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拾翠亭 (京都市上京区) Shusui-tei |
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拾翠亭 | 拾翠亭 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 玄関 ![]() 露地、飛石 ![]() 露地、蹲踞 ![]() 露地、ツワブキ ![]() 玄関 ![]() 飛石 ![]() ![]() 拾翠亭 ![]() 拾翠亭、鯱、九条家家紋の鬼瓦。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 勾玉池(九条池) ![]() 庭園、石橋 ![]() 高倉橋、庭園の苔地 ![]() 露地庭 ![]() 勾玉池(九条池)の滝組 ![]() 控えの間 ![]() 控えの間 ![]() 控えの間、石垣貼り ![]() ![]() ![]() 広間 ![]() 広間より見た勾玉池(九条池) ![]() 広間、釘隠し ![]() ![]() ![]() 広縁、左の板敷、右の榑縁 ![]() 広縁の天井、左の鏡天井、右の化粧屋根裏天井 ![]() ![]() ![]() 広縁下の石組 ![]() 広縁先の汀 ![]() 蹲踞 ![]() 蹲踞 ![]() 蹲踞 ![]() 露地 ![]() ![]() ![]() ![]() 小間 ![]() 小間 ![]() 小間 ![]() 水屋 ![]() ![]() 二階座敷 ![]() 二階座敷、床 ![]() 二階座敷 ![]() 二階座敷、丁字七宝 ![]() 障子の石垣貼 ![]() 二階座敷 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 四阿 ![]() 四阿、明り窓 ![]() 四阿の屋根上の獅子像 ![]() 庭園、ホトトギス ![]() 庭園、井戸 ![]() 庭園、石橋 ![]() 庭園 ![]() 庭園、スギゴケ ![]() 庭園、高倉橋 ![]() 勾玉池(九条池) ![]() ![]() ![]() 高倉橋からみた建礼門 ![]() 九条池 ![]() ![]() 九条池 ![]() 【参照】近代、明治期(1868-1912)初期の拾翠亭 、閑院宮邸跡収納展示館の展示より ![]() 【参照】拾翠亭 庭園模型、中央に高倉橋、閑院宮邸跡収納展示館の展示より |
京都御苑内に九条(九條)家の遺構「拾翠亭(しゅうすい-てい)」が建てられている。かつてこの地には、五摂家の一つ、九条家の屋敷があり、別荘として使用されていた。 現在は、拾翠亭と池だけが残されている。九条家の現存唯一、また、現存する貴族の茶室として数少ない遺構とされている。 アメリカ合衆国の日本庭園専門誌"Sukiya Living Magazine, The Journal of Japanese Gardening"の「しおさいプロジェクト」「日本庭園ランキング(数寄屋生活空間)」に、2007年に第23位に選ばれている。 ◆歴史年表 江戸時代、1778年頃、庭園が作庭されたという。 寛政年間(1789-1801)、建物が造立された。 幕末、米総領事・ハリスの通商条約締結要請に対し、開国派の関白・九条尚忠は、その向かい東隣の屋敷にあった攘夷論の太政大臣・鷹司政通と対立した。幕府と朝廷の交渉は尚忠邸で行われた。 1864年、禁門の変では焼失しなかった。 近代、1869年、第122代・明治天皇、最後の藤原氏長者・左大臣・九条道孝は東京に移った。 1878年、勾玉池(九条池)に仮橋が架けられる。 1882年、池に現在の高倉橋が架かる。 ◆九条 兼実 平安時代後期-鎌倉時代前期の政治家・九条 兼実(くじょう-よしみち、1149-1207)。男性。父・摂関家・藤原忠通、母・女房加賀(藤原仲光の娘)。