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中山邸跡・祐井 (京都市上京区) Site of of Nakayama-tei Residence |
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中山邸跡・祐井 | 中山邸跡・祐井 |
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![]() ![]() ![]() 駒札 ![]() 「祐井(さちのい)」の木標 ![]() ![]() ![]() 祐井 ![]() ![]() |
京都御苑内の京都御所北東に、「中山邸跡(なかやまてい-あと)」の駒札が立つ。この地に、藤原北家(ほっけ)、羽林(うりん)家の一つである公卿の中山邸があった。 敷地内には井水の「祐井(さちのい)」があり、第122代・明治天皇の産湯井として使用された。 ◆歴史年表 詳細は不明。 江戸時代、1809年、中山忠能は石薬師の邸(現在地、京都御所の東北)に生まれる。 1835年、中山慶子が石薬師の邸に生まれた。 1853年、京都は大日照りに見舞われ、邸内に井戸が掘られる。第121代・孝明天皇は、明治天皇の幼名の祐宮(さみのみや)に因み、「祐井」と命名した。 近代、1870年、8月、内裏内の公家邸宅地は京都府の管轄になる。 1871年、11月、内裏内の公家町は隣接する町組に分割された。 1877年-1880年、京都御苑内の華族士族などの土地は京都府により買上げられた。 ◆中山忠親 平安時代後期-鎌倉時代前期の公卿・中山忠親(なかやま-ただちか、1131-1195)。藤原姓、中山内大臣。父・権中納言・藤原(花山院)忠宗、母・藤原家保の娘の2男/3男。妻は平時忠の娘。蔵人頭を経て、1164年、参議、権中納言、1183年、正二位、権大納言になる。平氏と近かく、第80代・高倉天皇の中宮・徳子(平清盛の娘)の中宮権大夫、第81代・安徳天皇の皇太子時代の春宮大夫 、後白河上皇(第77代)の院庁の別当になる。1185年、源頼朝から議奏公卿に推された。1191年、内大臣になり出家する。晩年、中山 (黒谷の地) に別宅があり、中山内大臣と称された。65歳。 書に優れ、筆跡『神護寺四十五個条起請文』(神護寺蔵)、朝廷の儀式・故実・法制に詳しく著『貴嶺(きれい)問答』、史料として貴重な日記『山槐記(さんかいき)』がある。 中山神社(中京区)が邸跡という。中山家の祖になる。 ◆中山定親 室町時代前期-中期の公卿・歌人・中山定親(なかやま-さだちか、1401-1459)。法名は祐繁。父・権大納言満親、母・伊予守満貞の娘。侍従、阿波権守、蔵人頭、参議などを歴任した。1441年、権中納言、1443年、権大納言、1446年、正二位に叙せられた。1436年、広橋兼郷に代わり武家伝奏に補せられる。朝廷と幕府間を取り持つ。1448年、出家し祐繁と称した。『薩戒記(さっかいき)』は、平氏没落-源氏興隆、朝廷の儀式、将軍・足利義持、義教期の幕府政治を記し史料価値がある。和歌所寄人を務めた。『新続古今和歌集』にも入集。59歳。 中山家9代になる。 ◆中山愛親 江戸時代中期-後期の公卿中山愛親(なかやま-なるちか、1741-1814)。京都の生まれ。父・中山栄親、母・勧修寺高顕の娘の長男/次男。1770年、正二位。1774年、権大納言に任じられる。1175年、辞した。1782年、天皇側近職の議奏になる。1784年、権大納言に還任した。1788年、議奏に任じられる。1789年、第119代・光格天皇は、実父・閑院宮典仁(すけひと)親王へ太上天皇(譲位した後の天皇)の尊号宣下をすることを幕府に求めた。愛親は、武家伝奏・正親町公明(おおぎまち-きんあきら)と折衝に当たった。愛親は、天皇の父で皇位に就かず尊号宣下のあった先例故事を調査した。承久-文安年間(1219-1449)に2例あることを根拠とし、所司代を通じ尊号宣下の承認を幕府に求めた。老中・松平定信は反対し、1792年、尊号宣下は中止になる。1793年、愛親は、正親町とともに江戸に喚問される。「尊号御内慮一件取計行届」の咎により、幕府は愛親に閉門100日、公明に逼塞(ひっそく)50日を命じた。(尊号一件)。愛親は議奏を罷免された。74歳。 中山家21代になる。 ◆中山績子 江戸時代後期-近代の女官・中山績子(なかやま-いさこ、1795-1875)。初名は美禰、愛子(なりこ)。父・中山愛親(なるちか)。第122代・明治天皇の生母・中山慶子は、兄・忠尹の曾孫。1807年、東宮(第120代・仁孝天皇)に入り、上臈(じょうろう)になり高松局と称した。1846年、第121代・孝明天皇の践祚(せんそ)の際に大典侍になり、明治天皇践後も勤めた。1848年、伏見宮邦家親王の王子・嘉彰親王(小松宮)、能久親王(北白川宮)が仁孝天皇の養子になった際に養母代になる。1869年、正三位。日記『中山績子日記』は、宮中儀式、年中行事などについて記した。81歳。 ◆中山忠光 江戸時代後期の公卿・中山忠光(なかやま-ただみつ、1845-1864)。京都の生まれ。父・中山忠能(ただやす)、母・松浦愛子の7男/5男/3男。中山慶子(よしこ)の弟、兄・忠愛(ただなる)の養子。1858年、侍従になり、1860年、睦仁親王(第122代・明治天皇)の祗候(しこう)を命じられた。尊攘激派の吉村虎太郎、武市瑞山、久坂玄瑞、真木和泉らと交遊し、公家尊攘派になる。