近衛邸跡 (京都市上京区)  
Ruins of of Konoe-tei Rresidence
近衛邸跡 近衛邸跡
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「近衛邸跡」の木標


「近衛邸跡」の駒札


庭園跡


シダレザクラ


【参照】江戸時代、慶応年間(1865-1868)の御所周辺、左上に禁裏(茶色部分)、近衛殿はその上の緑色部分、環境省京都御苑管理事務所の案内板より
 京都御苑内の京都御所北に、「近衛邸跡(このえ-てい-あと)」の木標、駒札が立てられている。
 この付近には、五摂家の筆頭だった公卿・近衛家の邸宅があり、池の畔にはサクラが植えられていた。現在も付近はサクラの名所になっている。
◆歴史年表 詳細は不明。
 年代不詳、この付近に近衛邸があった。
 江戸時代、1853年、10月、篤姫(天璋院)が立ち寄る。
 1855年、第121代・孝明天皇は近衛邸を訪れサクラを愛で歌を詠んだ。 
 近代、1870年、8月、内裏内の公家邸宅地は京都府の管轄になる。
 1871年、11月、内裏内の公家町は隣接する町組に分割された。
 1877年-1880年、京都御苑内の華族士族などの土地は京都府により買上げられた。
◆近衛基実 平安時代後期の公卿・近衛基実(このえ-もとざね、1143-1166)。号は六条、中殿(なかどの)など。藤原忠通(ただみち)の子、母は源国信(くにざね)の娘。父・忠通と第77代・後白河天皇の後ろ盾により、1158年、16歳で関白、氏長者になる。左大臣を経て、1165年、摂政になった。24歳。
 贈正一位太政大臣。近衛家の祖になる。
◆近衛基通 平安時代後期-鎌倉時代中期の公卿・近衛基通(このえ-もとみち、1160-1233)。号は近衛殿、普賢寺殿、普賢寺、法名は行理(こうり)。摂政・関白・藤原基実(もとざね)の長男、母は藤原忠隆の娘。1166年、7歳で父を失い、基実室の平清盛の娘・盛子(もりこ)の養子になり後見される。1170年、元服、正五位下、1172年、従四位下右中将、1174年、従三位、1176年、従二位になる。1179年、摂政・氏長者の叔父・藤原基房が清盛により解官された。清盛の後援により正二位内大臣・関白になる。1180年、第81代・安徳天皇の摂政になった。清盛の娘を妻にした。1183年、平家の都落ちに同行し引き返す。後白河法皇(第77代)に危急を告げ延暦寺に避難させた。木曾義仲に追われ摂政を辞した。1184年、摂政に復帰する。1185年、壇ノ浦で平家が滅亡し源頼朝が実権を握る。1186年、頼朝の意を受けた九条兼実に摂政・氏長者を代わられ、摂関家は近衛家と九条家に分かれた。後白河法皇は摂関家の所領を基通に留めた。1196年、兼実が失脚し、源通親の後押しにより再び関白に復した。1202年、通親の死後、後鳥羽上皇(第82代)の意向により摂政を辞する。1208年、出家した。74歳。
 家名を藤原から近衛に変える。近衛家2代、事実上の祖になる。
◆近衛家実 平安時代後期-鎌倉時代中期の公卿・近衛家実(このえ-いえざね、1179-1249)。猪隈(熊)殿、法名は円心。近衛基通(もとみち)の嫡男。1190年、後白河法皇(第77代)の御所で元服した。1191年、従三位、1204年、左大臣、1206年、摂政、氏長者関白になる。一時を除き、1228年まで摂関だった。1241年、出家する。猪隈殿で没した。日記『猪隈(いのくま)関白記』。64歳。
 従一位。第83代・土御門天皇、第84代・順徳天皇、第86代・後堀河天皇の3天皇の摂政・関白になった。近衛家3代になる。
