九条邸跡 (京都市上京区)  
Ruins of of Kujo-tei Rresidence
九条邸跡 九条邸跡
50音索引,Japanese alphabetical order  Home 50音索引,Japanese alphabetical order  Home

「九條邸跡」の木標


拾翠亭


高倉橋、勾玉池(九条池)


勾玉池(九条池)


【参照】江戸時代、慶応年間(1865-1868)の御所周辺、左上に禁裏(茶色部分)、九条殿はその下の緑色部分、環境省京都御苑管理事務所の案内板より
 京都御苑最南端に九条邸跡(くじょうてい-あと)の木標、駒札が立てられている。
 現在は、勾玉池(九条池)畔に庭園跡、九条池(勾玉池)、高倉橋、鎮守社の厳島神社、茶室「拾翠亭(しゅうすいてい)」などが残る。
◆歴史年表 安土・桃山時代、豊臣秀吉(1536-1598)は、禁裏御所南に九条家の領地を移させた。
 江戸時代、九条尚忠(1798-1871)の邸が幕府と朝廷の交渉の場になる。
 1864年、蛤御門の変(禁門の変)で、会津藩は九条邸より砲撃で長州藩に応戦した。
 近代、1870年、8月、禁裏御所内の公家邸宅地は京都府の管轄になる。
 1871年、母屋などの主要建物は、九条公爵邸(東京赤坂)に移築された。11月、内裏内の公家町は隣接する町組に分割された。
◆九条兼実 平安時代後期-鎌倉時代前期の公卿・政治家・九条兼実(くじょう-よしみち、1149-1207)。後法性寺殿、後法性寺入道関白、月輪殿、月輪関白、法名は円証。摂関家・藤原忠通の3男、母は女房・加賀局(藤原仲光の娘)。弟は慈円。1156年、異母姉・皇嘉門院の猶子、1158年、兄・基実の猶子として元服した。1160年、正三位、権中納言、1161年、従二位、権大納言、右大将、1164年、内大臣を経て、1166年、右大臣に進み、1174年、従一位に昇る。1179年、平清盛の権力奪取後、1185年、源頼朝内覧の宣旨により、1186年、頼朝の後援で摂政・藤原氏長者になる。1187年、記録所を設ける。1189年、太政大臣になった。1190年、娘・任子を入内させ、第82代・後鳥羽天皇中宮になった。1191年-1196年、関白、1192年、後白河法皇(第77代)没後、頼朝に征夷大将軍を宣下した。1196年、政変により政敵・源(土御門)通親(みちちか)に追われ、関白職は罷免され失脚した。任子は宮中を退き、慈円も天台座主の地位を追われる。息子、妻を亡くし浄土信仰し、法然に帰依した。1202年、出家し法性寺に住して円証と号した。晩年、法性寺の傍らに月輪殿を営み住んだ。59歳。
 源頼朝と結び、摂政・関白になった。慈円の後見になり仏教界に影響を及ぼす。東寺、興福寺、東大寺の修造・造営、朝廷の公事・行事を再興した。故実に通じ、和歌に親しみ、藤原俊成・定家らの庇護者になる。典礼、音楽、書に秀でた。『千載集』『新古今集』など勅撰和歌集に入集。40年間の日記『玉葉(ぎょくよう)』がある。
 法性寺に葬られ、墓は東福寺(東山区)内にある。九条家の始祖になる。
◆宜秋門院 平安時代後期-鎌倉時代中期の公卿女性・宜秋門院(ぎしゅうもんいん、1173-1238)。京都の生まれ。名は任子(じんし)、法名は清浄智。父は九条兼実(かねざね)、母は藤原季行(すえゆき)の娘・兼子。1189年、従三位、1190年、入内し女御、第82代・後鳥羽天皇中宮になる。1195年、昇子内親王(春華門院)を産む。1196年、兼実は失脚した。内裏を退出し、両親、兄・良経と九条に住む。1200年、院号を受け、1201年、法然を戒師として落飾した。1204年、兼実より最勝金剛院寺地、寺領荘園などを女院庁領として譲与された。1212年、院号・年給年爵を辞している。66歳。
 父・兼実に期待された皇子誕生はかなわなかった。没後、所領は九条道家に伝えられた。
