法然院 (京都市左京区) 
Hounen-in Temple  
法然院 法然院
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「圓光大師御旧跡」、大師号は、江戸時代、1697年に東山天皇により贈られた。側面には、「大本山鹿ケ谷法然院」と刻まれている。



総門、黒く塗られている。







圓光大師(法然)御舊跡の碑


「不許葷辛酒肉、山門に入るを許さず」の碑




スギの木立の参道、ヤブツバキもある。


京都唯一の茅葺の山門(茅門)、1887年建立、その後再建、昭和初期に倒壊後復元された。数奇屋造。茅は近江産、10数年ごとに吹き替えられる。

















白砂壇(びゃくさだん)、白い盛り砂は水紋を表し、砂壇の間を通る事で、心身を清めて浄域に入ることを意味するという。








白砂壇、福寿、新年を迎えると造られる。


白砂壇




ツバキ


ツバキ
哲学の道より坂を上がり、東山三十六峰のひとつ、善気山(ぜんきさん)麓に法然院(ほうねんいん)はある。境内、庭に椿が多いことから、「椿の寺」とも呼ばれている。山号は善気山(ぜんきざん)、寺号は萬無教寺(ばんぶきょうじ/まんむきょうじ、萬無寺)という。現在は獅子谷(ししがたに)法然院と称している。 
 かつて浄土宗鎮西派、現在は浄土宗捨世派本山。本尊は浄教寺の旧本尊、阿弥陀如来坐像を安置する。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 鎌倉時代、1206年、法然と弟子・安楽、住蓮らは、鹿ヶ谷(如意ヶ嶽東南)の草庵で六時礼讃(ろくじらいさん)行を修したという。早朝より日に6度の阿弥陀如来礼讃という、善導の偈頌(げじゅ、教理をとく詩)を朗誦した。
 その後、専修念仏への弾圧が続き、草庵は荒廃する。村人(道心者)により村中(鹿ヶ谷村)に移され、草庵は守られたという。
 また、いつの頃か、残された仏像を仏堂に安置し、やがて箱に納められ保管されたという。その後、霊像は、念古という道心者により奉安される。後に仏堂は鹿ヶ谷村の総堂になったという。
 江戸時代、寛永年間(1624-1643)、1628年とも、京極浄教寺住持・導念(道然)は、法然の旧跡を探しこの地に閑居した。法然を偲び草庵を結んで法然院と名づけた。また、浄教寺の阿弥陀仏を遷し、法然院としたという。(『山城名跡誌』)
 その後、草庵は再び荒廃する。
 1680年、知恩院第38世・萬無心阿(ばんむしんあ)は、祇園社に割いた知恩院替地として、法然ゆかりの地を得て念仏道場建立を発願する。般舟三昧の道場、浄土律院に改めたという。(『東西歴覧記』)
 萬無心阿の弟子・忍澂(にんちょう、1645-1711)により再興され、開山は法然、中興開山は萬無とした。(『東西歴覧記』)。忍澂が実質的な開山になる。諸堂が造営された。忍澂は、中国廬山(ろざん)に開かれた東晋の僧・慧遠(えおん)により建てられた東林寺の白蓮社の寺風を慕い寺基を定めた。江戸時代には、無本寺(本寺を持たない独立寺院)となり、朱印地30石を得た。
 4代将軍・徳川家綱(在職1651-1680)により、境内地2000坪の寄進があった。
 1681年、本堂が建立されている。
 1687年、第111代・後西天皇皇女・誠子内親王の姫御殿(八百宮御殿、伏見城遺構)が移築され、方丈になった。その後、伽藍が整えられた。
 1703年、幕命により、善気山、多頂山が寺地として寄進され、境内東西40間、南北50間、寺領30石となる。(「京都御役所向大概覚書」)
 1706年-1710年、一切経の校訂が続けられる。
 近代、1902年-1906年、『大日本校訂蔵経(卍蔵経)』が刊行される。
 現代、1953年、浄土宗より独立し、宗派組織に属さない単立宗教法人になった。
 1985年以降、「法然院森の教室」が開かれている。
 1993年、共生き堂が竣工する。
