清水谷家の椋・清水谷家 (京都御苑) (京都市上京区)  
Aphananthe oriental elm of the Shimizudani Family
清水谷家の椋・清水谷家
清水谷家の椋・清水谷家
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清水谷の家のムクノキ


駒札


清水谷の家のムクノキ
 京都御苑内の京都御所南西隅付近に、ムクノキの巨木があり、木の根元には「清水谷家の椋(しみずだにけ-の-むく)」の駒札が立てられている。
 かつて、この地に公卿の清水谷家の邸宅があった。幕末の禁門の変(蛤御門の変)の史跡の一つという。
◆歴史年表 年代不詳、この地にかつて、清水谷家の邸宅があった。
 江戸時代、1864年、禁門の変(蛤御門の変)で、椋の木の下で来島又兵衛が討死したという。
 近代、1870年、8月、内裏内の公家邸宅地は京都府の管轄になる。
 1871年、11月、内裏内の公家町は隣接する町組に分割された。
 1877年-1880年、京都御苑内の華族士族などの土地は京都府により買上げられた。
◆一条(清水谷) 実有 鎌倉時代前期の公卿・一条実有(いちじょう-さねあり、1203-1260)。太政大臣・西園寺公経の次男、母は権少僧都・範雅の娘。1215年、侍従、1219年、左少将になる。讃岐権介、上野権介を兼ねた。1221年、正五位下に昇叙、禁色を許される。皇后宮権亮を兼ねる。1222年、左中将、1224年、皇后宮権亮を止める。1226年、周防権守を兼ねる。1227年、正三位、参議に任じられる。右衛門督、検非違使別当、中宮権大夫を兼ねた。1232年、従二位に昇り、権中納言になる。検非違使別当になる。右衛門督、中宮権大夫を辞している。1235年、正二位に昇る。1238年、権大納言、1241年、左近衛大将を兼ねる。左馬寮御監。1242年、権大納言、左大将を辞した。1260年、出家し、同年、亡くなる。57歳。
 清水谷家の祖になる。
◆一条(清水谷)実材 鎌倉時代後期-南北朝時代の公卿・一条実材(いちじょう-さねなり、1309/1308-1369?)。清水谷実材、初名は実勝。父は権中納言・ 一条(清水谷)公有。1318年、侍従、1328年、右近衛少将、1329年-1340年、左近衛中将、1334年-1340年、備前権介、1340年、従三位、1347年、正三位に叙された。1347年、参議になる。右近衛中将、讃岐権守を経て、1349年-1350年、権中納言、1354年、従二位、1358年、正三位、1367年、権大納言に昇った。1369年、出家した。50歳/51歳。
 世尊寺(せそんじ)定成から世尊寺流の書法伝授を受け、以後、清水谷家が世尊寺流書法正伝の能書家になる。
 清水谷家5代になる。
◆一条(清水谷)実秋 室町時代中期-後期の公卿・能書家・一条実秋(いちじょう -さねひさ/さねあき、?-1420)。清水谷実秋。父は権中納言・ 一条(清水谷)公勝。1408年、正四位下に叙せられ、右近衛中将から参議に転じる。1409年-1413年、土佐権守を兼ね、1410年、従三位、1411年、正三位になる。1414年、備前権守を兼ね、1415年、兼職を辞して従二位・権中納言になる。1419年。権中納言を辞した。1420年、権大納言になった。
 実秋が所領を継承した際に、清水谷の家号を一時用いている。一条家の兄2人の死去により一条家も継承した。
 清水谷家7代、事実上の初代とされる。
◆清水谷実久 室町時代中期-後期の公卿・清水谷実久(しみずだに-さねひさ、1432-1498)。左近衛中将 ・一条(清水谷)公知(きんとも)の子。下野介、左近衛中将、弾正大弼を経て、1458年、従三位、1458年-1459年、参議になる。その後、土佐権守、右近衛中将、1466年、参議、1466年、正三位になった。応仁・文明の乱(1467-1477)で、足利義視、西軍の山名持豊に加担し、1468年、第103代・後土御門天皇の勅勘を受け、権中納言の官を解かれた。1470年-1480年、許され復職する。1476年、従二位、1481年-1486年、権大納言になり、1489年、正二位に進む。1498年、出家した。67歳。
 清水谷9代になる。子・行季(ゆきすえ)を世尊寺(せそんじ)家の養子とし、世尊寺17代を継がせた。
◆清水谷公松 室町時代後期の公卿・清水谷公松(しみずだに-こうしょう、?-?)。権中納言・橋本公夏の子、9代・権大納言・清水谷(一条)実久の養子になる。侍従になり、1515年、従五位上に叙せられた。
