土御門第跡 (京都市上京区)  
Ruins of Tsuchimikadodai(residence)
土御門第跡 土御門第跡
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土御門殿復元図(京都市平安京創生館、展示パネルより)
 京都御苑の大宮御所北に、「土御門第跡(つちみかどだい-あと)」の駒札が立てられている。
 平安時代、この付近に、土御門第があり、土御門殿などとも呼ばれた。藤原道長の本邸であり、一族栄華の舞台になった。
◆歴史年表 平安時代、土御門第は、源雅信(920-993)の邸宅だった。
 988年頃、彰子が生まれる頃より、藤原道長は移り住んだ。
 993年、雅信の没後、娘・倫子が伝領した。後に、道長が引き継ぐ。
 1008年、長女・彰子(第66代・一条天皇中宮)が、土御門殿で敦成親王(第68代・後一条天皇)を産む。この頃の様子を紫式部が記している。(『紫式部日記』)
 1009年、彰子は敦良親王(第69代・後朱雀天皇)を産んだ。
 1016年、1月-6月、後一条天皇の里内裏になる。(『百錬抄』)。7月、西隣の近江守・藤原惟憲邸の失火により土御門殿は全焼した。(『日本紀略』)。焼失後4日後から再建工事が始まる。
 1017年、6月、再建された。(『御堂関白記』)
 1018年、受領たちの奉仕で再建される
 1025年、三女・嬉子(きし、後朱雀天皇妃)は親仁(ちかひと)親王(70代・後冷泉天皇)を産む。
 1039年7月-1045年9月、後朱雀天皇の里内裏になる。(『百錬抄』)
 1045年、1月-12月、後冷泉天皇の里内裏になった。(『百錬抄』)
 1048年11月-1051年6月、後冷泉天皇の里内裏になる。(『公卿補任』)
 1054年9月-12月、後冷泉天皇の里内裏になった。(『百錬抄』)
 彰子(988-1074)が伝領した。
◆源雅信 平安時代中期の公卿・源雅信(みなもと-の-まさのぶ、920-993)。鷹司、一条左大臣、賜姓源氏、宇多源氏の祖。第59代・宇多天皇の第8皇子・敦実(あつみ)親王、母は左大臣・藤原時平の娘。936年、第61代・朱雀天皇より源姓を賜る。侍従、蔵人頭を経て、951年、参議、977 年、右大臣、978年、左大臣、従一位に至る。987年、娘・倫子の藤原道長との結婚に、雅信は当初反対した。74歳。贈正一位。遺骸は仁和寺(右京区)に移された。
 名臣の評があり、第64代・円融天皇、第65代・花山天皇、第66代・一条天皇に仕えた。和歌、蹴鞠、音楽に秀で、和琴、箏、笙、雅楽声楽曲の催馬楽(さいばら)、朗詠の模範になり流祖・源家(げんけ)になった。
◆源倫子
 平安時代中期-後期の女性・源倫子(みなもと-の-りんし、964-1053)。鷹司殿。源雅信の娘、母は藤原穆子(ぼくし)。幼少期より后がね(后候補者)として養育された。道長に見初められ、987年、結婚し、嫡妻として実家・土御門殿で同居した。988年、長女・彰子(しょうし、第66代・一条天皇中宮)、992年、嫡男・頼通(摂政関白)、994年、次女・妍子(けんし、第67代・三条天皇中宮)を産む。998年、従三位になる。1000年、彰子が一条天皇の中宮になり、従二位になった。3女・威子(いし、第68代・後一条天皇中宮)を産む。1007年、4女・嬉子(きし、第69代・後朱雀天皇妃)を産んだ。1027年、妍子、1028年、道長、1036年、威子も没した。倫子は出家し、晩年は法成寺供養などで送る。90歳。没後、仁和寺(右京区)の源氏氏墓に葬られた。
 道長の外戚政権を支えた。天皇の外祖母として、従一位、准三宮という臣下女性最高の栄誉を受ける。道長の姉・東三条院詮子とも親しくした。
