金戒光明寺 (黒谷) (京都市左京区) 
Konkai-komyo-ji Temple 
金戒光明寺 金戒光明寺
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総門




総門、寺号板


総門、「京都守護職本陣舊蹟(旧跡)」


総門脇、「會津藩殉難者墓所」の石標



総門


門(府指定文化財)


門、後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額





門、石の礎盤の上に巨大な欅の柱が立てられてい
る。








せいしまるさま勢至丸は法然の幼名






御影堂


御影堂


御影堂









奥に大方丈がある。


ウメ


ウメ






大方丈、1936年再建された。


大方丈


大方丈






大方丈前庭




「紫雲の庭」


紫雲の庭「幼少時代・美作の国」



紫雲の庭「修行時代・比叡山延暦寺」



紫雲の庭「浄土開宗・寺門隆盛」



紫雲の庭、「いけのみつ 人のこころに にたりけり にこりすむこと さためなければ」、法然作



茶室「紫雲亭」



茶室「花峯庵」



カエデの紅葉


経堂


経堂


阿弥陀堂


阿弥陀堂


阿弥陀堂、本尊・阿弥陀如来


阿弥陀堂、天龍図



吉備観音堂


文殊塔(三重塔)
 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、法然ゆかりの寺として知られている。江戸時代には、幕府より城郭(城構え)として知恩院とともに重要視されていた。
 号は紫雲山(しうくんざん)、「黒谷(くろだに/くろたに)」「黒谷さん」「黒谷堂」とも呼ばれている。
 浄土宗鎮西(ちんぜい)派、本尊は阿弥陀如来像。
 法然上人(圓光大師)二十五霊場第24番。かつては浄土宗四ヵ本山(ほかに知恩院、清浄華院、知恩寺)の一つに数えられていた。阿弥陀堂は京都四十八願所の第25番霊場。御影堂の千手観世音菩薩(吉備観音)は洛陽三十三観音巡礼第6番札所、鎌倉時代の京都七観音の一つ。文殊菩薩は知恵の寺めぐり(京都文殊霊場)の1番。京の通称寺霊場24番、黒谷さん。
 極楽往生、安産、立身出世、吉備観音は所願成就、道中守護、交通安全の信仰がある。文殊菩薩は、学業成就、知恵授け、合格祈願の信仰を集める。御朱印(4種類)が授けられる。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 かつてこの地は、栗原岡(くりはらのおか)と呼ばれ、比叡山延暦寺の寺領(白河禅房)だった。また、天台僧で、法然の師・叡空の所領地だったともいう。
 平安時代、1175年、比叡山を下りた法然がこの地の禅房を譲り受けた。白川の地に庵を結び、念仏道場としたのが始まりという。その後、法然は洛東の吉水に移る。その後も、この地の草庵との間を行き来した。
 鎌倉時代、1212年、法然没後も、寺は浄土宗の念仏道場として栄えた。弟子の2世・信空(しんくう、1146-1228)に引き継がれた。黒谷別所の坊を移したため、以後、「新黒谷」、地名より「白河禅房」とも呼ばれた。3世・湛空(1176-1253)、4世・恵尋に引き継がれる。
 5世・恵顗(えがい、?-1301)の時、仏殿、御影堂などが建立され寺観が整う。紫雲山光明寺と称した。
 8世・運空(?-1382)の時、北朝第4代・後光厳源天皇に円頓戒を授け、「金戒」の二字を贈られ金戒光明寺と寺号を改めた。
 9世・僧然定玄の時、清浄華院を兼帯する。第100代・北朝第6代・後小松天皇(在位1382-1412)の帰依を得る。
 室町時代、1428年、10世・恵照等煕の時、後小松天皇により「浄土真宗最初門」の勅願を贈られる。
 1429年、香衣を許される。
 永亨年間(1429-1441)、6代将軍・足利義教に請して、僧の受戒の道場になる。
 1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)では、東岩倉の合戦の兵火により、ほとんどの堂舎を焼失した。(『武家年代記』)。その後、衰微した。
 永正年間(1504-1521)、17世・極誉理聖により再興勧進が行われる。鎮西義になる。(「金戒光明寺勧進帳」)
 安土・桃山時代、1574年、織田信長による禁制が出される。
 1585年、羽柴秀吉による寺領130万石の朱印状が出される。(「金戒光明寺文書」)
 江戸時代、浄土宗四箇本山の一つとして、知恩院に次いで栄える。
 1605年、阿弥陀堂は豊臣秀頼により再建された。方広寺大仏殿建立の余材によるという。
 1610年、紫衣の寺になる。
 1613年、1612年とも、御影堂が焼失した。(『舜日記』)。徳川秀忠により130万石の寺領安堵される。(『本光国師日記』)
 1634年、1633年とも、豊永宗如は徳川秀忠の菩提を弔うために三重塔を建立した。中山文殊が本尊として遷される。(『黒谷金塔記』)
 1689年、経堂が建立される。(寄進札)
 1776年、御影堂、大方丈、庫裏などを焼失した。(『続史愚抄』)