◆九条良経 鎌倉時代前期の公卿・九条良経(くじょう-よしつね、1169-1206)。号は後京極摂政、中御門殿。摂政・関白兼実(かねざね)の2男、母は藤原季行(すえゆき)の娘。娘・立子(東一条院)は第84代・順徳天皇の中宮。1179年、元服した。1185年、従三位。1188年、兄・良通が早世し九条家の嫡子になる。1189年、権中納言、権大納言兼左大将、1195年、内大臣になる。1196年、源(土御門)通親の策謀により兼実は関白を辞めさせられ、良経も籠居の身になる。1199年、許され左大臣になる。1202年、通親が死去し、後鳥羽上皇(第82代)の意により第83代・土御門天皇の摂政になる。1204年、従一位、太政大臣になった。1206年、父に先だち急逝した。刺殺ともいう。38歳。
 和歌を藤原俊成に学び、式部史生、秋篠月清、南海漁父、西洞隠士と称した。定家らの庇護者になり、後鳥羽院に認められて和歌所寄人になる。『新古今和歌集』の仮名序の作者、歌集『秋篠月清集』がある。有職故実に通じ、書は後京極流の祖になる。日記『殿記』がある。
 九条家2代になる。
◆九条道家 鎌倉時代前期-中期の公卿・歌人・九条道家(くじょう-みちいえ、1193-1252)。幼名は三寅丸、通称は光明峯寺殿、法名は行慧、東山。良経の長子、母は一条能保(よしやす)の娘(源頼朝の姪)。兼実の孫、子に最勝光院の道智上人、第87代・四条天皇の外祖父。1205年、従三位、権中納言、非参議になる。1206年、良経の没後、家督を継ぐ。1212年、内大臣、1215年、右大臣、1218年、妹・立子の産んだ懐成(かねなり)親王(第85代・仲恭天皇) が皇太子になり東宮傅になる。1219年、第3代将軍・源実朝が暗殺され、幕府の要請により4男・頼経を後任として鎌倉へ送る。1221年、仲恭天皇の摂政、氏長者になる。後鳥羽上皇(第82代)の討幕の挙兵、承久の乱が起こり辞任した。1226年、子・頼経が4代将軍(摂家将軍)になる。岳父・西園寺公経により道家は復権し権勢をふるう。1228年、関白・摂政になり、九条・西園寺両家の提携によって進められ、家は栄えた。1230年、娘・竴子(しゅんし)は第86代・後堀河天皇中宮になる。1232年、子・教実は第87代・四条天皇の摂政になり、実権は道家が握った。1236年、東福寺を建立した。1238年、法性寺で出家し、引き続き政務に携わる。1243年、子・良実が関白になる。1244年、公経の没後は関東申次(もうしつぎ)になり、朝廷と幕府との間の連絡にあたった。頼経が将軍職を北条氏に追われ、1246年、良実に強要して関白を弟・実経に譲らせ摂政とした。1252年、孫・5代将軍・頼嗣も追われた。道家自身も失脚した。日記『玉蘂(ぎょくずい)』がある。60歳。
 道家自ら摂政・関白に就き、3子の教実・良実・実経も摂関になり、一時、九条家は全盛を迎えた。仏教を篤く信仰した。勅撰集に多くの和歌を収められた。毘沙門谷光明峰寺に葬られる。
 九条家3代になる。
◆東一条院  鎌倉時代前期-中期の公卿女性・東一条院(ひがしいちじょういん、1192-1248)。名は立子(りっし)。京都の生まれ。摂政・九条良経(よしつね)の娘、母は一条能保(よしやす)の娘。1209年、東宮守成(第84代・順徳天皇)の御息所(みやすどころ)になり、1211年、中宮になる。1217年、明義門院、1218年、懐成(かねなり)親王(第85代・仲恭天皇)を産む。1221年、承久の乱後、順徳天皇は佐渡に流された。1222年、院号宣下。1226年、尼になり清浄観と称した。仲恭天皇と九条殿に同居した。56歳。