1166年、右大臣になる。1156年、異母姉の皇嘉門院の猶子、1158年、兄・基実の猶子として元服、左近衛権中将、権中納言、左近衛権中将、権大納言・右近衛大将、内大臣を経て、1166年、右大臣に進み、1174年従一位に昇る。1179年、平清盛の権力奪取後、1185年、頼朝内覧の宣旨により、1186年、摂政・藤原氏長者になる。1187年、記録所を設ける。1189年、太政大臣、1190年、娘・任子を入内させ、第82代・後鳥羽天皇中宮になる。1192年、後白河法皇(第77代)没後、頼朝に征夷大将軍を宣下する。だが、1196年、政変により失脚した。弟の天台座主・慈円の後見になり仏教界に影響を及ぼす。息子、妻を亡くし法然へ帰依した。1202年、出家、円証と号した。後法性寺殿、月輪殿と称された。59歳。 和歌に親しみ、藤原俊成・定家らの庇護者になる。40年間の日記『玉葉(ぎょくよう)』がある。 九条家を興した兼実は法性寺に葬られ、墓は東福寺(東山区)内にある。 ◆九条 尚忠 江戸時代後期-近代の公家・九条 尚忠(くじょう-ひさただ、1795-1871)。男性。父・二条治孝、母・信子。九条輔嗣の嗣子。1858年、日米修好通商条約の締結により、1856年、関白として幕府との協調路線をとる。将軍継嗣問題では徳川慶福(家茂)擁立を図る南紀派につく。第121代・孝明天皇、廷臣の不信により、内覧を辞職しのち復職した。1862年、実現した和宮降嫁を進め公武合体に尽力した。攘夷派の糾弾により、1862年、関白・内覧を辞し、岩倉具視らと落飾・重慎に処せられ九条村に閉居した。1867年、免除され還俗を許される。74歳。 ◆九条家 九条家(くじょうけ)は、藤原氏北家の嫡流、五摂家の一つになる。家号は始祖・九条兼実(1149-1207)の九条殿に因む。兼実は関白・藤原忠通(1097-1164)の3男になる。九条の坊名に因み陶化(とうか)ともいう。これは、京都の南東部の九条陶化坊に領地を有していたことによる。 平安時代後期、摂政・関白・氏長者の地位は、藤原道長の子孫・御堂流の嫡流だった。鎌倉幕府を開いた源頼朝(1147-1199)は、兼実を摂政・氏長者に推挙した。以後、九条家は兄・基実(1143-1166)の近衛家と対立し、摂関家は二分される。孫・道家の子・良実(1216-1270)、実経(1223-1284)が、それぞれ五摂家の二条家、一条家を立てた。 安土・桃山時代、豊臣秀吉は、御所南に九条家の領地を移させた。九条家は最盛期に敷地は1万7000坪、建物も3800坪を有したという。 幕末、関白・尚忠(1798-1871)は佐幕派、道孝(1839-1906)は、官軍奥州鎮撫総督に任じられた。近代以降、九条家は公爵になった。道孝四女は、第123代・大正天皇の貞明皇后(九条節子、1884-1951)になっている。 ◆拾翠 「拾翠亭」の「拾翠(しゅうすい)」とは、「緑の草花を拾い集める」の意味があるという。 平安時代、春まだ浅い頃、貴族は待ちきれずに野辺に出て、若菜、草花を摘んだという。その慣わしに因むという。 また「翠」には、鳥のカワセミを意味する。碧い羽を持つカワセミは、「翡翠(翡翆)鳥」「翡翠(翡翆、ひすい)」とも呼ばれた。古くは「翠鳥(そにどり)」などとも称された。かつて勾玉池(九条池)に、カワセミが数多く飛翔していたことから「拾翠」と名付けられたともいう。現在は、マガモ、アオサギなども飛来する。 ◆建築 拾翠亭は、40坪(130㎡)の広さがある。かつて、茶会、歌会などに使用された。 門より飛石を伝い、左に折れる。西面して「玄関」、その東の「控えの間」、北に「広間」、北端に「小間」がある。広間の東と北に池に面して広縁が付く。二階には「座敷」がある。数奇屋風の書院造、二階建。 ◈控えの間 「控えの間」(7畳半)は、玄関の東、広間の南にある。南、東は庭に面しており、二方向に窓が開いている。広間での茶席の際には、控えの間として使われた。