◆近衛兼経 鎌倉時代前期-中期の公卿・近衛兼経(このえ-かねつね、1210-1259)。号は岡屋、岡屋関白殿。摂政・関白家実の3男、母は源雅頼(実は藤原季定)の娘。1222年、元服し禁色昇殿を許され、正五位下侍従として出仕した。中納言、大納言、内大臣、1227年、右大臣を経て、1235年、左大臣になる。九条道家は近衛家との融和のため、1237年、道家の娘・仁子を兼経の妻とし摂政を譲る。氏長者になる。1240年、太政大臣になった。1242年、兼経は関白になる。第88代・後嵯峨天皇の即位により関白を辞した。1246年、前将軍・九条頼経の陰謀発覚により九条家が失脚し、1247年、再び摂政になる。1252年、摂政を弟・兼平に譲り、鷹司第・財産を分与した。その子孫は鷹司家になる。晩年、宇治の岡屋殿に住む。日記『岡屋関白記』。50歳。
 従一位。近衛・九条両家の不和を解消した。近衛家4代になる。
◆近衛宰子 鎌倉時代中期の公卿女性・近衛宰子(このえ-さいし、1241-?)。父は近衛兼経。1260年、幕府執権・北条時頼の猶子として鎌倉に入り、鎌倉幕府6代将軍・宗尊(むねたか)親王の正室になり、御息所と呼ばれた。1264年、惟康王を産む。1265年、倫子(りんし)女王を産んだ。1266年、宰子と護持僧・良基との密通事件が露見した。良基は宰子出産の際の験者を務めた。同年、宗尊親王は将軍職を追われ帰洛する。幕府は3歳の惟康王を7代将軍として擁立する。その後、宰子は娘を連れて都に戻った。
 娘・掄子女王は、第91代・後宇多天皇の側室になり、1039年、禖子(ばいし)内親王を産んでいる。
◆近衛道嗣 鎌倉時代後期-南北朝時代の公卿・近衛道嗣(このえ-みちつぐ、1332-1387)。号は後深心院。父は近衛基嗣(もとつぐ)、母は家女房。1338年、従三位、その後、内大臣、左右大臣を経て、1361年、関白、氏長者になる。日記『愚管記(ぐかんき)』。55歳。
 北朝に仕えた。近衛家9代になる。
◆近衛経忠 鎌倉時代後期-南北朝時代の公卿・近衛経忠(このえ-つねただ、1302-1352)。号は堀河院、通称は堀河関白。父は近衛家平、母は家女房。1324年、右大臣、1330年、関白になり、同年に辞した。1334年、右大臣、氏長者になる1335年、左大臣になる。1336年、北朝第2代・光明天皇の践祚により関白に還任された。従兄弟・近衛基嗣との家督を争い、第96代天皇・南朝初代・後醍醐天皇に讒言(ざんげん、虚偽の中傷)し、基嗣の失脚を謀る。成功せず、1337年、吉野へ出奔し南朝に仕える。1341年、帰洛後、藤原氏同盟を計画し、関東の小山氏らに協力を求め成功しなかった。1352年、出家し、翌日死去した。51歳。
 従一位。経忠の吉野出奔により子・経家・冬実は昇進停止になる。家督は基嗣に移った。以後、近衛家は基嗣流になる。
◆近衛尚通 室町時代後期の公卿・近衛尚通(このえ-ひさみち、1472.-1544)。通称は後法成寺関白。父は近衛政家(まさいえ)、母は越前加治氏の娘。1483年、従三位、1493年、関白、氏長者になる。1514年、太政大臣、従一位。1519年、准三后になる。1533年、出家した。日記『後法成寺関白記』『日本紀和歌注』。73歳。
 連歌師・宗祇(そうぎ)から古今伝授を受けた。書は古近衛流と称された。
 近衛家14代になる。
◆近衛稙家 室町時代後期の公卿・近衛稙家(このえ-たねいえ、1502/1503-1566)。号は恵雲院覚天大円、恵雲院。父は近衛尚通(ひさみち)、母は徳大寺実淳の娘・維子。嫡男・前久(さきひさ)。元服後に右近衛権少将、左近中将、左大将を経て、1514年、従三位、その後、右大臣、1525年、氏長者、関白になる。1534年、妹・慶寿院は足利義晴と婚姻した。1537年、従一位、太政大臣になり、1542年、辞した。1547年、北白川城に従軍し、三好長慶と戦う。1553年、長慶の入洛により足利義輝が京都を追われ、従い近江朽木に過ごす。1558年、義輝に娘を娶らせる。64歳。
