賀陽宮邸跡 (京都市上京区)  
Ruins of of Kayanomiya-tei Residence(Emperor's Palace)
賀陽宮邸跡 賀陽宮邸跡
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 京都御苑の京都御所の南に、賀陽宮邸跡(かやのみやてい-あと)の駒札が立てられている。
 江戸時代に、この地には賀陽宮を創始した朝彦(あさひこ)親王の邸宅があった。
◆歴史年表 詳細は不明。
 江戸時代、この付近に、朝彦親王(1824-1891) の屋敷があり、明治維新前まで住んだ。
 近代、1870年、8月、内裏内の公家邸宅地は京都府の管轄になる。
 1871年-1874年、和宮が一時住んでいたという。1871年、11月、内裏内の公家町は隣接する町組に分割された。
 1877年-1880年、京都御苑内の華族士族などの土地は京都府により買上げられた。
 1931年、親王の邸宅跡に、没後40年周年として胎範碑(いはんひ)碑が建立される。 
◆朝彦親王 江戸時代後期-近代の皇族・朝彦親王(あさひこ-しんのう、1824-1891)。幼称は富宮、別称は青蓮院宮、粟田宮、中川宮、尹(いん)宮、賀陽(かやの)宮、一乗院入室、法名は尊応、尊融、名は成憲(なりのり)など。京都の生まれ。伏見宮邦家親王の第4子、母は女房・鳥居小路信子。1836年、第120代・仁孝天皇の養子になり、興福寺一乗院門跡になる。1837年、親王宣下、1838年、得度を受け尊応入道親王と称した。1852年、粟田口の青蓮院門跡になり尊融と改称した。天台座主になる。1858年、日米修好通商条約に反対し、将軍に一橋(徳川)慶喜を推した。1859年、安政の大獄により隠居・永蟄居処分になる。1862年、処分を解除され、青蓮院門跡に復した。国事用掛に就き、1863年、還俗して中川宮朝彦親王と称した。親幕派として公武合体論を唱え、孝明天皇の意を受け、会津藩・鹿児島藩と協力し、長州藩・尊王攘夷派公卿を京都より追放した。(八月十八日の政変)。1864年より、徳川慶喜と接近する。大政奉還の翌日に辞職した。賀陽宮 (かやのみや)と宮号を改称する。長州征伐は失敗し、1866年、22廷臣の列参奏上で弾劾され、辞意を表明し却下された。1867年、孝明天皇が亡くなる。小御所会議で長州派、尊攘派公卿らが復権した。1868年、徳川再興の陰謀を企てたとの嫌疑により、薩長に敵視された。王の位を剥奪され、広島に幽閉された。維新後に復権し、1870年、京都に戻る。1875年、親王の位を回復し、久邇宮家を創設した。伊勢神宮の祭主を務め、古儀、旧典調査、考証に努めた。1882年、伊勢に神宮皇學院(後の皇學院大学)を創設する。1889年、遷宮の儀式に従事した。著『朝彦親王日記』。68歳。
 墓は泉涌寺内(東山区)にある。
◆賀陽宮邦憲王 江戸時代後期-近代の皇族・賀陽宮邦憲王(かやのみや-くにのり-おう、1867-1909)。幼称は巌宮(いわのみや)、巌麿。久邇宮(くにのみや)(中川宮)朝彦親王の第2王子。神宮教院学寮に学ぶ。1886年、邦憲と改名した。1887年、病身のため、弟・邦彦(くによし)王に久邇宮家を譲る。1892年、醍醐好子と結婚し、京都に移住し賀陽宮の称号を授けられた。1895年、神宮祭主になる。1900年、久邇宮より分かれ宮家を創立した。43歳。
 賀陽宮家の初代になる。
◆賀陽恒憲  近現代の皇族・軍人・賀陽恒憲、かや-つねのり、1900-1978)。京都市生まれ。賀陽宮邦憲(くにのり)王の長男。1920年、陸軍騎兵少尉任官になる。1921年、九条道実の娘・敏子と結婚した。1926年、陸軍大学校卒。陸軍戸山学校校長などを経て、1943年、中将、貴族院議員になる。1945年、陸軍大学校校長になった。1947年、他の宮家とともに皇籍を離脱し、賀陽を姓にした。戦後、皇室掌典長兼御歌所(おうたどころ)長、日本大学顧問、東工学園理事、社会福祉法人敬老園を創設し、理事長、名誉総裁などを歴任した。77歳。
 軍歴としては、騎兵第1連隊付、騎兵第10、第16各連隊長、陸大兵学教官、東部第1部隊長、陸軍戸山学校長、名古屋師団長、東京師団長、航空総監部付などを歴任した。
 賀陽宮家2代になる。