◆藤原道長 平安時代中期-後期の公卿・藤原道長(ふじわら-の-みちなが、966-1028)。御堂殿、法成寺殿。藤原氏北家の関白・太政大臣・藤原兼家の5男、母は藤原中正の娘・時姫。幼少期を東三条殿で過ごした。986年、父・兼家が第66代・一条天皇の摂政になり、987年、従四位から従三位になる。左大臣・源雅信(宇多源氏)の娘・倫子(正妻)と結婚する。988年、左大臣・源高明(醍醐源氏)の娘・明子(本妻)と結婚した。991年、権大納言に任じられる。995年、兄の関白道隆・道兼が相次ぎ疫病により没し、道隆の子・内大臣・伊周(これちか)と後継争いをする。姉・詮子(東三条院)の支援により内覧、右大臣、氏長者になり政権の首座に就く。996年、伊周の失脚により左大臣に昇る。1000年、長女・彰子が一条天皇の中宮として後宮に入り、一帝二后の制を始めた。1005年、祖先供養のために、宇治木幡に法華三昧堂(木幡寺、浄妙寺)を建てる。1012年、2女・妍子(よしこ)を第67代・三条天皇の中宮とした。1016年、彰子が産んだ外孫・敦成親王(第68代・後一条天皇)の即位に際し、道長は1年ほど摂政に就く。1017年、摂政を嫡子・頼通に譲り、実権は握り続ける。従一位、太政大臣になる。皇太子・敦明親王(三条天皇第1皇子)の辞退を図り、彰子の産んだ敦良親王(第69代・後朱雀天皇)を皇太弟とした。1018年、太政大臣を辞した。娘・威子が後一条天皇の中宮、その同母妹・嬉子が皇太弟(後朱雀天皇)の妃になる。道長は「望月の歌」「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」(『小右記』)と詠む。1019年、院源を戒師とし出家し、行観(すぐに行覚に改め)と称した。1020年、篤く仏教に帰依し、土御門殿の東に阿弥陀堂(無量寿院)に始まる法成寺(御堂)を造営した。1025年、娘・嬉子が親仁親王(第70代・後冷泉天皇)を産んで亡くなり、1027年、娘・妍子(三条天皇中宮)も相次いで亡くなる。この頃、道長は背中にできた癰(よう)に苦しむ。1028年、最期は、法成寺の九体阿弥陀堂に病床を移し、顔を西方浄土に向けて亡くなる。23年にわたって日記をつけ、後に『御堂関白記』と名付けられた。62歳。
 政治家としての優れた政策はなく、関白には就任していない。娘4人の彰子(一条天皇中宮)、妍子(三条天皇皇后)、威子(後一条天皇皇后)、嬉子(後朱雀天皇妃)、盛子を入内させた。3天皇の外戚になり、「一家に三后」を成し、藤原氏全盛の摂関を築く。詩、歌に優れ、漢詩は『本朝麗藻』、和歌は『後拾遺集』以下の勅撰集に入る。中宮・彰子の側近に才媛の女房を集めた。紫式部を後援し、『源氏物語』にも関心を持つ。道長については『大鏡』、『栄花物語』に記されている。平安京内に土御門第、東三条殿、枇杷殿、二条殿、一条殿など豪邸を構えた。
 遺骸は愛宕郡の鳥倍野で荼毘に付され、骨灰は宇治木幡の墓地に埋納された。現在は宇治陵(宇治市)に包括されている。
◆後一条天皇 平安時代後期の第68代・後一条天皇(ごいちじょう-てんのう、1008-1036)。敦成(あつひら) 。京都の生まれ。第66代・一条天皇の第2皇子。母は藤原道長の娘・彰子(しょうし/あきこ、上東門院)。土御門殿で誕生した。1008年、道長の意により一条天皇皇太子・敦康(あつやす)親王ではなく、外孫・敦成親王が第67代・三条天皇の皇太子になる。1016年、践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)、9歳で即位した。敦良(あつよし)親王(第69代・後朱雀天皇)が皇太子になる。摂政は外祖父・道長による。1年ほどして、道長の長男・頼通(よりみち)が摂関になる。1018年、道長の意により、11歳で道長の娘・叔母・威子(いし)が入内し皇后になる。天皇は珍しくほかの妻を持たなかった。この時、道長の3人の娘が同時に后位に就く。ほかに、太皇太后(一条天皇中宮彰子)、皇太后(三条天皇中宮・妍子(けんし)になる。(天下三后)。威子の中宮になった祝いの宴で道長は「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることも無しと思へば」と詠んだ。1019年、刀伊の入寇(といのにゅうこう)、1028年、下総で平忠常が乱が起こる。1036年、高倉殿で亡くなった。29歳。