◆九条頼経 鎌倉時代前期-中期の公卿・九条頼経(くじょう-よりつね、1218-1256)。幼名は三寅(みとら)、法名は行智(賀)。京都の生まれ。関白・道家(みちいえ)の4男、母は西園寺公経の娘・倫子。1219年、3代将軍・源実朝が暗殺され、源氏の正統が絶えた。祖母が頼朝の姪のため、2歳の頼経は鎌倉に迎えられ、頼朝の後家・北条政子が政務を行った。1225年、政子の死後に、元服して頼経と名乗る。1226年、鎌倉幕府4代将軍(第1代摂家将軍)に任じられた。1230年、2代将軍・頼家(よりいえ)の遺子・鞠子(竹御所)と結婚した。幕府実権は執権・北条氏が握り、名目上の将軍にすぎなかった。1244年、北条氏は御家人との間が親密になるのを恐れ、将軍職を子・頼嗣(よりつぐ)に譲らされた。頼経は、大殿(おおとの)と呼ばれ勢力を持つ。1245年、出家する。1246年、執権・北条時頼に対し、北条一門の名越光時が頼経に接近し、執権の地位を奪おうとしたとして、頼経は京都に送還された。(宮騒動)。晩年、不遇のうちに没した。39歳。
◆九条頼嗣 鎌倉時代中期-後期の公卿・九条頼嗣(くじょう-よりつぐ、1239-1256)。京都の生まれ。前将軍・九条頼経の子、母は藤原親能の娘。1244年、執権・北条経時に推され、父の譲りにより6歳で鎌倉幕府5代将軍(第2代摂家将軍)になった。1246年、父頼経は陰謀に関係して京都に追われ,祖父・前摂政九条道家も失脚した。1251年、僧・了行(りょうぎょう)らの幕府転覆の陰謀事件に父・頼経が関与したとして、北条氏は九条家と絶縁した。頼嗣は将軍職を解任される。1252年、後嵯峨上皇(第88代)の皇子・宗尊親王が将軍になり、頼嗣は京都に送還される。不遇のうちに死去した。18歳。
◆藻璧門院 鎌倉時代前期-中期の公卿女性・藻璧門院(そうへきもんいん、1209-1233)。名は竴子(しゅんし)。九条道家の娘、母は藤原綸子(りんし)。鎌倉幕府4代将軍・九条頼経(よりつね)の姉。1229年、入内して女御になり、1230年、第86代・後堀河天皇中宮になる。1231年、秀仁(みつひと)親王(第87代・四条天皇)、1232年、暐子内親王を産む。1233年、院号を受けた。25歳。
◆一条実経 鎌倉時代前期-後期の公卿・歌人・一条実経(いちじょう-さねつね、1223-1284)。法名は行祚、号は円明寺関白。九条道家の4男/3男、母は西園寺公経の娘・藤原綸子(りんし)/揄子(ゆし)。父・道家は次兄・良実(よしざね)と不仲であり、実経は寵愛された。1233年、従三位になる。1235年、長兄・教実(のりざね)は早世する。1246年、父に解任された良実の後任として関白、摂政になる。以後、一条家は摂関を出す家格になった。1246年、兄・前将軍・九条頼経(よりつね)の陰謀嫌疑により、頼経は鎌倉から追われた。(宮騒動)。1247年、実経も摂政を罷免され、父とともに失脚する。その後、良実と和解して復帰し、1263年、左大臣、1265年、関白に再任された。その後、次第に朝廷内での勢力を失い、実権は良実、西園寺実氏に移った。晩年、円明寺に隠棲し円明寺殿と呼ばれる。『続後撰和歌集』など勅撰集に入集、歌集『円明寺関白集』。62歳。
 従一位。五摂家の一つ、一条家の祖になる。
◆二条良実 鎌倉時代前期-中期の公卿・二条良実(にじょう-よしざね、1216-1270)。京都の生まれ。号は普光園院(ふこうおんいん)、法名は行空。父は九条道家(みちいえ)の次男、母は西園寺公経の娘・綸子(りんし)。1226年、元服、1229年、従三位、のち権中納言、春宮権大夫兼左近衛大将、権大納言、内大臣、右大臣を歴任した。1238年、従一位、左大臣、1242年、関白、氏長者になった。1246年、父の寵愛する弟・一条実経(さねつね)に関白を譲る。同年、道家は名越光時の乱、1247年、三浦氏の乱に連座し、摂政・実経ともに失脚した。良実は北条氏に内通したとして父から義絶され、所領の分配も受けず、二条家を創設した。鎌倉の将軍・九条頼経(道家の子)、頼嗣(頼経の子)をめぐる政争により、九条家が実権を失い、1261年、関白に還任した。1265 年、関白を辞した。1270年、出家した。55歳。
 従一位。五摂家の一つである二条家の祖になる。
