東本願寺 (京都市下京区) 
Higashihongan-ji Temple
東本願寺 東本願寺
50音索引,Japanese alphabetical order  Home 50音索引,Japanese alphabetical order  Home

御影堂(ごえいどう)門(大門)






蓮華の噴水








御影堂門、山廊


御影堂門


御影堂門、唐獅子


御影堂門




抱牡丹(だきぼたん)の寺紋


玄関門

玄関門


菊の門(勅使門)


菊の門(勅使門)


菊の門(勅使門)





阿弥陀堂門、菊花、桐の紋。


手水舎


御影堂


御影堂、親鸞上人坐像(御真影)


御影堂、軒丸瓦


御影堂、向拝上にある二対の亀型瓦(万年瓦)


御影堂の柱組模型


御影堂


御影堂


御影堂








「尾神嶽殉難」のジオラマ、雪崩に大橇が埋まっている様子。


「尾神嶽殉難」の際に使用された大橇




毛綱


阿弥陀堂


阿弥陀堂




鐘楼


梵鐘




参拝接待所


境内にある大イチョウ


外堀


境内から見た京都タワー


本願寺水道水源地(蹴上)


【参照】本願寺水道の経路、右上に水源地、左下に本願寺、東本願寺と環境を考える市民プロジェクトの説明板より

【参照】本願寺水道の鋼鉄管、東本願寺と環境を考える市民プロジェクトの説明板より


【参照】「大谷派本願寺火防用引水路線図」(1895年頃)、琵琶湖疏水記念館展示パネルより


【参照】本願寺水道「噴水防火大試験」の様子(1897年8月)、東本願寺と環境を考える市民プロジェクトの説明板より
東本願寺(ひがしほんがんじ)は、境内が28000坪(9万2000㎡)の広さを有している。南北400m、東西200mある。正式には「真宗本廟(しんしゅうほんびょう)」、「本願寺」とも呼ばれる。「東本願寺」「お東さん」とも呼ばれる。末寺8500余り、門徒500万人といわれている。 
 真宗大谷派本山。本尊は阿弥陀如来。
 「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン 1つ星観光地」(改訂第4版)に選ばれている。
◆歴史年表 鎌倉時代、1224年、親鸞が『教行信証』を著し、同年を開宗年にする。
 1263年、宗祖・親鸞没後、東山西麓鳥辺野北大谷に石塔が建てられ遺骨が納められた。
 1272年頃、親鸞の末娘・覚信尼(かくしんに)により遺骨を改葬し、東山吉水北(大谷の西)へ移す。(『親鸞聖人絵伝』)。六角の「大谷廟堂」が建てられ、影像が安置された。場所は、鳥辺野北大谷、現在の知恩院三門北の崇泰院付近とされ「元大谷」と呼ばれる。この地は、覚信尼の夫・禅念の敷地であり、廟堂の建物は門徒共有だった。
 1277年、禅念没後、敷地は覚信尼により門徒中に寄進され、覚信尼は初代留守職に就いた。以後、子・覚恵、孫・覚如が相承する。
 1287年、「本願寺」の寺号が記されている。文献初出とされる。(「専修寺文書」)
 1312年、法智発起により廟堂に扁額「専修寺(せんじゅじ)」を掲げ、延暦寺山門の抗議により撤去する。(『存覚上人一代記』)。また、3世・覚如は、墳墓堂の大谷影堂を専修寺にする。だが、比叡山延暦寺の抗議により、後に「本願寺」に改称した。
 1321年、「本願寺」の寺号になる。付文書にその名があり、文献初出とされる。(「本願寺文書」)
 南北朝時代、1333年、宮護親王により祈願所になる。
 1336年、足利尊氏の兵火で焼失した。
 室町時代、1457年、8世・蓮如が継職する。
 1465年、「寛正の法難」では、延暦寺西塔の衆徒により、祇園感神院犬神人の指揮下、大谷本願寺は破却された。以後、蓮如は各地を移動する。
 1466年、近江・金森合戦以来、越前、越中、加賀、奈良、三河、伊勢長島など各所で一向一揆が起きる。
 1469年、大津南別所に顕証寺を建て親鸞影像を遷す。
 1467年、近江堅田に移る。
 1471年、蓮如は越前吉崎に坊舎を建立する。
 1475年、蓮如は越前吉崎を退去した。
 1478年/1480年、蓮如は山科本願寺を建立する。
 1480年、御影堂が完成した。親鸞影像を顕証寺より遷す。
 1496年、蓮如は大坂石山に坊舎(石山本願寺、大坂本願寺)を建立する。
 1532年、山科本願寺は、日蓮宗宗徒と細川晴元(六角定頼とも)により破壊される。(『私心記』)
 1533年/1532年、証如は大坂石山に移る。親鸞聖人木像も遷される。本寺(大坂御坊)と定める。(『私心記』)
 1542年、阿弥陀堂棟上が行われる。
 1559年、11世・顕如の時、本願寺は門跡に列した。
 1570年、顕如は、織田信長より石山本願寺(大坂本願寺)退去を命じられるが拒否する。顕如は、信長と以後11年にわたる石山戦争(石山合戦、1570-1580)を続ける。
 安土・桃山時代、1580年、石山戦争で石山本願寺(大坂本願寺)は敗北し焼失した。長男・教如は抗戦を主張したが、顕如は第106代・正親町天皇の仲介を受け入れ信長と和解し、紀伊鷺森に移る。教如は義絶になる。
 1582年、信長没後、豊臣秀吉は本願寺に好意的な態度を示す。秀吉は大坂天満の土地を与え、ここに本願寺が建立された。
 1583年、和泉貝塚に移る。
 1585年、秀吉は大坂、天満の地を本願寺に寄進し、寺は移る。
 1591年、秀吉は京都・六条堀川に土地を与え、寺は移転した。当初の予定地は、下鳥羽から淀にかけての地域だったという。
 1592年、11世・顕如没後、教如は秀吉により寄進された七条堀川(現在の西本願寺の地)の本願寺門跡になった。その後、母・如春尼が秀吉に提出した「譲り状」に端を発し、秀吉により教如は門主の座を奪われる。阿弥陀堂、御影堂が建立された。(「本願寺文書」)
 1593年、秀吉により、三男・准如(1577-1631)が門主になることが認可される。
 1596年、慶長の大地震により被災している。

