一条邸跡 (京都市上京区)  
Site of Ichijotei Residence
一条邸跡 一条邸跡
50音索引,Japanese alphabetical order  Home 50音索引,Japanese alphabetical order  Home

「一條邸跡」の木標




【参照】江戸時代、慶応年間(1865-1868)の御所周辺、左上に禁裏(茶色部分)、一条殿はその左の緑色部分、環境省京都御苑管理事務所の案内板より
 京都御苑の北西、京都御所の西に「一條邸跡(いちじょうてい-あと)」の木標が立てられている。
 かつてこの地に、五摂家の一つ公家の一条邸があった。
◆歴史年表 詳細は不明。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により、一条室町の一条兼良の自邸、文庫「桃華坊」が焼失し一家離散している。
 江戸時代、一条昭良(1605-1672)の屋敷は禁裏御所の西北にあった。
 近代、1870年、8月、内裏内の公家邸宅地は京都府の管轄になる。
 1871年、11月、内裏内の公家町は隣接する町組に分割された。
 1877年-1880年、京都御苑内の華族士族などの土地は京都府により買上げられた。
◆一条実経 鎌倉時代前期-後期の公卿・歌人・一条実経(いちじょう-さねつね、1223-1284)。法名は行祚、号は円明寺関白。父・九条道家、母・西園寺公経の娘・藤原綸子(りんし)/揄子(ゆし)の4男/3男。父・道家は次兄・良実(よしざね)と不仲であり、実経は寵愛された。1233年、従三位になる。1235年、長兄・教実(のりざね)は早世した。1246年、父に解任された良実の後任として関白、摂政になる。以後、一条家は摂関を出す家格になった。1246年、兄・前将軍・九条頼経(よりつね)の陰謀嫌疑により、頼経は鎌倉から追われた。(宮騒動)。1247年、実経も摂政を罷免され、父とともに失脚する。その後、良実と和解して復帰し、1263年、左大臣、1265年、関白に再任された。その後、次第に朝廷内での勢力を失い、実権は良実、西園寺実氏に移った。晩年、円明寺に隠棲し円明寺殿と呼ばれる。『続後撰和歌集』など勅撰集に入集、歌集『円明寺関白集』。62歳。
 従一位。五摂家の一つ、一条家の祖になる。
◆一条兼良 室町時代前期-中期の公卿・学者・一条兼良(いちじょう-かねよし/かねら、1402-1481)。法名は覚恵、号は後成恩寺、諡号は後成恩寺殿、一条禅閤、桃華老人、三関老人、東斎など。父・一条経嗣(つねつぐ)、母・東坊城(菅原)秀長の娘。1412年、元服し、正五位下に叙された。1413年、従三位、1414年、正三位、権中納言になる。1416年、権大納言になり家督を継ぐ。1421年、内大臣、1424年、右大臣、1425年、従一位、1429年、左大臣、1432年、摂政・氏長者になった。室町幕府将軍・足利義教が二条持基を重用したため、摂政を辞任させられる。1444年、足利義政が将軍になり、1446年、太政大臣、1447年、関白・氏長者になった。1450年、太政大臣を辞任した。1453年、関白を辞任し、准三宮に叙せられ、1458年、これも辞した。1467年、再び関白になる。応仁・文明の乱(1467-1477)により、一条室町の自邸宅、文庫「桃華坊」が焼失し一家離散した。1468年、奈良・興福寺大乗院門跡・尋尊(5男)のもとに疎開する。1470年、関白を辞し、1473年、美濃(岐阜県)に下向し、奈良・大乗院で出家した。1477年、帰京する。1479年、越前(福井県)の朝倉孝景のもとに下向し、家領・足羽御厨の返付を要求し聞き入れられず帰京した。主著『文明一統記』、『源氏物語』の注釈書『花鳥余情』、『日本書紀纂疏』、将軍・足利義尚に贈った『樵談治要』 、『東斎随筆』など多数。80歳。
 500年来の学者・才人といわれ、古典学、有職故実、和歌、連歌、能楽などに通じた。神・仏・儒の三教一致を説く。東福寺・常楽庵(東山区)に葬られた。
 一条家8代になる。
◆一条教房 室町時代前期-後期の公卿・一条教房(いちじょう-のりふさ、1423-1480)。法名は宗恵、法号は妙華寺。父・一条兼良、母・中御門宣俊の娘の長男。1439年、従三位、1458年、関白に昇る。1463年、辞した。1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)を避け、弟・尋尊(じんそん)の居る奈良・興福寺に避難した。1468年、和泉堺から土佐(高知県)幡多荘(はたのしょう)の家領回復のため下向した。長宗我部氏に推され長岡郡岡豊(おこう)、後に幡多郡中村の館に移る。58歳。
