有栖川宮邸跡 (京都市上京区)  
Ruins of of Arisugawanomiya-tei Rresidence
有栖川宮邸跡 有栖川宮邸跡
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「有栖川宮邸跡」の木標



 京都御苑内の京都御所南に、「有栖川宮邸跡(ありすがわのみや-てい-あと)」の木標が立てられている。
 江戸時代、この地には世襲四親王家の一つ、有栖川宮邸があった。
◆歴史年表 詳細不明。
 江戸時代、初代・好仁親王(1603-1638 )の時に、禁裏御所の北東、猿ヶ辻付近に有栖川宮邸があった。
 1865年、幟仁親王(1812-1886)の時に、京都御所拡張のために召し上げられる。
 1866年までに、建物・敷地も消滅した。代替地として、京都御苑内建礼門前の松平容保(1835-1893)の宿舎跡があてられた。
 近代、1869年、新御殿が完成する。
 1870年、8月、内裏内の公家邸宅地は京都府の管轄になる。
 1871年、11月、内裏内の公家町は隣接する町組に分割された。
 1872年、幟仁親王(1812-1886)は東京へ移る。
 1873年、9月より、邸跡が一時期、京都裁判所の仮庁舎として使用される。
 1877年-1880年、京都御苑内の華族士族などの土地は京都府により買上げられた。
 1891年、3月、有栖川宮邸の建物一部は京都御苑東に移築され、京都地方裁判所所長官舎裁判所として転用された。
◆好仁親王 江戸時代前期の皇族・好仁親王(よしひと-しんのう、1603-1638)。幼称は七宮、三宮、通称は永照院宮、花町宮。第107代・後陽成天皇の第7皇子、母は近衛前久(さきひさ)の娘・藤原前子(さきこ、中和門院)。第108代・後水尾天皇の弟。1605年、聖護院に入寺した。親王宣下、元服した。1612年、親王になる。1625年、高松宮の称号を受け一家を創立した。1630年、松平直忠の娘・寧子(やすこ)を将軍・徳川秀忠の養女として娶った。36歳。
 有栖川宮(ありすがわのみや)家の祖になる。
◆後西天皇 江戸時代前期の第111代・後西天皇(ごさい-てんのう、1637-1685)。幼称は秀宮、諱は良仁(ながひと)、別名に高松宮、桃園宮、花町宮。第108代・後水尾天皇の第8皇子。母は櫛笥隆政の娘・逢春門院(ほうしゅんもんいん)藤原隆子、養母は東福門院源和子。1647年、当初は、叔父・高松宮好仁の遺跡を相続し、明子女王を室にした。桃園宮、花町宮と称した。1654年、異母兄・第110代・後光明天皇の死去により、同天皇の養子・識仁(さとひと)親王(第112代・霊元天皇)が生後間もないため、公家らが反対した。そのため、中継ぎとして践祚した。1656年、即位する。父・後水尾上皇が院政を行う。1657年、明暦の大火、1661年、御所炎上により近衛基熙邸を仮御所にした。そのほか諸国での地震、風水害が相次ぎ、幕府は退位を迫る。この朝廷への圧力には、高家の吉良義冬、義央(上野介)が関与したともいう。1663年、識仁親王(霊元天皇)に譲位した。49歳。陵墓は月輪陵(東山区)による。
 学問に熱心だった。書、茶、華、香道にも秀でた。御府の記録類の副本を作成させた。皇居炎上に大半の御府蔵書が焼失したにもかかわらず、副本があったため「京都御所東山御文庫蔵書」の基になる。和歌、連歌に優れ、御集『水日集』、御選『集外歌仙』、日記『後西院御記』がある。
 追号の「後西院」は、平安時代初期の第53代・淳和天皇の称号「西院帝(さいいんのみかど)」に由来する。経歴が酷似しているとして名付けられた。淳和天皇は、兄と甥の間で即位し、子孫を皇統に残せなかった。「後西天皇」ではなく、「後西院天皇」と呼ぶべきともされた。天皇は譲位後に、「天皇」ではなく「院」を付けて呼んだ。近代、1926年、「後西天皇」に統一されている。
◆幸仁親王 江戸時代前期の皇族・幸仁親王(ゆきひと-しんのう、1656-1699)。幼称は二宮、多賀宮。第111代・後西(ごさい)天皇の第2皇子、母は清閑寺共綱の娘・共子(ともこ)。即位した父のあと高松宮を継ぐ。1678年、二品、1679年、親王宣下、1680年、元服、兵部卿、1682年、高松宮の称号を有栖川宮に改めた。1697年、式部卿、1699年、一品。
 和歌、書、茶、絵画、文章に優れた。第112代・霊元天皇より能書方、入木道(じゅぼくどう、書道)を伝授された。44歳。
 有栖川宮3代になる。