 1602年、徳川家康は、隠居していた教如と接触する。本願寺の西、烏丸七条(現在の東本願寺の地)に、12世宗主(現在は門首)・教如の隠居寺が置かれた。家康により方4町が寄進とされ、本願寺(東本願寺)が建立された。別立され、本願寺は東西に分裂した。家康は、本願寺を東西に分裂させ、教団弱体化を謀ったともされている。
 江戸時代、1603年、教如の旧住坊より移築した建物を仮御影堂にした。阿弥陀堂が建てられ、親鸞の形見御真影(形見御影)が上野国厩橋(まやばし)・妙安寺(みょうあんじ)より遷されている。教如は新屋敷・仮御堂に移る。(『粟津日記』『内真記』)。本堂(阿弥陀堂)が建てられ遷仏された。親鸞廟所が建てられた。(『集古雑編』)
 1604年、御影堂が建立される。鐘楼、本堂門、勅使門が建てられる。
 1617年、唯善が大谷本廟を経て鎌倉・常盤に持ち去っていた親鸞影像も遷された。徳川秀忠が了解する。
 1619年、秀忠は、寺地の安堵状を下した。この頃より本願寺と公称した。(『敷地寄進状(武家厳正録)』)
 1641年、13世・宣如の時、徳川家光は土地(東洞院以東六条-七条)100間四方を加増した。御土居まで寺域が拡張し、渉成園も含まれた。
 1652年、御影堂を改築する。幕府は、富士山で大型用材を取り、下付した。
 1653年、宣如は渉成園を開く。
 1658年、14世・琢如の時、御影堂(大師堂)が改築される。(「明暦・寛文度再建」)
 1665年、15世・常如の時、学寮を東坊内(高倉通魚棚上る冨屋町)に創設した。
 1670年、阿弥陀堂(本堂)が建立される。(「明暦・寛文度再建」)
 1678年、学寮講堂(高倉学寮)を枳殻亭内に建立する。
 1774年、「浄土真宗」の公称を、西本願寺と共に幕府に申請する。
 1788年、天明の大火で両堂、経堂、学寮を全焼した。
 1797年、御影堂が再建された。(「寛政度再建」)
 1798年、御影堂が再建されたともいう。阿弥陀堂は拡張再建される。(「寛政度再建」)
 1823年、境内の失火により、両堂、諸殿が焼失した。
 1824年、仮堂を建てる。
 1835年、御影堂、阿弥陀堂が再建される。(「文政度再建」)
 1858年、安政の大火により、両堂、渉成園など焼失している。
 1860年、仮両堂が再建される。(「安政度再建」)
 1863年、徳川慶喜は3カ月にわたり宿舎にあてる。徳川家茂が立ち寄る。勤王派により暗殺された佐幕派・賀川肇(千種有文家臣)の首が、慶喜の元に送りつけられる。寺の用人・大藤幽一叟が暗殺され三条大橋に晒された。
 1864年、禁門の変(蛤御門の変)で両堂、渉成園が焼失した。
 1867年、朝廷に1万両の献金を行う。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈に遭う。
 1869年、北海道開拓を行う。
 1871年、坊官制を廃止、寺務局が開かれた。現如は北海道で「本願寺街道」を開削する。戸籍法改定により、宗門人別帖・寺請制度を廃止する。
 1872年、大教院を設置する。
 1872年-1873年、22世・現如は欧州視察する。
 1875年、島地黙雷は政府に「大教院分離建白書」を提出、大教院は解散する。
 1876年、上海に別院、北京に仮別院を設置した。
 1879年、21世・厳如は両堂再建を発示、用材の献納が始まる。
 1881年、「真宗大谷派」を公称する。
 1883年、両堂の再建のための用材運搬で、越後・尾神嶽(おがみだけ)の雪崩により死者27人、重傷者50人があった。(「尾神嶽殉難」)
 1885年、相続講制度が発足する。
 1891年、清沢満之らは御学館改革を唱えた。
 1894年、7月、東本願寺防火用水工事に着手する。
 1895年、22世・現如の時、両堂が再建され、阿弥陀堂は拡張される。(「明治度再建」)。清沢満之らは寺務改革建白を提出する。(「白川党改革事件)
 1897年、8月、琵琶湖疏水からの防火用水工事「本願寺水道」が完成する。
 1910年、大逆事件に関し、投獄された新宮・浄泉寺の住持・高木顕明を宗派は永久処分になる。
 1911年、黒書院、白書院、御影堂門、阿弥陀堂門、菊の門が完成する。
 1942年-1943年、東本願寺南方美術調査隊は、東南アジア、アンコール遺跡などの美術・学術調査を行った。
 現代、1952年、宗教法人になった。
 1987年、真宗大谷派、本山(本願寺)を合併させる。
 1996年、宗派は浄泉寺の高木顕明の処分を取り消し名誉回復した。
 2003年、御影堂の修復が始まる。
 2010年、御影堂の修復が完成する。
 2012年、阿弥陀堂の修復が始まる。
 2015年、阿弥陀堂の修復が完成した。