 寛永年間(1789-1801)、再興される。
 1860年、山門が建立された。(『坊目誌』)
 江戸時代末期、1862年、市中の治安維持、警護のために京都守護職の本陣が当寺に置かれた。最後の会津藩主・松平容保は1000人の家臣を従え入洛し、本陣となった黒谷金戒光明寺に入る。(『野宮定功日記』『寥誉上人御代日鑑』)
 近代、1868年、王政復古の大号令後、京都守護職が廃止になる。
 1871年、上知令により寺領が没収された。
 1934年、本堂、勅使門、大方丈などを焼失する。
 1936年、大方丈が再建された。
 1944年、現在の本堂が建立される。
 現代、2008年、文殊騎獅像、眷属4体を御影堂に遷座し開眼法要を行う。
◆法然 平安時代末期-鎌時代前期の浄土宗の僧・法然(ほうねん、1133-1212)。勢至丸。美作国に生まれた。父は押領使・漆間時国、母は秦氏。1141年、9歳の時、父は夜襲により目前で殺される。父は出家を遺言する。天台宗菩提寺の叔父・観覚のもとに預けられた。1145年、13歳で比叡山に上り、西塔北谷の持法(宝)房源光に師事、1147年、皇円の下で出家受戒。1150年、西塔黒谷慈眼坊叡空の庵室に入り、浄土宗に傾く。法然房源空と名乗る。1156年、比叡山を下り清凉寺に参籠、南都学匠も歴訪する。再び比叡山に戻り、黒谷報恩蔵で20年に渡り一切経を5回読む。1175年、唐の浄土宗の祖・善導の「観無量寿経疏」の称名念仏を知り、比叡山を下りた。善導は、阿弥陀仏の誓った本願を信じ、ひたすら念仏を唱えれば、善人悪人を問わず、阿弥陀仏の力により必ず阿弥陀仏の浄土である極楽に生まれ変わることができるとした。西山、広谷(後の粟生光明寺)の念仏の聖・遊蓮房円照に住した。東山吉水に草庵(吉水の善坊)に移り、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える専修念仏の道場となる。1186年(1189年とも)、天台僧らとの大原談義で専修念仏を説く。1190年、東大寺で浄土三部経を講じる。1201年、親鸞が入門した。1204年、延暦寺衆徒による専修念仏停止を天台座主に要請した、「元久の法難」が起きる。「七箇条制誡」を定め、弟子190人の連署得て天台座主に提出する。1206年、後鳥羽上皇(第82代)の寵愛した女官(鈴虫、松虫)らが出家した事件、「承元(建永)の法難」により、専修念仏の停止(ちょうじ)となり、1207年、法然は四国・讃岐へ流罪となる。10か月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住み、1211年、ようやく帰京した。草庵は荒れ果て、青蓮院の慈円僧正により、大谷の禅房(勢至堂付近)に移る。翌1212年ここで亡くなった。『選択本願念仏集』(1198)、遺言書『一枚起草文』(1212)などを著す。
 法然は、源信と善導の思想的な影響を受けている。法然は、あらゆる階層、性別に関係なく専修念仏行、口称名号の念仏により、極楽往生を願う者は救済されると説き、既存の仏教で救われる対象ではない人々に希望をもたらした。
◆信空 平安時代後期-鎌倉時代前期の浄土宗の僧・信空(しんくう、1146-1228)。父は藤原行隆。房号は法蓮房。白川上人。比叡山黒谷・叡空に円頓菩薩戒を受ける。兄弟子・法然に浄土教学を学ぶ。1204年、天台宗の浄土門に対する弾圧に関し、法然が示した「七箇条制戒」の執筆。法然流罪の際に留守を預かる。法然没後、黒谷本坊、白川本坊や聖教類を託された。白川門徒の派祖。
◆熊谷直実 平安時代後期-鎌倉時代の武士・熊谷直実(くまがい なおざね、1141-1208)。武蔵国に生まれた。幼くして父・直貞を亡くし、兄とともに叔父・久下直光に養育された。平知盛に仕える。1180年、石橋山の戦で、平家方として源頼朝を攻め、その後、頼朝の配下となる。佐竹秀義の成敗の功により、本領・熊谷郷の地頭職に補任された。1184年、義経に従い宇治川、壇ノ浦、一ノ谷と転戦、16歳の平敦盛(清盛の弟・経盛の子)を討った。1187年、鶴岡流鏑馬所役を怠ったとのかどで領地を減じられる。1192年、直光との領地争いでの頼朝裁決を不当として、吉水の法然の門に入り、出家、法力坊蓮生と改名した。1196年、鎌倉に戻り頼朝に伝道兵法を説く。その後、帰洛、晩年は武蔵国で暮らし、没したとも、東山の草庵で没したともいう。
◆崇源院 安土・桃山時代-江戸時代の女性・崇源院(すうげんいん、1573-1626)。お江与、お江(ごう)、小督(おごう)、諱は達子。父は近江小谷城主・浅井長政。母は織田信長の妹・小谷(おだに)の方の3女。姉は淀君。1573年、信長に包囲された小谷城落城の際、母、二人の姉、お茶々(豊臣秀吉側室淀殿)、初(京極高次室常高院)とともに脱出し信長に養われる。母の再婚により柴田勝家の越前北庄城に移る。1583年、勝家は秀吉と対立し敗れ自害、母も自害した。姉とともに秀吉に養われ、尾張大野城主佐治一成と結婚、その後、秀吉の意向により離縁した。秀吉の養女になり秀吉の養子・織田秀勝と結婚し、完子(九条幸家室)を儲けた。秀勝は朝鮮に出陣し、1586年に没する。1595年、秀吉の養女格として徳川秀忠と結婚した。家光、忠長、千姫、和子(後水尾天皇中宮東福門院ら2男5女を産む。江戸城で亡くなる。従一位(じゅいちい)を贈られる。