 将軍家と結び付き深く、10代将軍・足利義稙(よしたね)の諱1字をもらう。薩摩島津氏と交わる。和歌、連歌に優れた。父・尚通から古今伝授を受け『源氏物語』を学ぶ。
 近衛家15代になる。
◆近衛前久 室町時代後期-江戸時代前期の公卿・近衛前久(このえ-さきひさ、1536-1612)。初名は晴嗣、前嗣、号は龍山、東求院。京都の生まれ。父は近衛稙家(たねいえ)、母は久我通言の養女・源慶子。第108代・後水尾天皇の外祖。1540年、元服し、12代将軍・足利義晴の偏諱を受け晴嗣(はるつぐ)と称す。1541年、従三位、1545年、権大納言になる。1546年、第105代・後奈良天皇の猶子になる。1547年、内大臣、1553年、右大臣、1554年、関白・左大臣になった。1559年、越後から上洛した長尾景虎(上杉謙信)と盟約を結び、1560年、関白現職のまま景虎の関東平定支援のために越後、関東に入った。1562年、帰京した。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛する。前久は出奔し、摂津、丹波で反信長勢力と通じた。1575年、信長に許され帰洛する。1577年まで、薩摩の島津義久のもとにあった。1580年、信長の要請に応じ、勅使として本願寺光佐との和睦を勧めた。1581年、信長と島津氏・豊後大友氏の和睦を図る。1582年、太政大臣になる。本能寺の変で羽柴(豊臣)秀吉より嫌疑を受け、徳川家康を頼り遠江浜松に下向し出家した。1583年、家康の斡旋により帰洛する。晩年、子・信尹と不和になる。慈照寺・東求堂に隠棲した。77歳。
 神道、有職故実に通じ、父から古今伝授を受け和歌、連歌、書、暦学、馬術、、犬追物、放鷹などに長じた。
 近衛家16代になる。墓は東福寺(東山区)にある。
◆中和門院  安土・桃山時代-江戸時代前期の中和門院(ちゅうわもんいん、1575-1630)。名は藤原前子(さきこ)。近衛前久(さきひさ)の3女。1589年、豊臣秀吉の養女として、第107代・後陽成天皇の後宮に入る。女御になり、南北朝時代以降に中絶していた女御が復活した。1593年、清子(せいし)内親王、1596年、政仁親王(第108代・後水尾天皇)、1599年、近衛信尋、1603年、好仁親王、1605年、一条昭良、1606年、貞子内親王ら12子女を産む。1620年、院号を授けられた。56歳。
 皇子女の教育、徳川秀忠の娘・和子(東福門院)の入内、後水尾天皇の譲位などに関わる。墓は泉涌寺(東山区)になる。
◆近衛信尹 室町時代後期-江戸時代前期の公卿・近衛信尹(このえ-のぶただ、1565-1614)。初名は信基、信輔、法号は三藐院(さんみやくいん)。京都の生まれ。関白・前久(さきひさ)の子、母は家女房。1577年、織田信長の加冠により元服した。1585年、従一位左大臣になる。関白職は羽柴秀吉に奪われる。1592年-1596年、文禄の役に従軍するため、独断で肥前(佐賀県)名護屋本営に赴き、怒りをかい果たせなかった。1592年、左大臣を辞した。1594年、秀吉の上奏により第107代・後陽成天皇の勅勘を受け薩摩坊津に流された。島津義久に厚遇される。1596年、赦免され帰京する。1601年、左大臣に復した。1605年、関白、氏長者になった。日記『三藐院記』。50歳。