◆親鸞 平安時代後期-鎌倉時代中期の僧・親鸞(しんらん、1173-1263)。法名は範宴、綽空、善信、諡号は見真大師。京都の日野(伏見区)に長男として生まれた。父は藤原北家の流れをくむ日野有範。母は源氏の出身。幼くして両親を失う。1181年、叔父・日野範綱に連れられ、1181年、9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度し、範宴(はんねん)と称した。以後、比叡山横川首楞厳院の堂僧として20年間修行を続けた。東塔無動寺谷の大乗院で修業する。1201年、29歳の時、比叡山を下り、六角堂に参籠、師・源空(法然)の導きにより、浄土教に帰依した。1204年、法然が定めた「七箇条制誡」弟子のひとりとして連署する。1205年、法然は『選択本願念仏集』の書写、法然肖像を描くことを許す。1207年、承元(じょうげん)の法難により、専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)にともない、35歳で越後に流罪になり、僧籍剥奪される。禿釈親鸞と自称する。1211年、赦免され、1214年、42歳で妻・恵信尼、子らとともに関東での布教を行った。晩年、1235年頃、恵信尼らと別れ、末娘・覚信尼と京都に戻る。1256年、長男・善鸞を義絶した。弟・尋有の善法坊で亡くなったという。浄土真宗の祖。90歳。
 浄土真宗の教義が体系化された、6巻からなる『教行信証』(1224)などを著した。この年に立教開宗し、「非僧非俗」を宣言した。罪深い身である者は、阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏を唱えることが基本であるとした。絶対他力の自然法爾、悪人こそが本願により救われるという悪人正機を唱えた。
◆蓮如  室町時代前期-後期の浄土真宗の僧・蓮如(れんにょ、1415-1499)。幼名は布袋(丸)、幸亭、法名は兼寿(けんじゅ)、号は信証院、諡号は慧灯(えとう)大師。京都東山大谷の生まれ。第7世・存如(ぞんにょ)の長男、母は祖母(父とも)の侍女という。1420年、6歳の時、母が本願寺を去る。生国の備後鞆ノ浦/豊後望都に帰ったという。継母・如円の下で育つ。青蓮院尊応に学ぶ。1431年、17歳で青蓮院で得度し、中納言・広橋兼郷の猶子になる。比叡山、興福寺大乗院前門跡・経覚に学ぶ。1442年、如了尼と結婚する。1447年、関東に下り、親鸞の遺跡を巡拝した。1449年、父と北陸関東・東北布教に出る。1457年、父の死により本願寺第8世宗主になる。1465年、比叡山衆徒により大谷の御影堂は破却された。近江に逃れる。(寛正の法難)。1468年、延暦寺は堅田を攻撃する。(堅田大責)。1468年/1469年、大津近松に移り、祖像を遷した。1469年、東国に修行に行く。1471年、越前・吉崎に襲撃を避けて道場、吉崎御坊を開く。1473年、『正信偈(しょうしんげ)・和讃』を開版した。1474年、文明の加賀一向一揆が起こり、宗徒暴発を諫めた。1475年、一向一揆に敗走し、河内出口に向かう。1478年、山科に移る。1483年、山科本願寺を建立し、本願寺を再興し布教を続けた。1488年、長亨の加賀一揆が起こる。1489年、退隠し、5男・実如(じつにょ)に本願寺住持職を譲り、山科本願寺南殿に隠居した。1496年、摂津大坂石山に坊舎石山別院(石山本願寺、大坂御坊)を建て妻子と隠棲した。1499年、山科本願寺に戻り亡くなる。85歳。
 浄土真宗中興の祖。蓮如は1461年以後、現世利益ではなく、救われて仏になること、師による恩ではなく教説による仏恩を説き、布教に平易な教示の文章『御文(おふみ、東本願寺)/御文章(ごぶんしょう、西本願寺)』を用いた。「南無阿弥陀仏」などと書かれた掛け軸の「御名号(おみょうごう)」、門徒の組織である講、親鸞の教えの木版印刷などを通じた布教により教団の急拡大を行った。近代、1882年に慧燈大師と勅諡された。
 墓は山科本願寺寺内町跡(山科区)にある。
◆恵信尼 平安時代後期-鎌倉時代中期の女性・恵信尼(えしんに、1182-1268?)。筑前(ちくせん)。越後介・兵部大輔・三善為教の娘ともいう。1207年、29歳の頃、越後流罪中の親鸞と結婚した。京都だったともいう。1211年、越後で明信を産む。赦免された親鸞と共に、1214年、一家で関東に赴く。上野国から常陸国に移住した。1216年頃、京都に移る。1224年、末女・覚信尼が生まれる。1234年、親鸞の帰京時に恵信尼も帰京したともいう。直接越後に赴いたともいう。1254年以前、越後に下り、覚信尼に下人を譲る。1256年、親鸞は子・善鸞を義絶した。恵信尼は覚信尼に下人の譲状を送り、再び譲状を送る。1261年、病いになる。1268年、越後に没した。87歳?。
 3男3女、小黒女房(こぐろにょうぼう)、善鸞(ぜんらん)、明信(みょうしん)、益方(ますかた)、高野禅尼(こうやぜんに)、覚信尼(かくしんに)を産む。親鸞の妻は恵信尼一人とも複数ともいう。子・善鸞は実子とも、異なるともいう。親鸞の関東からの帰京に際し恵信尼も帰京した、居留したともいう。恵信尼の晩年は国府辺、板倉、とひたのまきにあったともいう。
 1921年、西本願寺の宝物庫から恵信尼の書状「恵信尼消息」 10通(1256-1268)が発見された。晩年の恵信尼が越後より、京都の娘・覚信尼に宛てた書状だった。
◆覚如 鎌倉時代中期-南北朝時代の浄土真宗の僧・覚如(かくにょ、1271-1351)。法名は宗昭、別号は毫摂。覚恵の長男。親鸞の曾孫。浄土真宗本願寺3世。善鸞の子・如信に学ぶ。1310年、親鸞の墓所、大谷廟堂の留守職に就任、本願寺と改称した。「法然-親鸞-如信」三代伝持を主張し、本願寺の実質的な開祖になる。著『口伝鈔』『「親鸞伝絵』。82歳。
