枇杷殿跡 (京都市上京区)  
Ruins of of Biwadono(residence)
枇杷殿跡 枇杷殿跡
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 京都御苑の西端、蛤御門の東南付近に、「枇杷殿跡(びわどの-あと)」の駒札が立てられている。
 平安時代、この地には藤原氏の邸宅があった。第66代・一条天皇、第67代・三条天皇の里内裏(さとだいり)になるなど名邸として知られた。
◆歴史年表 平安時代、公卿・藤原長良(802-856)が枇杷殿に居住した。
 その子・公卿・廷臣・藤原基経(836-891)が住した。三男・公卿・仲平(875-945)に伝領される。
 公卿・藤原朝光(951-995)に譲られた。
 1002年以降、公卿・藤原道長は、朝光の未亡人より邸宅を買い取る。以後、二女・妍子の里邸として整備される。10月、鷹司南烏丸東に枇杷殿が新造された。(『権記』)。夏より11月まで、旱により人々は枇杷殿の井水を求めた。(『御堂関白日記』)
 1006年、3月、東宮・居貞親王(第67代・三条天皇)の御所になる。中宮・妍子(けんし)も居住した。
 1009年、10月、第66代・一条天皇の一条殿が焼失し、天皇は中宮・彰子(しょうし)とともに枇杷殿を御所にしている。(『日本紀略』)。彰子に紫式部が仕えた。閏2月-11月、脩子(しゅうし)内親王らも御所にし、清少納言が当邸で仕えたという。
 1014年、2月、内裏炎上している。4月、三条天皇が遷御した。11月、内裏が再焼失し、三条天皇は再び還幸した。(『日本紀略』)
 公卿・藤原頼道(992-1074)が居住した。
 寛子(1030-1127)の御所になる。禎子内親王(1013-1094)とともに住んだ。
 1113年、寛子は他所に移る。
 1016年、正月、三条天皇はこの邸で第68代・後一条天皇に譲位した。
 12世紀(1100-1200)初め、公卿・忠実(1078-1162)の時に、枇杷殿は取り壊される。
◆藤原長良 平安時代前期の公卿・藤原長良(ふじわら-の-ながら、802-856)。号は枇杷殿。藤原冬嗣の長男、母は真作の娘・尚侍・美都子(みつこ)。弟・良房。父が第52代・嵯峨天皇に重用され、第54代・仁明天皇(嵯峨天皇皇子)に信任された。東宮時代から近侍した。即位とともに左馬頭、蔵人頭に任じられる。844年、参議になる。850年、仁明天皇の没後、追慕悲泣し、肉食を断ち冥福を祈ったという(『文徳実録』)。権中納言、従二位、正一位太政大臣を追贈。55歳。
 子・基経は良房の養子になり、藤原北家の正嫡を継承した。娘・高子は第56代・清和天皇に入り、第57代・陽成天皇を産む。
藤原基経 平安時代前期の公卿・廷臣・藤原基経(ふじわら-の-もとつね、836-891)。幼名は手古、諡号は昭宣公、通称は堀河太政大臣。京都の生まれ。藤原長良の3男、母は第58代・光孝天皇の外祖父・藤原総継の娘・乙春(おとはる)。叔父・藤原良房の養子になり、氏長者になった。851年、第55代・文徳天皇から加冠されて元服した。852年、蔵人、その後、左兵衛少尉、侍従、左兵衛佐、少納言を歴任した。858年、蔵人頭、播磨介、左近衛中将などを経て、864年、参議になる。866年、応天門の変で、父・良房と大伴氏、紀氏を排し、藤原氏政権の基礎を築く。従三位、中納言になる。868年、左大将、869年、按察使、870年、大納言、872年、正三位右大臣になった。876年、妹・高子が産んだ第57代・陽成天皇の践祚とともに摂政になる。880年、太政大臣に任じられた。事実上の人臣(臣下)最初の関白になる。883年頃から、陽成天皇と不和になり出仕せず、884年、時康親王を立て第58代・光孝天皇とした。事実上最初の関白になる。885年、光孝天皇に献進した「年中行事障子」は以後、宮廷行事の規範になった。887年、陽成天皇の没後、基経の意思により第59代・宇多天皇が嗣立される。基経は関白に任じた勅書に対し不満を持つ。橘広相の作成文に「阿衡(あこう)の任」とあり、古代中国の単なる名誉職の官名として、政務を怠業した。関白の権威を天皇に認めさせ、譲歩させて勅書を改めさせた。(「阿衡事件」)。888年、娘・温子が入内し、以後、天皇家に対する藤原氏の発言力が確立した。890年、病により関白を辞した。准三宮になる。56歳。
