橋本家跡(京都御苑) (京都市上京区)  
Ruins of of Hashimoto Family Residence(Emperor's Palace)
橋本家跡 橋本家跡
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「橋本家跡」の駒札


「皇女和宮生誕の地(橋本家跡)」の木標




【参照】東福門院入内図屏風、閑院宮邸跡収納展示館展示パネルより
 京都御苑内の京都御所東に「橋本家跡(はしもとけ-あと)」の駒札、「皇女和宮生誕の地(橋本家跡)」の木標が立つ。
 江戸時代に、この地の橋本家邸で、和宮親子内親王が生まれ、14年間を過ごした。
◆歴史年表 詳細は不明。
 江戸時代、1846年、和宮親子内親王がこの邸で誕生し、その後、14年間を過ごしたという。
 近代、1870年、8月、内裏内の公家邸宅地は京都府の管轄になる。
 1871年、11月、内裏内の公家町は隣接する町組に分割された。
 1877年-1880年、京都御苑内の華族士族などの土地は京都府により買上げられた。
◆西園寺実俊 南北朝時代の公卿・西園寺実俊(さいおんじ-さねとし、1335-1389)。実名(さねかた)、号は後常盤井(のちのときわい)。冷泉・橋本・入江などと称した。権大納言・公宗の長男、母は権大納言・日野資名(すけな)の娘。1335年、父・公宗は、建武政権への反乱を企てたとして誅殺された。1344年、従三位、1353年、叔父・公重が南朝に仕える。実俊は北朝での家督になり、権大納言、内大臣になる。1366年、右大臣。従一位。『新千載和歌集』に入集。55歳。
 橋本家の祖になる。
◆橋本実澄 鎌倉時代後期-南北朝時代の公卿・橋本実澄(はしもと-さねずみ、1331-1373)。詳細不明。従三位、権中納言。実澄より家名が橋本になった。
 橋本家3代になる。
◆橋本実麗 江戸時代後期-近代の公卿・橋本実麗(はしもと-さねあきら、1809-1882)。父は橋本実久、母は家女房、妹に観行院(橋本経子)。正二位、大納言、参議。1861年、姪・和宮の14代将軍・徳川家茂への降嫁について、当初は和宮の生母・観行院と共に反対した。婚姻成立後は、五箇条の条件を幕府に認めさせた。
 墓は青山霊園(東京都)にある。橋本家17代になる。
◆観行院 江戸時代前期の皇女・観行院(かんぎょういん、1826-1865) 。名は経子。橋本実久の娘、妻は家女房。実麗(さねあきら)の妹。第120代・仁孝天皇に仕え、新典侍局と呼ばれた。1846年、仁孝天皇の死後に宮廷を退く。同年、和宮親子(かずのみや-ちかこ)内親王を産む。1861年、和宮が14代将軍・徳川家茂(いえもち)に嫁ぎ、江戸城大奥に入る。40歳。
◆和宮親子内親王 江戸時代後期-近代の皇女・和宮親子内親王(かずのみや-ちかこ-ないしんのう、1846-1877)。幼名は和宮、親子(ちかこ)内親王。名は親子、和宮、静寛院宮。京都御所の東、橋本邸で生まれる。第120代・仁孝天皇の第8皇女、母は権大納言・橋本実久の娘・経子(つねこ、観行院)。第121代・孝明天皇の妹。1848年、3歳で宮中で歳替の儀を行う。孝明天皇の思し召しにより、1851年、6歳で有栖川宮熾仁(ありすがわのみや-たるひと)親王(17歳)と婚約した。1858年、長野主膳は、和宮の降嫁を献策する。1860年、桜田門外の変後、婚約破棄になり朝幕関係融和のため、公武合体政策により政略結婚として降嫁の話が出る。孝明天皇は当初、反対した。桂宮邸に移る。1861年、内親王宣下、桂宮邸より江戸に出発し、14代将軍・徳川家茂の正室として降嫁した。以後、政局の進展は見られなかった。1862年、婚儀、1866年、家茂没後、落飾して静寛院と称した。この頃、母、夫、兄を相次いで失う。1867年、大政奉還以降、徳川家救済のため朝廷との間で尽力した。1868年、戊辰戦争で熾仁親王は東征大総督になり、江戸城を目指した。和宮は親王宛に江戸城中止を懇願する。1869年、和宮は京都に戻り聖護院を仮殿にした。その後、旧中川宮朝彦親王邸に移り栄御殿と称した。1874年まで過ごし、東京に戻る。1877年、療養地の箱根で亡くなる。32歳。
 墓は芝・増上寺に夫ともに葬られた。
◆橋本家 橋本家(はしもとけ)は、羽林家の家格を有する。藤原北家閑院流/公季流、西園寺分家になる。3度の中絶があった。
 鎌倉時代前期中期の公家・西園寺公相(1223-1267)の4男、南北朝時代の実俊(さねとし、1335-1389)が初代になる。当初は冷泉・橋本・入江などと称した。孫の3代・橋本実澄(さねずみ、1331-1373)より橋本になる。
 室町時代、6代・橋本公国(1417-1469)に跡継ぎなく、7代・橋本公夏(きみなつ、1454-1538)は、西園寺家・清水谷家から養子に入る。公夏の出家に伴い、その孫の8代・橋本実勝(?-1588)が養子に入る。その後、中絶した。
 江戸時代初期に9代・橋本実村(さねむら、1598-1664)は、公夏の曾孫であり実勝の養子に入る。その弟・実清(さねきよ、1609-1662)は、分家し梅園家の祖になった。
 江戸時代後期-近代の17代・実麗(さねあきら、1809-1882)の妹・経子(つねこ、観行院、1826-1865)になる。経子は第120代・仁孝天皇(1800-1846)に典侍として仕え、和宮親子内親王(1846-1877)を産む。和宮は、1846年に仁孝天皇の没後は、橋本家で養育される。和宮の将軍家降嫁に伴い、橋本家は加増された。実麗の子は18代・実梁(さねやな、1834-1885)になる。
◆橋本邸 橋本邸の詳細は不明。和宮の生誕地といわれ、14年間養育された。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『京都大事典』、ウェブサイト「ねっこのえくり」、ウェブサイト「公卿類別譜(公家の歴史)」、『岩波講座2 近代日本の文化史 コスモロジーの「近世」』、閑院宮邸跡収納展示館、ウェブサイト「オフィス・モリオカ」、ウェブサイト「コトバンク」


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