◆法然 平安時代末期-鎌時代前期の浄土宗の僧・法然(ほうねん、1133-1212)。勢至丸。美作国に生まれた。父は押領使・漆間時国、母は秦氏。1141年、9歳の時、父は夜襲により目前で殺される。父は出家を遺言する。天台宗菩提寺の叔父・観覚のもとに預けられた。1145年、13歳で比叡山に上り、西塔北谷の持法(宝)房源光に師事、1147年、皇円の下で出家受戒。1150年、西塔黒谷慈眼坊叡空の庵室に入り、浄土宗に傾く。法然房源空と名乗る。1156年、比叡山を下り清凉寺に参籠、南都学匠も歴訪する。再び比叡山に戻り黒谷報恩蔵で20年に渡り一切経を5回読む。1175年、唐の浄土宗の祖・善導の「観無量寿経疏」の称名念仏を知り、比叡山を下りた。善導は、阿弥陀仏の誓った本願を信じひたすら念仏を唱えれば、善人悪人を問わず、阿弥陀仏の力により必ず阿弥陀仏の浄土である極楽に生まれ変わることができるとした。西山、広谷(後の粟生光明寺)の念仏の聖・遊蓮房円照に住した。東山吉水に草庵(吉水の善坊)に移り、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える専修念仏の道場となる。1186年(1189年とも)、天台僧らとの大原談義(大原問答)で専修念仏を説く。1190年、東大寺で浄土三部経を講じる。1201年、親鸞が入門した。1204年、延暦寺衆徒による専修念仏停止を天台座主に要請した「元久の法難」が起きる。「七箇条制誡」を定め、弟子190人の連署得て天台座主に提出する。1206年、後鳥羽上皇(第82代)の寵愛した女官(鈴虫、松虫)らが出家した事件「承元(建永)の法難」により、専修念仏の停止(ちょうじ)となり、1207年、法然は四国・讃岐へ流罪となる。10カ月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住む。1211年、ようやく帰京した。草庵は荒れ果て、青蓮院の慈円僧正により、大谷の禅房(勢至堂付近)に移る。翌1212年ここで亡くなった。『選択本願念仏集』(1198)、『一枚起草文』(1212)などを著す。
 法然の専修念仏とは、誰もがひたすら祈ることで極楽往生できるとするもので、既存の仏教で救われる対象ではない人々に希望をもたらした。住職の梶田真章によれば専修念仏とは、まず自らを凡夫と自覚し、一切の生きとし生けるものを自身の浄土へと迎えとり、成仏させる阿弥陀仏の本願を信じ、他力本願念仏を唱えるものという。
◆萬無 江戸時代の僧・萬無(ばんぷ、1607-1681)。直蓮社玄誉心阿。伊勢国に生まれた。津の天然寺2世・至心の下で剃髪し、江戸増上寺・還無、武蔵・浄国寺、下総飯沼・弘経寺、上野・大光院、鎌倉・光明寺などの住職を歴任し、1674年、知恩院38世となる。忍澂の師。徳川家綱に願い出て、善気山の麓に境内地を拝領し、忍澂に命じ、1680年、法然院造営に着手した。「寺法十七条」を定めた。独立本山に位置づけることを知恩院塔頭4院、京門中六役に認めさせた。寺院完成間もなく亡くなる。墓は金剛塔と呼ばれ、境内の法然塔の前に立つ。
◆忍澂 江戸時代の浄土宗の僧・忍澂(にんちょう、1645-1711)。江戸に生まれた。幼くして両親を失い、姉に育てられた。父の遺言に従い、江戸・増上寺・最勝院の直伝(じきでん)により11歳で出家、師没後、浄国寺・萬無(まんむ)、増上寺・林冏(りんげい)に学ぶ。各所で修行を重ね、1676年、安孫子・浄福寺で自誓受戒する。萬無は忍澂に命じ、1681年、鹿ヶ谷に法然院を建立し念仏道場とした。萬無没後、規則「白蓮小清規」を定めた。一切経「大蔵経」(1706-1710)の校訂を行う。1693年、金毛院に退隠する。黄檗宗の独湛性瑩と親交した。「勧修作福念仏図説」を開版し、21万8000枚を庶民に配った。1693年、法然院山内の庵に隠居した。号は白蓮社宣誉信阿、葵翁、金毛老人など。墓所は法然院に金毛塔が立つ。
白蓮小清規 中興開山の萬無は、寺法17箇条を定めて独立の一本山とした。引き継いだ弟子の忍澂は、「白蓮小清規(びゃくれんしょうしんぎ)」という規則を定めている。
 これは、中国の慮山(ろざん)東林寺、慧遠(えおん)の白蓮社により、念仏の行儀、境内の風致も倣ったものだった。忍澂と親交があった宇治黄檗山萬福寺の独湛(どくたん)の指南があったという。
