京都守護職屋敷門 (京都市左京区)  
Kyoto Shugoshoku(military governor of Kyoto) Gate
京都守護職屋敷門 京都守護職屋敷門
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 平安神宮の西にある駐車場北側に「京都守護職屋敷門(きょうと-しゅごしょく -やしきもん)」が建てられている。会津藩関連の建造物遺跡になる。
 門脇に近代の俳人・鈴鹿野風呂(すずき-のふろ)の「薫風句碑」が立てられている。
◆歴史年表 江戸時代後期、1865年、京都守護職屋敷門は、旧武徳殿の正門(南門)として移築される。
 現代、1964年、薫風句碑は大日本武徳会・武道専門学校により立てられた。
◆松平容保 江戸時代後期-近代の大名・松平容保(まつだいら-かたもり、1836-1893)。名は忠誠、通称は銈之允、号は祐堂、芳山、若狭守、肥後守。江戸の生まれ。美濃(岐阜県)・高須藩主・松平義建(よしたつ)の6男。松平容敬(かたたか)の養子になり、1852年、陸奥会津藩藩主・松平(保科)家9代になり、襲封(領地を受け継ぐ)した。1853年、ペリー来航に際し、井伊直弼とともに国書受理に賛成した。1860年、桜田門外の変で直弼の暗殺後、1862年、幕政改革で幕政参与になる。8月、幕府による再三の要請により初代・京都守護職・正四位下に任じられた。12月、会津藩兵を率いて上洛し、金戒光明寺を宿舎にした。朝廷との交渉、配下の新撰組などを使い、将軍家警護、尊王攘夷派志士弾圧など京都の治安維持にあたる。第121代・孝明天皇の信任を受け公武合体を推進した。1863年、八月十八日の政変を実現し、中川宮、薩摩藩、桑名藩と協力し、長州藩などの攘夷親征を計画した尊攘派を京都から追放した。弟の所司代・松平定敬と京都の治安を確保した。参与として、一橋慶喜、松平慶永らと朝政に参画し、公武合体策による国政挽回を図る。内部対立のために失敗した。1864年、禁門の変(蛤御門の変)で、薩摩藩・桑名藩とともに長州藩を撃退する。一時、前福井藩主・松平慶永が2代・京都守護職に就き、すぐに容保が再任される。1865年-1866年、長州征伐に陸軍総裁職(のち軍事総裁職)に就く。慶喜と協力し条約勅許問題などで動く。1867年、薩摩・長州藩の画策により、容保誅戮(ちゅうりく、罪ある者を殺す)の宣旨が出される。11月、大政奉還後、慶喜とともに大坂に退去し、海路、江戸へ逃れた。1868年、1月、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗戦後、慶喜は再挙を呑まず江戸に帰った。新政府は容保が慶喜に次ぐ朝敵とし、奥羽鎮撫総督は会津処分を決定した。5月、これに対抗し、会津で佐幕派の米沢藩、仙台藩など東北30余藩による奥羽越列藩同盟が結成される。容保はその中心になり、東北・北越に転戦し、9月、会津若松城で降伏した。(会津戦争)。その後、鳥取藩、和歌山藩に永預(えいあずけ)になる。1872年、謹慎が解除される。1880年、日光東照宮宮司、上野東照宮祠官を兼務した。59歳。
◆鈴鹿野風呂 近代の俳人・鈴鹿野風呂(すずき-のふろ、1887-1971)。京都府生まれ。1916年、京都帝大学国文科卒、鹿児島・川内中学の教諭になる。1920年、文科教授として京都・武道専門学校教授になる。同年、「小男鹿(さおしか)俳句会」を起し指導した。俳人・日野草城らと『京鹿子』を創刊した。1947年、武道校長として終える。1959年、句会は再興する。西山専門学校、大阪成蹊女子大教授を歴任した。『ホトトギス』に投句し、句集『野風呂句集』(1926)などがある。30万余句を残したという。83歳。
◆京都守護職屋敷門 江戸時代後期、1865年、会津藩主・松平容保が本陣にした京都守護職屋敷門は、旧武徳殿(1899年建立)の正門(南門)として移築される。なお、京都守護職屋敷はその後失われた。
 なお、屋敷門は、この地の北西1km、聖護院村にあった会津藩下屋敷門を移築したともいう。
 武徳殿は、平安遷都1100年祈年事業である平安神宮造営と同時期に建てられた。大日本武徳会の演武場として使用されていた。
◆京都守護職 江戸時代末期、1854年のペリー来航以後、当初は彦根藩主・井伊直弼(1815-1860)が京都守護の任に就いた。
 1862年、幕府は京都守護職(きょうとしゅごしょく)を設置する。親藩の陸奥会津藩主・松平容保(1836-1893)が任命される。指揮下に京都所司代、大坂城代があり、配下に新撰組があった。1864年、第一次長州征伐の際には、前福井藩主・松平慶永(1828-1890)が一時就任している。
 守護職の目的として、禁廷護衛、朝廷・公卿動向の統制・監視、西国雄藩の動静牽制、反幕府勢力の鎮圧などがあった。1867年 、王政復古の大号令とともに廃止された。
◆句碑 「薫風句碑(左文右武句碑)」は、現代、1964年、大日本武徳会 武道専門学校により立てられた。洛北高尾の石を用いている。俳人・鈴鹿野風呂にゆかりのある旧武道専門学校の正門脇に立てられた。
 碑には「風薫る 左文右武(さぶんゆうふ)学舎跡 野風呂(のふろ)」と刻まれている。
 「右文左武」とは、「左武右文」ともいう。文と武を重んじて尊ぶ文武両道を意味している。



*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都大事典』、『幕末京都歴史ウォーキング』、ウェブサイト「コトバンク」、説明板


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map 京都守護職屋敷門 〒606-8341 京都市左京区岡崎西天王町
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