 大徳寺の春屋宗園に参禅し、古渓宗陳、沢庵宗彭らと親交した。和歌、連歌、書画、茶道に長じた。書は青蓮院流、定家流に学び、後世に書風を三藐院流(近衛流)と称され広まる。寛永の三筆(京都三筆)(ほかに本阿弥光悦、松花堂昭乗)の一人になる。養嗣子・信尋(のぶひろ)は後陽成天皇第4皇子であり、母は信尹の妹だった。
 墓は東福寺(東山区)にある。近衛家17代になる。
◆近衛信尋 安土・桃山時代-江戸時代前期の公卿・近衛信尋(このえ-のぶひろ、1599-1649)。雅名は桐、石白、号は本源自性院(ほんげんじしょういん)、法号は応山。第107代・後陽成天皇の第4皇子(二宮)、母は近衛前久(さきひさ)の娘・中和門院(前子[さきこ])。弟に第108代・後水尾天皇。1605年、勅命により関白・近衛信尹(のぶただ)の養嗣子になり元服した。1606年、従三位、1612年、内大臣、1614年、右大臣、1620年、左大臣に転任した。1623年、関白になる。1629年、関白、左大臣を辞した。1645年、出家する。日記『本源自性院記』。51歳。
 沢庵宗彭、一絲文守、金森宗和、松花堂昭乗らと交流した。書は養父・信尹の三藐院(さんみゃくいん)流、茶は古田織部に学び、連歌も優れた。吉野大夫をめぐり佐野紹益と競った。
 墓は大徳寺・総見院(北区)にある。近衛家18代になる。
◆近衛尚嗣  江戸時代前期の公卿・近衛尚嗣(このえ-ひさつぐ、1622-1653)。号は妙有真空院。近衛信尋(のぶひろ)の子。左大臣を経て、1651年、関白、氏長者になる。32歳。
 従一位。歌人として知られた。近衛家19代になる。
◆近衛基煕 江戸時代前期-中期の公卿・近衛基煕(このえ-もとひろ、1648-1722)。幼名は多治丸、号は応円満院、法名は悠山。父は近衛尚嗣、母は昭子内親王(実母は家女房瑶林院)。1653年、父・尚嗣が没し、後水尾上皇(第108代)の命により家督を嗣ぐ。1664年、後水尾法皇皇女・品宮(常子内親王)と婚姻した。1665年、内大臣、1671年、右大臣、1677年、左大臣になる。第112代・霊元天皇と確執があった。1690年、関白になり、1703年、辞した。第113代・東山天皇の信を得て、1709年 、公家として江戸時代最初の太政大臣になり、同年に辞した。1710年-1711年、江戸に滞在する。1722年、落飾し証岳と号した。日記『基煕公記』、著『一簣(いっき)抄』など。75歳。
 従一位。歌は後水尾上皇の影響を受け、後西院から古今伝授を受ける。連歌、書画、有職故実に秀でた。大名・間部詮房(まなべ-あきふさ)らと親交した。新井白石の建言による新宮家(閑院宮)創設に関与する。長女・娘・熙子(ひろこ、天英院、1666-1741)は、6代将軍・徳川家宣の正室(御台所)になる。
 墓は大徳寺(北区)にある。近衛家20代になる。 
◆近衛家煕 江戸時代前期-中期中期の公卿・近衛家煕(このえ-いえひろ、1667-1736)。号は予楽院、吾楽軒物外楼主人、青々林、昭々堂主人、虚舟子など、法名は真覚(しんかく)予楽院。京都の生まれ。関白太政大臣・基煕(もとひろ)の子、母は第108代・後水尾天皇の皇女・常子内親王。1673年、元服、1676年、権中納言、1693年、右大臣、1707年/1704年、関白、氏長者になる。1709年、摂政、1710年、太政大臣を経て、1725年、准三宮に至り致仕し出家した。その後、河原二条に移る。日記『家煕公記』、画集「花木真写」など。70歳。