 死後、越前国に封じられ、昭宣公の諡号を賜わる。藤原北家による摂関政治を確立した。菅原道真らと親交する。撰修『日本文徳天皇実録』。邸宅の堀河院、閑院(かんいん)を所有した。第54代・仁明天皇の笙の師だった。
 墓は宇治陵(宇治市)に包括されている。
◆藤原仲平 平安時代前期-中期の公卿・藤原仲平(ふじわら-の -なかひら、875-945)。枇杷大臣。藤原基経の次男、母は人康(さねやす)親王の王女。弟・忠平。908年、参議、後に左大臣に進む。伊勢(いせ)と恋愛があった。歌は『古今和歌集』などに入集。71歳。
 没時に正二位。
◆藤原朝光 平安時代中期の公卿・藤原朝光(ふじわら-の-あさてる/あさみつ、951-995)。閑院大将、閑院大納言。関白・藤原兼通の次男/4男、母は有明親王の娘・昭子女王。兄・顕光(あきみつ)、娘・姚子は、第65代・花山天皇の女御になった。974年、参議、977年、権大納言になる。病死した。『拾遺和歌集』以下の勅撰集に入集。家集『朝光集』。45歳。
 邸宅は三条堀河第、閑院を伝領した。のち正二位、大納言。
◆藤原道長 平安時代中期-後期の公卿・藤原道長(ふじわら-の-みちなが、966-1028)。御堂殿、法成寺殿。藤原氏北家の関白・太政大臣・藤原兼家の5男、母は藤原中正の娘・時姫。幼少期を東三条殿で過ごした。986年、父・兼家が第66代・一条天皇の摂政になり、987年、従四位から従三位になる。左大臣・源雅信(宇多源氏)の娘・倫子(正妻)と結婚する。988年、左大臣・源高明(醍醐源氏)の娘・明子(本妻)と結婚した。991年、権大納言に任じられる。995年、兄の関白道隆・道兼が相次ぎ疫病により没し、道隆の子・内大臣・伊周(これちか)と後継争いをする。姉・詮子(東三条院)の支援により内覧、右大臣、氏長者になり政権の首座に就く。996年、伊周の失脚により左大臣に昇る。1000年、長女・彰子が一条天皇の中宮として後宮に入り、一帝二后の制を始めた。1005年、祖先供養のために、宇治木幡に法華三昧堂(木幡寺、浄妙寺)を建てる。1012年、二女・妍子(よしこ)を第67代・三条天皇の中宮とした。1016年、彰子が産んだ外孫・敦成親王(第68代・後一条天皇)の即位に際し、道長は1年ほど摂政に就く。1017年、摂政を嫡子・頼通に譲り、実権は握り続ける。従一位、太政大臣になる。皇太子・敦明親王(三条天皇第1皇子)の辞退を図り、彰子の産んだ敦良親王(第69代・後朱雀天皇)を皇太弟とした。1018年、太政大臣を辞した。娘・威子が後一条天皇の中宮、その同母妹・嬉子が皇太弟(後朱雀天皇)の妃になる。道長は「望月の歌」「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」(『小右記』)と詠む。1019年、院源を戒師とし出家し、行観(すぐに行覚に改め)と称した。1020年、篤く仏教に帰依し、土御門殿の東に阿弥陀堂(無量寿院)に始まる法成寺(御堂)を造営した。1025年、娘・嬉子が親仁親王(第70代・後冷泉天皇)を産んで亡くなり、1027年、娘・妍子(三条天皇中宮)も相次いで亡くなる。この頃、道長は背中にできた癰(よう)に苦しむ。1028年、最期は、法成寺の九体阿弥陀堂に病床を移し、顔を西方浄土に向けて亡くなる。23年にわたって日記をつけ、後に『御堂関白記』と名付けられた。62歳。