 墓は芝増上寺にある。供養塔は金戒光明寺にあり、春日の局(3代将軍・家光乳母)により建立された。遺髪が納められている。
◆大村達斎 江戸時代後期-近代の医師・大村達斎(?-1889)。石城。美作の生まれ。文久年間(1861-1864)、京都の大村達吉(春城)に師事、養子となる。エルメレンスに西洋医学を学ぶ。静寛院侍医、京都府西洋医取締・医師試験委員、1881年、私立洞酌医学校を設立し校長になる。1883年、医師団体、養神館を結成した。新島襄との間の同志社医学部開設の試みは実現しなかった。黒谷墓地に墓がある。
◆仏像・木像 ◈本尊「阿弥陀如来坐像」は、阿弥陀堂に安置されている。恵心僧都源信(942-1017)の最後の作という。源信は、仏像を彫った鑿(のみ)をその胎内に納め、以後彫ることを止めたという。このため、「のみ納め如来」「お止めの如来」「乙如来(おつにょらい)」ともいわれる。像内にゆかりとされる道具が納められている。
 ◈「法然上人坐像」は、御影堂中央に安置されている。法然75歳の御影(坐像)という。自刻ともいう。坐像は、毎日、昼の法要の際に御簾が開けられる。
 ◈本尊「千手観音立像(吉備観音)」(161.8㎝)(重文)は、御影堂須弥壇脇に安置されている。飛鳥時代、遣唐使・吉備真備(695-775)が、中国から持ち帰った栴檀に刻んだ。吉田中山の吉田寺の本尊として安置されたという。江戸時代、1668年に同寺が廃寺になり、幕命により当山に遷されたという。半丈六の立像、一木造、漆箔。
 逸話が残されている。吉備真備が船で帰国の際に、危うく遭難しかける。「南無観世音菩薩」と唱えて難を逃れた。そのため、行基菩薩に頼み、唐より持ち帰ったという栴檀香木に観音像を刻ませたという。奈良時代、第45代・聖武天皇(在位724-749)の勅願所になり、以後、宮中の安産、肥立回復の信仰を得る。吉備真備が2度の遣唐使として無事に渡海したことから、江戸時代中期以降、民間信仰として航路安全、道中守護などの信仰も集めた。
 また、吉備真備は唐で難解な漢詩を、蜘蛛の手引きにより読むことができたという。蜘蛛は吉備真備が信仰していた長谷観音の化身とした。帰国後に唐より持ち帰った栴檀で観音像を刻み、吉田寺を建立し安置したという。このため、吉備真備は縫箔刺繍(ぬいはく ししゅう)の始祖とも崇められ、刺繍、裁縫をする人々の信仰を集めた。京都七観音・洛陽三十三観音の一つ。木造、漆箔。京都国立博物館寄託。
 ◈「吉備真備坐像」(100㎝)は、江戸時代作、かつて吉田寺にあった。観音像とともに遷される。衣冠姿で、両手で笏を持つ。縫箔刺繍(ぬいはく ししゅう)の始祖とも崇められ、吉備祭(11月15日)には業界関係者が集い法要が執り行われる。
 ◈「文殊菩薩像」(市指定文化財)(像高108.5㎝、全体280㎝)は、御影堂左脇に安置されている。鎌倉時代の運慶(生没年不詳)作といわれる。かつて、2代将軍・徳川秀忠(1579-1632)の菩提のために建立された三重塔(文殊塔)の本尊として安置されていた。岡崎の宝幢寺(ほうどうじ)の本尊遺仏とされる。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)の兵火により廃寺になったため、近くに小堂を建てて遷された。その後、当寺方丈に遷される。江戸時代、1633年に三重塔を建立した際に、本尊として迎えられた。「日本三文殊」(ほかに、丹後・知恩寺の切戸文殊、大和・知足院の安部文殊)の一つとされている。(『雍州府誌』1863年)。
 室町時代、中御門宣胤が参拝し、書法の極意を会得したという。(『宣胤卿記』)。近年、西大寺像に納められていた円筒形の納入品と同様のものが発見されている。渡海文殊形式であり、獅子に乗り白雲の上にある。頭に五馨、右手に宝剣、左手に蓮華を持つ。木造、漆箔。
 文殊菩薩の眷属は、近年新調された等身大の運慶作の「優填王(うてんおう)」、「仏陀波利三蔵(ぶっだはりさんぞう)」、「最勝老人(さいしょうろうじん)」になる。いずれも京都市の文化財指定になっている。なお、「善財童子(ぜんざいどうし)」は、欠失しており新しく造立された。2008年、遷座開眼法要される。
 ◈「宝冠釈迦如来像」、「文殊菩薩」、「普賢菩薩」の釈迦三尊像は、山門楼上に安置されている。釈迦三尊形式は珍しいという。両脇に「十六羅漢像」8体が安置されている。
 ◈「宝冠釈迦如来像」は、経蔵に安置されている。「伝大士像」「黄檗版一切経」も納める。
 ◈「阿弥陀像」は、大方丈に安置されている。法然の念持仏という。
◆五劫思惟阿弥陀如来像 墓地内に石造の「五劫思惟(ごこう しゆい)阿弥陀如来像」がある。法蔵(阿弥陀)は、螺髪(らほつ)が伸び放題になるほどの長時間(五劫)を費やし、衆生救済を考えたとされる。48の願をかけ、大願成就して阿弥陀如来になったという。
 「五劫」の「劫」とは、ヒンドゥー教、神話世界での時間単位になる。長い時間を形容する。一劫とは、一辺40里(157㎞)の大磐岩を、天女が3年に一度舞い降り、羽衣で撫で、岩が擦り切れ消滅するまでの途方もない時間になる。牛車が1日に進む距離、牛の鳴き声が聞こえる距離の8倍ともいう。