 有職故実に通じ、和歌、書画、立花、香道、作庭などにも優れた。独自の宮廷茶の湯を確立し、自作の茶道具がある。書は賀茂流に学び和洋書家になる。蒐集した上代墨蹟は陽明文庫(右京区)に収められている。侍医・山科道安に家煕の言動を記した『槐記(かいき)』がある。家煕の娘・尚子(ひさこ、新中和門院、1702-1720)は、第114代・中御門天皇の女御になった。
 墓は大徳寺・総見院(北区)、西王寺(中京区)にある。近衛家21代になる。
◆新中和門院 江戸時代中期の女性・新中和門院(しんちゅうかもんいん、1702-1720)。名は尚子(ひさこ)。父は近衛家煕(いえひろ)、母は町尻兼量の娘・量子。6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)の猶子になり、1716年、後宮に入る。第114代・中御門天皇の女御になった。1727年、昭仁(てるひと、第115代・桜町天皇)を産む。准三宮、院号を受けた。同年、死去した。19歳。
 1728年、皇太后を追贈された。
◆近衛忠煕 江戸時代後期-近代の公卿・近衛忠煕(このえ-ただひろ、1808-1898)。号は翠山。父は近衛基前(もとさき)、母は徳川宗睦の娘・静子。右大臣を経て、1857年、左大臣になり、統仁親王の傅役になる。1858年、日米の条約勅許問題を巡り、尊攘派として関白・九条尚忠と対立し、朝権伸長運動を進めた。右大臣・鷹司輔煕、内大臣・一条忠香、前内大臣・三条実万らと「戊午の密勅」降下を推進した。内覧になり、幕府側の圧力のため1カ月で辞した。1858年-1859年、安政の大獄により失脚した。落飾する。1862年、赦免され、関白・内覧、氏長者になる。国事御用掛も兼任した。1863年、8月18日の政変で薩摩と協力した。島津久光と結んだ公武合体論のため、宮中の討幕派の圧力により関白・内覧を辞した。国事御用掛には留まる。91歳。
 贈正一位。妻・興子は薩摩藩主島津斉興の養女であり、薩摩藩と緊密な関係があった。
 墓は大徳寺(大徳寺)にある。近衛家26代になる。
◆近衛忠房 江戸時代後期-近代の公卿・近衛忠房(このえ-ただふさ、1838-1873)。京都の生まれ。父は近衛忠煕。妻・光子が薩摩藩主・島津斉彬の養女だった。1851年、権大納言になり、1862年、国事御用掛を兼任する。尊攘派の急進的な行動を危惧し、1863年、父に従い8月18日の政変に関与した。1864年、禁門の変で朝廷を守ったとされた。内大臣を経て、1867年、左大臣、従一位になる。兵庫開港勅許問題で、薩摩藩など討幕派と将軍・徳川慶喜らの間で斡旋した。王政復古の政変直前に辞官した。日記『忠房公記』。36歳。
◆近衛篤麿 江戸時代後期-近代の政治家・近衛篤麿(このえ-あつまろ、1863-1904)。号は霞山(かざん)。京都の生れ。近衛忠房の長男、母は島津久光の娘・光子。兄・忠房の養嗣子になる。長男・文麿、次男・秀麿。1873年、家督相続し、祖父・忠煕のもとで育つ。1877年、侍従職に任じられ東京に移る。以後、鮫島武之助の塾、大学予備門などに学ぶ。1884年、公爵になった。1885年、政治学・法律学を学ぶためオーストリアに渡る。後にボン大学、ライプツィヒ大学に留学した。1890年、学位を取得し帰国した。貴族院議員になり、「三曜会」を率い、政治雑誌『精神』を発行する。1893年、第5議会の条約励行建議案で衆議院が解散され、民党とともに政府を批判し、硬六派運動に参加し対外硬派になった。1894-1895年、日清戦争後に、1895年-1904年、学習院長になる。1896年-1903年、貴族院議長になった。1898年、「東亜同文会」を組織し、「支那保全、朝鮮扶掖(ふえき、援助)」を唱え、大アジア主義(汎アジア主義)、日清同盟を唱えた。1899年-1901年、義和団事件後にロシアが満州を占領し、1900年、国家主義者・頭山満(とうやま-みつる)らと「国民同盟会」を組織した。1901年、近衛篤麿に従い清、韓を視察する。1903年、欧州を漫遊した。「対露同志会」を結成し日露開戦を唱える。枢密顧問官になった。42歳。