 書を世尊寺行俊に師事し、能書で知られた。清水谷家10代になる。若くして没し、清水谷家は一時断絶した。
◆清水谷実業 江戸時代前期-中期の公卿・歌人・清水谷実業(しみずだに-さねなり、1648-1709)。信濃飯田藩主・堀親昌の子。母は三条西実条の娘・浄心院。叔父・三条西公勝の養子として三条西家で育つ。公勝の次男・従兄・公栄の養嗣子になり清水谷家を継ぐ。権大納言、正二位に進む。熊沢蕃山に儒学を学んだ。1668年、第112代・霊元天皇に和歌を口伝伝授され、禁中仙洞歌会の所役を務めた。著『百首歌』、『高雄紀行』。62歳。
 清水谷家13代になる。
 墓は蘆山寺(上京区)にある。
◆清水谷実栄 江戸時代中期の公卿・清水谷実栄(しみずだに-さねひで、1722-1777)。初名は家栄。権大納言・清水谷(一条)雅季の子。左近衛少将、左近衛中将、常陸権介を経て、1746年-1749年、越前権介、1747年-1749年、皇太后宮亮、1752年-1753年、参議になる。1753年、従三位、1755年、再び参議、その後、右近衛中将、権中納言、1756年、正三位、1756年、踏歌外弁、1758年-1764年、大歌所別当、1759年、従二位、1761-1767年、権大納言になる。1763年、正二位啓。
 著『口伝』。55歳。
 和歌に優れた。清水谷家15代になる。
◆清水谷公考 江戸時代後期-近代の公卿・清水谷公考(しみずだに-きんなる、1845-1882)。父は清水谷(一条)公正、母は桂衛守娘・富江。幼くして出家し比叡山に入る。1854年、兄・実睦が没し、還俗し清水谷家を継ぐ。1858年、元服し従五位下、1862年、侍従、1868年、戊辰戦争が勃発し、蝦夷地鎮撫を朝廷へ進言した。箱館裁判所総督、箱館府知事に就任した。1868-1869年、箱館戦争で青森へ逃れ、青森口総督に任命された。蝦夷地江差に移り、旧幕府軍の降伏後に箱館府知事に復帰した。開拓次官を辞し、1871年-1875年、ロシアに留学する。1870年、家督を継ぐ。38歳。従三位。
 清水谷家22代になる。
 墓は蘆山寺(上京区)にある。
◆清水谷実英 近代の華族・軍人・清水谷実英(しみずだに-さねあきら、1866- 1938)。侍従・清水谷(一条)公考の長男、父の死去に伴い、1883年、家督を相続した。1884年、華族令公布とともに伯爵に叙された。陸軍士官学校に入り、1889年、陸軍歩兵少尉に任官される。1898年-1902年、東宮武官に任じられる。その後、歩兵第3連隊付、同大隊副官、近衛歩兵第2連隊大隊副官、同連隊中隊長、後備歩兵第6連隊大隊長などを歴任した。1894年-1895年、日清戦争、1904年-1905年、日露戦争に出征した。その後、歩兵中佐、掌典次長、宮中顧問官、侍従を歴任した。71歳。
 清水谷家23代になる。
◆来島又兵衛 江戸時代後期の長州(萩)藩尊攘派・来島又兵衛(きじま-またべえ、1817-1864)。幼名は光次郎、名は政久、変名は森鬼太郎。喜多村正倫の第2子、のち来島政常の養子になる。長門(山口県)萩藩士。1855年、藩の大検使役になる。その後、所帯方頭人用所役、所帯役、蔵元両人役などを歴任した。1863年、5月、下関での四国艦隊下関砲撃事件で総督・国司信濃(くにし-しなの)の参謀を務めた。6月、藩命により猟師を集め、狙撃隊を率い尊王攘夷運動のために上京した。八月十八日の政変後、長州藩は京都から追放され、又兵衛は京都に潜入した。9月、帰藩する。京都での長州藩政治勢力回復のために世子・毛利元徳の上京にあたり、10月、遊撃隊を編成し総督になった。1864年6月、進発論を説き、遊撃軍を率いて京都を攻める。7月19日(新暦8月20日)、蛤御門(禁門)の変で薩摩藩兵と戦い負傷し、自刃した。49歳。
 槍、剣、馬術に優れ、鬼来島と称せられた。藩の経理面の役職を歴任し安政期の藩政改革後の藩財政に関与した。
◆清水谷家 公卿・清水谷家(しみずだに-け)は、藤原北家閑院流西園寺家の一門になる。家格は羽林家であり、初めは一条家、大宮と称した。家業は書道、笙、能楽、神楽などだった。
 鎌倉時代前期-中期の西園寺公経(さいおんじ-きんつね、1171-1244)の次男・実有(さねあり、1203-1260)を祖にした。鎌倉時代後期-南北朝時代の5代・実材(さねなり、1309/1308-1369?)は、世尊寺流(せそんじ)の書法伝授を受け、以来、清水谷家は書道が家業になる。