 鎌倉時代、奈良・東大寺の高僧・重源(ちょうげん、1121-1206)は、宋より3体の像を持ち帰ったという。そのうちの1体は、五劫院の「五劫思惟阿弥陀如坐像」とされる。
 近年では、石仏の伸び放題の螺髪をアフロヘアに見立てて、「アフロ仏」と呼ばれている。京都の木像としては、大蓮寺、西向寺、地蔵院にも安置されている。
◆建築 境内は高台にあり、洛中のみならず南に淀方面、大坂城まで見渡すことができた。このため、江戸幕府は軍事的拠点、城郭と位置付けた。江戸時代末期、市中の治安維持、警護のための京都守護職(1862-1868)の本陣が境内に置かれた。
 総門、山門、経蔵、鐘楼、阿弥陀堂(本堂)、観音堂、御影堂、方丈、玄関・庫裡、清和殿、清和殿新館、蓮池院・熊谷堂、文殊堂、納骨堂などが建つ。
 ◈「総門」は、高麗門になる。
 ◈「山門(三門)」(府指定文化財)は、室町時代、応永年間(1398-1415)に建立された。応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した。江戸時代、1854年に山廊以外はほぼ完成し、1860年に落慶法要が行われた。禅宗寺院にみられる三門(三解脱門)の様式であり、禅宗以外で用いられているのは、浄土宗の当寺と知恩院にしかないという。伽藍整備に金一万両を寄進した、肥前の大旦那・横尾宗兵衛夫妻の木像も安置されている。鏡天井には、幕末の中殿暁園による「蟠竜図」が描かれている。正面に北朝第6代・歴代第100代・後小松天皇宸筆の勅額「浄土真宗最初門」が掛かる。3間1戸、重層、入母屋造、本瓦葺、左右に山廊付。
 ◈「経蔵」(府指定文化財)は、江戸時代、1689年に建てられた。方3間、重層、宝形造、本瓦葺。
 ◈「阿弥陀堂」(府指定文化財)は、山内で最も古い。江戸時代、1605年に豊臣秀頼により再建された。大仏殿(東山区)の余材によるという。
 ◈「観音堂」は、収蔵庫を兼ねている。
 ◈「鐘楼」(府有形文化財)は、江戸時代、1623年に建立された。切妻屋根東、破風板の拝の懸魚の鰭には、巻込文様の先に天人の彫り物がある。珍しいという。
 ◈「御影堂(大殿)」は、近代、1944年に再建された。内陣正面に法然75歳の御影坐像を安置している。前2間(3.6m)が外陣、奥5間(9m)が内陣。内陣中央に須弥壇。中央板間から左右に2間(3.6m)、1間(1.8m)の脇間がある。後門に花頭窓が開けられている。設計は工学博士・天沼俊一、施工・稲垣啓二による。正面に向拝、7間7間、単層、入母屋造、本瓦葺。
 ◈「大方丈(講堂)」は、近代、1934年に焼失し、1936年(1935年とも)に再建された。6室ある。内陣正面に仏壇、前に仏間がある。左に上段の間、中断の間がある。大廊下は1間半(2.7m)・13間(23.6m)、正面に階段。閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひと しんのう、1865-1945)筆「白河禅房」を掲げる。設計・武田五一、施工・第9代・伊藤平左衛門による。単層、入母屋造、本瓦葺(丸瓦に複弁蓮華文、平瓦に珠文、獅子口に抱茗荷紋)。
 ◈「小方丈(小書院)」は、法然の止住の地とされる。近代、1934年に大方丈とともに焼失した。
 ◈「御廟(ごびょう、勢至堂)」は、上壇の地にあり、法然の遺骨が納められる廟所になる。法然は大谷の地で埋葬された。1227年、大谷廟の破却により、翌年、西山粟生野で信空により荼毘に付された。信空は遺骨を生涯身に着けて離さなかったという。その没後、弟子によりこの地に埋葬された。堂は室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で荒廃し、1573年に五輪の塔が建立された。江戸時代、1676年に堂宇が再建される。中央厨子の下層に五輪の塔、上層に勢至菩薩、脇壇に法然上人涅槃像が安置されている。また、廟前には熊谷蓮生坊(直實)と、熊谷がかつて斬首した平敦盛の供養塔2基が建てられている。
 庫裏屋根に愛嬌ある鬼瓦が載る。目は小さく、鼻が広がる。
 ◈「三重塔(文殊塔)」(重文)は、江戸時代、1633年に建立された。徳川秀忠(お江の夫)の菩提のために建立された。運慶作と伝えられる本尊・文殊菩薩、脇侍像を安置する。方3間、本瓦葺。
◆御廟 御廟(ごびょう、勢至堂)には、法然の遺骨が祀られている。法然は大谷の地で埋葬された。1227年、大谷廟の破却により、鎌倉時代、1228年、西山粟生野で信空により荼毘に付された。信空は遺骨を生涯身に着けて離さなかったという。その没後、弟子によりこの地に埋葬された。堂は、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で荒廃し、1573年に五輪の塔が建立された。江戸時代、1676年に堂宇が再建される。
 中央厨子の下層に五輪の塔、上層に勢至菩薩、脇壇に法然上人涅槃像が安置されている。また、廟前には熊谷蓮生坊(直實)と彼がかつて斬首した平敦盛の供養塔2基が立つ。
◆熊谷堂 
