旧前川邸 (京都市中京区)
The former residence of Maekawa
旧前川邸 旧前川邸 
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長屋門


現在は「株式会社 田野製袋所」の看板が掛かる。


長屋門


長屋門、北西角、隊士を集合させる際にはこの角で拍子木を打ち鳴らした。




長屋門、北側


長屋門北西の出窓、新撰組隊士・野口健司はこの奥右手の部屋でで切腹されられたという。


長屋門北側、中央付近の出窓、かつてあった出窓には刀傷が残されていた。


京都出身の隊士・楠小十郎(1847? -1863)は門前で、近藤勇の命を受けた原田左之助に斬られ、水菜畑まで逃れ絶命した。


長屋門扉


長屋門、漆喰壁




西の長屋門


母屋


屋敷内見取り図、説明板より。右方が北になる。西(上)に通りを隔てて八木邸がある。
右端上に長屋門、左端に二つの土蔵が建つ。下に東の蔵がありここで古高俊太郎が拷問を受けた。中央上が母屋で、山南敬助が切腹したのは最上部の中央付近の一室だった。


新撰組は麻の羽織、紋付の単衣、小倉袴を着用した。羽織の端の山形模様は、赤穂浪士討入りの切腹裃をもとにしている。壬生は藍を産し、水も豊富だったことから藍染めも行われていた。羽織は浅葱色を用いて染めた。「誠」の隊旗は赤地に誠の字と下に山形を白く染め抜いている。縦は6尺(182㎝)ある。