◆狩野光信 安土桃山時代の狩野派の絵師・狩野光信(1565/1561-1608)。永徳の長男。織田信長に仕え、父とともに安土城の障壁画を描く。豊臣秀吉にも仕えた。1590年、狩野6世を継ぐ。肥前国名護屋城、伏見城などの障壁画を作成した。徳川家康の庇護も受けた。父と異なり、大和絵の手法を取り入れ、優美繊細な画風を確立し、花鳥画に優れた。また、長谷川派との親和を図り、風俗画にも取り組んだ。遺作は少ない。
◆堂本印象 近現代の日本画家・堂本印象(どうもと いんしょう、1891-1975)。京都生れ。本名三之助。1910年、京都市立美術工芸学校図案科を卒業。西陣織の織物工房で図案描きに従事した。1918年、日本画家を志し、京都市立絵画専門学校に入学。研究科に進み、1924年、修了した。在学中に西山翠嶂(すいしょう)に師事した。1919年、初出品の「深草」が第1回帝展入選。1921年、「調鞠(ちようきく)図」が第3回帝国美術院賞特選を受賞。1924年、帝展審査員。1925年、「華厳」が第6回帝展美術院賞を受賞。この頃より、寺院襖絵などを手掛けた。1930年、京都市立美術工芸学校教諭、1936年、京都市立絵画専門学校教授。私塾東丘社の主宰者として後進育成した。1944年、帝室技芸員。戦後、日展を中心に活躍した。1950年、芸術院会員、1955年以降、抽象表現に入る。1961年、文化勲章受章。1963年、大阪カテドラル聖マリア大聖堂の壁画「栄光の聖母マリア」は、ローマ教皇ヨハネス23世より聖シルベストロ文化第一勲章を受章した。1966年、自宅近くに、自作展示の堂本美術館(北区)を設立した。
 没後、1991年、美術館、所蔵作品は京都府に寄贈される。1992年、京都府立堂本印象美術館として開館した。法然院には、抽象画による障壁画「新襖絵」を描いている。
◆六時礼讃 浄土宗の六時礼讃は、中国の僧・善導の『往生礼讃偈』に基づき、1日を日中・日没(にちもつ)・初夜・半夜(中夜)・後夜(ごや)・晨朝(じんじょう/しんちょう)に六分する。それぞれの時刻に、誦経(読経)、念仏、礼拝を行う。
 法然は礼讃に節をつけ、念仏三昧行のひとつとして完成させた。さらに、それに影響を受けた親鸞の正信念仏偈がある。時宗、浄土真宗などでも行われている。
◆散華 毎早朝、本堂では読経に次いで散華(さんげ)が執り行われている。恵心作と伝えられる本尊・阿弥陀如来像の前の須弥壇(しゅみだん、直壇)の板間に、極楽往生を願う人々を常に守る二十五菩薩を象徴する二十五輪生花が並べられる。本尊側から、3、4、5、6、7輪が等間隔で置かれる。
 境内に咲き誇る季節折々の生花(ツバキ、ツツジ、アジサイ、ムクゲ、フヨウ、キクなど)が用いられる。漆黒の黒光りする鏡縁に、菱形に整然と飾られる。生花は貫主の手により取り換えられている。
 その起源は、修行僧の一人が、境内に散り落ちた椿の花を、本尊に手向けたことに始まるという。不明ともいう。
◆仏像 黄檗天井の本堂内陣には、鎌倉時代作の本尊「阿弥陀如来坐像」(141㎝)が安置されている。恵心僧都(942-1017)作ともいう。弥陀定印の上品上生の如来になる。1980年に宝蓋、後光、台座を修理し彩色した。ヒノキ材、寄木造。
 本尊の左に、恵心僧都作という「大勢至菩薩坐像」が安置されている。右手前に「観世音菩薩立像」がある。
 鎌倉時代作の法然自作という「法然上人立像」は、かつて、東山・源光院にあり、萬無により遷されたという。法然が橋の上に蓮華を踏んで立つ姿は、鎌倉時代、1205年、関白九条兼実の「月輪殿」退出の様子を表しているという。この時、法然は、虚空に昇り蓮華を踏み、後光が差して見えたという。
 江戸時代作の「萬無上人像」、左に「十一面観世音菩薩立像」が安置されている。須弥壇には、二十五菩薩をかたどった四季の時花を供する。菩薩は、極楽往生を願う人々を守護し、臨終の際に阿弥陀仏とともに来迎する。(『十往生阿弥陀仏国経』)
 食堂(じきどう)には、「白蓮道場」の額の下に江戸時代作、「僧形文殊菩薩坐像」が安置されている。
 岩室の地蔵堂には、忍澂の等身という「地蔵菩薩立像(洞の地蔵)」(168㎝)があり、江戸時代、1690年に鋳造られた。また、歴代の髪が納められている。
◆建築 「山門(茅門)」は、1887年に建立され、その後再建、昭和初期に倒壊後復元された。京都唯一の茅葺の数奇屋造になる。茅は近江産で、10数年ごとに吹き替えられている。
 
