伏見長州藩邸跡 (京都市伏見区)  
Ruins of Fusimi Choshu Domain Residence
伏見長州藩邸跡 伏見長州藩邸跡
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「伏見長州藩邸跡」の石標、副碑




副碑


【参照】「観月橋」の親柱


【参照】道標(京道)「左 北山上役行者鷲峯山道」
 伏見の竹田街道(府道115号線)沿いの京都市伏見土木事務所の東側塀に、「伏見長州藩邸跡(ふしみ-ちょうしゅう-はんてい-あと)」の石標、副碑が設置されている。
 江戸時代にこの地に、伏見長州藩が置かれ、禁門の変(蛤御門の変)の際には舞台の一つになった。
◆歴史年表 江戸時代、1699年以降、伏見長州藩邸がこの場所に移されたという。(『御香宮文書』)
 1864年、7月19日(新暦8月20日)未明、禁門の変(蛤御門の変)に際し、長州藩家老・福原越後は、この藩邸から京都へ進軍した。
 現代、2009年、 12月、伏見観光協会・社団法人伏見納税協会青年部会により、石標・副碑が立てられた。
◆福原越後 江戸時代後期の長州藩永代家老・福原越後(ふくはら-えちご、1815-1864)。名は元僴(もとたけ)、幼名は徴之助、佐世家に入り主殿、勝定、元定、号は翠崖。長州支藩の徳山藩主・毛利広鎮(もうり-ひろしげ、就寿[たかひさ])の6男。初めは本藩寄組・佐世家の養子になる。後に、藩命により永代家老家の宗(そう)藩・福原親俊(ちかとし)(1万1314石)継ぐ。兵庫警衛総奉行を経て、1860年、長州(萩)藩地の中枢である当職(国家老)に就く。当職廃止後は加判役の最高位になり、長州藩の尊攘運動に当たる。嘉永年間(1848-1854)以降、藩主・毛利敬親(もうり-たかちか、慶親[よしちか])を助け、宇部領内の領政改革を行う。1863年、八月十八日の政変が起き、1864年、長州藩の威信回復のため、朝廷への藩主の雪冤(せつえん、身の潔白)陳情は、聞き入れられなかった。越後は兵を率いて上京した。7月19日(新暦8月20日)、禁門の変(蛤御門の変)に際し、伏見長州藩邸より進軍し敗北した。越後は藤の森で負傷し、海路で宇部に帰る。同年、11月、第一次長州征伐の進撃前に、三家老(ほかに益田右衛門介、国司信濃[くにし-しなの])の一人として、岩国・竜護寺で自刃した。著『緑浜詠草』。50歳。
 文学、詩歌に優れた。
◆伏見長州藩邸 安土・桃山時代、1594年の伏見城造営当初は、伏見長州藩邸は城下の西の端、大名屋敷の一角と毛利橋の東にあり、「毛利長門守」の屋敷と記されていた。(『豊公伏見ノ図』、中井家所蔵『伏見城絵図』)。
 江戸時代中期、1699年に、中書島の新地開発を許可され、この年以降に藩邸は現在地に移転したとみられている。この付近と三栖向町の間には船大工町があり、船・船具製造者らが暮らしていた。通りに面して町家が建ち並び、藩邸はその奥にあったという。(『御香宮文書』)
 幕末、1864年7月19日(新暦8月20日)未明に、長州藩家老・福原越後は、伏見長州藩邸から500の兵を率いて京都御所に向け進軍開始した。伏見街道の稲荷付近から竹田街道間を守っていた大垣・会津・桑名・鯖江の藩兵と衝突する。禁門の変(蛤御門の変)が勃発した。
 長州勢は早くに敗走し伏見長州藩邸に戻る。福原は藤の森で負傷していた。態勢を整えたものの、彦根藩、他の連合軍は京橋から伏見長州藩邸を砲撃し焼亡した。(副碑の記述)
◆蛤御門の変 蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)は、禁門(きんもん)の変、元治の変、元治甲子の変ともいわれる。
 幕末、1863年、八月十八日の政変で、尊王攘夷を主張する長州藩は、公武合体派の会津藩、薩摩藩らの諸藩兵により京都を追放された。長州藩は朝廷九門の一つである禁門警備の任を免じられ、13代藩主・毛利敬親(たかちか 、慶親)は処罰された。長州には、京都を脱した七卿、真木和泉ら浪士が集結し、藩内では急進派の進発出兵論と慎重論の論争が続く。
 1864年、京都では公武合体派諸侯の連携が破れる。6月、池田屋事件で、長州藩などの志士20数人が新撰組に急襲され、多数の犠牲者が出た。
 長州藩内の慎重論である周布政之助(すふ-まさのすけ)、木戸孝允、高杉晋作らに対し、一挙に急進派の来島又兵衛(くるしま-またべえ)らの勢力が支配的になる。藩主・毛利敬親は、公武合体派排除の形勢立て直しのために、急進派3家老の福原越後、国司信濃(くにし-しなの)、益田右衛門介に軍令状を与えた。来島、久坂玄瑞、真木和泉ら先発隊は、藩兵と諸藩浪士軍ら3000を率いて上京する。兵は山崎・宝積寺、伏見・長州屋敷、嵯峨・天龍寺などに分営した。久留米水天宮の真木和泉の一隊は、山崎に布陣した。長州藩による朝廷への藩主父子の名誉回復、尊攘派7卿の赦免は拒絶された。幕府では、征長令の発令工作が進んでいた。
 7月19日(新暦8月20日)、長州藩兵は世子・毛利元徳(定広)の率いる本隊の到着前に、各隊が京都守護職の追放を掲げ市中に進軍開始した。伏見・福原隊は早くに敗退する。天龍寺を発した国司隊は京都御所に進軍した。伏見とともに、京都御所の蛤御門、堺町御門付近で戦闘が始まる。長州勢は、朝廷警備に当たっ京都守護職・松平容保の率いる会津、桑名、薩摩、大垣ら諸藩兵3200と戦闘に入った。来島らは蛤御門に迫り最も激戦地になる。長州勢は最初は優位に立った。その後、薩摩藩兵の来襲により敗退し、昼までに長州藩は敗北した。来島は戦死、久坂、真木らは自刃している。
 戦いで京都の半分の家屋が焼失する大火(どんどん焼け、鉄砲焼け)になった。その後、幕府は朝敵になった長州藩に対し第一次長州征伐の出兵を行う。3家老7参謀は、各々切腹、斬殺に処された。
 なお、大火の混乱に乗じて、六角獄舎の政治犯が斬首されている。
◆道標 京都市伏見土木事務所敷地内に、江戸時代後期の道標(京道)「左 北山上役行者鷲峯山道」が立てられている。
 東面に「右 なら/左 北山上役業者鷲峯山道 従是/左宇治 四里半」。南面に「右 京道」、北面に「左 京道」、西面に「文化十(1813年)癸酉二月 施主町中」とある。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 伏見長州藩邸跡副碑、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 伏見長州藩邸跡 〒612-8219 京都市伏見区表町 京都市伏見土木事務所東側
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