 政治家としての優れた政策はなく、関白には就任していない。娘4人の彰子(一条天皇中宮)、妍子(三条天皇皇后)、威子(後一条天皇皇后)、嬉子(後朱雀天皇妃)、盛子を入内させた。3天皇の外戚になり、「一家に三后」を成し、藤原氏全盛の摂関を築く。詩、歌に優れ、漢詩は『本朝麗藻』、和歌は『後拾遺集』以下の勅撰集に採られる。中宮・彰子の側近に才媛の女房を集めた。紫式部を後援し、『源氏物語』にも関心を持つ。道長については『大鏡』、『栄花物語』に記されている。平安京内の数カ所に土御門殿など豪邸を構えた。
 遺骸は愛宕郡の鳥倍野で荼毘に付され、骨灰は宇治木幡の墓地に埋納された。現在は宇治陵(宇治市)に包括されている。
◆藤原妍子 平安時代中期-後期の中宮・藤原妍子(ふじわら-の-けんし、994-1027)。枇杷(びわ)皇太后。藤原道長の次女、母は源倫子。1004年、尚侍、従三位に叙せられる。1010年、従二位に進み、東宮居貞親王(第67代・三条天皇)に入る。1011年、天皇の即位で娍子 (せいし) とともに女御になった。1012年、中宮になる。娍子も皇后になり、二后併立になった。1013年、禎子内親王(陽明門院)を出産する。父・道長は、天皇外戚として摂関の地位を確保しようとし、内親王の誕生を喜ばなかったという。1018年、皇太后になる。1027年、禎子内親王を東宮敦良親王(第69代・後朱雀天皇)に入れた。同年、死に臨み出家する。34歳。
 大峯寺の前野で火葬され、木幡に納骨された。陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆三条天皇 平安時代中期の第67代・三条天皇(さんじょう-てんのう、976-1017)。居貞(おきさだ) 。法名は金剛浄。京都の生まれ。第63代・冷泉天皇の第2皇子、母は太政大臣・兼家の娘・贈皇太后・藤原超子(ちょうし/とおこ)。986年、従弟の第66代・一条天皇の即位により元服し、立太子になる。親王の方が年長のため、「さかさ儲けの君」と呼ばれた。1011 年、一条天皇の譲位により36歳で即位する。1012年、内覧(ないらん、太政官から天皇に奏上する文書をあらかじめ内見し、政務を代行する)になった藤原道長が権力を掌握する。天皇は道長をはばかり、その娘・妍子(けんし)を皇后にする。藤原済時の娘・女御・娍子(じようし)は中宮に立てた。天皇は、娍子を皇后にしようとする。道長は反発し、他の公卿とともに参内せず、立后の儀を妨害した。道長は娘・彰子の産んだ外孫・敦成(あつひら)親王の即位を望み、天皇の眼病を理由に譲位を迫る。天皇は皇女・禎子(ていし)内親王を道長の息・頼通(よりみち)に降嫁させることで懐柔しようとした。1016年、天皇は、娍子が産んだ第1皇子・敦明(あつあきら)親王を皇太子にすることを条件に、敦成親王(第68代・後一条天皇)に、道長の枇杷殿で譲位した。敦明親王は道長の圧力により辞退する。
 歌に優れ『百人一首』に「心にも あらでうき世に ながらへば恋しかるべき夜半の月かな」がある。ほとんど目の見えなかった天皇の眼病について、毒(仙丹、水銀)を服されたともいう。僧・賀静、藤原元方の怨霊によると噂された。京都で没した。42歳。
 1017年、死去し、船岡山で火葬にされ北山に埋納された。陵墓は北山陵(北区)になる。