 従一位。和漢に優れた。土佐一条家の祖になる。教房の没後、次男・房家が継ぎ、兼定まで続く。中村に京都の文化を移入し、土佐の中心地になる。
◆一条冬良 室町時代中期-後期の公卿・学者・一条冬良(いちじょう-ふゆよし/ふゆら、1464-1514)。号は後妙華寺、関白太政大臣。父・一条兼良、母・町顕郷の娘の次男。兄・教房(のりふさ)の長男・政房(まさふさ)の死により教房の猶子になる。1472年、奈良・興福寺・成就院で元服し家督を継ぐ。1473年、従三位、1475年、権中納言になる。1477年、父と共に帰京した。1479年、権大納言になる。1480年、家領・摂津国福原荘に下向し、代官香川氏の押領を退け、1482年、帰京した。1483年、内大臣、1488年、関白・氏長者、1492年、従一位、1493年、太政大臣になり、関白を辞した。1497年、関白に再任され、1501年、再び辞任した。51歳。
 父・兼良の桃華坊文庫を復興した。著に兼良の講義筆記録『令聞書』、『衛府具抄(えふのぐ)』、歌集『流霞集』など。
 一条家10代になる。東福寺(東山区)に葬られる。
◆尋尊 室町時代中期-後期の法相宗の僧・尋尊(じんそん、1430-1508)。号は後大慈三昧院。京都の生まれ。父・一条兼良(かねよし)の5男。1438年、前興福寺大乗院門跡・安位寺経覚が将軍・足利義教によって追放され、尋尊が大乗院に入室した。1440年、得度し、受戒した。1441年、大乗院門跡になり、長谷寺、薬師寺などの別当を兼ねる。1453年、少僧都、1454年、大僧都、1455年、法印、僧正に昇る。1456年-1459年、興福寺別当に就く。1457年、大僧正になった。1467年、法務に任じられた。貴重な史料になった日記『尋尊大僧正記』(1450-1508)が現存する。年代記『大乗院日記目録』などがある。79歳。
 一条家11代になる。
◆一条昭良 江戸時代前期の公卿・一条昭良(いちじょう-あきよし、1605-1672)。初名は兼遐(かねとお)、法名は恵観、法号は智徳院。父・第107代・後陽成天皇、母・中和門院藤原前子の第9皇子。第108代・後水尾天皇の弟。一条内基(うちもと)の養嗣子になる。1629年、関白、左大臣、第109代・明正天皇の摂政になった。1647年、第110代・後光明天皇の摂政、後に関白になる。後水尾上皇を補佐した。1652年、出家した。
 従一位。茶の湯を金森宗和に学び、造園、建築に優れた。西賀茂に「恵観山荘」を営んだ。68歳。
 一条家14代になる。墓は東福寺(東山区)にある。
◆一条忠香 江戸時代後期の公卿・一条忠香(いちじょう-ただか、1812-1863)。法号は後大勝寺。父・関白・一条忠良、母・細川斉茲の娘・富子の4男。子に美子(昭憲皇太后)、久我建通(こが-たけみち)の兄、左近衛権少将、右近衛権中将を経て、1820年、従三位、1821年、正三位、1822年、権中納言、1828年、権大納言、1838年、正二位、1858年、内大臣、1860年、従一位、1861年、左大臣に昇る。1862年、新設の国事御用掛に子・実良らと就任した。日記『璞記(はくき)』。52歳。
 公武合体派であり、尊攘派公家と対立し、将軍継嗣問題では一橋派を支持した。養女・一条美賀子(みかこ)は徳川慶喜の正室になる。娘・美子は第122代・明治天皇皇后になった。煎茶を愛好し、煎茶家・医師・小川可進を支援した。
 一条家22代になる。
◆昭憲皇太后 江戸時代後期-近代の明治天皇皇后・昭憲皇太后(しょうけん-こうたいごう、1849/1850-1914) 。幼名は勝子(まさこ)、美子(はるこ)、富貴君、寿栄君。京都の生まれ。父・五摂家の一つ、左大臣・一条忠香(ただか)、母・一条家医師・新畑大膳の娘・民子の3女。1867年、女御に治定される。第122代・明治天皇より4歳年上のため、生年を1850年に改めた。1868年、美子と改名し入内、女御宣下、即日、皇后に立てられた。1887年前後、明治天皇と共に陸軍演習に行啓した。1888年、憲法発布式典に参列する。1912年、明治天皇の死後、皇太后になり青山御所に移る。
 宮中で養蚕を始めた。宮中での洋装化などに努める。書道、歌に秀で、和歌集に『昭憲皇太后御集』がある。アメリカ合衆国大統領・フランクリンの教訓を翻案した「十二徳の歌」がある。産業、能楽、美術・工芸を奨励し、維新志士遺族、日清・日露戦争の傷病者慰問、博愛社(後の日本赤十字社)、万国赤十字連合、東京慈恵医院、愛国婦人会などに寄与した。東京女子師範学校の設立、1885年、華族女学校(女子学習院)を創立する。子には恵まれなかった。65歳。
 陵墓は伏見桃山東陵(伏見区)になる。
◆一条家 公家の一条家(いちじょうけ)は、藤原氏北家、九条家の分流であり、五摂家(ほかに近衛・九条・二条・鷹司)の一つになる。屋敷は現在の京都御苑内中立売門の北西(現・宮内庁京都事務所の辺り)にあった。一条家は代々摂政、関白に任じられ、近衛家、九条家などとともに重んじられた。菩提寺は東福寺(東山区)になる。