剣法・天然理心流試衛館を紹介するポスター。近藤勇は4代宗家だった。


【参照】「勤王志士 古高俊太郎邸址」の石標、下京区河原町通四条上る一筋目東入南側


【参照】「維新史蹟・池田屋騒動之址碑」、三条通木屋町西入る

 壬生寺の東に位置している郷士(壬生住人士)の旧前川邸は、幕末、浪士組が分宿し、その後は2年間にわたり壬生浪士組、新撰(選)組の屯所が置かれた。 
 現在も建物は保存されている。現在は田野製袋所が所有する。
◆歴史年表 室町時代、前川家は、越前国の戦国大名・第11代朝倉左衛門督義景(1533-1573)を中祖としたという。
 1573年、織田信長により攻められ落城し、近江に逃れたという。
 江戸時代、1754年、近江より京都に移る。公金出納に関わる掛屋、特定の生糸の商人集団・糸割符仲間に加わる。本家は、掛屋として、御所、所司代の公金出納を担っていたという。
 天保年間(1830-1843)、前川荘左衛門義陳の子が、壬生の八木重次郎家を相続する。次の代で前川姓に改める。
 1837年、土蔵(西の蔵)が建てられる。
 1839年、前川五郎左衛門は土蔵(東の蔵)を建立する。
 1863年、2月23日(旧暦)、清河八郎の指揮下で上洛した浪士組234人のうち、八木源之丞邸に、芹沢鴨、近藤勇ら13人が分宿する。
 3月13日、清河らの浪士組は江戸へ帰還する。尊王攘夷派の清河に反対した芹沢、近藤らは京都に残留し、京都守護職・会津藩預かりになる。以後、壬生浪士組(後の新撰組)を名乗る。
 5月頃、前川邸も屯所の役割を担う。後に前川荘司一家は、新撰組に追い出される形で前川本家両替店(油小路六角)へ移る。
 9月18日/16日、新撰組初代筆頭局長・芹沢鴨らが島原から八木邸に帰る。寝入るのを見届けた何者かが邸内に踏み込み殺害した。新撰組による粛清ともいわれ、刺客は前川邸より出たともいう。
 9月20日、芹沢鴨、平山五郎の葬儀は前川邸で行われたという。近藤勇が弔辞を読んでいる。遺骸は壬生寺に葬られる。
 9月26日、前川邸の縁側で、隊士の御倉伊勢武、荒木田左馬之介が隊士の斎藤一、林信太郎に斬殺された。同じく楠小十郎は長屋門前で原田左之助に斬殺された。これらの粛清理由は長州間者とされたことによる。
 1864年、6月5日、新撰組に捕縛された攘夷派の小道具商・古高俊太郎は、前川邸内東の蔵で拷問を受ける。尊攘派による天皇動座計画を自白したとされ、同日夜、三条木屋町の池田屋に集まっていた尊王攘夷派志士を新撰組が急襲し撃滅した。(池田屋事件)
 6月6日、正午、池田屋事件後に新撰組は壬生村に凱旋し、沿道は見物人であふれたという。その後、前川邸では、長州の報復に備え板塀を土塀に造り替え、会津藩より借り受けた大砲を長屋門に据え付けた。
 12月27日、隊士・野口健司は局中法度違反により切腹を命じられ、前川邸長屋門西の部屋で安藤早太郎の介錯により切腹した。
 1865年、2月23日、副長・総長の山南敬助は局中法度違反により前川邸西側坊城通に面した一室で切腹になる。介錯は沖田総司が行う。
 3月10日、新撰組は壬生屯所から西本願寺の北集会所(西本願寺屯所)に移る。新撰組は迷惑料として前川家に10両を支払う。
◆近藤勇 江戸時代後期、新撰組局長・近藤勇(こんどう いさみ 1834-1868)。武蔵国に生まれた。父は豪農の宮川久次郎、母えいの3男。1848年、天然理心流3世・近藤周助に師事、4世を襲名する。1849年、周助の実家の島崎家養子になり、1860年、近藤勇藤原昌宜と称した。1862年、清河八郎らの浪士組に加わる。1863年、上洛の浪士組先番宿割役、一時は三番組の小頭を務めた。尊王攘夷派清河らに従わず京都に残留、壬生浪士組局長、その後、芹沢鴨を粛清し新撰組局長に就く。1864年、池田屋事件で尊攘派志士を襲撃した。1865年、長州訊問使・永井主水正尚志に随行。1867年、新撰組隊士が幕府召しかかえになる。西軍武力討幕蜂起の諜報により京都守護職に報じる。油小路事件で伊東甲子太郎ら新撰組を脱退した御陵衛士を粛清する。御陵衛士により、伏見街道墨染辺りで報復狙撃され重傷を負う。1868年、鳥羽・伏見の戦を経て江戸に移り、甲陽鎮撫隊を組織、甲州勝沼で敗走、下総流山で官軍に自ら投降した。板橋で斬首、首は同所、三条河原、大坂で晒された。
◆古高俊太郎 江戸時代後期の攘夷派志士・古高俊太郎(ふるたか/こたか しゅんたろう1829-1864)。近江国に生まれた。父は大津代官所の手代・古高周蔵、母は公家の広橋家家来の娘。父が山科毘沙門堂門跡従者となり京都へ移住した。門跡近習になる。尊皇攘夷の梅田雲浜に入門。1861年、京都河原町四条上ル東で諸藩御用達・枡屋を継ぎ、枡屋喜右衛門を名乗る。小道具(薪炭商、馬具も)を商い、宮部鼎蔵、有栖川宮、長州との連絡をとる。1864年、店に新撰組が踏み込み捕縛される。壬生屯所で激しい拷問を受け、1863年、八月十八日の政変後の長州によるクーデタ、テロ計画を自白したとされる。ただ、詳細は不明。自白をもとに、同日夜、新撰組が池田屋に集結した尊攘派志士を急襲撃破する。(池田屋事件)。古高は六角獄舎に収容される。長州藩尊攘派による禁門の変が起こり、獄舎に迫ったどんどん焼けの騒乱に乗じ、幕吏により獄中で斬首された。36歳。