◆一条天皇 平安時代中期の第66代・一条天皇(いちじょう-てんのう、980-1011)。懐仁(やすひと)、法名は精進覚。第64代・円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘・東三条院詮子(せんし)(道長の姉)。984年、5歳で従兄・第65代・花山天皇の皇太子になり、986年、花山天皇が外祖父・兼家らにより退位出家したため、懐仁親王は7歳で即位した。藤原家の念願であり、兼家が摂政になる。990年、元服した。兼家の没後、その子・道隆が摂関の地位を継いで権力を握る。995年、道隆の没後、その弟・道兼が就任数日で亡くなる。その弟・道長が内覧の大臣として政権を掌握した。詮子の後押しがあった。998年、御願により円教寺が創建された。1000年、中宮に道隆の娘・定子(さだこ/しょうし)が入る。道長は皇后とし、自らの娘・彰子(あきこ)を入れて中宮にして対立した。この「一帝二后」は前例のないことだった。彰子は、第68代・後一条、第69代・後朱雀両天皇を産む。1011年、三条天皇に譲位した。出家し、病没した。32歳。
 在位は25年間になり、平安時代では第60代・醍醐天皇に次いで長い。藤原道長の全盛期であり、天皇との確執が生まれる。律令制は徐々に崩壊する。母・詮子の政治介入もあった。宮廷女性文学の最盛期であり、定子に仕えた清少納言、彰子に仕えた紫式部らが互いに競った。日記に『一条天皇御記』がある。
 火葬塚(北区)がある。陵墓は円融寺北陵(右京区)になる。
◆藤原彰子
 平安時代中期-後期の中宮・藤原彰子(ふじわら-の-しょうし/あきこ、988-1074)。上東門院彰子。公卿・藤原道長の長娘、母は源雅信(まさのぶ)の娘・倫子(りんし)。999年、入内し、1000年、第66代・一条天皇の中宮になる。天皇には藤原道隆の娘・中宮・定子(ていし)がいた。二后併立のため、定子を皇后、彰子を中宮とした。1008年、敦成親王(第68代・後一条天皇)、1009年、敦良親王(第69代・後朱雀天皇)を産む。1012年、皇太后、1018年、太皇太后宮になる。1026年、出家し、上東門院の院号宣下を受けた。1030年、法成寺(ほうじょうじ)無量寿院の傍に東北院を建立した。87歳。
 後一条、後朱雀院、父・道長、妹・妍子(けんし)、威子(いし)、嬉子(きし)らに先立たれ、『栄花物語』に記されている。女官・歌人の紫式部(?-?)、和泉式部(976頃-1036頃)、伊勢大輔(989?-1060)、赤染衛門(956?-1041)らの才媛を集めた。
 大谷口で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆脩子内親王 平安時代中期の皇女・脩子内親王(しゅうし-ないしんのう、997-1049)。通称は入道一品宮。第66代・一条天皇の第1皇女、母は藤原定子(ていし)。敦康親王、媄子(びし)内親王の姉。997年、内親王になる。1007年、一品に昇り、准三宮になる。1011年、父・一条天皇の死後、叔父・藤原隆家のもとに身を寄せた。1023年、出家した。54歳。
◆紫式部 平安時代前期-後期の歌人・作家・紫式部(むらさき-しきぶ、973頃-1014頃)。本名は香子(たかこ/かおりこ/よしこ)。父は藤原為時、母は藤原為信の娘。幼くして母、後に姉も亡くす。漢籍に通じた。996年、父・為時が越前守に任じられ紫式部も下向する。997年、藤原宣孝(のぶたか)と和歌の贈答をし、求婚の書状が届く。宣孝は式部の又従兄弟に当たる。997年-998年、紫式部は単身帰京する。998年頃、複数の妻子ある地方官吏・藤原宣孝の妻になる。999年、式部は一人娘・賢子(かたこ/けんし)を産む。1001年、夫・宣孝と死別した。『源氏物語』起筆ともいう。1006年/1005年/1004年、内覧左大臣・藤原道長の娘・中野彰子(しょうし、のちの院号・上東門院)に仕える女官になったともいう。紫式部は侍講と して漢文学を教え、傍ら54帖の『源氏物語』を執筆した。物語は当初から宮廷で評判になる。1008年、彰子に『楽府』を進講する。藤原道長と女郎花の歌を贈答する。『源氏物語』が流布した。『源氏物語』冊子作りが進む。道長は『源氏物語』草稿文を持ち帰る。1009年、道長と歌を贈答した。1010年?、『宇治十帖』執筆を始める。『紫式部日記』消息文を執筆する。1013年、『紫式部集』を編集した。1014年、皇太后彰子の病気平癒祈願のために清水寺に参詣する。