◆梨本宮守正王 近現代の皇族・軍人・梨本宮守正王(なしもとのみや -もりまさ-おう、1874-1951)。多田。久邇宮朝彦親王の第4王子、母は原田光枝子。2代目梨本宮家相続にあたり、守正に改名した。1896年、陸軍士官学校を卒業後、歩兵第11連隊附になる。1900年、侯爵・鍋島直大の二女・伊都子と結婚した。方子女王、規子女王の2女が生まれる。1903年、フランスに留学する。1904年、大勲位菊花大綬章を受章した。日露戦争で、参謀本部に勤務し、第3軍付武官として出征した。1906年、功四級金鵄勲章を受章する。戦後、再びフランス留学し、フランス陸軍大学を卒業した。1914年-1916年、第一次世界大戦で、第16師団長など部隊長を歴任する。陸軍大将に累進し、元帥の称号を賜わる。1940年、大勲位菊花章頸飾を受章する。軍事参議官、日仏協会総裁、在郷軍人会総裁、大日本武徳会総裁などを歴任した。1943年、伊勢神宮祭主に就任する。 1945年、敗戦後に退役した。皇典講究所第6代(最後)・総裁に就任した。皇族唯一のA級戦犯容疑者になり、巣鴨プリズンに拘置される。半年後、不起訴で釈放になる。1946年、貴族院議員を辞職、1947年、皇籍離脱し、公職追放になる。76歳。
 没後、1952年、公職追放が解除された。
◆和宮親子内親王 江戸時代後期-近代の皇女・和宮親子内親王(かずのみや-ちかこ-ないしんのう、1846-1877)。幼名は和宮、親子(ちかこ)内親王。京都御所の東、橋本邸で生まれる。名は親子、和宮、静寛院宮。第120代・仁孝天皇の第8皇女、母は権大納言・橋本実久の娘・経子。第121代・孝明天皇の妹。1848年、3歳で宮中で歳替の儀を行う。孝明天皇の思し召しにより、1851年、6歳で有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王(17歳)と婚約した。1858年、長野主膳は、和宮の降嫁を献策する。1860年、桜田門外の変後、婚約破棄になり、朝幕関係融和のため、公武合体政策により政略結婚として降嫁の話が出る。孝明天皇は当初、反対した。桂宮邸に移る。1861年、内親王宣下、桂宮邸より江戸に出発し、14代将軍・徳川家茂の正室として降嫁した。以後、政局の進展は見られなかった。1862年、婚儀、1866年、家茂没後、落飾して静寛院と称した。この頃、母、夫、兄を相次いで失う。1867年、大政奉還以降、徳川家救済のため朝廷との間で尽力した。1868年、戊辰戦争で熾仁親王は東征大総督になり、江戸城を目指した。和宮は親王宛に江戸城中止を懇願する。1869年、和宮は京都に戻り聖護院を仮殿にした。その後、旧中川宮朝彦親王邸に移り栄御殿と称し、1874年まで過ごした。東京に戻る。1877年、療養地の箱根で亡くなる。墓は芝・増上寺に夫ともに葬られた。32歳。
◆賀陽宮 宮号の賀陽宮(かやのみや)は、伏見宮貞敬親王(1802-1872)の第4王子・朝彦親王(1824-1891)は、南都一乗院に入り尊応法親王、のち粟田青蓮院に移り尊融と称した。1863年に中川宮と称し、1864年に賀陽宮に改めた。1875年に久邇宮(くにのみや)に改める。
 朝彦親王の第2王子・邦憲王(1867-1909)は、1892年に賀陽宮と称し復活した。1900年に宮家を創立する。2代は邦憲王の第1王子・恒憲王(1900-1978)になる。戦後、1947年に廃号になった。皇籍離脱により賀陽を名乗る。
◆賀陽宮邸・胎範碑 朝彦親王(1824-1891)が住した賀陽宮邸は、烏丸通から付近一帯に屋敷があった。親王は明治維新前まで住んだ。近代、1871年-1874年には、和宮が一時住んでいたという。
 賀陽宮の宮号は、邸宅にあったイチイ科常緑針葉高木の榧(かや)の巨木に因んだという。
 すぐ近くにある胎範碑(いはんひ)に、朝彦親王の第2王子・邦憲王の名がある。胎範とは「模範を残す」の意味になる。朝彦親王が国事・維新事業に貢献したことを称え、没後40年の1931年に、親王の邸宅跡に立てられたという。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 駒札、『日本の名家・名門人物系譜総覧』、『歴史読本 天皇宮家人物総覧』、『岩波講座2 近代日本の文化史 コスモロジーの「近世」』、ウェブサイト「コトバンク」


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