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龍光院 〔金戒光明寺〕 (京都市左京区) Ryoko-in Temple |
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龍光院 | 龍光院 |
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金戒光明寺の塔頭の一つ龍光院(りょうこういん)は、境内の北西にある。 浄土宗、本尊は阿弥陀如来。 ◆歴史年表 江戸時代、1605年、武将・滝川雄利が、早世した娘の死を悼み創建した。娘の戒名「龍光院殿華顔芳春大禅定尼」より龍光院と号した。開基は直誉善貞西堂による。 1609年、武士・田中吉政が伏見で客死し、龍光院で葬儀が行われ葬られる。 近代、1868年以降、廃仏毀釈などにより一時無住になる。その後、再興された。 ◆滝川雄利 室町時代後期-江戸時代前期の武将・滝川雄利(たきがわ-かつとし、1543-1610)。前名は勝雅、通称は三郎兵衛。父は伊勢(三重県)の木造具康(こづくり-ともやす)。出家して源浄(常)院主。後、還俗し、滝川一益(かずます)の女婿となり滝川を名乗る。織田信長に仕え、織田信雄の家老となる。1584年、小牧・長久手の戦により豊臣秀吉に仕えた。1590年、小田原攻めに従軍した。1595年、豊臣秀次失脚事件に連座し所領を失う。その後、秀吉の御咄衆となる。1600年、関ヶ原の戦で西軍に属し除封される。後に徳川家康の御咄衆となり、1603年頃、常陸片野藩主滝川家初代となる。68歳。 ◆滝川雄利の娘 安土・桃山時代-江戸時代前期の滝川雄利の息女(?-1605)。詳細不明。美しく、北政所にも気に入られた。17歳。 墓は龍光院(左京区)にある。 ◆宗厳 安土・桃山時代-江戸時代前期の僧・宗厳(そうごん、1575?-1628)。朝鮮に生まれた。豊臣秀吉による朝鮮侵略の文禄・慶長の役(1592-1593・1597-1598、壬辰・丁酉の倭乱)の際に、1593年/1592年、福知山城主・小野木縫殿助により、17歳で平壌近郊で姉とともに捕えられる。捕虜として日本に連行された。1593年、北政所、滝川下総守雄利の娘に仕えた。1605年、娘死後、知恩院・満誉上人により得度した。1616年、娘の墓があった黒谷の了的上人(金戒光明寺第27世)に認められ西雲院の開祖になる。 浄土宗の七つの掟を定めた。念仏を唱え諸国行脚した。多くの僧侶が集まった。北政所が遣わし滝川雄利の息女に仕えた。龍光院墓地の息女墓前では、念仏をひたすら唱えていたという。53歳?。 墓は西雲院(左京区)にある。 ◆田中吉政 室町時代後期-江戸時代前期の武将・田中吉政(たなか-よしまさ、1548-1609)。幼名は竹、久次、久兵衛。近江・田中重政の子。稲葉鳥取・宮部継潤に仕える。後、豊臣秀吉の命により秀次に仕えた。1588年、五位下兵部大輔。近江八幡山城主、1590年、三河岡崎城主。1594年、三河西尾城主、1595年、秀次失脚事件後、秀次に対する諫言などで加増された。以後、秀吉に仕える。1600年、関ヶ原の戦で、東軍に属し、石田三成を捕らえた。この戦功により筑後柳川城主、従四位下・侍従に叙任。キリシタン大名(洗礼名・パルトロメヨ)であり、城下での布教を許した。領内の教徒迫害より保護した。 1609年、江戸参府途中の伏見で亡くなる。62歳。 龍光院(左京区)で葬儀が行われ当院に葬られた。 ◆建築 本堂は創建当初のものという。 伽藍は隣地にあった別の塔頭伽藍を合わせている。 ◆墓 滝川雄利の息女、田中吉政の墓がある。 ◆紅葉 紅葉が美しい。 非公開 *年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。 *参考文献・資料 『くろ谷金戒光明寺に眠る人びと』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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