 陵墓は菩提樹院陵(左京区)になる。
◆後朱雀天皇  平安時代後期の第69代・後朱雀天皇(ごすざく-てんのう、1009-1045)。敦良(あつなが)、法名は精進行。第66代・一条天皇の第3皇子、母は太皇太后・彰子(上東門院、藤原道長の娘)。土御門殿で生まれた。生後1カ月余で親王宣下を受けた。1017年、三条院の皇子・敦明親王の東宮辞退後、9歳で同母兄・第68代・後一条天皇の皇太弟になる。1021年、道長の娘・嬉子(よしこ)が敦良親王に入る。1025年、嬉子は親仁親王(第70代・後冷泉天皇)を産み、直後に亡くなる。1036年、後一条天皇が没し、践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)、28歳で即位した。彰子の弟・藤原頼通が引き続き関白になる。1037年、三条天皇皇女・禎子内親王(母は道長の娘・妍子)を皇后にし、関白頼通の養女・嫄子(一条天皇皇子・敦康親王の娘)を皇后とした。1040年、荘園整理令を発議した。1045年、病により皇子・親仁親王(後冷泉天皇)に譲位した。頼通の反対を押し切り、尊仁(たかひと)親王(第71代・後三条天皇)を皇太弟に定め、院政への道を開く。1055年、天皇の御願により、円教寺内に新堂として円乗寺が創建された。
 藤原氏の全盛期で、政治の主導権は道長から子・頼通に引き継がれた。すでに摂関家の全盛期は過ぎていた。興福寺、延暦寺の僧徒が強訴し、京中では放火が頻発した。著『後朱雀天皇御記(長暦御記)』。37歳。
 火葬塚(北区)にある。陵墓は円乗寺陵(右京区)になる。
◆藤原嬉子 平安時代中期-後期の妃・藤原嬉子(ふじわら-の-きし/きよこ、1007-1025)。藤原道長の4女、母は源倫子。1015年、従三位。1018年、尚侍になる。1019年、着裳。1021年、東宮敦良親王(第69代・後朱雀天皇)に入る。1025年、病を患いつつ親仁親王(第70代・後冷泉天皇)を出産し、同年、亡くなった。19歳。
 贈正一位。摂関家の権勢の維持拡大に寄与した。
 1045年、後冷泉天皇の即位により皇太后を贈られた。
 船岡の西野で火葬され、木幡に納骨された。陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆後冷泉天皇 平安時代中期の第70代・後冷泉天皇(ごれいぜい-てんのう、1025-1068)。名は親仁(ちかひと)。第69代・後朱雀天皇の第1皇子。母は贈皇太后・藤原嬉子(きし)(太政大臣・道長の娘)。母は出産直後に亡くなる。1036年、12歳で親王宣下を受ける。1037年、立太子、1045年、父の死に伴い21歳で即位した。兄・藤原頼通が引き続き関白になり専権する。1051年、陸奥で豪族が反乱した前九年の役が起こる。1055年、御願により円乗寺が建立された。1067年、浄土思想の広まりにより、藤原頼通の建立した宇治平等院に行幸した。3日間滞在し、頼通を准三宮に叙した。封300石などを授けた。高陽院(かやのいん)中殿で亡くなる。
 後冷泉天皇天皇を最後に、100年間続いた摂関政治は弱体した。新立荘園停止の気運が高まる。妃に第68代・後一条天皇の皇女・章子内親王、頼通の娘・寛子、教通の娘・歓子が入った。だが、いずれも子に恵まれず、藤原氏は外戚の地位を失う。日記に『後冷泉院御記』19巻(遺されていない)。『後拾遺集』『金葉集』などに歌が収められている。44歳。
 陵墓は円教寺陵(右京区)になる。
