染殿第(染殿)跡・染殿井跡 (京都市上京区)  
Ruins of Somedono-dai(Emperor's Palace)
染殿第(染殿)跡・染殿井跡 染殿第(染殿)跡・染殿井跡
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染殿第跡


「染殿第跡」の駒札


染殿井跡
 京都迎賓館の北東に、「染殿第跡(そめどのだい-あと)」の駒札が立てられている。この付近に、平安時代前期の公卿・藤原良房の邸宅があった。染殿(そめどの)とも呼ばれ、その娘・明子(染殿后)の御所も営まれた。
 現在は屋敷内にあった染殿井の井桁のみが残されている。
◆歴史年表 平安時代、この付近に藤原良房(804-872)の邸宅があった。
 良房の娘・明子(829-900)の御所になる。
 850年、惟仁(これひと)親王(第56代・清和天皇)が屋敷で生まれた。
 851年、第54代・仁明天皇の追悼の法会が行われる。
 879年、清和天皇は出家し、清和院(旧染殿邸)に移る。
 近代、1870年、8月、内裏内の公家邸宅地は京都府の管轄になる。
 1871年、11月、内裏内の公家町は隣接する町組に分割された。
 1877年-1880年、京都御苑内の華族士族などの土地は京都府により買上げられた。
◆藤原良房 平安時代前期の公卿・藤原良房(ふじわら-の-よしふさ、804-872)。通称は染殿、白河殿、諡は忠仁公。京都の生まれ。冬嗣の次男、母は尚侍(ないしのかみ)・藤原美都子(みつこ)(阿波守藤原真作の娘)/大庭(おおば)女王。814年、第52代・嵯峨天皇より皇女・潔姫(きよひめ)を降嫁される。826年、蔵人、その後、中判事、大学頭などを経て、833年、第54代・仁明天皇の即位に伴い蔵人頭になる。834年、参議、835年、中納言、839年、陸奥出羽按察使に昇る。842年、嵯峨上皇の死を契機にした承和(じょうわ)の変で、伴・橘両氏の勢力を削ぐ。妹・順子の産んだ道康(みちやす)親王(第55代・文徳天皇)を立太子し、自らは大納言になる。845年、淳和上皇(第53代)の没後、848年、右大臣兼皇太子傅(ふ)になる。850年、文徳天皇の即位により、外戚になる。惟喬親王(文徳天皇第1皇子)を抑え、娘・明子が産んだ生後8カ月の惟仁親王(文徳天皇第4皇子)を皇太子にする。854年、左大臣・源常(みなもと-の-ときわ)の没後、右大臣のまま廟堂の首班になる。857年、左大臣を経ず、奈良時代以降絶えていた太政大臣、従一位になった。858年、文徳天皇が没し、9歳の清和天皇(惟仁親王)が即位し、良房は太政大臣になる。866年、応天門の炎上事件に乗じ、伴善男(ともの-よしお)を失脚させ、伴・紀両氏の勢力を奪う。正式に人臣(皇族以外)初の摂政になった。871年、准三后になった。『貞観格式』『続日本後紀』の編纂に参画した。872年、東一条第(平安左京一条三坊)で亡くなり白河辺に葬られた。69歳。
 嵯峨天皇の信任を得た父の後を継ぎ、藤原北家の権力基盤を作る。天皇との関係が形成され、「前期摂関政治」とも称された。後の藤原北家全盛の礎になる。妹・順子の入内、兄・長良の子の基経を養子とし、基経の妹・高子も清和天皇の女御として入内させた。没後、正一位・忠仁公が贈られ、美濃国に封じられた。邸宅染殿(平安左京北辺四坊)は桜の名所として知られ歌宴が催された。
