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桜町(桜町屋敷跡・紀貫之邸跡) (京都市上京区) Site of Kino,Tsurayuki Residence |
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桜町(桜町屋敷跡) | 桜町(桜町屋敷跡) |
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![]() 桜町の駒札 ![]() 駒札周辺 ![]() 【参照】紀氏遺跡の石碑(仙洞御所内) |
京都御苑内の仙洞御所南西に、「桜町(さくら-まち)」と記した駒札が立てられている。 この地には、平安時代の歌人・紀貫之(き-の-つらゆき)の邸宅があり、桜町屋敷と呼ばれていたという。 ◆歴史年表 平安時代前期-中期、この地に、歌人・紀貫之(き-の-つらゆき、871?-945?) の邸宅、桜町屋敷があったという。 近代、1875年、10月、紀氏遺蹟碑が歌人・渡忠秋(わたり-ただあき)により、仙洞御所庭園内に立てられた。 ◆紀貫之 平安時代前期-中期の歌人・官吏・紀貫之(き-の-つらゆき、871/872/868?-945/946)。父・望行(もちゆき) 。御書所預(みふみどころあずかり)、内膳典膳、内記、大内記、美濃介、右京亮、玄蕃頭(げんば-の-かみ)などを歴任した。889年?、「寛平御時后宮歌合」に歌を残した。892年/893年以前「是貞親王(これさだのみこ)家歌合」に参加する。40歳代半で従五位下になり、905年、第60代・醍醐天皇の命を受け、最初の勅撰集『古今和歌集』の中心的な撰者になる。選者はほかに従兄・紀友則、凡河内躬恒(おおしこうち-の-みつね)、壬生忠岑(みぶ-の-ただみね)があった。貫之は仮名序を執筆する。この頃、屏風歌の名手として多作した。907年、宇多法皇(第59代)の大井川御幸に供奉し和歌を詠み、序文を執筆する。913年、「亭子院(ていじいん)歌合」、「内裏菊合 」に出詠した。930年、土佐守(とさのかみ)に任じられ、醍醐天皇の命により任地で『新撰和歌集』4巻を編纂した。編纂中に天皇が亡くなり、勅撰集にはならなかった。945年、木工権頭(もくのごんのかみ)、従五位上になる。78/79歳?。 三十六歌仙の一人。宇多天皇、醍醐天皇、第61代・朱雀天皇の3天皇に仕える。歌人・藤原兼輔などと親交した。漢詩文、『万葉集』に通じた。仮名散文の先駆である日記文学『土佐日記』(935)は、土佐からの帰郷の船旅を、一行のある女性に仮託して綴っている。仮名文学の創始として、後の女流文学隆盛の契機になる。 歌論『古今和歌集仮名序』、大屏風歌歌群の家集『貫之集』、『伊勢物語』も著したともいう。代表的詠歌に「桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける」、「人はいさ心もしらずふるさとは花ぞむかしのかににほひける(『小倉百人一首』)など。 ◆渡忠秋 江戸時代後期-近代の歌人・渡忠秋(わたり-ただあき、1811-1881)。本姓は鳥居、通称は新太郎、号は楊園、桂蔭。近江(滋賀県)の生まれ。香川景樹(かげき)、三条実美(さねとみ)に学ぶ。1874年、宮内省の歌道御用掛を命じられた。宮中御歌所に出仕した。晩年、岡崎、嵯峨に住む。著『桂蔭』『楊園詠藻』など。71歳。 墓は南禅寺・天授庵(左京区)、祇王寺(右京区)にある。 ◆桜町屋敷跡 平安時代前期-中期の歌人・紀貫之(きの-つらゆき)の邸宅は、桜町屋敷と呼ばれた。南庭に多くの桜が植えてあり、これに因み桜町といわれたという。 桜町邸地についてはよくわかっていない。所在推定地については2説ある。 ◈鎌倉時代後期-南北朝時代の公卿・洞院公賢(とういん-きんかた、1291-1360)の編による『拾芥抄(しゅうがいしょう)/拾芥略要抄/略要抄』(鎌倉時代/室町時代)には、中御門の北、万里小路の東とある。 仙洞御所の南西、現在の富小路広場西半分になる。駒札はこの付近に立てられている。 ◈平安時代後期-鎌倉時代前期の歌人・鴨長明(1155?-1216)の著『無明抄(むみょうしょう)』(鎌倉時代前期、1210年頃?)には、ある人の説として勘解由小路(かでのこうじ)の北、富小路の東の一角にあったともいう。 仙洞御所の南部になり、庭園内の南池の南半分に当たる。 ◈「紀氏遺蹟碑(きし-いせき-ひ)」は、桜町屋敷跡に関わる碑という。仙洞御所内の庭園北池を前にした北の築山付近にある。阿古瀬淵(あこせがふち)の傍らになる。鷹司小路の南、富小路の東に当たった。 近代、1875年に、江戸時代中期-後期の歌人・香川景樹(1768-1843)の遺志を継いだ、江戸時代後期-近代の歌人・渡忠秋(わたり-ただあき、1811-1881)が碑を立てた。撰文も渡、銘文は三条西秀知(さんじょう-にしすえとも、?-?)による。 撰文によると、渡は『無名抄』・『拾昔抄(拾芥抄)』などを考慮し、桜町の藐姑射の山(はこやのやま、仙洞御所、仙洞)に定めたという。碑の下には、神霊代として鏡を埋めたという。鏡は、土佐国の松山寺に古くより伝わる貫之の筆跡「月」の一字を写した。鏡の裏に一字を鋳り神霊代と崇め祀られていたという。 碑がこの地に立てられたのは、当時の渡が、宮中御歌所に出仕していた関係によるともいう。なお、碑の位置は『拾芥抄』説の北東、『無明抄』説の北に当たる。 高さ1.2m、幅50㎝、厚さ30㎝、青みを帯びた花崗岩製。 ◆源氏物語 平安時代後期の紫式部著の『源氏物語』(1004年-1012年頃成立?)に登場する中川邸、紀伊守中川家もこの近くに想定されていたという。 中川邸は、末摘花(すえつむはな)の邸宅であり、桐壷帝の麗景殿(れいけいでん)女御とその妹・花散里(はなちるさと)が暮らした。 紀伊守中川家は、源氏が空蝉(うつせみ)と出合った場所になる。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 駒札、『京都大事典』、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、『上京乃史蹟 48号』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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