◆九条政基 室町時代中期-後期の公卿・九条政基(くじょう-まさもと、1445-1516)。法号は慈眼院、慈眼院殿。父は前関白・九条満教(みつのり)、母は権大納言・唐橋在豊(からはし-ありとよ)の娘。1459年、元服、従四位下右少将として出仕、1460年、従三位非参議から中納言になる。1461年、権大納言、1462年、従二位になる。1465年、兄・政忠の隠居で九条家の家督を継いだ。1468年、正二位右大臣、1475年、左大臣、1476年、従一位、関白氏長者になった。1479年、関白氏長者を辞し、1482年、家督を子・尚経(ひさつね)に譲った。1491年、准三后になる。1496年、子・尚経と共に従兄弟・家司・唐橋在数(ありかず)を自亭で殺害した。家領の和泉国日根荘(ひねのしょう)入山田村の経営をめぐる争いだった。父子ともに勅勘を受け、朝廷への出仕を停止された。1498年、尚経が勅勘を解かれ政基は剃髪する。1501年-1504年、勅勘を解かれぬまま、守護細川氏の押領に苦しむ日根荘に下向、滞留し荘園の直接支配に従事した。1505年、山城国小塩(おしお)荘(西京区)の年貢収納のために下向し、直務支配を行った。晩年、尚経と争う。下向時の日記『政基旅引付(たびひきつけ)』がある。72歳。
 墓は普門寺にある。九条家14代になる。
◆九条稙通 室町時代後期-安土・桃山時代の公卿・歌学者・九条稙通(くじょう-たねみち、1507-1594)。通称は九条禅閤、号は玖山、法名は行空、恵空。九条尚経(ひさつね)の子。1514年、従三位。内大臣を経て、1533年、関白、長者になる。1534年、辞任した。1555年、従一位、出家した。88歳。
 古典、有職故実に通じた。外祖父・三条西実隆(さねたか)から『源氏物語』を学び、注釈書『孟津(もうしん)抄』、紀行文『嵯峨記』、『百人一首註』など。
 九条家16代になる。
◆九条尚忠 江戸時代後期-近代の公卿・九条尚忠(くじょう-ひさただ、1795-1871)。法名は円真。父は二条治孝、母は信子。九条輔嗣(すけつぐ)の嗣子になる。1858年、日米修好通商条約の締結により、1856年、関白として第121代・孝明天皇を補佐する。佐幕派として幕府との協調路線をとる。将軍継嗣問題で徳川慶福(家茂)擁立を図る南紀派につく。孝明天皇、廷臣の不信により、内覧を辞職した。のち幕府の擁護があり、朝廷に圧力をかけて復職した。1862年、和宮降嫁を進め公武合体に尽力した。朝廷で実権を握った攘夷派の糾弾により、関白・内覧を辞した。岩倉具視らと落飾・重慎に処せられ九条村に閉居する。1867年、謹慎・入洛禁止を免除され還俗を許される。准三宮。74歳。
 九条家29代になる。
◆九条道孝 江戸時代後期-近代の公卿・華族・九条道孝(くじょう-みちたか、1839-1906)。九条尚忠(ひさただ)の長男。4女・節子は、第123代・大正天皇后の貞明皇后。1856年、従三位。1864年、国事御用掛になる。1867年、左大臣になる。父・尚忠と同じく佐幕派とみなされ、王政復古の大号令渙発により国事御用掛を免じられ、参朝を停止された。1868年、許され、戊辰戦争で奥羽鎮撫総督として東北諸藩に会津藩征討の命を発し、東北各地を転戦した。従一位、氏長者になる。1871年、宮中で天皇の諮問に答える麝香間祗候(じゃこうのま-しこう)になる。1884年、公爵、掌典長になった。毛利元徳ら上層華族らの連名により、華族会館の社交クラブ化を目指した意見書を提出し、会館運営をめぐり華族界の内紛になる。1890年、貴族院議員になる。68歳。
 九条家31代になる。
◆貞明皇后 近代の皇族・貞明皇后(ていめい-こうごう、1884-1951)。名は節子(さだこ)。公爵・九条道孝(みちたか)の第4女。高円寺の農家で育つ。1898年、華族女学校小学部を卒業した。1900年、皇太子・明宮嘉仁(はるのみや-よしひと)親王(第123代・大正天皇)と結婚した。1901年、裕仁(ひろひと、第124代・昭和天皇)、1902年、雍仁(やすひと、秩父宮)、1905年、宣仁(のぶひと、高松宮)を産む。1912年、第122代・明治天皇の没後、嘉仁親王践祚により皇后の宣下を受けた。1915年、崇仁(たかひと、三笠宮)をもうける。即位の大典を挙行した。1926年、大正天皇の死去により皇太后になる。1930年、大宮御所(赤坂離宮御苑内)に移る。貞明皇后と追号された。66歳。