◆有栖川宮熾仁親王 江戸時代後期-近代の皇族・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや-たるひと-しんのう、1835-1895)。幼称は歓宮(よしのみや)。京都の生まれ。有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第4王子。1848年、第120代・仁孝天皇の猶子になる。1849年、親王宣下。1851年、仁孝天皇皇女・和宮親子内親王と婚約し、和宮が将軍・徳川家茂に降嫁のため沙汰止みになる。(和宮降嫁問題)。1858年、日米修好通商条約の調印に反対し、尊王攘夷運動を支持した。1864年、国事御用掛に任じられた。蛤御門の変(禁門の変)で長州藩士に荷担したとして失脚する。1867年、赦免され王政復古とともに総裁職に就任した。1868年、戊辰戦争で東征大総督になり官軍を率いて東下し江戸に入る。江戸城を無血開城させた。会津征討大総督、のち、兵部卿、福岡県知事、元老院議長を務める。1870年、徳川斉昭の娘・貞子を妃とし、同年、貞子は亡くなる。1871年、家督を譲られる。1873年、溝口直溥の娘・董子(ただこ)と結婚した。1877年、西南戦争で征討総督として出征する。戦後、陸軍大将になり、1880年、左大臣を兼任した。1882年、ロシア、欧米を歴訪した。1883年、帰国し、左大臣、参謀本部長、参謀総長を歴任した。1894年-1895年、日清戦争で広島大本営での軍務中に病没した。61歳。
 陵墓は豊島岡墓地(東京都)になる。   有栖川宮9代になる。
◆有栖川宮威仁親王 江戸時代後期-近代の皇族・軍人・有栖川宮威仁親王(ありすがわのみや-たけひと-しんのう、1862-1913)。幼称は稠宮(さわのみや)、号は欽堂。京都生まれ。有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第4王子、母は家女房・森則子。1874年、第122代・明治天皇の命により海軍兵学寮に入学した。1878年、兄・熾仁親王の継嗣として、明治天皇養子になり親王宣下を受ける。1880年、前田慶寧の娘・慰子(やすこ)と結婚した。1881年、英国グリニッジ海軍大学校に留学した。1877年、西南戦争に従軍した。1878年、日清戦争で松島艦長として出軍し、常備艦隊司令官などを務めた。1883年、帰国した。1889年、欧州を視察し歴訪した。1898年、東宮(明治天皇皇太子・嘉仁親王)賓友を命じられる。1899年-1903年、勅命により東宮輔導になる。1902年、明治天皇名代として外国式典に参列した。1904年-1905年、日露戦争に従軍する。1904年、海軍大将になった。52歳。
 有栖川宮家10代になる。没後、死去が発表され、元帥に叙せられた。王子・栽仁王(たねひとおう)は早世し、有栖川宮家は断絶した。
◆有栖川宮 宮家の有栖川宮(ありすがわのみや)は、世襲四親王家の一つになる。歌道、書道が家学とされた。
 江戸時代前期、1625年に、第107代・後陽成天皇の皇子・好仁(よしひと)親王(1603-1638)が高松宮家を創立した。称は親王の養母・新上東門院(1553-1620)の居所である高松殿に由来する。
 好仁親王に嗣子がなく、2代は第108代・後水尾天皇の皇子・良仁(ながひと)親王(1637-1685)で、花町宮と称した。のち皇位を継ぎ、第111代・後西天皇になったため、継嗣を絶ち14年間途絶える。
 1667年に後西天皇の皇子・幸仁(ゆきひと)親王(1656-1699)が3代を継ぎ、1672年に後水尾法皇の命により有栖川宮と改称した。墓所が有栖川(北区紫野)にあったことに因む。
 4代・正仁(ただひと)親王(1694-1716 )の早世後、5代は第112代・霊元天皇皇子・職仁(よりひと)親王(1713-1769)が継いだ。以来、6代・織仁(おりひと)親王(1754 1820)、7代・韶仁(つなひと)(1784-1845)、8代・幟仁(たかひと)親王(1812-1886)、9代・熾仁(たるひと)親王(1835-1895)、10代・威仁(たけひと)親王(1862-1913)と続く。
 近代、1908年に威仁親王の王子・栽仁(たねひと)王(1887-1908)が早世する。1913年の威仁親王の死去に伴い、有栖川宮は300余年で廃絶した。同年に第123代・大正天皇の勅旨により、天皇皇子・宣仁(のぶひと)親王(1905-1987)が、高松宮の称号により有栖川宮の祭祀を継承した。
◆有栖川宮邸 有栖川宮邸は、江戸時代、初代・好仁親王(1603-1638 )の時に、京都御所の北東、猿ヶ辻付近にあった。
 江戸時代後期、1865年、幟仁親王(1812-1886)の時に、京都御所拡張のために召し上げられる。1866年までに建物・敷地も消滅した。
 代替地として、京都御苑内建礼門前の松平容保(1835-1893)の宿舎跡があてられた。凝華洞(御花畑)跡になる。
 近代、1869年に新御殿が完成する。東京遷都後の1872年に、幟仁親王(1812-1886)は東京へ移る。土地家屋は京都府、司法省を経て、1873年9月より一時期、京都裁判所の仮庁舎として使用される。1891年3月に、建物の一部は、現在地(京都御苑東)に移築された。京都地方裁判所所長官舎裁判所として転用され、2007年まで使用された。
 その後、民有地を経て、2008年8月に、学校法人・平安女学院の所有になり、現在は「有栖館」として残されている。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『京都大事典』、『日本の名家・名門人物系譜総覧』、『歴史読本 天皇宮家人物総覧』、『岩波講座2 近代日本の文化史 コスモロジーの「近世」』、ウェブサイト「コトバンク」

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