◆顕如 室町時代後期-安土・桃山時代の浄土真宗の僧・顕如(けんにょ、1543-1592)。顯如、名は光佐。摂津国(大阪府)石山に生まれる。父は本願寺10世・証如、母は顕能尼。本願寺11世。1554年、12歳で継職、祖母・慶寿院(鎮永)の補佐を受ける。1559年、門跡に就く。1570年、織田信長の摂津への進軍により敵対した。毛利氏の援助を受け、10年の戦(石山合戦)を継続した。1580年、天皇の仲介により和睦、信長に明け渡す。紀伊国鷺森に退去した。長男・教如がこれに反対し、東西分裂の遠因になる。1591年、豊臣秀吉により京都堀川七条に寺地寄進を受け、1592年、本願寺を再興した。京都に没した。50歳。
◆教如 室町時代後期-江戸時代前期の浄土真宗の僧・教如(きょうにょ、1558-1614)。諱は光寿、信浄院。摂津国(大阪府)に生まれる。本願寺顕如と如春尼の子。本願寺12世。1570年以来、織田信長との石山合戦末期に父を補佐した。1580年、信長との和議により父は本願寺を退去した。教如は、和議に不服として籠城を続けた。父に義絶され、東西分裂の遠因になる。1592年、父の死去により本願寺12世を継職した。だが、1593年、豊臣秀吉の命により隠居させられ、弟・准如に跡を譲った。徳川家康に庇護され、1598年、家康により東六条に寺地寄進を受け東本願寺を別立した。82歳。
◆准如 安土・桃山時代-江戸時代前期の浄土真宗の僧・准如(じゅんにょ、1577-1631)。法名は光昭、号は理光院。 父は顕如、母は如春尼の4男。1593年、豊臣秀吉の命で長兄・教如に代わり、本願寺(西本願寺)12世を継承し、東西分裂した。大坂・津村別院、江戸・築地別院を創建した。54歳。
◆厳如
 江戸時代後期-近代の浄土真宗僧・厳如(1817-1894)。大谷光勝(おおたに-こうしょう) 、法名は厳如、号は愚皐。京都の生まれ。東本願寺20世・達如(大谷光朗)の3男。母は家女房・玉浦(梅ノ井)。近衛忠煕の猶子。1828年、得度する。1841年、兄・宝如の死去に伴い、1846年、父の隠退により真宗大谷派21世になり、諱・光勝、法名・厳如に改めた。維新後、明治政府の仏教政策の大教院体制に反対し、真宗の統一管長職に就き、真宗の大教院からの分離独立を実現した。北海道の開教に尽力し、1858年、箱館・浄玄寺を御坊として開教する。1869年、維新政府に応じ開拓事業に着手した。1870年、長男・光塋(現如)を派遣する。1872年、伯爵に列した。1879年、幕末に焼失した阿弥陀堂、御影堂の再建を推進する。1883年、延仁寺を再興する。1885年、門跡号を復した。海外布教し、上海、釜山に別院を設ける。78歳。
◆清沢満之 江戸時代後期-近代の宗教家・清沢満之(きよざわ-まんし、1863-1903)。幼名は満之助、諱は賢了、号は現誠、建峰、骸骨など。名古屋(尾張)藩士徳永永則の子に生まれる。1878年、真宗大谷派で得度、東本願寺育英教校、東京大学哲学科、大学院に進む。井上円了らの哲学会に参加する。1888年、京都府尋常中学校の校長に就任、西方寺(愛知県大浜)に入寺、隠棲した。1895年、教学振興の東本願寺学事改革(白川党改革事件)を建白するが2年ほどで頓挫した。1900年、本郷に私塾「浩々洞」を開き、多田鼎、佐々木月樵、暁烏敏らと求道の共同生活をし、雑誌『精神界』を刊行、「精神主義」を提唱した。1901年、真宗大学(大谷大学)の初代学監(学長)に就任、1902年、辞職した。西方寺で亡くなる。41歳。
◆伊藤平左衛門 江戸時代後期-近代の棟梁・伊藤平左衛門(いとう-へいざえもん、1829-1913)。名は守道、第9代・伊藤平左衛門。尾張(愛知県)の生まれ。家は代々尾張藩作事方を務めた。父親の下で修業し、18歳で高野山の金堂建築に従事した。洋風建築、清国の古刹に学ぶ。内国勧業博覧会、パリの万国博覧会で受賞した。1896年、帝室技芸員になる。洋風建築としては旧見付学校(静岡県)、旧愛知県庁舎、社寺は東本願寺御影堂・阿弥陀堂、旧築地本願寺などがある。85歳。
◆杉本哲郎 近現代の日本画家・杉本哲郎(すぎもと-てつお、1899-1985)。大津市の生まれ。1913年、画塾・早苗会に入塾、京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校に進む。1922年、帝展に「近江富士」が初入選した。1923年、研究会白光社を結成、1923年、朝鮮、満州などを旅行。1935年、仏教美術の研究に着手し、高楠順次郎、松本文三郎に学ぶ。1937年、外務省文化事業部嘱託としてインド、1938年、セイロン、1940年、満州史跡調査員としてモンゴルでの壁画模写に従事する。1943年、東本願寺南方仏教美術調査隊隊長として、インドなどの仏教美術を調査する。1951年、インド・シャンチニケータン大学客員教授。1944年、東本願寺津村別院壁画「無明と寂光」を完成する。1950年、各国を巡り、ゾロアスター教など各宗教を研究する。1978年、壁画「神々の座-ヒマラヤ」を完成した。85歳。
◆仏像・木像 ◈御影堂内陣本間中央の厨子内に「親鸞の御真影(形見御真影、形見御影)」が安置されている。1603年、上野国厩橋(まやばし)・妙安寺(みょうあんじ)より遷されている。徳川家康により寄進された。
 