「方丈」は、安土・桃山時代、1595年に造営され、1687年に移築された。第111代・後西天皇皇女・誠子(せいし)内親王(1654-1686)の御座所(伏見桃山城八百宮御殿<やおのみや>)を移築した。1731年、こけら葺より瓦葺になる。1962年に台風の倒木により損壊し、1963年に修復された。「桃山の間」には、金地著色の障壁画が描かれている。
 「本堂」は、1681年に建立、1688年に再建された。瓦葺きの仏殿、銅板葺きの拝殿が一棟になっている。須弥壇上には、25生花を並べ、二十五菩薩を象徴している。客殿造。
 「経堂」は、江戸時代、1737年に建立された。宝形造。堂内に、江戸時代の版木が数多く収蔵されている。
 「講堂」は江戸時代、1694年に大浴室として建立された。かつては、13日と21日には一般に開放されていた。1977年より内部が改装され、写経会などのほか多目的ホールとして利用されている。
◆一切経校訂 忍澂は、既存の一切経に誤りが多かったため、黄檗宗・鉄眼道光の復刻した「黄檗本一切経」をもとに、建仁寺所蔵の「高麗本」と対校させ、1706年より4年間にわたる校訂作業を行った。事業には、増上寺学寮学生10数人が参加している。
 建仁寺は当初、門外不出の「高麗本」の供覧を拒否した。前摂政・近衛基熙の口添えにより許可され、後に50箱に限り貸し出しを許した。経本が建仁寺を出入りするたびに梵鐘が撞かれたという。法然院では学生が斎戒沐浴して校訂を行ったという。
 この校訂を踏まえ、後の1902年-1906年に、『大日本校訂蔵経(卍蔵経)』(蔵経書院)が刊行された。なお、境内墓地には、出版を記念する「卍経塚」がある。 
◆文化財 唯一現存する鎌倉時代、『選択本願念仏集 延応本』。江戸時代、『黄檗版大蔵経(一切経)』(1706-1710)、『大蔵対校録』100巻など。『大乗義章』100巻などの経典版木。
 室町時代、狩野元信筆という「法然上人像」、同じく桃山時代の「墨絵二十四孝図」。室町時代、狩野之信筆という「善導大師像」。江戸時代、古勍嫺筆「忍澂和尚像」。平安時代中期(鎌倉時代とも)の恵心僧都源信筆という「大麻曼荼羅図」。江戸時代、勝山琢眼筆「龍図」。  
◆障壁画 方丈内の上の間、次の間に、安土・桃山時代の狩野光信(?-1608)の障壁画(重文)が描かれている。数少ない遺作の一つとされている。ただ異説もあり、近年では永徳の次男・孝信(1571-1618)筆ともいう。床間張付に「桐ニ竹図」3面、違棚壁張付「若松図」3面、西野大襖2面に竹を描く。床と襖の桐は繋がる。次の間の西側矢張り大襖に「槇ニ海棠図」4面、屏風「雪松図」。
 現代の抽象画家・堂本印象(1891-1975)が1971年に描いた「新襖絵」がある。「静風自来」「浄妙慶處」「古都安道」「快風悦水」など48面がある。望西閣にも印象の襖絵「香雲満堂」「雲華(うんげ)西来」など10面が残されている。抽象画により障壁画を描いた例はほかに少ない。
◆白砂壇 山門を入った両側(東西)にある2つの「白砂壇(びゃくさだん)」は、横7m、縦3m、高さ数10㎝の台形に白砂が盛られている。かつては、北に計5つの白砂壇があった。
 西の砂盛が大きく造られている。参詣者は、二つの白砂壇の間の石畳参道を抜けることにより、心身を清めて浄域に入ることを意味している。
 砂紋は、水紋、波、渦、葉、花、時に文字などの文様が組み合わされ、4、5日に一度、僧により描き換えられている。
◆庭園 方丈前に浄土式庭園(築山池泉庭園)がある。江戸時代、1687年頃に作庭されたとみられている。作庭者は不詳という。
 東山の深い自然の森を背景にして、楓などの植栽と渾然一体となっている。心字池があり、池中の善気水という湧水を水源している。中央にやや反った板石橋が架けられている。手前が此岸、奥の岸は彼岸を表すという。橋の部分は両岸が出島のようになり狭まっている。橋向こう中島の彼岸、極楽往生の世界には、三尊石(阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩)が立つ。さらに奥の岸、山裾に小ぶりの石灯籠(室町時代、1528年の銘)がある。
 方丈池は、大正期(1912-1926)に小川治兵衛(1860-1933)により拡張され、この際に石橋が架けられた。かつては、この付近に白砂壇があったという。