 婚姻により、皇室の一夫一婦制が宮中に初めて確立した。病弱な大正天皇に尽くした。国際親善、救癩(きゅうらい、ハンセン病患者救済)、養蚕事業の援助、灯台職員慰問などを行う。和歌・漢詩をたしなみ、『貞明皇后御集』に収められている。
 陵墓は多摩東陵(東京都)になる。
◆九条家 九条家(くじょうけ)は、藤原氏北家の嫡流、五摂家の一つになる。一時は広大な家領を所有し、代々摂政、関白に任じられることが多かった。
 平安時代後期の関白・藤原忠通(1097-1164)の3男・九条兼実(1149-1207)が始祖になる。家号は藤原師輔の九条殿が九条にあったこと因む。九条の坊名に因み陶化(とうか)ともいう。これは、京都の南東部の九条陶化坊に領地を有していたことによる。
 摂政・関白・氏長者の地位は、藤原道長(966-1027)の子孫・御堂流の嫡流だった。鎌倉幕府を開いた源頼朝(1147-1199)は、平家に近い摂政・近衛基通(もとみち、1160-1233)を排し、基通の叔父・兼実を摂政・氏長者に推した。以来、九条家は源氏将軍家との結び付きを強めた。九条家は兄・基実(もとざね、1143-1166)の近衛家と対立し、摂関家は二分される。
 兼実の娘・任子(宜秋門院[ぎしゅうもんいん]、1173-1238)は、第82代・後鳥羽天皇に入内した。兼実は任子に広大な女院庁領が譲与した。兼実の子が2代・良経(よしつね、1169-1206)が継いでいる。
 3代・道家(みちいえ、1193-1252)の子・良実(よしざね、1216-1270)、実経(さねつね、1223-1284)が、それぞれ五摂家の二条家、一条家を立てた。鎌倉幕府との関係深く、道家の子・頼経(よりつね、1218-1256)、頼経の子・頼嗣(よりつぐ、1239-1256)は、それぞれ鎌倉幕府4代・5代将軍になる。父子は摂関家出身の将軍であり、摂家将軍、藤原将軍と呼ばれた。
 14代・政基(まさもと、1445-1516)は、応仁・文明の乱(1467-1477)後に家経の立て直しを図る。16代・稙通(たねみち、1507-1594)は古典、有職故実に通じた。
 安土・桃山時代に、豊臣秀吉(1536-1598)は、御所南に九条家の領地を移させている。
 江戸時代の家領は2000石、のち3000石になった。幕末に、29代・尚忠(ひさただ、1798-1871)は佐幕派、その子・31代・道孝(みちたか、1839-1906)は、官軍奥州鎮撫総督に任じられた。
 近代以降、九条家は公爵を授けられる。道孝の娘に第123代・大正天皇の貞明皇后(九条節子、1884-1951)がいる。
◆九条邸 九条邸は、現在の京都御苑の南西部にあった。安土・桃山時代に、豊臣秀吉(1537-1598)は、御所南に九条家の領地を移させている。最盛期に敷地は1万7000坪、建物も3800坪を有したという。
 現在は庭園、九条池(勾玉池)、池に架かる高倉橋、中島に鎮守社だった厳島神社、池畔に茶室「拾翠亭(しゅうすいてい)」などが残る。
 母屋などの主要な建物は、近代、1871年の東京移住命令に伴い、九条公爵邸(東京赤坂)に移築された。1934年に、九条道秀(1895-1961)より東京国立博物館(東京都台東区上野公園)に寄贈されている。移築され「九条館」と呼ばれている。
 10畳2室あり、廻り廊下を巡らしている。床張付などに狩野派による著色山水図が描かれている。欄間には花梨一枚板に藤花菱(ふじはなびし)が透し彫りされている。
 木造平屋建、瓦葺、間口15m、奥行10m。