 北海道開拓、教育制度問題など関わる。相撲を好んだ。近衛家28代になる。
◆近衛文麿 近代の政治家・近衛文麿(このえ-ふみまろ/あやまろ、1891-1945) 。摂家筆頭の公爵・近衛篤麿(あつまろ)の長男、母・衍子(さわこ)は産後すぐに死去した。実妹・前田貞子(ともこ)が父の後妻になる。近衛秀麿の兄。1904年、父が死去した。学習院初等科・中等科、第一高等学校を経て、東京帝国大学哲学科に入り、京都帝国大学法科大学に転じた。河上肇の教えを受ける。卒業後、内務省に入り、1916年、貴族院公爵議員になる。1919年、西園寺公望全権の随員としてベルサイユ講和会議に出席した。1931年、貴族院副議長、1933年、同議長に就任する。陸軍皇道派に親近感を持ち、1936年、二・二六事件直後に組閣の大命を受け辞した。1937年、第1次近衛内閣を組織し、盧溝橋事件が勃発する。当初は不拡大方針の声明を出し、軍部に押し切られて日中戦争に突入した。1939年、総辞職し枢密院議長に就任し、平沼騏一郎(きいちろう)内閣の無任所大臣を務めた。1940年、第2次近衛内閣を組織し、新体制運動を展開し、大政翼賛会を結成する。日独伊三国同盟締結後、日米交渉を進める。1941年、日米交渉の開始後、松岡外相が対ソ宣戦、対米譲歩反対を唱え総辞職した。第3次近衛内閣を組織する。東条英機陸相の対米主戦論を抑えきれず総辞職した。日米開戦になる。1944年、東条内閣打倒を図る。1945年、早期終戦の近衛上奏文を天皇に奉呈した。敗戦後、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや-なるひこ)内閣に、副首相格の国務相として入閣し、憲法改正案の起草などにあたる。A級戦犯容疑でのGHQによる出頭命令直前に服毒自殺した。54歳。
 大徳寺(北区)に「近衛家墓所」がある。1880年、陽明文庫(右京区)は同家別荘に設立された。近衛家29代になる。
◆近衛家 近衛家(このえけ)は、藤原北家の嫡流で、藤原氏系公家の中でも家格が高く、五摂家(ほかに九条・二条・一条・鷹司)の筆頭だった。宮門号は「陽明」と称され、邸が禁裏の陽明門を東西に通じた近衛通に面していたことに因む。代々、摂政、関白に任じられることが多かった。
 平安時代末に、源頼朝(1147-1199)は、摂関家の勢力を削ぐため、藤原忠通(ただみち、1097-1164)の3男・兼実(かねざね、1149-1207)を摂政として九条家を始めさせ、長男・基実(もとざね、1143-1166)は近衛家とし摂関家は2分された。
 近衛家は基実を始祖にする。所領は、平安時代末に、忠通は摂関家領を継承する。その後、基実と一部は娘・聖子(せいし、皇嘉門院)に譲った。基実の没後、妻・白河北政所(平清盛の娘)が管領した。
 2代・基通(もとみち、1160-1233)より近衛氏を称している。3代・家実(いえざね、1179-1243)に継がれる。その子・兼経の娘・宰子(?-?)は、鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王(むねたか、1242-1274)の室になり、7代将軍・維康親王(これやす、1264-1326 )を産む。