◆茶室 書院東北に茶室「如意庵」がある。
◆墓 阿育王(アショーカ王)塔、法然塔、忍澂の金剛塔ほか、近代以降の著名人の墓が多い。
 京都を愛した作家・谷崎潤一郎(1886-1965)と松子(1903-1991)夫妻、マルクス経済学者・河上肇(1879-1946)夫妻、哲学者・九鬼周造(1888-1941)、東洋史学者・内藤湖南(1866-1934)、考古学者・浜田青陵(1881-1938)、考古学者・梅原末治(1893-1983)、理学者・玉城嘉十郎(1886-1938)、経済学者・河田嗣郎(1883-1942)、歌人・川田順(1882-1966)、俳人・松尾いはほ(1882-1963)、作家・稲垣足穂(1900-1977)、日本画家・福田平八郎(1892-1974)、日本画家・石崎光瑶(1884-1947)、日本画家・梶原緋佐子(1896-1988)、ノーベル化学賞受賞者・福井謙一(1918-1998)、内科学者・俳人・松尾巌墓(1882-1963)。
◆文学 作家・谷崎潤一郎は『瘋癲(ふうてん)老人日記』の中で、主人公・卯木督助に墓所を探させた。「トニカク京都二埋メテ貰エバ東京ノ人モ始終遊ビニクル」と語らせた。1965年、谷崎は神奈川湯河原で亡くなり、法然院に葬られた。
 川端康成『虹いくたび』、辻井喬『虹の岬』、森瑤子『熱情』など。
 俳人・鈴鹿野風呂(1887-1971)の句碑が本堂前に立つ。「鴬や今日の本尊にこやかに」。獅子谷如是(29世・梶田信順、現貫主31世・梶田真章の祖父)の句碑「筒鳥は 化佛菩薩を 喚ぶ音とも」。国文学者・歌人の小泉苳三(1894-1956)の句碑が立つ。
◆善気水 忍澂が錫状(しゃくじょう)により湧水を探り当てたという「善気水」(ぜんきすい、錫状水)が、方丈前庭園池泉内に湧く。茶の湯に用いられ、名水の一つに数えられた。現在も、寺で使用する飲料水に使われているという。
◆椿・楓 「椿の寺」の異名があるように、境内には薮椿が多く植えられている。参道石畳の散り椿が知られている。
 また、本堂、方丈の間の回廊前にある「三銘椿(さんめいちん)」は、紅に白の班入り「花笠椿」、白に桃の班入り「貴椿(あてつばき)」、さまざまな色の「五色散椿(ごしき ちりつばき)」という三品種の八重で、3月下旬-4月中旬に次々に花を開く。
 100本の楓が紅葉する。青モミジも美しい。
◆花木・樹木 ロウバイ、ヤブツバキ、ヤマブキ、スイレン、カキツバタ、シャクナゲ、アジサイ、ムクゲ、サルスベリ、ムク、イチョウ、カエデ、ボダイジュ、モミがある。
 法然院の森は、シイ、ムク、エノキ、クスノキ、ヤブツバキ、モミジ、スギ、ヒノキなどが見られる。
 境内のムクノキに、ムササビ、アオバズク、フクロウが営巣している。森には、キツネ、タヌキ、ニホンリス、イノシシ、ニホンテン、モリアオガエルも生息している。
 法然院近くにある法然院森のセンター(共生き堂)は、環境学習活動を目的に建てられた。法然院の森(大文字山)をフィールドにした調査、学習会、「エコ修学旅行」などの環境プログラム活動を行っている。
◆年間行事 伽藍内一般公開(4月1日-7日)、放生会(7月25日)、伽藍内一般公開(11月1日-7日)、除夜会(12月31日)。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*普段は非公開。一部の建物、室内の撮影は禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『古寺巡礼 京都 35 法然院』『拝観の手引』『京の古寺から 2 法然院』『日本の仏教を築いた名僧たち』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都の寺社505を歩く 上』『一遍辞典』『京都・美のこころ』『続・京都史跡事典』『京都府の歴史散歩 中』『平成28年第52回 京都非公開文化財特別公開 拝観の手引』『京都美術の 新・古・今』『京都秘蔵の庭』『京都 四季の庭園』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『京都 神社と寺院の森』『週刊 古寺を巡る 34 法然院』『週刊 京都を歩く 4 銀閣寺』