 鎌倉時代初めに、九条道家(1193-1252)は、子・実経(さねつね、1193-1252)に所領と邸宅を譲る。実経は九条家から分立し、一条家の始まりになる。父・道家が造営した邸宅の一条殿(一条室町)に因み家名の由来になった。また、文庫「桃華(花)坊(とうかぼう)」に因み桃華とも呼ばれた。
 道家は自ら摂関になり、子・九条教実(1210-1235)、二条良実(1216-1270)を摂関に任じた。1246年に関白職を良実から弟・実経に譲らせ摂政にしている。
 室町時代中期に、8代・学者・兼良(かねら、1402-1481)がある。1468年に兼良の長子・9代・教房(のりふさ、1423-1480)は、応仁・文明の乱を避け、家領の土佐国(高知県)幡多荘(はたのしょう)に下る。その子孫は土佐一条家といわれた。土佐国司を兼ね、戦国大名として、房家、房冬、房基、兼定、内政と5代続いた。土佐一条家は、長宗我部(ちょうそがべ)氏に滅ぼされた。兼定で絶えたとも、内政の子・政親の時に絶えたともいう。
 京都では教房の弟である10代・学者・冬良(ふゆら、1464-1514)が継いだ。学者・兼良(かねよし、1402-1481)の子に11代・僧・尋尊(じんそん、1430-1508)がいる。13代・内基(1548-1611)の時、一時血統が絶えた。
 江戸時代に、第107代・後陽成天皇の皇子・兼遐(かねとお、昭良[あきよし]、1605-1672)を養子として14代に迎え存続する。
 近代になり、第122代・明治天皇の皇后・昭憲皇太后(美子[はるこ]、1849-1914)は、一条忠香(ただか、1812-1863)の3女だった。近代、明治期に公爵を授与された。
◆稚児人形「嘉多丸」 祇園祭の函谷鉾(かんこぼこ)は、江戸時代後期、1788年の大火によって焼失し、1839年に復興された。当時の鉾にはすべて生稚児(いきちご)が乗る習わしになっていた。
 当時の函谷鉾町は町人の家も少なく、稚児を出せる家も見当たらなかった。鉾再建で費用も嵩んだ。町内では生き稚児を出せるまでの間、木偶による人形稚児を乗せる旨を願い出て許可されている。
 町では、以前に同町に住んでいた大仏師・七条左京に制作を依頼した。製作費用は近隣の下古京仲九町組から寄せられる。七条左京は、彫刻像を図りかね、一条忠香(ただか、1812-1863)に相談したところ、長男の実良(さねよし、1835-1868)の模写像に快諾した。
 七条左京により等身大の人形が制作された。忠香により「嘉多丸(かたまる)」と名付けられる。 一条家からは町に、御神号「祇園牛頭天王」の御筆掛軸、下着、襦袢、振袖、差貫(袴)、西陣織の狩衣の稚児衣装一式が寄贈されている。
 身長120㎝、桧材、胡紛彩色、玉眼入、髪は漆張型。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『京都大事典』、『歴史読本 天皇宮家人物総覧』、ウェブサイト「稚児人形 - 鉾の説明と懸装品 - 函谷鉾」、『岩波講座2 近代日本の文化史 コスモロジーの「近世」』、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺,relevance&surrounding area京都御所・京都御苑1 関連・周辺,relevance&surrounding area京都御所・京都御苑2  近衛邸跡(京都御苑)  九条邸跡(京都御苑)  二条家邸跡   鷹司邸跡(京都御苑)  小一条院跡・花山院家跡(京都御苑)  土御門第跡(京都御苑)   枇杷殿跡(京都御苑)  西園寺邸跡(京都御苑)   賀陽宮邸跡(京都御苑)  橋本家跡(京都御苑)   中山邸跡(京都御苑)   有栖川宮邸跡(京都御苑)  桂宮邸跡(京都御苑)  染殿第(染殿)跡・染殿井跡(京都御苑)    閑院宮邸跡(京都御苑)  桜町(桜町屋敷跡・紀貫之邸跡)(京都御苑)  凝華洞跡(京都御苑)  清水谷家の椋・清水谷家 (京都御苑)   冷泉家  土御門内裏跡  周辺,surrounding area   関連,relevance歴代天皇データ     50音索引,Japanese alphabetical order 
map 一条邸跡 〒602-0881 京都市上京区 京都御苑
50音索引,Japanese alphabetical order  Hometop 50音索引,Japanese alphabetical order  Hometop
logo,kyotofukoh © 2006- Kyotofukoh,京都風光