 通称名は藤(ふじ)式部と呼ばれた。候名(さぶろうな)の「式部」は、父の官名「式部丞(しきぶじょう)」に由る。『源氏物語』中の女主人公、紫の上に因み、紫式部と呼ばれるようになる。娘の賢子(大貳三位、だいにさんみ)も、第70代・後冷泉天皇の乳母になり、歌人としても知られた。
 『源氏物語』は「桐壷」から始まる54帖からなり、光源氏の誕生と栄華、その晩年の苦悩、その死と子らの悲哀を描く三部構成になる。21帖「少女」巻では、漢学に通じた「漢才(からざえ)」に対し、かな(女手)を用いることを「大和魂」と記した。物語は彰子のために書かれたともいう。当初から宮廷で評判になる。紫式部は、自らの半生を物語に投影したという。12年の歳月をかけ、完成とともに亡くなる。
 紫式部墓といわれるものが北区紫野にある。引接寺(千本閻魔堂、上京区)に供養塔が立つ。蘆山寺(上京区)は邸宅跡という。
清少納言 平安時代前期-後期の歌人・清少納言(せい-しょうなごん、966?-1025?)。父は歌人・清原元輔。曾祖父・清原深養父(ふかやぶ)。981年頃、橘則光と結婚し、982年、則長を産んだ。まもなく離婚した。若くして小白河での上達部(かんだちめ)の法華八講に列席した。990年、父没後、991年頃、少納言・藤原信義/藤原棟世(むねよ)と再婚する。993年、関白・藤原道隆の娘・第66代・一条天皇中宮・定子(ていし)に出仕し、寵愛を受け10年余り女房生活を送った。四納言(藤原公任、源俊賢、藤原斉信、藤原行成)と交友した。996年、中宮一家と対立した左大臣・藤原道長方に内通したとの噂が立ち、私邸に籠居した。1000年、定子の没後、その遺児・脩子内親王に仕える。その後、前摂津守・藤原棟世(むねよ)と三度目の結婚をし、娘・歌人・小馬命婦(こまのみょうぶ)を産んだともいう。後に別居した。晩年、父・元輔の邸宅があった現在の観音寺境内付近に暮らしたという。清少納言が仕えた定子皇后、皇后、女御らは鳥辺野陵(今熊野観音寺北付近)に葬られる。清少納言は尼になり、皇后を偲び月輪近くに庵を結び隠棲し、念仏に明け暮れたという。随筆集『枕草子』、歌集『清少納言集』、『小倉百人一首』に入集。59歳?。
 漢詩文の教養があった。中古三十六歌仙のひとり。和泉式部、紫式部とともに平安時代の女性文学を代表した。和泉式部、赤染衛門らと交流した。
◆後一条天皇 平安時代後期の第68代・後一条天皇(ごいちじょう-てんのう、1008-1036)。敦成(あつひら) 。京都の生まれ。第66代・一条天皇の第2皇子。母は藤原道長の娘・彰子(しょうし/あきこ、上東門院)。土御門殿で誕生した。1008年、道長の意により一条天皇皇太子・敦康(あつやす)親王ではなく、外孫・敦成親王が第67代・三条天皇の皇太子になる。1016年、践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)、9歳で即位した。敦良(あつよし)親王(第69代・後朱雀天皇)が皇太子になる。摂政は外祖父・道長による。1年ほどして、道長の長男・頼通(よりみち)が摂関になる。1018年、道長の意により、11歳で道長の娘・叔母・威子(いし)が入内し皇后になる。天皇は珍しくほかの妻を持たなかった。この時、道長の3人の娘が同時に后位に就く。ほかに、太皇太后(一条天皇中宮彰子)、皇太后(三条天皇中宮・妍子(けんし)になる。(天下三后)。威子の中宮になった祝いの宴で道長は「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることも無しと思へば」と詠んだ。1019年、刀伊の入寇(といのにゅうこう)、1028年、下総で平忠常が乱が起こる。1036年、高倉殿で亡くなった。29歳。
 陵墓は菩提樹院陵(左京区)になる。