◆野口健司 江戸時代後期の新選組隊士(副長助勤)・野口健司(のぐち けんじ、1843-1864)。水戸に生まれる。江戸の百合元昇三道場で神道無念流を学び目録を得る(免許皆伝とも)。1863年、浪士組に参加して上洛した。江戸帰還に反対し京都に残留、芹沢鴨らの水戸派(芹沢派)の一人になる。壬生浪士組で副長助勤。芹沢と行動を共にし、1863年の大坂力士の乱闘、大和屋焼き打ちに関与した。八月十八日の政変の際にも出動している。9月、芹沢と平山が暗殺された新撰組粛清の際に、野口は角屋に残り難を逃れた。以後、隊内にとどまるが、12月27日切腹を命じられ、前川邸長屋門西の部屋で、安藤早太郎の介錯により自害した。享年21歳。
山南敬助 江戸時代後期の新撰組副長・総長山南敬助(やまなみ/さんなん けいすけ、1833-1865)。陸奥国に生まれた。詳細不明。仙台藩を脱藩し江戸に出たという。小野派一刀流の免許皆伝、北辰一刀流の千葉周作門人。近藤勇の天然理心流剣術道場・試衛館での試合で近藤に敗れ、以後、近藤に従う。1863年、清河八郎の浪士組に近藤らと参加し上洛する。尊攘派の清河の江戸帰還に反し京都残留、壬生浪士組に参加、隊内の内部対立では、近藤派に属し副長に就任した。7月、大坂・呉服商・岩城升屋での浪士を撃退した。8月、八月十八日の政変に出動、9月の隊内の芹沢ら粛清後、総長に就く。1865年2月、江戸へ脱走し、大津で旧知の沖田総司に捕縛、屯所(旧前川邸)に連れ戻された。その詳細不明。伊東甲子太郎との軋轢、近藤、土方との尊王攘夷の齟齬ともいう。1865年2月23日、旧前川邸西側坊城通に面した一室で切腹。介錯は山南の希望により沖田が務めた。享年33歳。墓は光縁寺にある。
◆前川家 前川家は室町時代、越前の国主・第11代朝倉左衛門督義景(1533-1573)を中祖としたという。1573年、織田信長により攻めら落城、近江に逃れる。江戸時代、1754年、近江より京都に移る。掛屋、糸割符仲間など商う。前川家本家は御所、所司代の公金出納を担っていたという。
 天保年間(1830-1843)、前川荘左衛門義陳の子が、壬生・八木重次郎家を相続する。次の代に前川姓に改めた。壬生に10軒ほどあった壬生住人士(みぶじゅうにんし)の一つで、京都守護職、京都所司代、幕府との関わりが深かった。壬生住人士は農業を営むとともに、苗字帯刀を許された。奥方はお引きずりと呼ばれた裾の長い着物を着た。
◆建築 敷地は西に坊城通、北は綾小路通に面している。周囲は長屋門の板塀、土塀で囲まれている。総坪数は443坪、家は平屋建、建坪は土蔵を除いて273坪、部屋は12間(146畳)あった。北向きの長屋門は4頭の馬が横並びで駆け込めた。台所の横を抜け裏に馬屋があった。門は当初、新撰組の道場として使われていた。のちに隊士の部屋に改造される。以前からあった西の出窓と新撰組の屯所になってから、東に新たな監視用の出窓が造られた。母屋中央付近の納戸部屋の納戸下から西の坊城通に通じる抜け道が新たに造られた。
 石畳から母屋玄関、左手勝手口(現在の店部分)より広い土間に続いている。土間の天井は高く、雨天時には隊士が武術稽古を行った。母屋の南西に山南敬助切腹の部屋があり、そのすぐ北に死を前にして、恋人・明里との別れを惜しんだという出窓があったという。窓は現存しない。明里について実在したかは不明。
 母屋と裏庭をおいて、庭の南西に裏口が開けられており、前川邸の西に隣接する八木邸への通用口になっていた。また、当時の敷地は、南西隅が現在よりも西と南方向にやや広がっていた。敷地の東にかつて米蔵も存在した。
 土蔵は敷地の南端に二つあり、江戸時代、1837年に建てられた味噌蔵の西の蔵、1839年に建てられた貴重品収蔵庫の東の蔵(東蔵)が隣接して建つ。東の蔵出入り口正面上と、軒丸瓦にも三重丸の紋が使われている。これは、掛屋として御所出入りのための門鑑(門の通行を許す許可証)の印とされていたものだった。土蔵の外扉木枠には「天保十己亥年正月皆成就」「前川五郎左衛門義陳建之 東蔵」と墨書されていた。土蔵入口の扉は四重になっており、床板の一部が外れ地下に金庫が置かれた。箱階段で二階に上がると、階段との間に引き戸が付けられている。二階の天井板はなく、梁から一階に通じる荒縄が吊されている。床は一部が簀子状になっており、開くことができる。この開口部により、階下、さらにその下の地下金庫との間で荷の昇降が行われていた。この荒縄に志士・古高俊太郎は逆さに吊るされ、土方歳三らの激しい拷問を受けている。
◆新撰組 旧前川家が新撰組屯所に使われたのは、1863年とみられている。浪士組のうち京都に残留した近藤、土方歳三らにより壬生浪士組に改められて以後の2年間新撰組に使われた。壬生は京中の外れにあり、二条城にも近く、本家の前川荘司が京都御所、所司代と関わりが深かったことも影響した。