北の襖を外すと、広間と一体として使うことができた。 ◈広間 一階の主室「広間」(10畳)は、寝殿造の様式を残した書院造になる。西側北寄りに床(1間)があり、床柱は皮付丸太、炉は四畳半切(点前畳に接した外側の畳に切る出炉のうち、点前畳が丸畳で、点前畳の長辺を二等分した位置から下座側に炉が切られている)で茶室にもなる。床脇の襖は太鼓襖(襖縁を設けない)であり、かつて墨絵の鳥の図が描かれていた。天井は竿縁天井(天井板を竿という部材で押さえて天井を張る)になる。 北と東を池に面しており、広縁が廻されている。広縁は、巾広板敷、榑縁に分かれる。天井もそれぞれ鏡天井、化粧屋根裏になっている。屋根は入母屋造、瓦葺、一部に杮(こけら)葺、頂に一対の鯱が載る。その下に九条家家紋の鬼瓦がある。 ◈小間 「小間」は茶席であり、三畳中板の席という。手前座(1畳)、客座(2畳)、その間に板(1尺5寸)に炉を切る。客座中央に床、床脇の給仕口は引違の太鼓襖、床柱は百日紅の曲木、相手柱に杉の磨丸太、床框に黒柿、落掛にヘゴシダが用いられている。広間に隣接し、二つの茶席として利用されていた。 ◈障子貼り 障子は「石垣貼り」という貼り方になる。一枚の紙を用いず、継目のついた紙を桟割に合わせて2分の1ずつずらして貼る。熟練が必要とされる。障子、欄間、茶室の明かり窓もこの貼り方で統一されている。 ◈二階座敷 階段より「二階座敷」(2間半)に上る。南西隅に踏込床(床框を用いず、畳面と同一平面に床板を設けた)、床柱は皮付丸太、落掛は湾曲した雑木、床脇に天袋を吊り、下に書院風の中敷居窓を開けている。北、東、南に縁高欄が廻されている。 ◆茶室 茶室は、亭の北にある。三畳中板、台目切、床柱にサルスベリの古木、へ後ヘゴの茎を用いている。 ◆庭園 勾玉池(九条池)を中心とした池泉回遊式庭園になる。建物の南、東、北に池は広がる。江戸時代後期、1778年頃に作庭されたという。面積は7200㎡(東西90m、南北60m)ある。 拾翠亭からの東の眺めを前提として造られたといわれ、東山の稜線を借景としていた。かつては二階より東に、大文字山を望むことができた。現在は樹木が繁茂し、当初の借景は隠されている。 池は、勾玉(まがたま)形の勾玉池(九条池)といわれる。東南隅に滝組があり、かつては鴨川の水が引かれていた。池中に岬があり、交互に突き出している。 池の中央、南北方向に高倉橋が架かけられ、現在では景色の一つになっている。池には野鳥が訪れる。 拾翠亭の南、西、北に露地庭があり、苔、飛石、蹲踞などで構成されている。庭内にツバキ、コムラサキ、サルスベリなどの植栽がある。 池の西よりの中島には九条家の鎮守社・厳島神社が祀られている。 ◆高倉橋 九条池に架かる高倉橋(たかくらばし)は、近代、1878年に仮橋が架けられた。1882年、現在の橋が架かる。かつて、御所の建礼門から南へ、丸太町通に出るために一直線の御幸道の計画があった。そのために架橋された。だが、計画は中止になる。現在、道は丸太町通直前で途絶し、東西への細い沿道しかない。 橋脚は、旧三条大橋、五条大橋の橋脚を再利用している。かつて三条小橋の擬宝珠を載せていた。現在は、新調したものを使う。長さ43m、幅3.3m。 ◆一般公開日 一般公開日は、毎週金曜日と土曜日。京都御所一般公開日、葵祭(5月15日)、時代祭(10月22日)。参観休止(12月28日-2月末日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 「拾翠亭パンフレット」、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『京都大事典』、『秘密の京都』、『京都事典』 、閑院宮邸跡収納展示館、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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