 室町時代前期の7代・実秋(さねひさ/さねあき、?-1420)の時、同じ家名の摂関家との重複を避け、清水谷家に改めたという。室町時代後期の10代・公松(?-?)は若くして亡くなり、清水谷家は一時期中絶する。
 江戸時代前期に、11代・実任(さねとう、1587-1664)の時に再興された。江戸時代前期-中期の三条西家より養子に入った13代・実業(さねなり、1648-1709)は、歌人として知られる。江戸時代中期の15代・実栄(さねひで、1722-1777)も和歌をよくした。江戸時代の家禄は284石だった。
 幕末-近代の22代・公考(きんなる、1845-1882)は、明治維新後に箱館府知事に就任する。23代・実英(さねあきら、1866-1938)は、軍人であり日清戦争、日露戦争にも出征し、伯爵位を授けられる。
清水谷家のムクノキ  ◈ 「清水谷の家の椋(むく)」は、京都御所の南西付近にある。かつて、この付近に公家の清水谷邸があったという。清水谷家は吉田村(左京区)にあった。御所内に移る際に、吉田神社の屋根に生えていたムクノキを神木として移植したという。
 ムクノキ(区民誇りの木)はニレ科の落葉高木、幹周5. 35m/4m、樹高21m。樹齢300年以上ある。幹周では京都御苑内で3番目の巨樹になる。
  ◈ 江戸時代後期、1864年7月19日(新暦8月20日)、蛤御門の変(禁門の変)の際に、長州藩・遊撃隊総督・来島又兵衛(1817-1864) は、薩摩藩兵銃撃隊・川路利良(かわじ-としよし、1834-1879)の狙撃により胸部を撃たれた。
 又兵衛は、ムクノキの下で甥・喜多村武七に介錯を命じ、自ら槍で喉を突いた。又兵衛は首を刎ねられて絶命したという。
◆蛤御門の変 蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)は、禁門(きんもん)の変、元治の変、元治甲子の変ともいわれる。
 幕末、1863年、八月十八日の政変で、尊王攘夷を主張する長州藩は、公武合体派の会津藩、薩摩藩らの諸藩兵により京都を追放された。長州藩は朝廷九門の一つである禁門警備の任を免じられ、13代藩主・毛利敬親(たかちか 、慶親)は処罰された。長州には、京都を脱した七卿、真木和泉ら浪士が集結し、藩内では急進派の進発出兵論と慎重論の論争が続く。
 1864年、京都では公武合体派諸侯の連携が破れる。6月、池田屋事件で、長州藩などの志士20数人が新撰組に急襲され、多数の犠牲者が出た。
 長州藩内の慎重論である周布政之助(すふ-まさのすけ)、木戸孝允、高杉晋作らに対し、一挙に急進派の来島又兵衛(くるしま-またべえ)らの勢力が支配的になる。藩主・毛利敬親は、公武合体派排除の形勢立て直しのために、急進派3家老の福原越後、国司信濃(くにし-しなの)、益田右衛門介に軍令状を与えた。来島、久坂玄瑞、真木和泉ら先発隊は、藩兵と諸藩浪士軍ら3000を率いて上京する。兵は山崎・宝積寺、伏見・長州屋敷、嵯峨・天龍寺などに分営した。久留米水天宮の真木和泉の一隊は、山崎に布陣した。長州藩による朝廷への藩主父子の名誉回復、尊攘派7卿の赦免は拒絶された。幕府では、征長令の発令工作が進んでいた。
 7月19日(新暦8月20日)、長州藩兵は世子・毛利元徳(定広)の率いる本隊の到着前に、各隊が京都守護職の追放を掲げ市中に進軍開始した。伏見・福原隊は早くに敗退する。天龍寺を発した国司隊は京都御所に進軍した。伏見とともに、京都御所の蛤御門、堺町御門付近で戦闘が始まる。長州勢は、朝廷警備に当たっ京都守護職・松平容保の率いる会津、桑名、薩摩、大垣ら諸藩兵3200と戦闘に入った。来島らは蛤御門に迫り最も激戦地になる。長州勢は最初は優位に立った。その後、薩摩藩兵の来襲により敗退し、昼までに長州藩は敗北した。来島は戦死、久坂、真木らは自刃している。
 戦いで京都の半分の家屋が焼失する大火(どんどん焼け、鉄砲焼け)になった。その後、幕府は朝敵になった長州藩に対し第一次長州征伐の出兵を行う。3家老7参謀は、各々切腹、斬殺に処された。
 なお、大火の混乱に乗じて、六角獄舎の政治犯が斬首されている。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 駒札、『京都大事典』、ウェブサイト「世界帝王事典」、『岩波講座2 近代日本の文化史 コスモロジーの「近世」』、ウェブサイト「京都御苑」、ウェブサイト「コトバンク」


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