  金毛院〔法然院〕      安楽寺              安養寺(東山区)       光明寺       萬福寺       延暦寺・黒谷青龍寺      延暦寺・西塔       浄教寺     宝蔵院〔萬福寺〕(宇治市)             

講堂江戸時代、1694年に大浴室として建立された。かつては、13日と21日には一般に開放されていた。1977年より内部が改装され、写経会などのほか多目的ホールとして利用されている。

経堂、宝形造、江戸時代、1737年建立。釈迦如来坐像、右脇侍に毘沙門天、左脇侍に韋駄天像、千体地蔵尊が安置されている。
 忍澂は学僧として知られ、明版、高麗版と比較し、日本版の経典の校閲に心血を注いだという。堂内に、江戸時代の版木が数多く収蔵されている。
 

シャクナゲ

放生池、かつてこの地にも白砂壇があったという。7月25日には放生会が催されている。

フジ

フジ

手水鉢

本堂、瓦葺仏殿、拝殿が一棟になっている。客殿造、恵心僧都作というの本尊の阿弥陀如来坐像、法然上人自作立像、観音・勢至両菩薩像、
萬無和尚坐像などが安置されている。江戸時代、1681年建立、1688年再建され、仏殿と拝殿が別設される。本尊前の須弥壇上には、二十五菩薩を象徴する二十五の生花が毎朝、献花されている。

玄関

玄関

庫裏玄関、29世・信順筆の衝立「一に掃除 二に勤行 三に学問」がある。


方丈

方丈庭園

方丈庭園、中央に阿弥陀三尊を象徴する三尊石

方丈庭園、少し反った一枚板の板石橋

方丈庭園、石灯籠

方丈庭園、浮石

方丈庭園、「念仏の法のあやめのかへり花」、高浜虚子

鹿威し

方丈庭園、蹲踞

方丈庭園、洛中名水の一つという「善気水」(錫杖水)、池中で湧水している。いまも寺の飲料水として使われている。

方丈庭園、鎮守社、江戸時代、1689年に建立。境内北東鬼門方向にあり弁才天、吉祥天、摩利支天を祀る。忍澂により、1668年、竹生島より勧請された。仏師・弘教作、扁額は林丘寺宮博山女王(1750-1798)による。
 女王は、鎌倉時代、第95代・花園天皇皇子・直仁親王の王女。1752年、臨済宗尼門跡寺院、林丘寺を継ぐ。1789年、第116代・桃園天皇の養女となり、音羽御所と称した。

鎮守社

方丈庭園、各所に椿があり「椿の寺」といわれている。

方丈庭園、楠木の切株、1962年に台風により倒木したという。

方丈の西の中庭

中庭

茶室「如意庵」


堂本印象の障壁画


本堂裏の中庭にある椿の庭(三銘椿の庭)、本堂北側の中庭に、三銘椿(五色散椿・貴椿<あてつばき>・花笠椿)が植えられている。3月下旬から4月中旬が見頃。紅・桃・白・紅白・まだらと咲く。種類としては花笠椿、貴椿、熊谷、五色散椿など。
 「散りつばき はくや はりえを はぐ如く……如是」