歴代門首の御影、阿弥陀如来の働きを表すとされる十字名号「帰命尽十方無碍光如来」、九字名号「南無不可思議光如来」を掲げる。右に六軸之間に「八功徳池図」を掲げる。
 ◈阿弥陀堂に本尊の「阿弥陀如来立像」、右に「厩戸王(聖徳太子)像」、左に「法然御影」、「龍樹」・「天親(インド)」、「曇鸞」・「道赤綽(中国)」、「源信(日本)」の六祖絵像が安置されている。本尊「阿弥陀如来像」は、鎌倉時代作とされる。像高1m。
 ◈御影堂門の上階に、「釈迦三尊像」の「釈迦如来」、左に「阿難尊者」、右に「弥勒菩薩」を安置する。釈尊は、両者に仏説無量寿経(大無量寿経)を説いたことに因む。
◆建築 ◈「阿弥陀堂門(本堂門)」は、近代、1911年に建立された。門扉は幕末の火災の際にも焼け残った。菊花、桐の紋がある。唐破風四脚門。
 ◈「御影堂門(ごえいどうもん、大門、大師堂門)」(登録有形文化財)は、文化財指定登録の山門(三門)としては日本最大といわれている。「京都三大門(ほかに、南禅寺三門、知恩院三門、御影堂門の代わりに仁和寺二王門とも)」のひとつとされる。江戸時代、1739年に建立された。その後、3度の火災により焼失した。現在のものは近代、1911年に建立された。2012-2015年、修復工事が行われている。設計は市田重郎兵衛、市田辰蔵による。瓦59387枚(59000枚とも)。扁額「真宗本廟」は、浄土真宗の聞法の根本道場であることを意味するという。南北35m(19間)、東西28m(15間)、高さ28m(26.89m、31mとも、15間)。奥行13m。二階二重門、入母屋造、本瓦葺、左右に山廊付き。
 ◈「勅使門(菊の門)」は、慶長創建時の扉に金色の菊花紋章が付けられている。近代、1911年に建立された。設計は京都府技師・亀岡末吉(1865-1922)による。亀岡式といわれる。黒漆塗り、極彩色の文様が施され、縦に格子が入る。四脚唐門、桁行1丈9尺、梁間1丈7尺、単層、左右切妻造、前後唐破風付、檜皮葺。
 ◈「玄関門」は、近代、1911年に建立された。棟梁・市田辰蔵による。切妻造、薬医門。
 