1862年、和宮降嫁に反対した。1863年2月、国事寄人になる。3月、京都を脱し長州藩に入る。官位を返上し、名を森俊斎/秀斎に改めた。5月、下関で長州藩軍艦に同乗しアメリカ商船砲撃に加わる。6月、京都に帰り、志士・吉村虎太郎らと京都を脱出し、天誅組を結成し盟主に推された。8月、大和行幸の詔が出され、大和五條代官を襲撃し討幕の兵を挙げた。幕府の鎮圧軍に敗れる。(天誅組の変)。大坂、長門(山口県)に逃れ萩藩内に潜む。1864年、11月、藩内恭順派の刺客により豊浦郡で暗殺された。20歳。 墓は中山神社(下関市)にある。 ◆中山忠能 江戸時代後期-近代の公卿・宮中政治家・中山忠能(なかやま-ただやす、1809-1888)。父・忠頼、母・綱子。子に第122代・明治天皇の生母・慶子、忠光。1813年、侍従、1847年、権大納言になる。1849年-1863年、議奏、議奏加勢を勤める。1858年、幕府の条約勅許奏請に、公卿・正親町三条実愛(おおぎまち-さんじょう-さねなる)らと反対の建議書を提出した。1861年、江戸に赴く。島津久光、薩摩藩の公武合体運動を支持し、尊王攘夷派の志士・攘夷派廷臣の攻撃される。1862年、一時差控を命ぜられる。国事御用掛に復活し、幕府に攘夷の実行を迫る。1863年、議奏を辞職した。8月18日の政変後、1864年、勢力の回復を図り長州藩の武力上洛を支持した。禁門の変で長州藩兵が敗北し、出仕停止になる。1867年、第121代・孝明天皇の死に伴う大赦により処分解除される。岩倉具視、中御門経之らと、王政復古の政変を画策し討幕の密勅作成に関与した。政変後、三職制が新設され議定に就任した。以後、神祇官知事、宣教長官などを歴任した。華族会館の設立に尽力した。80歳。 中山家24代になる。 ◆中山慶子 江戸時代後期-近代の皇女・中山慶子(なかやま-よしこ、1836-1907)。通称は安栄(あえ)、今参、一位局、三位局など。父・公卿・中山忠能(ただやす)、母・愛子の2女。1851年、典侍雇を命じられ安栄と名を与えられた。第121代・孝明天皇に仕える。1852年、皇子・祐宮(さちのみや、第122代・明治天皇)を産み、養育に当たった。1868年、東京行幸に従い、一時京都へ戻る。1870年、東京に移住した。1879年、明治天皇皇子・明宮(はるのみや、第123代・大正天皇)が誕生後に中山邸に預けられ、養育に当たる。1900年、従一位に進む。73歳。 ◆中山家 中山家(なかやまけ)は、藤原北家(ほっけ)に属し、家格は羽林(うりん)家になる。花山院家の分流にあたる。院政期に活躍した関白・藤原師実(もろざね、1042-1101)の子・花山院忠親(なかやま-ただちか、1131-1195)を祖にする。代々、大納言になった。屋敷は現在の京都御苑内の石薬師門西入ル北側付近にあった。菩提寺は蘆山寺(東山区)になる。 室町時代の9代・定親(1401-1459)は、日記『薩戒記(さっかいき)』を記し、史料的な価値がある。 江戸時代には家禄200石を給された。21代・愛親(なるちか、1741-1814) は、第119代・光格天皇の側近になり、尊号一件に関与した。その娘・績子(いさこ、1795-1875)は、第120代・仁孝天皇以降の3天皇に典侍として仕える。 24代・忠能(ただやす、1809-1888)は、第122代・明治天皇の外祖父として王政復古に尽力した。尊攘派公卿として、和宮降嫁を推進する。その娘・慶子(よしこ、1835-1907)は、明治天皇の生母になった。忠光(ただみつ、1845-1864)も、尊王攘夷派廷臣として活動し、天誅組の変に関わる。 ◆祐井・御産屋 ◈ 「祐井(さちのい、祐ノ井) 」は、京都御所北東の中山家跡内にある。「御所三名水」(ほかに「県井(県の井)」、「染殿井」)の一つになる。この地は、第122代・明治天皇の生母・一位局(中山慶子)の中山忠能邸跡になる。 江戸時代後期、1853年に京都は大日照りに見舞われた。陰陽家土御門のご神託により邸内に井戸が掘られる。中山家が新たに掘った井戸は水脈にあたり、人々が使っても涸れることはなかった。第121代・孝明天皇は、1852年に生れた明治天皇の幼名「祐宮(さみのみや)」に因み、「祐井」と命名した。 井戸は明治天皇の産湯井として用いられ、「故郷井」とも呼ばれた。天皇の詠んだ「わが為に汲みつとききし祐の井の水は今なおなつかしきかな」(『御集』)、昭憲皇太后の「わが君が産湯となりし祐の井の水は千代まで涸れじとぞ思ふ」(『御集』)がある。 井戸は白川石の井筒があり深さ12.5mある。 ◈ 近くに明治天皇の平屋の御産屋(6畳2間)が残る。ここで天皇は4年間の養育を受けた。生母・一位局は乳の出が乏しかったため、九条家家臣・伏屋の妻・みのが、御乳人(おちちびと)として乳を与えた。その後、儒者・木村縫殿之助の妻・羅伊(らい)に代わった。 ◆碑 敷地内には、近代、1877年に忠能(1809-1888)が立てた「明治天皇生誕の地」の碑がある。撰文は槇村正直(1834-1896)による。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 駒札、『京都大事典』、『日本の名家・名門人物系譜総覧』、『岩波講座2 近代日本の文化史 コスモロジーの「近世」』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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