 鎌倉時代前期に近衛家と九条家の対立が激化する。1221年の承久の乱後、九条道家とその3人の子が摂関の地位を占め九条家の全盛になる。1246年の前将軍・藤原頼経(道家の子)、名越(北条)光時らの謀反陰謀事件により、道家、摂政・実経(道家の子)が失脚し、4代・兼経(かねつね、1210-1259)が摂政に再任され近衛家の隆盛になる。1252年に兼経は弟・兼平(かねひら、1228-1294)に摂政を譲る。兼平は鷹司(たかつかさ)氏を興し、近衛家は2流に分かれる、近衛家は五摂家と称され、その筆頭になった。
 6代・家基(いえもと、1261-1296 )後に近衛家の家平(いえひら)流、7代・経平(つねひら、1287-1318)流の2流が、家門と家領の管領をめぐり対立した。その後、経平流の8代・基嗣(もとつぐ、1305-1354)に伝領された。
 南北朝時代に、経忠(つねさだ、1302-1352)が吉野の南朝に与し、従弟の8代・基嗣(もとつぐ、1305-1354)は京都に残り継いだ。9代・道嗣(みちつぐ、1332-1387)は北朝に仕える。
 室町時代に義家(たねいえ、1503-1566)は10代将軍・足利義稙(よしたね)から諱を一字もらう。妹は、義晴に嫁し、14代将軍・義輝(よしてる、1536-1565)を産んだ。
 16代、前久(さきひさ、1536-1612)は有職故実に通じ、歌、書に優れた。17代・信尹(のぶただ、1565-1614)に継嗣なく、信尹の妹・前子(さきこ)の産んだ第107代・後陽成天皇(1571-1617)の第4皇子・信尋(のぶひろ、1599-1649)が18代になった。
 安土・桃山時代、1601年に近衛家は、徳川氏より1795石余の知行を与えられた。江戸時代に、2862石余になり五摂家中最高の石高になる。19代・尚嗣(ひさつぐ、1622-1653 )、20代・基煕(もとひろ、1648-1722)、21代・家煕(いえひろ、1667-1736)は文人でもあった。基煕の娘・熙子(ひろこ、天英院、1666-1741)は、6代将軍・徳川家宣の正室になる。家煕の娘・尚子(ひさこ、新中和門院、1702-1720)は、第114代・中御門天皇の女御になった。幕末に26代・忠煕(ただひろ、1808-1898)は、尊攘派として安政の大獄に連座して処分される。忠房(ただふさ、1838-1873)は、薩摩藩と連携した。
 近代に入り、1884年に華族に列し、公爵を授けられた。第122代・明治天皇の大権による政治を支える。28代・篤麿(あつまろ、1863-1904)は、貴族院議長な政治活動を行なった。篤麿の子の29代・文麿(ふみまろ、1891-1945)は、貴族院議長を経て3度首相になった。
◆近衛邸 付近に近衛家の屋敷があった。現在も池泉式の邸内の庭園跡があり、池跡、石橋、植栽などが残されている。
 庭園の西に大きな邸宅があったという。御所炎上の際には仮の皇居になった。
 池の畔はイトザクラの名所であり、第121代・孝明天皇(1831-1866)に「昔より名にはきけども今日みればむべめかれせぬ糸さくらかな」がある。江戸時代後期、1855年に、天皇が近衛邸を訪れサクラを愛でて詠んだ。
 現在も邸宅跡周辺に数種のサクラが植えられており名所になっている。
◆建築 東福寺塔頭・勝林寺(東山区)の本堂は、大檀那だった近衛家邸の大玄関を移築している。


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参考文献・資料 駒札、『京都大事典』、『日本の名家・名門人物系譜総覧』、『岩波講座2 近代日本の文化史 コスモロジーの「近世」』、ウェブサイト「コトバンク」


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