「熊谷堂」は、塔頭・蓮池院(れんちいん)にあり、熊谷直実が草庵を結んだ地ともいう。その子・直家が、北条政子の助言により結んだ洛東蓮生庵の旧地ともいう。
 南北朝時代、1374年、長門の熊谷直保により再建された。江戸時代、1628年、欣誉道楽の時、春日局が改修し、蓮池院熊谷堂と称された。1663年、壇誉順応の時、高倉大納言永慶、中坊長兵衛の寄進により再興される。1734年、塔頭になる。近代、1943年の室戸台風により倒壊し、その後、龍誉俊戒の時再建された。
 平敦盛、敦盛に恋した玉琴姫(玉織姫)の木像、敦盛が所持していたという母衣絹(ほろぎぬ)に、法然が自らの姿を鏡に写して描き、蓮生に与えたという「法然母衣絹の影像」が安置されている。
 敦盛と玉琴姫は、仁和寺御所の管弦の催しで、それぞれ笛と琴を弾いた時に知り合う。源平合戦の一の谷の合戦では、源氏方の熊谷直美は敦盛の首を落とす。玉琴姫は、敦盛没後、新善光寺御影堂(東京極大路揚梅、五条大橋西入ル)の僧・祐寛に帰依・出家し、如佛尼と称した。また、扇を作り、御影堂扇(阿古女扇、あこめおうぎ)と呼ばれ、京扇の祖とされている。
◆庭園 庭園は、2006年に作庭された。大方丈、茶室、庫裡の3つの庭地が共存する形で構成されている。監修は、1994年に73世・法主に就いた坪井俊映(1914-2010)による。
 大方丈の東に、法然の生涯をゆかりの人々、ゆかりの地で表した枯山水式庭園「紫雲の庭」がある。石組と松などで、「幼少時代・美作の国」、「修行時代・比叡山延暦寺」、「浄土開宗・寺門隆盛」が表現されている。
 その北に回遊式池泉庭園が続く。池は古くより存在した。石橋が架けられ、楓などの植栽がある。一部の石組に江戸時代の作風が残る。
 茶室「紫雲亭」前には露地庭がある。ツツジの大刈込がある。
◆文化財  「一枚起請文(法然上人真筆御遺訓)」は、鎌倉時代、1212年、法然最期の2日前に、自ら筆をとって弟子・勢観房源智に与えられたものという。毎年4月23日の御忌法要で一般内拝される。
 「吉田寺再興勧進状」(京都府指定文化財)。
 法然肖像「鏡の御影」。
 「徳川秀忠公画」、織田信長「天下布武(てんかふぶ)」の朱印状。
 1絹本著色「地獄極楽図屏風」二曲一双(重文)(各100.7×84.1㎝)は、4世紀(1301-1400)前半作。大海を挟み、上に極楽と左下に冥界・地獄、右下に人間界を描く。地獄と極楽の双方が描かれるのは珍しい例という。阿弥陀来迎図とともに制作された。臨終に際して用いられたとみられている。京都国立博物館保管。
 絹本著色「山越阿弥陀図」三曲一双(重文)(101.1×83cm)は、二曲屏風の地獄極楽図とともに臨終の行事に用いられた。阿弥陀仏の手に孔があり、五色の糸を通していた。京都国立博物館保管。
 伊藤若冲「群鷄図押絵貼屏風」。文殊菩薩が海を渡る「文殊渡海図」。
 大方丈の障壁画、久保田金僊(1875-1954)筆の「虎」は、襖の開閉により見え方が変化するという。今尾景祥(1903-1993)筆「松の図」。
 山本(新島)八重(1845-1932)が、鶴ヶ城明け渡しの前夜の想いを詠んだ掛け軸がある。「明日の夜は いずくの誰か眺むらむ なれし御城に 残す月影」と詠まれ、84歳自筆の書になる。
◆障壁画 大方丈の今尾景祥(1845-1924)筆「松の間襖絵」は、松の大木を描く。久保田金僊(1875-1954)筆の「虎の間襖絵」がある。
◆寺名 平安時代、1175年、比叡山黒谷で念仏修行していた法然が山を下りた。この地で身を休め念仏を唱えていると、紫雲光明を目にする。法然は草庵を結び、山号を紫雲山とした。当初は、「新黒谷」、「白河禅房」と呼ばれ、浄土宗の道場になる。後に寺号「紫雲山光明寺」になる。
 南北朝時代、8世・運空は、北朝第4代・後光厳天皇に円頓戒(金剛宝戒、本来は天台宗で行われる大乗菩薩の守る戒)を授けた。この際に、天皇より賜った「金戒」により金戒光明寺と呼ばれた。
◆黒谷 当初の俗称として、比叡山の黒谷(黒谷青龍寺)に対して「新黒谷」と呼ばれた。その後、単に「黒谷」と呼ばれるようになる。
 また、法然が「黒谷のご上人」と呼ばれていたことから、「新黒谷」と呼ばれ、やがて「黒谷」と呼ばれるようになったという。
◆吉田寺 吉田寺はかつて吉田南山にあり、奈良時代の第45代・聖武天皇(在位724-749)祈願所に定められた。本尊の千手観音は安産守護の信仰があり、宮中での懐妊の際には勅使が遣わされ、安産祈願、肥立開運祈願が行われていたという。
 江戸時代、1668年に廃寺になる。本尊は幕命により当寺に遷された。
◆熊谷直実の遺跡 境内には、直美ゆかりの遺跡が残されている。極楽橋の架かる蓮池(兜之池、鎧池)の畔に、直美は庵(塔頭・蓮池院)を結んだという。出家の際に、兜を置き、弓の弦を切り、弓を池にかけた形が池の起源という。
 塔頭・蓮池院には、法然が自らの姿を鏡に写し描き、直美が斬首した平敦盛母・衣絹に与えたという「法然母衣絹(ほろぎぬ)の影像」がある。直実の供養塔に並んで敦盛の供養塔が立つ。
 御影堂前の「熊谷直実鎧(よろい)かけの松」は、直美が方丈裏の池で鎧を洗い、この松に鎧をかけて出家したという。