◆藤原頼通 平安時代中期-後期の公卿・藤原頼通(ふじわら-の-よりみち、992-1074)。幼名は田鶴(たづ)君、宇治殿、宇治の関白、宇治大相国、法名は蓮花覚、寂覚。京都生まれ。父・藤原道長の長男、母は左大臣・源雅信の娘・倫子。13歳で春日祭使に選ばれた。1003年、正五位下、侍従、右近衛少将、1006年、従三位に昇る。1009年、権中納言、1013年、権大納言、1014年、左近衛大将、1015年、左大将になった。1017年、内大臣に任じられ、父・道長が第68代・後一条天皇の摂政を辞し、後を譲り受けた。1019年、関白、1021年、従一位に叙せられ、左大臣になった。居邸の高陽院を造営した。1037年、養女・嫄子(げんし)が第69代・後朱雀天皇に入内した。1051年、具平(ともひら)親王の娘との間に生まれた寛子(かんし)が第70代・後冷泉天皇の皇后になる。1052年、道長の宇治の別荘を寺院に改め平等院と名付けた。1061年、太政大臣になり、1062年、辞した。1067年、後冷泉天皇の行幸を平等院迎え、准三宮になる。1068年、藤原氏を外戚としない第71代・後三条天皇の践祚を目前にして関白職を弟・教道に譲り、平等院に隠棲する。1072年、出家する。83歳。
 後一条・後朱雀・後冷泉3代の天皇、半世紀に及ぶ摂政・関白になる。2人の娘を天皇の後宮に入れ、皇子がなかったため天皇外祖父として権勢を振るえなかった。荘園・高陽院を経営した。
◆藤原寛子 平安時代後期の皇后・藤原寛子(ふじわら-の-かんし/ひろこ、1030-1127)。四条后、宇治大宮。関白・藤原頼通(よりみち)の娘、母は藤原祇子(ぎし)。1050年、入内し、第70代・後冷泉天皇の女御になる。1051年、皇后になる。1068年、後冷泉天皇の没後に出家し、宇治・法定院に居住した。第71代・後三条天皇の即位に伴い、太皇太后に立てられる。藤原歓子の立后により中宮になる。1069年、皇太后に立てられた。92歳。
 子に恵まれず、頼通の権勢崩壊する因になったという。「皇后宮春秋歌合」などを主催した。
 宇治南の一坂東辺で火葬され、木幡に納骨された。陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆禎子内親王 平安時代後期の女性・禎子内親王(ていし/さだこ/よしこ-ないしんのう、1013 -1094)。名は禎子、陽明門院 (ようめいもんいん)。 第67代・三条天皇の第3皇女、母は摂政・藤原道長の娘・皇后・妍子(けんし/きよこ)。1013年、内親王宣下を受け、1015年、着袴(ちゃっこ、幼児成長の祝い)、三宮に准ぜられる。1023年、上東門院で裳着(もぎ、成人の祝い)、一品に叙される。1027年、皇太子・敦良(あつなが)親王(後の第69代・後朱雀天皇)に入内する。1030年、良子内親王(後の伊勢斎宮)を産む。1032年、娟子(けんし)内親王(後の賀茂斎院)を出産した。1034年、尊仁(たかひと)親王(後の第71代・後三条天皇)を出産した。1036年、夫・敦良親王(後朱雀天皇)が即位した。1037年、中宮になる。だが、嫄子(藤原頼通の養女)の立后で皇后宮になる。以後、摂関家との関係は悪化した。1045年、後朱雀天皇が亡くなり、第70代・後冷泉天皇が即位し、子・尊仁が立太子する。禎子は出家した。1051年、皇太后になる。1068年、後冷泉天皇の没後、子・尊仁親王(後三条天皇)が即位した。太皇太后になる。1069年、女院を宣下され陽明門院と号した。1072年、後三条天皇は第72代・白河天皇に譲位する。1073年、後三条上皇は亡くなり、孫娘・篤子内親王を養女にする。白河天皇は、父・後三条上皇の遺命に背き、異母弟・輔仁親王ではなく、自らの皇子・善仁親王(後の第73代・堀河天皇)に譲位した。禎子は反発する。子・篤子が第73代・堀河天皇に入内し、立后する。1094年、疱瘡で亡くなる。82歳。