◆藤原明子 平安時代前期の第52代・文徳天皇の女御・藤原明子(ふじわら-の-あきらけいこ/めいし、829-900)。染殿后(そめどの-の-きさき)。父は人臣最初の摂政・藤原良房、母は第52代・嵯峨天皇の皇女・源潔姫(きよひめ)。通康親王(第55代・文徳天皇)の東宮の時に入内し、女御になった。850年、4男・惟仁親王(第56代・清和天皇)を産み、親王は立太子した。?年、賀茂の斎院・儀子内親王を産む。853年、従三位に叙せられる。858年、清和天皇の即位とともに皇太夫人、従一位に叙された。清和天皇と共に東宮に遷御した。864年、清和天皇から皇太后の号を贈られる。866年、常寧殿に遷る。882年、孫の第57代・陽成天皇の元服により、太皇太后の号を贈られた。73歳。
 文徳天皇以来、6代の天皇に50年にわたり後宮に仕えた。染殿后と呼ばれ、藤原氏の外戚としての地位確立に寄与した。父・良房は「年経れば齢は老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし」と明子を桜花にたとえて詠んだ。(『古今集』)。伝承が残る。染殿后の美しさに迷った聖人は鬼と化し、后を悩ませた。(『今昔物語集』)。
清和天皇 平安時代前期の第56代・清和天皇(せいわ-てんのう、850-880)。惟仁(これひと)、水尾帝(水尾天皇)、水尾御門。第55代・文徳天皇の第4皇子、母は藤原良房の娘・明子(あきらけいこ、染殿皇后)。良房の染殿邸に生まれた。850年、兄の3親王(惟喬、惟条、惟彦)を差し置き、生後8カ月で立皇太子になる。858年、9歳で即位し、後見した外祖父・良房が人臣(臣下)最初の摂政になる。(正式には866年以降)。866年、応天門の変が起こり、大伴家が没落する。良房が権勢を誇った。876年、天皇は27歳で、基経の妹・女御・藤原高子との間の生後3カ月の貞明(さだあきら)親王(第57代・陽成天皇)に譲位した。以後、藤原北家良房一門の権勢は確立された。879年、出家し、素真と称した。清和院(旧染殿邸)に移る。良房の養子・基経の粟田山荘(後の円覚寺)で落飾する。畿内巡幸の旅に出る。棲霞観(清凉寺)に住み、天台宗の名刹・水尾山寺に入寺したという。勅命により「貞観格式」が編まれた。880年、粟田山荘に移り没した。31歳。 
 金戒光明寺裏山に火葬塚(左京区)がある。嵯峨水尾山(水尾山陵)(右京区)に葬られた。僧の身になった天皇は生前に、薄葬、陵墓を造営しないようにと遺詔している。後世、武門の棟梁になる清和源氏の始祖とされた。
◆染殿第(染殿)跡 「染殿第(染殿)跡」は、京都迎賓館の北東にある。
 平安時代前期に、藤原良房(804-872)の邸宅「染殿第(染殿)」(平安左京北辺四坊、正親町南、京極西)があったという。良房の娘・明子(829-900)の御所になる。850年には、惟仁(これひと)親王(第56代・清和天皇)が生まれている。879年に、清和天皇は出家し、清和院(旧染殿邸)に移った。
 屋敷は、桜の名所として知られた。観桜の歌宴も度々催された。851年には生前に屋敷の桜を愛でた第54代・仁明天皇(810-850)の追悼法会が行われている。良房は娘・明子(染殿后)について「年ふれば齢は老いぬ然はあれど花をしみれば物思ひもなし」(『古今集』)と詠じている。
◆染殿井 染殿跡に、いまは「染殿井(そめどのい) 」の井桁が残されている。邸内にあり、「清和井(せがい) 」とも呼ばれた。「御所三名水」の一つに数えられ、清和天皇の産湯井にも使用された。
 なお、梨木神社(上京区)の境内にも同じような謂われの「染井」があり、現在も湧水している。雨宝院(上京区)境内にも「染殿井」があり、「西陣五水」の一つだった。染物に適したという。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 駒札、『京都大事典』、『岩波講座2 近代日本の文化史 コスモロジーの「近世」』、ウェブサイト「コトバンク」


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