◈「御影堂(ごえいどう、大師堂)」(876坪、2896㎡)は、木造建築としては世界最大(国内現存仏堂では最大とも)を誇る。江戸時代、1864年の禁門の変で焼失し、近代、1895年に再建された。
 手前より3面の落縁、板敷広縁、外陣(参詣席)、内陣(中央に本間、その右に余間の六軸の間、新六軸の間、御簾の間、本間の左の余間に十字の間、九字の間、飛櫓の間)、内陣奥に後堂。内陣本間に親鸞の御真影(坐像)を安置する。畳数は927枚になる。内陣と外陣間の巻障子上の欄間には、雲中天人像、迦陵頻迦などの金色の彫り物がある。中央正面のケヤキの大虹梁(14.5m、太さ1m)は、新潟の阿賀野川の水中より数万の信徒が引き揚げたという。設計は棟梁・伊藤平左衛門(1829-1913)による。畳927枚。用材の数は63000本という。90本の柱で支えられている。瓦数は14万4680枚(17万5000枚とも)。間口76m(42間)、奥行58m(32間)、高さ38m(21間)。一層式裳階付、入母屋造、正面3面に向背、上層三手先、下層二手先。本瓦葺。
 御影堂の向拝上にある二対の亀型瓦(万年瓦)は、相國寺開山堂、開山堂碑の亀趺(きふ、贔屓)を基にしているという。
 ◈「阿弥陀堂(本堂)」は、近代、1895年に再建された。2015年に改修される。内陣本間、左右余間の天井、柱、壁全面は、金箔30万枚(11cm四方)が漆金箔の技法で貼られている。四手先の組物。屋根頂上両端には、獅子口瓦(3.3m)2対が置かれている。設計は棟梁・伊藤平左衛門(1829- 1913)、棟梁は木子(きこ)棟斎による。間口52m(29間)、奥行47m(26間)、高さ29m(16間)。畳401畳(412畳とも)。瓦108392枚(108000枚とも)。面積488坪(1610㎡)。禅宗様仏堂建築、単層、入母屋造、本瓦葺。 
 ◈「大寝殿」、「大玄関」は、江戸時代末期、1867年の建立で、山内最古の建築物になる。15代将軍・徳川慶喜の宿所にあてられた。非公開。
 ◈「宮御殿」は、大宮御所内の宮御殿を、近代、1880年、第122代・明治天皇により贈られ、1901年に移された。書院造。
 ◈白書院前の「能舞台」は、近代、1880年に建立された。仮設され、近代、1937年に常設になった。鏡板の松、切戸口脇の竹は幸野楳嶺による。非公開。
 ◈「白書院」は、近代、1911年に建てられた。上段の間、折上小組格天井、床の間、違い棚、付書院、帳台構。書院造。非公開。
 ◈「黒書院」は近代、1911年、棟梁・杉野怱兵衛により建立された。
 ◈「宮御殿」は、近代、1901年に旧大宮御所より移築された。大和絵の襖で飾られている。非公開。
 