 陵墓は禎子内親王陵(右京区)になる。
◆藤原忠実 平安時代後期の公卿・藤原忠実(ふじわら-の-ただざね、1078-1162)。号は知足院、富家殿(ふけどの)。京都の生まれ。関白・藤原師通(もろみち) の嫡男、母は右大臣・藤原俊家の娘・全子。1088年、元服した。1091年、非参議従三位で公卿に列した。1092年、権中納言、1097年、権大納言に昇る。1099年、父・師通の没後、祖父・師実の養子になり、内覧・藤原氏長者になった。1100年、右大臣になる。1105年、第73代・堀河天皇の関白に任じられる。1107年、第74代・鳥羽天皇の即位とともに摂政になる。1112年、太政大臣に任じられた。1113年、太政大臣を辞し、鳥羽天皇元服により関白になる。1120年、白河法皇(第72代)の命を辞退した次女・泰子(のちの高陽院)の鳥羽天皇入内問題をめぐり、法皇の怒りを買い内覧を止められる。1121年、内覧に復した、職を辞し、嫡子・忠通(ただみち)が代わる。以後、宇治に隠遁した。1129年、白河法皇没、鳥羽院政開始とともに朝政への復帰した。父・忠実を退け関白になった忠通との間に対立関係が生じた。忠実は寵愛した次子・頼長を内覧・氏長者とし、対立は深まる。1133年、泰子を鳥羽上皇妃として入内させた。1140年、准三宮になる。出家し法名は円理と名乗った。1156年、保元の乱は忠通と頼長の兄弟対立が一要因になる。頼長の敗死後、忠通の計らいで流罪を免れ、知足院に幽閉された。日記『殿暦(でんりゃく)、知足院関白記)』、故実に詳しく談話筆記『中外抄』など。85歳。
◆枇杷殿 枇杷殿は藤原氏の邸宅であり東は東洞院大路、西は烏丸小路、北は鷹司小路、南は近衛大路の方1町に在った。現在の京都御苑西端、蛤御門の東南付近になる。北辺は、皇宮警察本部京都護衛署敷地内になる。敷地の4分の1に屋舎があり、あとは宝を蔵した倉庫が建てられていたという。さらに、東は烏丸小路、西は室町小路、北は近衛大路(出水通)、南は勘解由小路(下立売通)の方1町も枇杷殿と称したという。(鎌倉時代中期以降『拾芥抄』)
 現在知られている最も古い移住者としては、平安時代前期、藤原長良(802-856)だった。その後、長良の血縁に伝領された。その3男・藤原基経(836-891)から枇杷大臣と呼ばれたその次男・仲平(875-945)に伝えられる。平安時代中期、藤原朝光(951-995)に譲られる。
 平安時代後期、1002年以降に、藤原道長は、朝光の未亡人より邸宅を買い取っている。以後、道長の子女に伝えられる。妍子(道長の次女)の里邸として整備される。10月、鷹司南烏丸東に枇杷殿が新造された。(『権記』)。夏より11月、四条以北の井水が尽きて、旱により人々は枇杷殿の井水を求めた。(『御堂関白日記』)
 1006年3月、東宮・居貞親王(第67代・三条天皇)の御所になっている。中宮になった妍子も住している。1009年10月、一条殿が焼失し、第66代・一条天皇は織部司より、中宮・彰子(道長の長女)とともに枇杷殿に移り御所にした。(『日本紀略』)。この時、彰子に紫式部が仕えている。閏2月14日-11月10日、脩子内親王らも御所にしており、清少納言が当邸で仕えたという。
 1014年2月、内裏が炎上し、4月に三条天皇が遷御した。11月に内裏が再焼失し再び還幸している。(『日本紀略』)
 その後、藤原頼道(992-1074)が居住している。その娘・寛子(1030-1127)の御所になった。妍子が産んだ禎子内親王(1013-1094)とともに住んだ。1113年に、寛子は怪異を理由に他所に移る。
 1016年正月に、三条天皇はこの邸で第68代・後一条天皇に譲位している。(『日本紀略』)
 12世紀(1100-1200)初め、公卿・藤原忠実(1078-1162)の時に取り壊された。