 新撰組は新「選」組ともされ、当初より「撰」「選」が併用されていたという。1788年、会津藩が軍制を長沼流に改めた際に藩主の本陣、親衛隊30人の選抜者のことを新選組と呼んだ。壬生浪士組が1863年の八月一八日の政変時に、御所警護に出動し新撰組の隊名を与えられている。隊士は隊長以下、二班でなり、それぞれ伍長と5人の平隊士が所属していた。このため一隊は隊長と12人の隊士で構成されていた。
◆池田屋事件 江戸時代末期、1864年4月頃、四条木屋町の小道具商・枡屋吉右衛門の動向について新撰組は内偵を行う。6月5日早朝、新撰組の武田観柳斎らが店に踏込み、地下室より甲冑、鉄砲、長州藩士との書簡などを押収する。吉右衛門は壬生屯所(旧前川邸)に連行された。自白に追い込むため、土方歳三による激しい拷問が行われ、背中が打たれた。それでも口を割らなかったため、両手を後ろ手に縛り、足に荒縄を括り付け、天井裏の梁から逆さに吊るされた。さらに、足裏に五寸釘を打ち込み、その傷口に大きな百目蝋燭を立て火を灯した。吉右衛門はこれに耐えられず、自らが尊攘派の志士・古高俊太郎であると自白した。
 自白したという長州の計画内容は、1863年の八月一八日の政変後の巻き返しを図る尊攘派が市中潜伏していること。宮部鼎蔵、大高又次郎らが、6月22日頃祇園祭の強風の日に、御所、市中に火を放ち、佐幕派公卿の中川宮を幽閉、京都守護職の松平容保以下佐幕派大名を殺害、会津藩邸、六角獄舎を襲い囚われている平野国臣の奪還、さらに天皇を長州へ連れ遷座するとするものだった。すでに計画実行の志士が多数上洛、潜伏しており近々市中で同志の集会があるとされた。ただ、計画についてはよく判っていない。池田屋にはすでに密偵・山崎蒸が潜入していた。
 同日6月5日、会津藩兵、彦根藩兵、与力、同心など5000人が市中配備された。三条の旅宿池田屋に集合し善後策を話していた長州、土佐、肥後の尊攘派志士ら20数人を新撰組の近藤勇、沖田総司、永倉新八ら数十人が襲撃、2時間の戦闘が続く。志士側は肥後熊本藩士・宮部鼎蔵、長州藩・吉田稔麿ら9人が殺害され、多数の負傷者、捕縛者を出す。新撰組の当日の死者は奥沢栄助のみで、重傷者も3人だけだった。翌朝も新撰組、会津藩、桑名藩による志士の市中掃討が行われ20数人を捕縛した。
 志士の遺体は三縁寺(三条縄手)に葬られる。池田屋に参加予定の桂小五郎(木戸孝允)は難を逃れた。なお、土方らは当初、四国屋に向かっている。池田屋事件で尊攘派は打撃を受ける。だが以後、攘夷派の動きはむしろ活発化している。
◆天然理心流・試衛館 新撰組局長・近藤勇の剣法は天然理心流の使い手だった。天然理心流は、江戸時代、寛政年間(1789-1800)、江戸、両国薬研堀(東京都中央区東日本橋)で近藤内蔵之助が創始した。鹿島神道流をもとに、剣術、居合術、柔術、棍法(棒術)、活法、気合術などを含んだ総合武術といわれた。近藤内蔵之助の詳細は不明、遠江(静岡県)の人だったという。
 2代・近藤三助方昌、南多摩の3代・近藤周助邦武が宗家を継ぎ、1839年に江戸市谷甲良屋敷(新宿区市谷柳町)に試衛館道場を開く。4代・近藤勇昌宜が周助の養子に入り、近藤勇と名乗った。1861年、府中六所宮で襲名披露の野試合を行う。
 多摩は八王子同心といわれる戦国時代の武田軍団末裔が住し、農民、町民の間でも剣術修行が盛んな地だった。近藤勇は無骨、実践的な剣法で知られる。試衛館道場の塾頭・師範代に天才的といわれた沖田総司が就く。近藤は後継にと考えていたが、1868年、近藤は斬首され、沖田はその2カ月後に病死している。現在、いくつかの天然理心流系が伝えられている。
◆新撰組の足跡 雨戸に近藤勇が墨書したといわれる落書きが残されている。表には「会津 新選組隊長 近藤勇」、裏面に「勤勉、努力、活動、発展」と大書きされている。ただ、近藤の養子・近藤(谷)周平(1848-1901)の筆によるともいう。どこに使われていた雨戸かも不明。
 かつて、別の雨戸があったという。その後、持ち出されたという。次のように書かれていた。「新選組 局長 近藤勇 / 壬生陣中作 / 寒雨淋々不結夢 真延旅べん(糸+免)遇陣営 / 子息同姓周平 女也 佐々木内 周平」。
 奥座敷床柱に刀傷が残されている。以前付けられていた長屋門の出窓の一つにも刀痕があったという。
 剣術、砲撃などの軍事訓練は壬生寺で行われていた。前川邸でも土蔵横に砂山が築かれ、砲撃訓練が行われていたという。
◆年間行事 山南忌(3月中旬)。


*非公開。週末、祝日に一部外観のみを公開。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『新選組事典』『新選組大事典』『京都新選組案内』『幕末京都』『新選組が京都で見た夢』『京都歴史案内』、絵葉書、案内書



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 旧前川邸 〒604-8811 京都市中京区壬生賀陽御所町49,綾小路通坊城東南角   075-752-0227  10:00-17:00、土日祝日、玄関のみ

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