◆塔頭 子院として、浄源寺、善教寺、光安寺・井窪寺、上雲院、金光院、常光院、蓮池院、松樹院、勢至院、西雲院、瑞泉院、長安院、西住院、超覚院、永運院、西翁院、龍光院、顕岑院、栄摂院などがある。
 永運院は、幕末期の山門建立に際して、移転した旧永運院、浄専院、現在地にあった妙蓮院が合併して成立した。
◆京都守護職・新撰組 江戸時代末、幕府は、将軍上洛の際の治安問題を重視した。1862年、市中の治安維持、警護のために京都守護職(1862-1868)の本陣が当寺に置かれる。本来、洛中の治安を守る京都所司代、京都奉行所はすでに機能していなかった。
 12月24日、幕府により再三の要請を受けた会津藩主・松平容保が入洛し、会津藩藩兵1000人が当寺に駐屯した。守護職御預りの壬生浪士組、後の新撰組の屯所は壬生に置かれた。黒谷の地が本陣に選ばれたのは、寺の造りが城構えになっていることによる。境内の背後、東は岡であり、自然の要塞になる。南には小門しか開かれておらず、西には高麗門が城門のように構える。境内より西、南の状況を見渡すこともできた。また、御所までは約2㎞、東海道の粟田口のまでは1.5㎞という距離的な近さもあった。壬生の屯所と黒谷本陣との間では連日、報告・伝達が行われていた。4万坪の広大な境内には兵を駐屯させ寄宿するための、大方丈、宿坊25寺も存在していた。
 1863年、方丈の謁見の間で、松平容保に新撰組の近藤勇、土方歳三が拝謁し、京都残留を願い出ている。このため、当寺は「新撰組発祥の地」といわれている。1863年、八月一八日の政変に際しては、この地より出陣した。1867年、京都守護職が廃止になる。
幕末の京都の推移 江戸時代末、1853年、アメリカのペリーは浦賀に来航する。1854年、「日米和親条約」が締結され、下田、箱館が開港になる。1856年、初代領事・ハリスが着任し、1857年、13代将軍・徳川家定に謁見した。幕府は、通商条約締結のために、老中・堀田正睦を上洛させ、第121代・孝明天皇の勅許を得ようとした。だが、天皇は尊攘論者であり、多くの公卿も反対したため勅許は得られなかった。
 将軍・家定に後継はなく、次期将軍候補をめぐる対立も起きた。一橋慶喜派の徳川斉昭、紀伊慶福(家茂)派の井伊直弼が拮抗する。1858年に直弼は大老になり、慶福を14代将軍に内定させ、一橋派を弾圧した。日米修好通商条約は勅許がないままに調印する。1858年-1859年、直弼は安政の大獄により尊攘派を弾圧する。1860年、直弼は桜田門外の変で暗殺された。幕府は、起死回生のために朝廷に攘夷決行と引き換えに、天皇の妹・和宮を家茂に嫁がせる「公武一体」を謀る。
 京都の治安は悪化しており、尊攘派と鎮撫派の対立が激化していた。1862年、洛中で寺田屋事件が起こり、天誅が頻発したため、幕府は京都守護職を置き、会津藩主・松平容保が任じられた。1863年、家茂入洛時には、将軍家警護のために浪士隊が組織された。だが、尊攘派の清河八郎と近藤勇の対立が起こる。京都に残留した勇らは、京都守護職預かりになり、新たに壬生組を組織した。
 長州藩、公卿・三条実美らは、王政復古を企て幕府を揺るがす。これに対して公武合体派の会津藩、薩摩藩は、1863年に武力クーデタ「八月一八日の政変」を起こした。公武合体派は巻き返しのために御所を固め、御所の堺町御門を警備していた長州藩を解任、代わりに新撰組が名をもらい任に着いた。さらに、長州藩の京都からの退出、関与した公卿の謹慎を命じた。妙法院に集まった長州藩士、7人の公卿は、長州へと向かう。(「七卿落ち」)。以後、公武合体派は、新撰組、見廻組による浪士狩りを行い、京都の治安強化を行う。
◆千日回峯行 比叡山延暦寺の千日回峯行者は、京都大廻りの際に拝する。 
知恵の寺めぐり 当寺は「知恵の寺めぐり(京都文殊霊場)」の1番になる。文殊菩薩は学問、知恵を授けるとして信仰される。1982年に9寺で始まり、1986年より巡拝が始まった。
◆不思議 不思議といわれる伝承がある。
 「一枚起請文」は、別項詳細。/「乙子の阿弥陀(鑿納めの如来)」は、阿弥陀堂の本尊であり、定朝の最後の作、恵心僧都の作ともいう。彫刻の道具一切を胎内に納めた。/「蓮生坊鎧懸の松」は、本堂前にある。熊谷直美が法然の弟子になった時、武士を捨てこの松に鎧をかけた。/「蓮生坊鎧塚」は、鎧を生め塚にしたという。鎧は箱根に埋めたともいう。/「削髪の小絵馬」は、熊谷堂に掲げられていた。子どもの剃髪に際して、嫌がり泣かないように、熊谷直美にあやかり小絵馬を奉納し祈祷してもらった。/「五劫思惟の阿弥の墓」は、文殊塔の石段下にある。頭髪が大きく顔にかかり、頬が垂れる。阿弥陀如来が四十八願を建立した際に、五劫の間、思惟した際の姿という。
 「紫雲石」は、塔頭・西雲院にある。法然が石に腰掛けると紫雲が棚引いた。/「天人影向の井戸」は、塔頭・栄摂院にある。「明星水」とも呼ばれる。
◆蓮池 熊谷直實が蓮池(兜之池)の畔に庵を結んだという。出家の際、兜を置き、弓の弦を切り、弓を池にかけた形が池の起源という。
◆極楽橋・四条橋 
極楽橋は、蓮池(兜之池)に架かる。江戸時代、1628年、春日局は徳川秀忠正室お江与の墓を建立し、参詣する際に橋を寄進した。1641年に豊永堅斎により石橋に変えられた。近年、2004年に改修されている。
 