◆里内裏 里内裏(さとだいり)は、火災、倒壊、方忌(かたい)みなどに際し、一時的に設けられた仮の内裏をいう。平安宮大内裏の外に置かれた。里内(さとうち)、今内裏、里御所、里亭皇居などとも呼ばれた。「里」には京中の意味があった。多くは天皇外戚(母方)の摂関家私邸が充てられた。
 平安時代中期、960年に平安宮内裏初の焼亡があり、第62代・村上天皇は累代の後院である冷泉院に移っている。976年の内裏焼失では、第64代・円融天皇は、内裏再建までの1年間を関白・藤原兼通(かねみち)の堀河殿を居所とした。当時、冷泉院が冷泉上皇(第63代)の御所となっていたためだった。これが里内裏の始まりとされる。
 その後も内裏炎上に際し、各所に里内裏が造られている。第66代・一条天皇の一条殿、第66代・一条天皇の東三条殿、第67代・三条天皇の枇杷殿などがある。
 後に、里内裏殿舎も内裏に模して建てられ、当初から里内裏にするために邸宅が造営された。天皇は里内裏で日常を過ごし、儀式にのみ内裏に帰った。第70代・後冷泉天皇の高陽院(かやのいん)、第72代・白河天皇の六条院、第74代・鳥羽天皇の大炊(おおい)殿・土御門・烏丸殿などがある。
 鎌倉時代前期、1227年に本来の平安宮内裏は焼失し、以後、再建されることはなかった。そのため、里内裏が恒常化する。閑院殿は第82代・後鳥羽天皇以後8代の本所的皇居、第77代・後堀河天皇の皇居にもなった。富小路殿は後堀河上皇の仙洞になり、第89代・後深草天皇以来、多くの持明院統の御所になった。
 鎌倉時代後期に大覚寺統と持明院統の対立が生じた。北朝第2代・光明天皇(持明院統)は、南朝初代・第96代・後醍醐天皇(大覚寺統)に対抗した。光明天皇は、北朝第1代・光厳天皇(持明院統)が位に就く際に用いた土御門東洞院殿(現在の京都御所)を、1332年に皇居(内裏)と定めている。以後、近代、1869年の東京遷都まで続いた。
◆清少納言・紫式部 紫式部と清少納言の平安時代を代表した女性文学は、同時期に御所になった枇杷殿で各々奉仕していた。
 1000年に、彰子(しょうし)が第66代・一条天皇の中宮になり、定子(ていし)は皇后になり一代二后の例を開いた。紫式部は彰子に仕えた。他方、清少納言は定子に出仕している。同年に定子の没後は、清少納言はその遺児・脩子内親王(一条天皇第1皇女)に仕えている。
 1009年10月に一条天皇の一条殿が焼失し、天皇は中宮・彰子とともに枇杷殿を御所にした。同年閏2月-11月に、脩子内親王らも御所にしており、清少納言が当邸で仕えたという。
 1010年に紫式部は、清少納言を『紫式部日記』中で厳しく批評した。「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さかしだち、真名(まんな)書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいとたへぬこと多かり(清少納言は全く得意顔で偉そうにしている人だ。賢ぶって漢字を書き散らしているものの、よく見るとまだまだ至らぬ点が沢山ある)」と記した。
 清少納言の随筆『枕草子』は、1000年頃/996年-1008年に成立したという。紫式部の『源氏物語』は1004年頃/1001-1005年頃成立という。両者は競い合い、平安女性文学の双璧とされた。清少納言は、明るい人柄で、多くの人に敬愛されたという。他方、紫式部は内向的な人柄だった。紫式部は清少納言を強く意識していた。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 京都市の駒札、『平安京散策』、『京都市の地名』、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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