◈「大師堂門」に、唐獅子の彫刻がある。
 ◈「楼門」は、棟梁・伊藤平左衛門(1829-1913)設計による。
 
◈「鐘楼」は、近代、1894年に建立された。梁材が交差する。総ケヤキ造り。基壇は亀甲石積。棟梁・9代伊藤平左衛門による。入母屋造、檜皮葺。
 ◈「参拝接待所」は、現代、1998年、高松伸の監修による。北側地下部分には、「真宗視聴覚ホール」という階段状の座席(300席)がある。 地上部には、歴史的景観保存のために、白洲の中に「日輪」、「月輪」というガラス張りの採光窓だけが開けられている。SRC造、1階RC造、地下3階 地上1階。敷地面積 92,387㎡、建築面積570㎡、延床面積3,487㎡。
◆庭園 宮御殿前の池泉式庭園は、小川治兵衛の作庭による。池、滝組、築山、正面の御影堂大屋根を借景の山に見立てた。
◆茶室 「桜下亭」は、近代、1939年に22世宗主・現如の霞ヶ関別邸の一部を移した。曲り木の床柱、繰りぬきの書院棚がある。座敷に岐阜別院より移された円山応挙の襖絵がある。(非公開)。 
◆文化財 坂東本の紙本墨書『教行信証(顕浄土真実教行証文類)』6巻(教、行、信、証、真仏土、化真土)(国宝)は、鎌倉時代、1235年頃の作になる。親鸞唯一の自筆本であり、浄土真宗の教えを解説している。かつて、坂東報恩寺(東京)、その後浅草別院に伝えられていた。
 絹本著色「親鸞聖人像(安城御影、嘯 [うそぶ]きの御影)」(重文)は、鎌倉時代、1255年作になる。親鸞自筆讃文がある。正本は西本願寺所蔵、かつて三河国碧海郡安城の願照寺に伝えられた。
 「一念多念文意」(重文)は、鎌倉時代、1257年の作になる。隆寛律師の引用した経・釈に親鸞が注釈している。
 「本願寺聖人伝絵(康永本)」4巻(重文)は、南北朝時代、1343年作、円寂・宗舜筆による。
 「本願寺聖人伝絵(弘願本)」4巻(重文)は、南北朝時代、1346年作になる。
 御影堂門の楼上の鏡天井に、竹内栖鳳筆の「天人飛来の図」が描かれている。
 