なお、近くに「堀川四条橋親柱」が保存されている。1961年、チンチン電車の市電への統合に伴い撤去された。この時、京都駅-北野線が廃止されている。 
 御廟(勢至堂)には法然の分骨を納め、廟前には武将・僧の熊谷蓮生坊(直實)(1141-1207)と武将・平敦盛(1169-1184)の供養塔がある。
 徳川家康側室の喜連川頼氏(1580-1630)妻、家康側室・お亀の方(1573-1642)、家康側室・阿茶局(1554-1637)。
 小督・崇源院(徳川秀忠夫人・浅井長政娘お江)(1573-1626)の供養塔は春日の局(3代将軍・家光乳母)により建立された。遺髪が納められている。
 平安時代前期の第56代・清和天皇(850-881)火葬塚。
 
江戸時代後期の画家・日根対山(ひね たいざん、1813-1869)。
 国学者・山崎闇斎(1619-1682)、国学者・今井似閑(1657-1723)、茶人・藤村庸軒(1613-1699)、筝曲開祖・八橋検校(1614-1685)は、近世箏曲の始祖。茶人・土肥二三(1639-1732)。
 医家・有馬玄哲(1581-1665)、蘭学者・医者・藤林普山(1781-1836)、大村達吉(春城)、医師・大村達斎(石城)、笠原光興(1861-1913)。探検医家・国学者・橘南谿(たちばな なんけい、1753-1805)。政治家・水谷長三郎(1897-1960)。
 山上墓地北東に、「會津藩殉難者墓地」がある。會津松平家が神道であり、7割は神道形式の神霊として葬られている。江戸時代末期、1862年-1867年の間に亡くなった237人、1864年の禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者22人、1868年の鳥羽・伏見の戦いの戦死者150人を祀る慰霊碑(1907年建立)がある。会津藩軍事奉行・林権助ら114人の名を刻んだ碑、藩士の墓など300余りがあるともいう。
 明保野亭事件の会津藩士・柴司(1844-1864)の墓がある。誤認により負傷させた土佐藩士の責任を取り、会津藩と土佐藩の関係修復のために切腹した。21歳。塔頭・西雲寺に侠客・会津小鉄(1833-1885)の墓がある。鳥羽・伏見の戦いで敗れ、放置されていた会津藩士の遺骸を当寺に葬った。子院・顕岑寺に谷川辰蔵(1836頃-1894)、備中国倉敷出身の墓がある。新撰組を脱し、赤報隊に入る。名は井汲恭平となっている。
 京都大学初代総長・木下広次(1851-1910)。
 西雲院付近に、画家・池玉瀾(1727-1784)、歌人・祇園梶子(生没年不詳)、文人・中島棕隠(1779-1855)、日本画家・竹内栖鳳(1864-1942)、本堂東北に官僚・北垣国道(1836-1916)、英文学者・厨川白村(1880-1923)、編纂者・山本臨乗、郷土史家・碓井小三郎(1865-1928)、建築史家・天沼俊一(1876-1947)。
◆八ッ橋 境内墓地に江戸時代の近世筝曲の祖・八橋検校の墓がある。墓参に来る弟子のために、沿道にあった茶店が琴の形に似せた焼き菓子を出した。これが、八ッ橋の発祥になった。
◆映画 時代劇映画「眠狂四郎 炎上剣」(三隅研次、1965年、大映)では、臥龍廊で狂四郎(市川雷蔵)の殺陣が行われた。
 現代劇映画「序の舞」(監督・中島貞夫、1984年、東映)の撮影が行われた。日本画家・上村松園をモデルにしている。母・島村勢以(岡田茉莉子)、娘・津也(少女時代・野口一美)が境内の石段を降りる場面がある。
 時代劇映画「丹下左膳 百万両の壺」(監督・津田豊滋、2004年、日活)では、ちょび安(武井証)が境内西の塔頭・永運院下の坂で壺を抱えて登場する。
◆樹木 室町時代、桜の名所として知られていた。
 「熊谷直実鎧かけの松」(京都市指定保存木)は、クロマツになる。武将・熊谷直実(くまがい なおざね、1141-1207)に因む。直実は、源平の戦いで15歳という敵将・平敦盛(1169-1184)を討ち、その首を取った。1193年、直実は慙愧の念から当寺の法然を訪れ弟子になる。直実は、方丈裏の池(鎧池)で鎧を洗い、この松に鎧をかけ出家したという。鎧は庭に埋められ鎧塚と呼ばれたともいう。鎧は箱根に埋められた、燈籠に造り直されたともいう。庵は蓮池の畔に建てられた。松は2013年に、2代目が枯れ、現在は3代目が植えられている。 
 本堂左の生垣にオオイタビがある。寺務所前のシマモクセイ(区民の誇りの木)、ボダイジュがある。
◆年間行事 節分会(2月2-4日)、春彼岸会(3月)、御忌法要(一枚起請文の一般拝)(4月23日)、御忌法要(法然上人の御真影の一般拝)(4月25日)、十三参り(5月1日-20日)、暁天講座(7月19日-20日)、盆施餓鬼(8月16日)、信空忌(9月9日)、秋彼岸会(9月)、七五三参り(11月1日-15日)、文殊年祭(11月最終日曜日)。
 文殊菩薩祈祷日(毎月18日)、居土林(毎月第2土曜日)、写経会(毎月25月、4月は22日)。