◆藤原彰子 平安時代中期-後期の中宮・藤原彰子(ふじわら-の-しょうし/あきこ、988-1074)。上東門院彰子。公卿・藤原道長の長娘、母は源雅信(まさのぶ)の娘・倫子(りんし)。999年、入内し、1000年、第66代・一条天皇の中宮になる。天皇には藤原道隆の娘・中宮・定子(ていし)がいた。二后併立のため、定子を皇后、彰子を中宮とした。1008年、敦成親王(第68代・後一条天皇)、1009年、敦良親王(第69代・後朱雀天皇)を産む。1012年、皇太后、1018年、太皇太后宮になる。1026年、出家し、上東門院の院号宣下を受けた。1030年、法成寺(ほうじょうじ)無量寿院の傍に東北院を建立した。87歳。
 後一条、後朱雀院、父・道長、妹・妍子(けんし)、威子(いし)、嬉子(きし)らに先立たれ、『栄花物語』に記されている。女官・歌人の紫式部(?-?)、和泉式部(976頃-1036頃)、伊勢大輔(989?-1060)、赤染衛門(956?-1041)らの才媛を集めた。
 大谷口で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆土御門第 土御門第は、平安時代中期の邸宅だった。平安京左京一条四坊(土御門大路の南、京極の西)にあった。現在の京都御苑内大宮御所の北になる。
 土御門殿(つちみかどどの)、土御門京極殿(つちみかど-きょうこぐどの)、上東門第(じょうとうもんだい)、京極殿(きょうこぐどの)、御堂殿(みどうどの)とも称された。
 当初は、公卿・源雅信(920-993)の邸宅だった。その後、987年にその娘・倫子と結婚した公卿・藤原道長は、988年に彰子が生まれる前後に移り住んだ。993年に雅信の没後に倫子が伝領し、後に道長が引き継ぎ、藤原家の本邸として用いた。当初は1町の広さで、後に南北2町に拡張されている。道長は倫子と、最も長くこの邸で暮らしている。邸内で長女・彰子(しょうし)、嫡男・頼通、次女・妍子(けんし)、三女・威子(いし)、四女・嬉子(きし)ら4人の娘も生まれ育った。
 1008年に彰子は、敦成親王(第68代・後一条天皇)を産む。さらに、1009年に敦良親王(第69代・後朱雀天皇)を産んだ。この頃の邸の様子は、紫式部が「秋のけはひ入立つままに、土御かと殿の有さまいはむ方なくをかし」と記している。(『紫式部日記』、1008年-1010年)。1016年1月-6月には、後一条天皇の里内裏になる。同年7月に、西隣の近江守・藤原惟憲邸の失火により土御門第も全焼した。(『日本紀略』)。そのわずか4日後から再建工事が始まり、寝殿は1間毎に新旧国司に担わさせた。1017年6月に完成している。(『御堂関白記』)。1018年に、受領(ずりょう)らの奉仕により再建されたともいう。必要な家具調度一切は、武将・美濃守・源頼光(948-1021)が寄進した。(『小右記』『栄花物語』)
 1018年10月16日、後一条天皇女御・威子(いし)が中宮になった。これにより、道長の3人の娘である太皇太后・彰子、皇太后・妍子、皇后・威子が三后(さんこう)を独占することになった。新邸になった土御門第で祝宴が催された。道長は酔い、満月を見上げながら、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば(望月の歌)」を詠んだ(『小右記』)。7日後に、邸に三后、後一条天皇、東宮(後の後朱雀天皇)が集っている。
 1025年に第69代・後朱雀天皇の妃・嬉子(きし)は、親仁(ちかひと、70代・後冷泉天皇)を産んでいる。
 3天皇の里内裏にもなった。1039年7月-1045年9月に後朱雀天皇の里内裏になる。1045年1月-12月には、後冷泉天皇の里内裏になった。1048年11月-6月、1054年9月-12月にも、後冷泉天皇の里内裏になっている。
 その後、彰子(988-1074)が伝領した。