鐘楼の「梵鐘」は、江戸時代、1604年の鋳造になる。「慶長九年」の銘があり、創建時の物になる。
◆障壁画 創建当初は狩野派の障壁画が描かれていた。その後の火災により焼失した。御影堂内陣余間には、江戸時代-近代の画家・幸野楳嶺(1844-1895)の六軸之間の障壁画紙本金色著色「八功徳池図」(1895)があり、紅白の蓮華が描かれている。新六軸之間に羽田月洲(1841-1908)の障壁画孔雀と花木を描いた金地着色「花鳥図」(1895)もある。
 幸野楳嶺は御影堂御厨子に「紅梅蓮華図」を描いている。大寝殿上段の間に竹内栖鳳の「古柳眠鷺図」(1934)、「著色群雀図(歓喜)」(1934)などが描かれている。
 江戸時代の宮御殿襖絵「宮中四季行事」。白書院には、幸野西湖、森本東閣、伊藤鷺城の障壁画がある。
 桜下亭(おうかてい)座敷に、江戸時代の円山応挙筆の障壁画30面(京都市指定有形文化財)がある。江戸時代、1791年の晩年作になる。松之間に紙本金地墨画「稚松図」16面、竹之間に紙本金地墨画「竹雀図」4面、紙本墨画「竹図」4面・床脇壁裏側1面、梅之間に紙本墨画「白梅図」4面・壁貼付1面などがある。かつて、岐阜別院書院にあり、近代、1891年の濃尾地震に際して取り出され、その後、東本願寺に移された。
◆東西分裂 本願寺の東西分裂について真相は不明とされている。
 安土・桃山時代、1580年、顕如は石山戦争で、織田信長と和議を交わし本願寺を退去した。子・教如は、この和議を不服として抗戦籠城を続けた。教如は、父に義絶され、本願寺東西分裂の遠因になる。
 1592年、教如は、父の死去に伴い本願寺12世を継職した。だが、翌1593年、豊臣秀吉の命により隠居させられ、豊臣方の弟・准如に跡を譲る。教如と母・如春の確執があり、如春が秀吉を動かしたともいう。
 他方、教如は、徳川家康に庇護される。1598年、家康により東六条に寺地寄進を受け東本願寺を別立した。1602年、家康は、隠居していた教如と接触する。本願寺の西、烏丸七条(現在の東本願寺の地)に教如の隠居寺が置かれた。
 この家康の寄進により、本願寺(東本願寺)が建立され、別立される。これにより本願寺は東西に分裂した。家康は准如を警戒し、分裂により教団の弱体化を謀ったともいう。本多正信の献策があったという。
◆本願寺水道 
明治期に寺が再建された際に、1897年に防火用水として本願寺水道(4.7km)が引かれた。琵琶湖疏水貯水池(蹴上)より寺までであり、設計は土木技術者・工学者・田辺朔郎(1861-1944)による。完成までに3年を要した。
 送水管は、蹴上より三条通、建仁寺前、五条大橋裏を経て東本願寺まで通じていた。使用された導管(39㎝)の鋳鉄はベルギー製だった。高水圧の防火設備であり日本初の設計になった。1897年8月3日に境内で「噴水防火大試験」が行われている。
 疏水の水は、境内の外堀、枳殻邸の印月池、烏丸通の中央緑地帯にある蓮の花を模った噴水の水としても利用されていた。現在は漏水のため送水が停止されている。
◆毛綱 御影堂と阿弥陀堂間の渡り廊下に、「毛綱(けづな)」が巻かれて置かれている。
 近代の両堂再建工事(1880-1895)の際に、重い建材の運搬に使われた縄が切れ事故が相次いだ。このため、より強い、人の髪と麻糸を撚り合わせた綱が作られた。当時は大小53本の毛綱があり、最長100m、最大のものは太さ40cm、長さ110m、重さ1tあった。
 展示されている毛綱1本(太さ30cm、長さ69m、重さ375kg)は、女性の毛髪7000人分により撚られているという。越後の門徒が使用していたという。建設のための現金を工面できない女性信徒らが、自らの髪を寄進したという。
◆尾神嶽殉難 近代の両堂再建のために、門徒による用材運搬が行われ、事故により死傷者が相次いだ。その中で最大の事故は、1883年に起きた越後国の「尾神嶽殉難(おがみだけ-じゅんなん)」と呼ばれている。
 3mの積雪地帯で、46村、2000人の門徒が黒姫神社(上越市)境内から伐り出した欅の巨木を、大橇(そり)に載せて運搬していた。途中、中腹の吹切(ふつきり)で大雪崩が起き、死者27人、重傷者50余人が出た。死者には、16歳以下の少年が16人、幼児4人も含まれていた。
 用材は、1895年に落成になった御影堂上層屋根の、隅木の1本として使われた。後に、円田神社(上越市)で、殉難の際に使用された大橇が発見される。1961年に本山に寄付されいまも展示されている。
◆東方南方美術調査隊 近代、1942年-1943年、東本願寺南方美術調査隊は、東南アジア、12世紀の寺院遺跡・アンコール遺跡などの美術学術調査を行った。隊長は宗教画家・杉本哲郎(1899-1985)であり、美術、仏教史、写真が、僧侶ら12人により結成される。1942年-1943年にインド、クメール、タイ、スマトラ、ジャワなどの仏教美術を調査する。アンコールワット遺跡では絵画模写30点、拓本150点、写真1000枚の撮影などを行う。
 2018年、当時撮影され所在不明になっていたガラス乾板が発見された。
◆紋 寺紋は「抱牡丹(だきぼたん)」という。 
◆環境 御影堂では、2011年の親鸞750回忌にむけ、修復工事が行われた。この際に、古瓦の再利用、8基の雨水タンク(100t)による水の再利用などの取り組みが行われた。
◆蓮華の噴水 蓮華の噴水は、日本画家・竹内栖鳳(1864-1942)の図案をもとにして大正期(1912-1926)に造られた。戦後、再建されている。
◆遺跡 境内の東付近には鎌倉時代-室町時代にかけての大規模な墓地が存在していた。発掘調査により、火葬墓、集石墓、土坑墓、さまざまな骨臓器が出土している。
◆東西の差異 東本願寺と西本願寺で差異が生まれた。伽藍配置は左右(南北)が逆になっている。東は北(右)に御影堂、西は南に御影堂、東は廟所を大谷祖廟(東大谷)、西は大谷本廟、親鸞の「教行信証」を東は御本書、西は御本典、蓮如文書を東は御文、西は御文章、宗主も東は門首(かつては法主)、西は門主という。
◆樹木 阿弥陀堂前にアカマツ、ケヤキがある。
◆祭礼 ◈「御影(ごえい)道中」(4月17日-5月9日)は、浄土宗中興の祖・蓮如の肖像画を吉野別院(福井県あわら市)に遷す。240kmの道程を片道1週間かけて歩き通す。
 室町時代、1465年に、比叡山延暦寺の宗徒に本願寺が破却後、室町時代、1471年に蓮如は吉崎に移り坊舎を建て布教を続けた。江戸時代、1752年以来、蓮如の遺徳を偲んで道中が始められたという。
 当日は、東本願寺・阿弥陀堂で下向式の後、50人の供奉人一行は、御影の入る輿を台車に乗せ、「蓮如上人さま、東本願寺をおたち」の掛け声とともに出発する。4月23日に吉野別院に到着し、10日間の法要後、5月9日に東本願寺に戻る。
 ◈宗祖・親鸞の遺徳をしのぶ法要「報恩講」(11月21-28日)は、全国から御影堂に集まった門信徒が、僧侶とともに読経する門徒にとって最も大切な行事になっている。25日には親鸞一代記「御伝抄」拝読が行われる。
 親鸞命日の28日には、僧侶(堂衆18人、純堂衆64人)が体を前後に揺らして念仏、仏教の教えを、七五調の四行詩にした和讃を唱和する「坂東曲(ばんどうぶし)」が催される。親鸞が越後流罪になった時、船中で称えられた念仏と布教地・坂東(関東)に伝わる歓喜勇躍念仏がもとになったとされている。
◆年間行事 修正会(1月1日-7日)、法然上人御祥月命日法要(1月25日)、厩戸王(聖徳太子)御祥月命日法要(2月22日)、春季彼岸会(春分の前後7日間)、蓮如上人御祥月命日法要(3月25日)、親鸞聖人御誕生会(4月1日)、花祭り(4月1日-8日)、春の法要(4月1日-15日)、立教開宗記念法要(4月15日)、盂蘭盆会(7月14日-15日)、秋季彼岸会(秋分の前後7日間)、宗祖親鸞聖人御正忌報恩講(11月21日-28日)、お煤払い(12月20日)、歳末昏時勤行(12月31日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『本廟物語 東本願寺の歴史』、『古寺巡礼 京都 40 東本願寺』、『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都古社寺辞典』、『真宗大谷派』、『日本の古寺大巡礼』、『歴史のなかの宗教 日本の寺院』、『京都大事典』、『京都・美のこころ』、『社寺』、『日本の仏教を築いた名僧たち』、『京都美術の 新・古・今』、『日本の名僧』、『京都 歴史案内』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都の寺社505を歩く 上』、『事典 日本の名僧』、『京都市の指定文化財 第5集』、『京都 神社と寺院の森』、『あなたの知らない京都府の歴史』、『琵琶湖疏水の100年 資料編』、『週刊 仏教新発見 21 西本願寺 東本願寺』、『週刊 京都を歩く 22 東本願寺周辺』、「東本願寺と環境を考える市民プロジェクト」の説明板、ウェブサイト「東文研アーカイブデータベース 東京文化財研究所」 、ウェブサイト「コトバンク」
 


西本願寺    崇泰院  枳殻亭(渉成園)  東本願寺山科別院  東本願寺伏見別院  大谷祖廟(東大谷)  関連凝華洞跡(京都御苑)  琵琶湖疏水・岡崎公園・鴨川運河    
    長男・教如(1602、東本願寺)〔×信長 ○→×秀吉 ○家康〕----宣如
顕如 〔×→○信長〕 ---------¦ 
                    三男・准如(1603、西本願寺)〔○秀吉〕
 
東本願寺 グーグルマッブ・ストリートビュー  京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 東本願寺 〒600-8358 京都市下京区常盤町,烏丸通七条上ル西側  075-371-9181
50音索引,Japanese alphabetical order Home  top 50音索引,Japanese alphabetical order Home  top
© 2006- Kyotofukoh,京都風光