◆九条家文書 「九条家文書」(3000点以上)がある。九条家に伝来した文書群であり、所領関係が中心になる。「皇嘉門院仮名譲状」、「九条兼実譲状」などは天理図書館(奈良県天理市)に所蔵されている。ほか所領関係、九条家本は宮内庁書陵部が所蔵している。『図書寮叢刊 九条家文書1-7』が公刊された。
◆蛤御門の変 幕末、1864年6月5日(新暦7月8日)の「池田屋事件」後、長州藩では家老・来島(木島)又兵衛、久留米の神官・真木和泉の尊攘派により、会津藩、薩摩藩、新撰組への報復の声が高まる。7月19日(新暦8月20日)、蛤御門の変(禁門の変)が起きる。
 7月中旬、2000人の長州藩士、浪士の隊列が伏見、山崎、嵯峨の3カ所に布陣した。7月19日、長州藩・福原越後の一隊は、藤森で大垣・福井藩兵に敗退する。長州藩・国司信濃の一隊は、御所の会津藩兵、薩摩藩兵と戦闘を開始した。天龍寺に布陣していた遊撃隊・来島の一隊は、御所の蛤御門を攻撃し、会津藩兵、桑名藩兵、薩摩藩兵と戦闘に入る。山崎の一隊は、堺町御門付近で戦闘になる。長州隊は、一時、会津藩を破り御所内に侵入した。その後、乾御門より駆け付けた薩摩藩兵に背後を突かれた。来島は蛤御門付近で撃たれ戦死、真木和泉、首謀・久坂玄瑞の隊は、堺町御門で福井藩兵と戦闘を交える。久坂は、御所内の鷹司邸に入り、鷹司の参内にお供し、朝廷への嘆願を依頼する。だが、聞き入れられず自刃した。長州藩は鷹司邸より大砲、小銃で堺町御門を攻撃する。会津藩は九条邸より砲撃で応戦した。長州藩は敗退した。真木ら一隊17人は、天王山に逃げ延びる。その後、近藤勇らの新撰組に攻められ山中で自爆、自刃した。
 鷹司邸より火の手が上った。長州藩は落ち延びる際に長州藩邸などに火を放ったことから、京中は「どんどん焼け」という大火に見舞われ、2万7513軒の家屋が焼失した。以後、朝敵になった長州藩に対して、二次の征長令が出された。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 駒札、『京都大事典』、『日本の名家・名門人物系譜総覧』、『岩波講座2 近代日本の文化史 コスモロジーの「近世」』、ウェブサイト「東京国立博物館」、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺,relevance&surrounding area京都御所・京都御苑1  関連・周辺,relevance&surrounding area京都御所・京都御苑2  関連・周辺,relevance&surrounding area拾翠亭(京都御苑)  近衛邸跡(京都御苑)  二条家邸跡  一条邸跡(京都御苑)   鷹司邸跡(京都御苑)  小一条院跡・花山院家跡(京都御苑)  土御門第跡(京都御苑)   枇杷殿跡(京都御苑)  西園寺邸跡(京都御苑)   賀陽宮邸跡(京都御苑)  橋本家跡(京都御苑)   中山邸跡(京都御苑)   有栖川宮邸跡(京都御苑)  桂宮邸跡(京都御苑)  染殿第(染殿)跡・染殿井跡(京都御苑)    閑院宮邸跡(京都御苑)  桜町(桜町屋敷跡・紀貫之邸跡)(京都御苑)  凝華洞跡(京都御苑)  清水谷家の椋・清水谷家 (京都御苑)  冷泉家  土御門内裏跡  関連・周辺凝華洞跡(京都御苑)  関連・周辺,relevance&surrounding area厳島神社(京都御苑)  周辺,surrounding area   関連,relevance歴代天皇データ      
京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 九条邸跡 〒602-0881 京都市上京区京都御苑
50音索引,Japanese alphabetical order  Hometop 50音索引,Japanese alphabetical order  Hometop
logo,kyotofukoh © 2006- Kyotofukoh,京都風光