鷹司邸跡 (京都市上京区)  
Ruins of Takatsukasa-tei Residence
鷹司邸跡 鷹司邸跡
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駒札




【参照】公家町鷹司邸跡から発掘された陶器類、閑院宮邸跡収納展示館の展示より


【参照】公家町鷹司邸跡から発掘された江戸時代の文具、閑院宮邸跡収納展示館の展示より


【参照】公家町鷹司邸跡から発掘された江戸時代中期の菊文小型瓦、閑院宮邸跡収納展示館の展示より


【参照】江戸時代、慶応年間(1865-1868)の御所周辺、左上に禁裏(茶色部分)、鷹司殿はその下右の緑色部分、環境省京都御苑管理事務所の案内板より
 大宮・仙洞御所南西に「鷹司邸跡(たかつかさ-てい-あと) 」の駒札が立てられている。
 この付近に、藤原氏北家嫡流、五摂家の一つである鷹司家があった。
◆歴史年表 江戸時代前期、鷹司邸は仙洞御所北側にあった。
 1673年、失火により焼失した。
 1708年、宝永の大火により焼失している。
 その後、堺町御門の北東に移転した。
 1864年、禁門の変の際に、鷹司邸は長州藩士により屋敷に火が放たれる。
 近代、1870年、8月、内裏内の公家邸宅地は京都府の管轄になる。
 1871年、11月、内裏内の公家町は隣接する町組に分割された。
 1877年-1880年、京都御苑内の華族士族などの土地は京都府により買上げられた。
 現代、2002年、防火用貯水槽設置に伴う発掘調査が行われた。
◆鷹司兼平 鎌倉時代前期-中期の公卿・鷹司(藤原)兼平(たかつかさ-かねひら、1228-1294)。別名は照念院関白、法名は覚理。近衛家実の4男、母は藤原忠行/藤原伊忠の娘。1228年、兄・近衛兼経から氏長者を引き継ぐ。1238年、従二位権大納言、右近衛大将になる。1241年、内大臣、1244年、右大臣、1246年、左大臣を歴任した。1248年、従一位、1252年、兄近衛兼経(かねつね)の後を受け、摂政・藤原氏長者になる。1253年、太政大臣を辞した。1254年、関白になり、1261年、辞任した。1275年、再度摂政・氏長者になる。1276年、太政大臣になる。1277年、太政大臣を辞した。1278年、 摂政を辞し、関白になる。1287年、関白を辞した。1290年、出家した。1294年、智恵光院を開山する。日記『称念院関白記(兼平公記)』、有職故実書『照念院殿装束抄』、勅撰和歌集に入集している。67歳。
 能書家として知られた。『とはずがたり』の近衛大殿の素材になった。
 鷹司家の祖になる。
◆鷹司信房 室町時代後期-江戸時代前期の公卿・鷹司信房(たかつかさ-のぶふさ、1565-1658)。後法音院太閤。二条晴良(にじょう-はるよし)の3男。1579年、織田信長の口添えで、1546年、11代・鷹司忠冬以後断絶していた鷹司家を継ぎ再興した。1589年、従一位。1606年-1608年、関白になった。93歳。
 鷹司家13代になる。
◆鷹司信尚 安土・桃山時代-江戸時代前期の公卿・鷹司信尚(たかつかさ-のぶひさ、1590-1621)。景皓院前関白。鷹司信房の子。1612年-1645年、関白。1614年、従一位。32歳。
 娘・孝子(本理院)は3代将軍・徳川家光の正室になる。弟・信平は、旗本になった。
 鷹司家14代になる。
◆本理院 江戸時代前期の女性・本理院(ほんりいん、1602-1674)。名は孝子。鷹司信房の娘、母は佐々成政の娘?。1623年、江戸城西丸に入る。1625年、3代将軍・徳川家光の正室になった。1763年、贈従一位。73歳。
 家光との婚姻は、将軍家御台所を摂家など京都から迎える先例になった。ただ、婚姻生活は不遇だった。家光の父・秀忠の命により、城内の別御殿に住み、中之丸様と称された。
 墓は小石川伝通院(東京都)にある。
◆鷹司信平 江戸時代前期の公卿・旗本・鷹司信平(たかつかさ-のぶひら、1636-1689)。関白・鷹司信房の4男。徳川家光の正室(孝子、本理院)の弟。武家になることを望み、1650年、江戸に下り家光に謁し、御家人になる。1653年、徳川頼宣の 娘・松姫を娶った。1654年、松平の称号を賜り、左兵衛督になり加増された。従四位下少将に叙任される。1674年、加増され上野国碓氷、群馬などを与えられる。54歳。