 
*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*室内の写真撮影は禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『拝観の手引』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都大事典』『京都府の歴史散歩 中』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『京都の寺社505を歩く 上』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』『京都・美のこころ』『新選組大事典』『新選組と幕末の京都』『日本の名僧』『増補版 京の医史跡探訪』『京都秘蔵の庭』『京都のご利益手帖』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京都絵になる風景』『京都隠れた史跡100選』『京都の近代化遺産』『京都・観光文化 時代MAP』『京の怪談と七不思議』『極楽の本』『京都 神社と寺院の森』『意外と知らない京都』『あなたの知らない京都府の歴史』『金戒光明寺の四季』『くろ谷金戒光明寺に眠る人びと』『京都を歩こう 洛陽三十三所観音巡礼』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』『京の福神めぐり』『京都の隠れた御朱印ブック』『週刊 日本の美をめぐる 48 地蔵草紙と飢餓草紙』『週刊 日本の仏像 第43号 観音寺 国宝十一面観音と蟹満寺・国宝釈迦如来』『週刊 京都を歩く 28 吉田』、当寺のサイト


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三重塔

三重塔

三重塔

御廟(ごびょう)

御廟

蓮池院

熊谷堂


蓮池(兜之池)

極楽橋

堀川四条橋親柱


鐘楼

鐘楼、梵鐘

清和殿、寺務所 

境内からの市街地の景観

境内から見える大文字山

蓮華院

蓮華院

廟前の熊谷蓮生坊(直實)の供養塔。

廟前の熊谷蓮生坊(直實)がかつて斬首した平敦盛の供養塔。

墓地、五劫(ごこう)思惟阿弥陀如来像(アフロ仏)

墓地、紹誉上人の墓

墓地、清和天皇火葬塚

墓地、筝曲開祖・八橋検校墓

日根対山の墓

墓所から市街地を望む、墓石は一万基という。

墓地、会津藩殉職者墓地

墓地、徳川秀忠正室・お江与の墓、遺髪が納められた供養塔。


「熊谷直実鎧かけの松」、2013年、2代目の松が枯れ、現在は3代目が植えられている。 

【参照】将軍塚より見た境内

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