 なお、土御門殿という呼称について、ほかに土御門南烏丸殿・土御門内裏(鷹司町)、平安時代後期の公卿・藤原邦綱(1122-1181)の土御門東洞院第(殿)があった。
◆里内裏 里内裏(さとだいり)は、火災、倒壊、方忌(かたい)みなどに際し、一時的に設けられた仮の内裏をいう。平安宮大内裏の外に置かれた。里内(さとうち)、今内裏、里御所、里亭皇居などとも呼ばれた。「里」には京中の意味があった。多くは天皇外戚(母方)の摂関家私邸が充てられた。
 平安時代中期、960年に平安宮内裏初の焼亡があり、第62代・村上天皇は累代の後院である冷泉院に移っている。976年の内裏焼失では、第64代・円融天皇は、内裏再建までの1年間を関白・藤原兼通(かねみち)の堀河殿を居所とした。当時、冷泉院が冷泉上皇(第63代)の御所になっていたためだった。これが里内裏の始まりとされている。
 その後も内裏炎上に際し、各所に里内裏が造られている。第66代・一条天皇の一条殿、第66代・一条天皇の東三条殿、第67代・三条天皇の枇杷殿などがある。
 後に、里内裏殿舎も内裏に模して建てられ、当初から里内裏にするために邸宅が造営された。天皇は里内裏で日常を過ごし、儀式にのみ内裏に帰った。第70代・後冷泉天皇の高陽院(かやのいん)、第72代・白河天皇の六条院、第74代・鳥羽天皇の大炊(おおい)殿・土御門・烏丸殿などがある。
 鎌倉時代前期、1227年に本来の平安宮内裏は焼失し、以後、再建されることはなかった。そのため、里内裏が恒常化する。閑院殿は第82代・後鳥羽天皇以後8代の本所的皇居になり、第77代・後堀河天皇の皇居にもなった。富小路殿は後堀河上皇の仙洞になり、第89代・後深草天皇以来、多くの持明院統の御所になった。
 鎌倉時代後期に大覚寺統と持明院統の対立が生じた。北朝第2代・光明天皇(持明院統)は、南朝初代・第96代・後醍醐天皇(大覚寺統)に対抗する。光明天皇は、北朝第1代・光厳天皇(持明院統)が位に就く際に用いた土御門東洞院殿(現在の京都御所)を、1332年/1331年に皇居(土御門内裏)に定めている。この地は、平安時代後期の藤原邦綱(1180-1122)邸を経て、第77代・後白河天皇皇女・宣陽門院(1181-1252)に伝領され里内裏になった。
 以後、近代、1869年の東京遷都まで続いた。
◆文学 ◈藤原道長自身が優れた詩人であり、歌人でもあった。道長は、中宮・彰子の側近に才媛を女房として侍らせた。紫式部(973頃-1014頃)、和泉式部(976頃-1036頃)、伊勢大輔(?-1062?)、赤染衛門(960頃-1040頃)らがおり、彼女らを支援した。
 彰子は敦成親王(第68代・後一条天皇)の出産のために土御門第に里下りし、1008年に無事出産した。この時、女房の紫式部も伴っていた。
 紫式部の『紫式部日記』2巻は、1008年7月-1010年1月に記された。土御門第の美しさ、道長、皇子誕生の喜び、行幸、後宮生活、当時の風俗・儀式、和泉式部・赤染衛門・清少納言などの批評なども記した。日記には、道長が紫式部を後援し、『源氏物語』にも関心を抱いていたと述べている。『源氏物語』の主人公・光源氏にも道長が投影されたという。
 鎌倉時代にはこの日記を絵巻化した「紫式部日記絵巻」も生まれた。
 ◈平安時代後期の赤染衛門(960頃-1040頃)作ともされる歴史物語『栄花物語』40巻(1035年以前成立)は、第59代・宇多天皇-第73代・堀河天皇の15代200年間の歴史を描いた。
 藤原道長の生涯を綴り、一族の栄華とともに、儀式、仏事、遊宴なども記している。『源氏物語』の強い影響を受けているといわれている。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 京都市の駒札、『京都大事典』、『京都市の地名』、ウェブサイト「コトバンク」


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