鷹司輔信 江戸時代前期-中期の公卿・茶人・鷹司輔信(たかつかさ-すけのぶ、1680-1741)。号は有隣軒。関白・鷹司房輔(ふさすけ)の3男/4男。梶井宮慈胤(じいん)法親王に茶道を学ぶ。62歳。
鷹司輔平 江戸時代中期-後期の公卿・鷹司輔平(たかつかさ-すけひら、1739-1813)。幼名は淳宮(あつのみや)。閑院宮直仁(かんいんのみや-なおひと)親王の第3王子。1743年、第115代・桜町天皇の猶子になる。関白・一条兼香(かねか)の養子に入り、鷹司基輝の没後に後嗣のない鷹司家を相続した。1763年、従一位。1787年、関白になる。1789年、第119代・光格天皇の父・典仁(すけひと)親王への、太上天皇尊号宣下を幕府に諮問した。松平定信の反対で実現しなかった。(尊号一件)。1791年、関白を辞職した。75歳。
 鷹司家21代になる。春日神社の占いにより選ばれたとの伝承がある。
鷹司政通 江戸時代後期の公卿・鷹司政通(たかつかさ-まさみち、1789-1868)。鷹司政煕(まさひろ)の子。1823年、関白・内覧になる。1842年、太政大臣を兼ねた。1846年、第121代・孝明天皇の摂政になる。1856年、関白を辞し、特旨をもって太閤と称された。1858年、幕府より日米修好通商条約調印の勅許を求められ、当初は開国論を唱えた。鷹司家諸大夫・小林良典らの影響により一橋派、尊攘派に傾き鎖国説に転じた。1858年-1859年、安政の大獄で、子・輔煕(すけひろ)とともに謹慎処分になった。80歳。
 正室・徳川​清子(?-?)は、水戸7代藩主・徳川治紀(はるとし、1773-1816)の4女・鄰姫だった。清子の弟・斉昭(なりあき、1800-1860)から外国情勢などを聞き取り政通に伝えた。このため、政通は、1853年のペリーの浦賀来航以前に、黒船来航の情報を得ていた。
 従一位。朝廷の故実に精通した。煎茶愛好し、煎茶家・医師・小川可進を支援した。
 鷹司家23代になる。
◆鷹司輔煕 江戸時代後期-近代の公卿・鷹司輔煕(たかつかさ-すけひろ、1878-1807)。京都の生まれ。鷹司政通の子。1857年、右大臣になる。1858年、日米修好通商条約勅許問題で、幕府寄りの関白・九条尚忠と対立した。水戸家への「戊午の密勅」降下に関与し、1858年-1859年、安政の大獄により辞官、剃髪した。1862年、赦免され、国事御用掛になる。1863年、関白・内覧になる。8月18日の政変で失脚し、辞職した。国事御用掛にとどまる。明治政府では議定、祇官知事などを歴任した。72歳。
 鷹司家24代になる。
◆鷹司煕通 江戸時代後期-近代の軍人・侍従長・鷹司煕通(たかつかさ-ひろみち、1855-1918)。鷹司家の当主・輔煕の第11子。幼時出家し、三宝院を相続する。のち還俗し鷹司侯爵家を継ぐ。1872年、ドイツに留学し軍事研修した。1878年、帰国し、陸軍戸山学校に入学する。1879年、歩兵少尉、のち少将に昇進する。侍従武官になる。1912年、侍従長になり、第123代・大正天皇に仕えた。
 家蔵の書籍、文書は整理され、欠を補われている。蔵書印「鷹司城南館」が捺され、明治維新後に第122代・明治天皇に献上された。現在は宮内庁書陵部にある。明治天皇の乗馬の相手を務め、自邸に馬を飼育した。
◆鷹司平通 近現代の交通研究家・鷹司平通(たかつかさ-としみち/ひらみち、1923-1966)。東京の生まれ。1947年、大阪理工科大学工学部を卒業した。日本交通公社に入る。交通博物館調査役になる。43歳。著『ぼくらの機関車』など。
 鷹司家27代になる。
◆鷹司家 鷹司家(たかつかさけ)は、藤原氏北家嫡流、五摂家(ほかに近衛・九条・二条・一条)の一つであり最後の成立だった。家名は、邸が鷹司室町にあったことに因む。楊梅(ややもも)小路に面した猪隈殿も伝領し、楊梅とも呼ばれた。菩提寺は二尊院(右京区)になる。
 平安時代後期-鎌倉時代中期の公卿・近衛家実(このえ-いえざね、1179-1243)の4男・兼平(かねひら、1228-1294)を祖にしている。兼平は摂政、関白になり、以後、子孫も交互に摂政・関白に任じられた。