鐘楼、江戸時代、1753年建立。午後4時の閉門の際に撞かれる。また、8月6日午前8時15分、8月9日午前11時2分、8月15日正午、除夜の鐘でも撞かれる。


地蔵堂、地蔵菩薩像は、江戸時代、1690年、46歳の忍澂が等身大の仏像を鋳造させ安置した。開眼法要の際には、壬生の地蔵尊が来現したという。


仏足石、忍澂が写したものという。


サクラ



多宝塔、1921年建立。南北朝時代、1386年、聖圓阿が引接寺に立てた萬霊塔を模倣拡大している。



獅子谷如是(29世・信順)の句碑「筒鳥は 化佛菩薩を 喚ぶ音とも」。

俳人・鈴鹿野風呂(1887-1971)の句碑「鴬や今日の本尊にこやかに」。「ホトトギス」を通じて高浜虚子にまなぶ。1920年日野草城らと「京鹿子」創刊、のち主宰。

十萬霊塔
墓地周辺

江戸時代建立の阿育王(アショーカ王)塔、基礎に「江州阿育王ぼ倣」と刻まれている。 この塔は、滋賀県蒲生郡・石塔寺の奈良時代、三重塔(国宝)を模倣した。塔は百済系渡来人が建立したものという。花崗岩製、7m。 *「ぼ」は表記できず。
 阿育王はB.C.3世紀に仏教を広めたインドの王。平安時代、1003年、唐に入った比叡山の僧・寂照(じゃくしょう)法師は、五台山に滞在中に、五台山の僧からかつて阿育王が仏教隆盛を願い、三千世界に8万4千基の仏舎利塔を投げたという。そのうちの2基が日本に飛来し、1基は琵琶湖の湖中に沈み、1基は近江国渡来山(わたらいやま)の土中にあると知らされる。寂照が日本に手紙を送ると、1006年、播州明石の僧・義観僧都が手紙を入手し、第66代・一条天皇に上奏した。勅命により探索すると、武士・野谷光盛が、石塔寺(本願成就寺)の裏山に大きな塚を発見した。掘ると阿育王塔が出土した。一条天皇は七堂伽藍を新たに建立し、寺号を阿育王山石塔寺と改め、勅願寺とした。寺は隆盛を極め、八十余坊の大伽藍を築いたという。

法然塔、江戸時代、1680年の中興以前よりこの地にあったともいう。

金剛塔、忍澂墓の無縫塔

卍経塚

「寂」、谷崎潤一郎の墓



「空」と「寂」、墓の脇には平安神宮と同じ八重枝垂れ桜が植えられている。


墓地のサクラ


九鬼周造の墓
「見はるかす山ゝの頂 梢には風も動かす鳥も鳴かす まてしはしやかて汝も休らはん」、九鬼周造の師・西田幾多郎筆、寸心名義、ゲーテ「旅人の夜の歌」訳詩より(墓石の右の側面)

内藤湖南、夫人の墓

歌人の川田順(1882-1966)の墓。川田順は東京に生まれた。漢学者川田甕江の3男。東京帝国大学文科で小泉八雲の薫陶を受ける。1930年住友総本社常務理事に就任、1936年に退職した。佐佐木信綱門下、「新古今集」の研究家。1949年、京都大学理学部教授・中川与之助夫人で歌人・鈴鹿俊子との「老いらくの恋」で騒がれ後に結婚した。鈴鹿俊子(1909-2006)は、歌人、随筆家。「ハハキギ」所属。1944年から川田順に師事した。

福井謙一の墓、「智自在」

浜田青陵の墓

福田平八郎の墓

河上肇夫妻の墓
「多度利津伎 布理加幣理美礼者 山川越 古依天波越而 来都流毛野哉 壬申夏余作此歌」(たどりつき ふり返りみれば山川を 越えては越えて 来つるものかな)


法然院の森、ムササビの巣
共生き堂

【参照】法然院の近くにある法然院森のセンター(共生き堂)、1993年に建てられた。前身は「森の教室」(1985年)、その後「森の子クラブ」(1987)。ソーラー発電を一部利用している。発電能力3.56kw、発電量4000kwh/年

【参照】法然院森のセンター、森で見つかった動植物の標本が展示されている。

法然院が配布している墓地の地図、下のグーグルマップにもほかも含めて記しています。
 法然院 〒606-8422 京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町30  075-771-2420  6:00-16:00
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