和睦斡旋も失敗した。次男・良豊、公家・三条公頼らと落ち行く途中に殺害された。56歳。
 二条家13代になる。
◆二条晴良 室町時代後期-安土・桃山時代の公卿・二条晴良(にじょう-はれよし1526-1579)。号は浄明珠院。父は二条尹房(ただふさ)、母は九条尚経の娘。1538年、従三位。その後、内大臣、左大臣、右大臣を経て、1548年、関白になった。1553年、関白を辞した。1566年、准三后になり、1568年、織田信長が京都に入り、再び関白になった。従一位。1570年、足利義昭の命により、信長と浅井長政・朝倉義景連合軍との調停に関り、近江、美濃、越前間に和睦を成立させた。信長は岐阜へ一時撤退する。1576年、信長は二条邸を報恩寺に移し自らの屋敷とした。54歳。
 二条家14代になる。
◆二条昭実 安土・桃山時代-江戸時代前期の公卿・二条昭実(にじょう-あきざね、1556-1619)。二条晴良の長男、母は伏見宮貞敦(さだあつ)親王の長女・位子(いし)女王。1570年、従三位。1584年、左大臣になる。1585年、関白になった。豊臣秀吉が内大臣に任じられ、左大臣を辞した。新たに左大臣に任じられた近衛信尹が、関白職を望み秀吉が裁定する。昭実は秀吉へ関白職を譲渡する。1605年、准三宮。1615年、江戸幕府は「禁中并公家諸法度」を発布し、前将軍・徳川家康、将軍・徳川秀忠、前関白・昭実が連署して出された。評価され関白職に再任される。1619年、関白を辞し、その日に死去した。64歳。
 従一位。公家社会の故実に通じた。二条家15代になる。
◆二条斉敬 江戸時代後期-近代の公卿・二条斉敬(にじょう-なりゆき、1816-1878)。父は斉信の次男、母は水戸藩主・徳川治紀の娘・従子。1824年、元服、1858年、条約調印に反対し、徳川家茂への将軍宣下伝達のために江戸に赴く。大老・井伊直弼への面会は拒絶され、1859年、慎に処せられた。1862年、左大臣、関白、氏長者に補任され右大臣、国事用掛になる。公武合体論を唱えた。1863年、八月十八日の政変で尊攘派を一掃し、関白に就任する。朝彦親王と共に、幕府、徳川慶喜と提携し、長州再征・条約の勅許に尽力した。1864年、会津松平家と二条家とは「両敬の約」を結ぶ。1866年、列参奏上の22廷臣から批判を受け辞表提出し、却下された。慶喜の将軍就任に力を尽くした。1867年、第122代・明治天皇の践祚に伴い摂政になる。王政復古の政変で摂政・五摂家の制が廃絶され、参朝停止の処分を受けた。1868年、処分解除される。1869年、麝香間祗候(じゃこうのましこう)になる。1871 年、隠居した。没後従一位を追贈された。63歳。
 二条家26代になる。
◆二条家 二条家は、藤原氏北家九条流に属し、五摂家(ほかに近衛・九条・一条・鷹司)の一つになる。当主は摂政・関白に就いた。
 二条家は鎌倉時代前期の公卿・九条道家(くじょう-みちいえね、1193-1252)の次男・藤原(二条)良実(よしざね、1216-1270)を家祖にする。東二条院を伝領し二条京極に住み、二条と称した。坊名に因み銅駝(どうだ)とも称した。1242年に良実は関白になり、以後、子孫は摂家と並んだ。
 鎌倉時代-南北朝時代、4代・道平(みちひら、1288-1335)は、第96代・南朝初代・後醍醐天皇の討幕計画に加わり、弟・師基(もろもと、1301-1365)は南朝に仕えた。5代・良基(よしもと、1320-1388)は後に北朝に仕える。良基は連歌師としても知られた。南北朝時代-室町時代の8代・満基(みつもと、1383-1411)は、足利義満(1358-1408)の諱(いみな)一字をもらう。以来、足利・徳川将軍の諱をもらうことが慣例になる。13代・尹房(ただふさ、1496-1551)は、応仁・文明の乱(1467-1477)後の荒廃で知行回復のために地方へ下った。14代・晴良(はれよし、1526-1579)は、織田信長(1534-1582)に重用される。その子・15代・昭実(あきざね、1556-1619)は、豊臣秀吉(1537-1598)に関白職を譲らざるをえなかった。 
 江戸時代に、幕府と二条家は緊密な関係になり、当主は将軍より諱を1字贈られた。
 幕末に、26代・斉敬(なりゆき、1816-1878)は、安政の大獄で謹慎処分を受けた。公武合体派公卿になる。近代になり二条家は公爵を授与された。
◆今出川邸・遺構 江戸時代、1661年に、二条家が今出川邸に移転する。明治維新まで本邸として使われた。
 なお、鴨川の西岸(現在の京都府立医科大学附属病院敷地) にも別邸(下屋敷) があった。
 大学構内の東南隅に残る白壁の土塀(5m)が二条家邸の遺構になる。石標傍に焼けた柱跡の残る礎石、純正館ロビーに、二条家邸跡の出土品一部が展示されている。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 同志社女子大学の説明板、ウェブサイト「同志社女子大学の二条家邸跡と二条斉敬、同志社女子大学」、『京都大事典』、『日本の名家・名門人物系譜総覧』、ウェブサイト「コトバンク」


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