 室町時代後期の12代・忠冬(ただふゆ、1509-1546)に嗣子なく、1546年以来、家は中絶した。安土・桃山時代、1579年に、織田信長(1534-1582)の口添えで、同じ五摂家の二条晴良(はるよし、1526-1579)の子・信房(のぶふさ、1565-1658)が13代を継いで再興した。
 なお、信房の娘に3代将軍・徳川家光の正室・孝子(たかこ、1602-1674)がいる。ほかに、鷹司家から5代将軍・綱吉の正室に15代・教平(のりひら、1609-1668)の長女・信子(のぶこ、1651-1709)、13代将軍・家定の正室に政煕の娘・任子(あつこ、1823-1848)が入る。
 江戸時代に、鷹司家は知行高1000石、後に1500石になった。18代・房熙(ふさひろ、1710-1730) は近衛家から養子を入れている。19代・ 尚輔(なおすけ、1726-1733 も近衛家から入れた。20代・基輝(もとてる、1727-1743)の後も後嗣に欠けた。閑院宮直仁親王(かんいんのみや-なおひと-しんのう、1704-1753)の皇子を迎え、21代・輔平(すけひら、1739-1813)として継がせた。
 幕末に23代・政通(まさみち、1789-1868)、24代・輔煕(すけひろ、1807-1878)父子が摂政・関白になる。
 輔煕の孫の25代・煕通(ひろみち、1855-1918)は、第123代・大正天皇の侍従長を務めた。
 近代、明治期に公爵を授与された。
◆鷹司邸 鷹司邸は、江戸時代前期には仙洞御所北側に邸宅があった。1673年に失火により焼失する。1708年には宝永の大火により焼失した。復興に際して防火対策として、京都御所南側の広小路拡張工事が行われる。これに伴い、堺町御門北東に移転した。
 1864年、禁門の変の際に、長州藩は鷹司邸より大砲、小銃で堺町御門を攻撃する。その後、長州藩士により屋敷に火が放たれた。
◆蛤御門の変 幕末、1864年6月5日(新暦7月8日)の「池田屋事件」後、長州藩では家老・来島(木島)又兵衛、久留米の神官・真木和泉の尊攘派により、会津藩、薩摩藩、新撰組への報復の声が高まる。7月19日(新暦8月20日)、蛤御門の変(禁門の変)が起きる。
 7月中旬、2000人の長州藩士、浪士の隊列が伏見、山崎、嵯峨の3カ所に布陣した。7月19日、長州藩・福原越後の一隊は、藤森で大垣・福井藩兵に敗退する。長州藩・国司信濃の一隊は、御所の会津藩兵、薩摩藩兵と戦闘を開始した。天龍寺に布陣していた遊撃隊・来島の一隊は、御所の蛤御門を攻撃し、会津藩兵、桑名藩兵、薩摩藩兵と戦闘に入る。山崎の一隊は、堺町御門付近で戦闘になる。長州隊は、一時、会津藩を破り御所内に侵入した。その後、乾御門より駆け付けた薩摩藩兵に背後を突かれた。来島は蛤御門付近で撃たれ戦死、真木和泉、首謀・久坂玄瑞の隊は、堺町御門で福井藩兵と戦闘を交える。久坂は、御所内の鷹司邸に入り、鷹司の参内にお供し、朝廷への嘆願を依頼する。だが、聞き入れられず自刃した。長州藩は鷹司邸より大砲、小銃で堺町御門を攻撃する。会津藩は九条邸より砲撃で応戦した。長州藩は敗退した。真木ら一隊17人は、天王山に逃げ延びる。その後、近藤勇らの新撰組に攻められ山中で自爆、自刃した。
 鷹司邸より火の手が上った。長州藩は落ち延びる際に長州藩邸などに火を放ったことから、京中は「どんどん焼け」という大火に見舞われ、2万7513軒の家屋が焼失した。以後、朝敵になった長州藩に対して、二次の征長令が出された。
◆遺跡 2002年の防火用貯水槽設置に伴う発掘調査が行われた。
 江戸時代前期、1673年、1708年の2回の火災層、鷹司家の築地塀、土蔵などの建物・穴蔵跡などが見つかった。
 菊文小型瓦、瀬戸、美濃、唐津、中国製の陶磁器などが出土した。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 駒札、『京都大事典』、『日本の名家・名門人物系譜総覧』、『岩波講座2 近代日本の文化史 コスモロジーの「近世」』、閑院宮邸跡収納展示館、ウェブサイト「コトバンク」


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